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設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

Guido Caldarelli,Michele Catanzaro著,増田 直紀 (監修, 翻訳), 高口 太朗 (翻訳)
丸善出版 (2014/4/25)

ネットワーク的設計プロセス論試論?

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

この思いつきを少し先に進めるため、ネットワーク理論についてのイメージを補強しようと思いざっと読んでみた。

この本はネットワークの普遍性とネットワークの多重性を示すことに重点が置かれていて、多様な分野の多様な例が挙げられていた。
読んでいく中で、現れと過程、2つの側面から、建築設計のイメージを膨らませることができそうに思った。まだ論とは呼べるものではなく、ぼやっとしたイメージの域を出ないけれども、思いつきのストックとして書いておきたい。

収束と発散の重ね合わせのイメージ

「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

ひとつは、収束の空間と発散の空間の重ね合わせのイメージ

ある種のネットワークはスモールワールド性とスケールフリー性の2つの性質を併せ持つ。というより、どの2頂点間の距離も非常に小さいというスモールワールド性を持つネットワークのうち、均一性をを失ったものがスケールフリー性を持つ。と言った方が正しいように思う。
このスケールフリー性を備えたスモールワールドの近さが、視点の持ち方(均一性を感じる範囲に目線を限定し、スケールフリーなハブの存在に盲目的になるかどうか)によって、国民国家的にも帝国的にも見えるのではないか。

例えば、スピーカーから出る音は一つなのに、いくつもの音が聞こえるのはなぜだろう、と疑問に思ったことはないだろうか。音楽が、いくつもの音が重なり合成された一つの波形として記録される。再生時はそれが一つの波形としてスピーカーから出力されるはずだが、人間の耳はもとの複数の音に分解して認識できるという。
同じように、人間の国民国家的ふるまいや、帝国的ふるまいが重なり合ったかたちとして、世界・社会が不均一なスモールワールドのかたちをとる。同じひとつのかたちだけれども、人に感じ取られる際に2つの性質として分解され、視点によって国民国家的にも帝国的にも現れうる、とは言えないだろうか。

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。

ネットワークを自己組織化するようなプロセスのイメージ

これらすべての場合において、ネットワーク全体の秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである。多くのネットワークは、全体の設計図がないにもかかわらず不均一性のような秩序だった驚くべき特徴を見せる。自己組織化の過程を用いることで、その理由を説明できるかも知れない。(p.106)

不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序はトップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。

設計はつまるところモノの配置と寸法の決定の集積である。一方ネットワークは頂点と枝という単純な要素の集積である。どちらも、単純なものの集積が秩序を持った複雑なかたちを生みうる。
そこで、設計行為とネットワーク化のプロセスを重ね合わせるイメージが浮かぶが、それについて考えてみたいと思う。これは特に、自己組織化的な過程を重視するような設計手法との相性が良いように思われる。

そこで、(いつものように)藤村氏の超線形設計プロセス論を引き合いに出してみる。

▲藤村龍至『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』より(p.079)

上の図は有名なBILDING Kのプロセスを示す表で、横軸が模型の世代、縦軸が発見されたルールである。
模型・案の中に時間軸に沿って次々と様々な条件が編み込まれていくのが分かるが、これを、設計に関わる様々な条件(ルール)の間にネットワークを築くプロセスだとイメージしてみる。そのネットワークのかたちが建築として出力される。

このネットワークの頂点と仮定する設計に関わる要素は物理的な要素でも概念的な要素でも、なんであっても構わない。施主の要望、法的規制、間取り、構造、規模、設備、周辺環境、予算、使われる素材、床や壁といった構成要素、施工性や技術、歴史や文化、その他いろいろ考えられる。
これらの要素はそれぞれがグループをなし、そのグループ内での頂点の接続はたやすく距離も小さい。それぞれのグループについて検討している間に、お互いに関連する部分が生じ、そこにつながりが生まれる場合もあるが、あえて距離の遠いものとの間につながりを生むように意識もする。これは「つなぎかえ」と「近道」に相当するイメージである。それほど近道の頻度を高めずともいくつかの枝によってスモールワールド性を獲得できるが、スモールワールド性のもう一つの要件、大きいクラスター係数(三角形をなす頂点と枝の多寡)、つまり近い場所でのネットワークの密度も意識されるべきである。

▲本書より(p.83)

また、こうして検討していくうちにネットワークは複雑なものとなり、中には例えば、先のBILDING Kの表における●を縦に串刺すような、他の頂点との枝の多い(次数の高い)頂点、ハブが生まれる。これも自然に生まれる場合もあろうが、プロセスの中でハブとなるような要素を探すことと、その要素への接続とが並行して意識的に試みられる。これは「成長」と「優先的選択」に相当するイメージである。これによってネットワークが不均一なものとなり、スケールフリー性を獲得できる

▲本書より(p.99)

また、先のハブの存在は設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものとも考えられる。(下に引用した記事は考え方が近いかも知れない)
ここではハブは一つでなくてもよく、スケールフリーな存在として、様々なスケールにおいていくつもあっても良い。むしろそちらのほうが好ましいと思われる。

また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここで、設計において、これらの性質の獲得を阻害するものは何か、少しだけ考えてみる。

例えば、前者に関しては、天井懐が考えられる。天井懐は構造や設備などの要件をクリアするために、余裕を持って設定されることが多い。ふところに余裕があれば、構造や設備その他諸々の要素間の干渉をそれほど厳密に考えずとも良くなり、要素間のネットワーク生成プロセスがスキップされる。その内部はブラックボックスとなってしまうため、ネットワークの表現にもあまり貢献しない。冗長性を取り除いていくことによるデメリットもあるが、冗長である、ということはネットワークの生成を阻害する可能性があるとも言えそうである。もしかしたら、RCラーメン構造や在来軸組工法のような、一般化された冗長性の高い工法も同様の阻害要因となりそうな気もする(実感としてネットワーク生成プロセスをスキップしている様な感触を拭えない)が、それに関してはもう少し慎重に考えてみたい。

また、後者に関しては、行き当たりばったりの設計態度が考えられる。次々と現れる条件に成り行きで対応していっても、何らかのネットワーク状のかたちを生むかも知れないが、それはランダム・グラフのような均一なもの(フリースケール性を持たない)である可能性が高く、そこに不均一なネットワークが持つような複雑な秩序は生まれがたい。ハブを生成するプロセスが欠かせないのだ。

以上のように、設計プロセスをネットワークの生成過程に重ね合わせてイメージすることはできそうな気がするし、人の耳が音の重なりを認識できるように、それから生まれた形・建築から、そのネットワークの性質をさまざまに感じ取る、ということも起こりうるのでは、というように思う。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。
また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。

さらにはこれまでブログで収集してきたこと、(出会う建築に書いたことや、例えばレトリックの応用など)を、このイメージに重ね合わせることによって、より具体的な方法論とすることができそうな予感がある。が、それはまたこれから。




自分の中の100%をいろいろ分け合って生きていけばそれでいい B217 『子育てしながら建築を仕事にする』(成瀬 友梨 他)

成瀬 友梨 (著, 編集)他
学芸出版社 (2018/2/1)

想像してたのと違った

↑良い意味で。

昨年の2月の出版当初から存在は知っていたけれども、時期が来るまでは、と読むのを控えていた本。
正直、いろんな人が家事も仕事もバリバリこなしている様子を見せられて、打ちのめされるのが怖かったのだ。

だけれども、図書館に返却に行った際にふと目に入って、気の迷いで借りて読んでしまった。

感想を先に言うと、読んでだいぶ気持ちが楽になったし、読んで良かった

体験談を寄せている方々の実績等を考えるとびっくりするけれども、そこに書かれていたのはこちらがへこんでしまうような”家事も仕事もバリバリこなしている様子”ではなくて、自分たちと同じように悪戦苦闘しながら家事と仕事をなんとかかんとかやりくりしている姿だった。

それは、一日24時間の限られた時間を仕事と子育てが同じように分け合っているような両立の仕方で、想像していた「深夜残業・徹夜・土日出勤は当たり前、寝ても覚めても仕事・建築のことを考えている、という働き方の延長線上の、仕事メインで子育ても卒なくこなす。」というのとは明らかに異なるものだった

実際、子育ても仕事もどこまでいけば両立成功なのか、答えはないと思う。復帰当初はどちらも100%できないことを悩んだ時期もあった。(中略)だけど、ある時、子育てと仕事を足して100%になればいいんだと思うようになった。(p.34 萬玉直子)

最近はなんとかこういう心境に近づきつつも、時には、24時間全部仕事に注ぎ込めたら、というように、他人や別にあり得た自分と比べてしまうこともなくはなかった。
だけども、あの仕事をやっているこの人も、実はこれだけの時間を子育てに当てている中でやってるんだ。と思うと気持ちがすっと楽になったし、仕事にも子育てにももっと素直に向き合えるような気がした。(当然、その人だって他人や別にあり得た自分が存在しているのだ。。)

私の『子育てしながら~』

自分は子育てと仕事にどんな感じで向き合ってきたか。誰かの参考になれば、というより、個人的な記録の意味も兼ねて、私の『子育てしながら~』を書いておきたい

今、うちにはこの春に中1になった長男と小4になった次男、そしてもうすぐ2歳になる三男がいる。(全員男( ゚д゚ ))

長男と次男が小さい頃は、会社努めをしていたこともあって、子どもが生まれてからも普通のサラリーマンのように過ごしていた。子育ての殆どは妻に頼っていたように思う。
それでも、3人共夜泣きがひどく、一晩中、ずっと交代で抱っこしてゆすり続けたりして、それなりに大変だった記憶がある。
仕事が忙しい時期は徹夜の合間に、数時間、寝かしつけのために戻る、みたいなことも何度かあったけれども、やっぱり妻に頼っていた部分が大きくて、帰宅した時は妻も疲労困憊していた。
(実際のところ、この頃は、一日中一人で小さい子どもと向き合うのがどれくらい大変なのか、をあまり想像できてなかったと思う。)

そして、三男。
妻が不動産屋を開業した後で、かつ高齢出産ということがあったり、自分が独立して時間の融通がきく、ということもあったりして、三男はできるだけ子育てに参加しようとしている。

妻も忙しかったり体力的にきつくなってるので、出産後1ヶ月間(産褥期)は、仕事をしながら家事のかなりの部分を受け持って妻の回復を待った。保育園に入園するまでの1年ほどは、昼は現場に出る時も連れて行って、ベビーカーに乗せながら現場確認をしたり、夜はバウンサーにのせて足でゆすりながらCADで図面を書いたりしていた。三男も夜泣きがひどかった上、前面道路の夜間工事が重なったりして、この一年はすごく長く感じた。(仕事の忙しい時期とも重なって最初の3ヶ月で10kg弱やせた。今考えるとどうやって仕事まわしてたのかわからないし、自営かつ自宅兼事務所でなければたぶん無理だったと思う。)

今は保育園のおかげで少し落ち着いてきた。

今の一日の流れは、小学校も中学校も自宅(兼事務所)から遠いため、6時半に起床し、朝食を家族で食べて7時頃に長男と次男が登校。それから布団を上げて、洗濯物をたたみ、朝ドラを見ながら三男の相手をして、9時前に妻が保育園に連れて行ったあと仕事を開始。
現場等で遅くならないかぎり17時に保育園にお迎えに行って、それから妻が調理してる間、子どもの相手をして、食事をしてから三男をお風呂に入れ、21時過ぎに寝るまで子どもの相手。
妻が寝かしつけてくれている間の21時過ぎから24時~1時くらいまでが夜の部という感じ。(夜の部は、できるだけ建築の勉強や読書、ブログを書いたり、考えたり、に使いたいけれども、忙しいと仕事せざるを得ない)

仕事は昼の部は昼食時間込みで8時間ほど、夜の部が確保できれば3時間ほど。
睡眠時間は夜の部確保したら6時間前後で、それ以外の時間(仕事のみだったら食事以外は仕事してるであろう時間)は6.5時間ほど。

100%を分け合っていくような生き方

イメージとしては建築を仕事にしている人にしては、仕事時間がそれなりに制限された状況だと思っていた。けれども、この本をみると同じような状況もしくはもっと制限された状況で、それでも前向きに仕事も育児もしながら活躍している、という方が多かったので、かなり励まされたし、仕事と子育て・その他で時間を分け合うのが当たり前のような生き方も目指せるんだな、と気付かされた。(この本では、具合的な一日の時間の使い方が多数紹介されているので、生活がイメージしやすかった。)

夜の部ははじめはなかなかとれなかったけれども、少しづつ確保できるようになってきた。しばらくすれば、それ以外の時間も少しづつ自由に(折り紙したり、読書したり、子どもの勉強見たり)なってくるんじゃないだろうか。
ただ、今は気持ちと時間に余裕がなくて、長男と次男とじっくり向き合えていないのが心配。
たまに、長男と二人、もしくは次男と二人(もしくは三人で)夜、散歩してみたりするんだけど、この時が今、一番ゆっくり向き合えてるかも知れないので大事にしたい。

若い頃は自分の100%をどこか一点に使い切りたい、と思っていたけれども、何かと比べることなく、自分の中の100%をいろいろ分け合って生きていけばそれでいいんだ、という生き方も全然ありだと思った
もしかしたら、そう割り切ってしまった方が分け合ったそれぞれの密度も高くなって、総量としては150%とか200%とかそれ以上になったりするんじゃないか、という気もするし、そういういろいろ分け合っていくような生き方がどんどん当たり前になっていくんだろうな。

働き方改革じゃないけど、仕事も子育ても、仕事一辺倒の時代からどんどん意識が変わってきてるんだなぁ。仕事一辺倒の時代って要するにお母さんと子どもの時間を使って仕事だけしてなさい、というような時代だったのかもしれない。
ただ、こういう生き方をするのが良くてそうでないのは悪い、みたいになってはつまらない。いろんな生き方の幅が認められていけばいいと思うし、それを感じられる本でした。




川内の家 建て方

川内の家の建て方でした。

後日、餅まきもしました。友人でもある旦那さんと記念にパチリ。




分裂を単純な数学的操作によって乗り越える B216『ゲンロン0 観光客の哲学』(東 浩紀)

東 浩紀 (著)
株式会社ゲンロン (2017/4/8)

onokennote: ゲンロン0読了。前も思ったけど、哲学的な基礎知識がなくとも一冊の本として面白く読ませるのがすごいなー。伏線がきれいに回収されてゾクゾクするような瞬間が何度かあった。 [2019/04/16]


この本も面白く読ませていただきました。

観光客の哲学に向けて

とりわけ、二一世紀のこのネットとテロとヘイトに覆われた世界において、本当に必要とされる哲学はどのようなものかを考えてきた。本書にはその現時点での結論が書き込まれている。(p.007)

本当に必要とされる哲学はどのようなものか。本書ではこの問いに対する哲学的な思考が順を追ってトレースできるような形で描かれる。
誤解があるかも知れないけれど自分なりに追ってみたい。

第一章で観光客の哲学を考えることの狙いを、
 ・グローバリズムについての新たな思考の枠組みをつくる
 ・必要性からではなく不必要性から、必然性からではなく偶然性から考える枠組みを提示する
 ・「まじめ」と「ふまじめ」の境界を超えたところに、新たな知的言説を立ち上げる
こととする。
また、第二章でも、同様に人文思想から外れた存在、「シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした」存在として観光客を持ち出している。

いわば、今までの枠組みを書き換えるために、枠組みからこぼれ落ちているであろう観光客に着目する

さらに第三章では世界が2つの原理(国家と市民社会・政治と経済・思考と欲望・人間と動物・ナショナリズムとグローバリズム・コミュニタリズムとリバタリズム・国民国家と帝国)に分裂し、「このままではどこにも普遍も他者も現れない」ような二層構造が示される。
そして、それを乗り越えるため、観光客の哲学へ生まれ変わりうる存在として「マルチチュード」が持ち出されるが、「ネグリたちのマルチチュードは否定神学的な存在」であるから「『帝国』の最後は信仰告白で終わらざるをえない」とされる。

ここまでが、観光客の哲学に向けての下準備である。
丁寧に思考を積み重ねながらじっくりと描かれているので、実際に本書を読めば流れがつかめると思うし、自分自身が社会で感じていることに対する背景・構造が見えたように思うので自分も何度か読み返してみたい。

また、今までの枠組みを乗り越えようとすることは、モートンが近代の枠組みから脱出しようと試みているのとも重なるように思う。やはり乗り越えるべき何かが近代から現代へと残されているのだ。

郵便的マルチチュードと数学的操作

さて、いよいよ第四章で否定神学的マルチチュードの弱点(戦略性のなさ)を克服するものとして郵便的マルチチュード(としての観光客)が提案される。

詳細は本書を読んでいただくとして、個人的にエキサイティングに感じたのが、弱点を補うものとして導入された数学的モデル・ネットワーク理論の部分である。

ここで、「つなぎかえ」と「近道」の数学的操作によるスモールワールド性(大きなクラスター係数・小さな平均距離のつながりのかたち)を国民国家(先に挙げた2つの原理の前者)に、「成長」と「優先的選択」の数学的操作によるスケール・フリー性(べき乗分布)を帝国(先に挙げた2つの原理の後者)に対応して捉えているのだが、面白いのはそれが一つのモデルで2つの世界を同時に表現できる、ということだ。(前者は誤配の量、後者は誤配の質によるものとも言えそうである。)

しかし、だとすれば、それは、僕たち人間が、同じ社会を前にしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。

そういった解釈は、このモデルなしにはなかなか捉えることが難しかったに違いない。

そして、さらにエキサイティングなのが、この複雑な表現・解釈が「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった単純な数学的操作によって生み出されるということである。

正直に言えば、ナショナリズムとグローバリズムを横断するような枠組みの提示とその実践可能性にも関心はある(実生活・実世界と無縁ではないと思う)けれども、2つの相反するような世界を、単純な操作によって同時に表現できる、というその可能性の方により関心がある。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。 それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。 どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。) そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』)

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。
「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。

メモ

本書ではさらに、観光客の哲学として連帯と憐れみ、続く第二部で観光客のアイデンティティとして、家族、不気味なもの、子どもの概念についての素描が提示されているが、今回はここで終わりにして、後は本文の中から印象的な部分をメモしておきたい。(強調引用者)

シュミットとコジェーブとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。(p.109)

いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へと言う普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。(p.154)

ぼくたちはつねに、同じ社会=ネットワークを前にして、スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を同時に経験している。しかし、だとすれば、こんどは、そのふたつの経験から、ふたつの秩序、ふたつの権力の体制が生まれるとは考えられないだろうか。(p.184)

観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。僕たちは、誤配がなければ、そもそも社会すらつくることができない。(p.198)

政治を動かすのは、お祭りではなく日常である。言い換えれば、動員ではなくアイデンティティである。連帯の理想はアイデンティティの欠如に敗れた。(p.206)

つまりは、僕がここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。(p.214)

しかしほんとうは、観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピューターのインターフェイスのように捉える視線なのではないだろうか?(p.259)

子として思考するかぎり、チェルヌイシェフスキーと地下室人とスタヴローギンの三択から逃れることができない。ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことに会った。子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。(p.300)




保育園と住宅の模型

今週は模型ウィーク。
保育園の現場用と、住宅の提案用。

立体的に捉えるのはやはり模型が一番。

だけど昔に比べたら時間がかかるようになってきた。
体力の問題もあるけれども、PC上の3Dである程度完成形が把握できるようになってきたため、出来上がりが楽しみでわくわくする、というのが小さくなってきています。モチベーションの問題のほうが大きいかもしれません。