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カリアゲ鹿児島始動!&カリアゲ別府サミット

カリアゲ鹿児島始動!

この度、カリアゲJAPANに鹿児島パートーナー「GOOD LIFE MAKER」の一員として参加させていただくことになりました。

カリアゲとは築30年以上の空き家を借主負担で改修し、借主が6年間運用した後お返しするしくみで、これまで活用方法を見いだせなかった遊休不動産を活用するための、新たなオプションとして大きな可能性を開くものだと思います。

古くて活用に困っている、というような不動産をお持ちの方は是非ご相談ください。

カリアゲJAPAN – 全日本空き家流通化サービス
カリアゲ鹿児島
GOOD LIFE MAKER | カリアゲJAPAN

カリアゲ別府サミット

また、「カリアゲ大分」「カリアゲ鹿児島」の立ち上げを記念して、別府でカリアゲ大分サミットが開催されたので行ってきました。
今回は妻の住まいと土地のコパンも関係するため、家族五人での旅行も兼ねて。

そこで紹介された各地のカリアゲメンバーとその活動を通じて感じたことは2つ。

カリアゲは空き家オーナーの選択できるオプションの一つ

一つは、カリアゲは空き家オーナーの選択できるオプションのうちの一つである、ということ。

カリアゲパートナーの主体の性格やスタイル、活動している内容は様々でした。
それが、 ” カリアゲのスキームありきではなく、空き家オーナーの持つ希望や置かれた状況などを考慮した上で提案できるオプションの一つとしてカリアゲの仕組みがある ” ということを浮かび上がらせたように思います。

カリアゲJAPANでもカイアゲソノママなどの異なるスキームを用意していますし、カリアゲの本質はオーナーの期待に応えつつ、様々な可能性を考えながら遊休不動産を活用する道筋をつくり出すことにあるのだと感じました。

頼れる相談先であると同時に活動主体でもある

もう一つ感じたことは、各パートナーがそれぞれ、自分の役割・出来ることを明確に示しつつ、そこを起点に活動を拡げている、ということ。

僕らの世代の設計事務所は、クライアントから依頼があり、それに対してどう応えられるかが設計事務所の力量であって、「建築に関わることは何でもできますよ」というスタンスが一つのスタイルだったように思います。

ですが、カリアゲパートナーの面々は、(主体が不動産だったり、職人だったり多様であることも理由の一つでしょうが、)我々の出来ることはこういうことです、ということを言い切ることでスタンスを明確にして社会との接点をつくりだしているように感じました。
キャッチフレーズを携えて打って出るようなスタイルはハンディハウス以降拡がってきたもののように思いますが、そこを起点に様々な活動を派生させているのは社会との接点が明確だからだと思いますし、それがかえって社会へのインパクトを拡げているように感じました。

クライアントの期待に応えるというのは同じでも、そこに活動主体としての視点が重ね合わされているかどうかが大きな違いのように思います。

おそらく、どちらが正しいというものではないと思いますが、活動主体、いわば自分ごととしての視点を持ちながら小さなところからはじめて、大きなインパクトへとつなげていくスタイルは時代が求めているものなのかもしれません。

オノケンとカリアゲと

オノケンとしての設計事務所の役割、クライアントの依頼に対して設計を通して建築という具体的なもので応えていく、ということにも社会的な意味や接点があると信じていますが、一方で、カリアゲという枠組みを通すことで出来ることもたくさんあるように思います。その部分のイメージをもっと解像度を高くして育てていけたらと思います。




甑島の家 動画

甑島の現場の様子をお施主さんが撮ってくれていて、動画のデータを頂いたので公開します。

↓着工から竣工まで。

↓建方の様子。僕も材料手渡したりちょろちょろ動いてます。。

こうして、最初から最後まで通してみることはなかなかないです。貴重な映像ありがとうございました!




KSGI写真アップ

KSGIの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




ルールをアップデートしながらインストールし続けよう B210『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』(藤村 龍至)

藤村龍至 (著)
TOTO出版 (2018/8/22)

ギャラ間の展覧会に合わせて出版されたもの。

表紙から始まる序文もしくは宣言文は、全文を暗唱したくなるほどの密度に凝縮されている。

現代的課題の知識化とかたちの提出

序文では、

コンテクストが流動的で読めない状況が訪れた時に、それと形とのミスフィットを取り除くにはどうすればよいか
建築が民主主義と大衆主義のあいだで揺れている中、世論や市場の暴力に抗い、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか

というような課題が挙げられている。
今は新国立競技場や豊洲市場のごたごたに象徴されるような暴力的な状況に、いつ、どのような形でさらされるか分からないような時代である。
そのような中で公共的な仕事をする際は、これらの課題はもはや前提として考えなければいけないものになっているように思う。

しかし、自分は頭では「もはや前提として考えなければいけない」とは思いつつも、それに対応する展開可能な言葉を見つけられていなかった。

本書は、そんな現代的課題に言葉を与えて知識化し、それに対して方法論のかたちで応答する。
序文での

多様性を認め、寛容な社会の実現を信じて、より多くの知識が集まれば集まるほどより良いものができる、と言い切ることに挑戦するべきではないだろうか。(強調引用者)

その作業をより多くの人で行い(中略)集合的な知をかたちづくる方法論へと展開し、建築を社会のさまざまな課題解決に向けた、創造的な知のツールとして再定義したい。(強調引用者)

という宣言的な文章はとても力強く感じたのだが、おそらく、本書全体(もしくは氏の試み全体)が、社会がより良くなろうとするサイクルの一つのプロトタイピングなのであり、読者はそれに対して、自分なりのフィードバックとプロトタイピングによって、大きなサイクルへと参加することを求められているように思う。

ルールのインストール

ここで、問題を少し手元に引き寄せてみる。(毎度、スケールの小さな話になってしまうわけだけど。。。)

先に挙げた状況・課題はおそらく公共的な仕事に限らず、例えば個人住宅のようなものにも忍び寄っている。
テレビや雑誌だけでなく、インスタグラムなどのメディアから大量に、そして個人の嗜好と強く結びついた形で流れてくる情報は、流動的かつ暴力的な形でコンテクストの一部を形成しつつあるし、それに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか、というのはますます大きな課題になっていくように思う。

では、どうするか。

建築にどのような意味と価値があるか、もしくはどのような意味と価値を持って欲しいか、というのはDeliciousness / Encounters おいしい知覚/出会う建築としてまとめてみた。
しかし、カードをつくったり評価シートをつくったりしてみたものの、それらの多くはどうすれば実装できるかがまだ分かっていない、というのが現状である。

さて、本書では、0.00の序文から10.0のあとがきまで、ステップを踏みながら手法がアップデートされているのがよく分かる構成になっているけれども、それは単線的に変化していると言うよりは、複線的なもので、過去のルールに調整を加えながらも新しい要素を扱うためのルールを次々にインストールしていっているように見える。(それは、超線形的で、あたかもBuilding Kの世代とルールの表のように。)

さらに、そのルールは最終的なかたちを直接操作するためのもの、というよりは、そのルールによって自ずと建築に新たな意味や価値が加えられていくようなルールである。

河本英夫が『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』で、自ずと形成されていくようなシステムの生成プロセスについて幾つもの例を出して説明している。
例えば、時速90kmほどで飛び出すスキージャンパーが飛距離を伸ばすために「踏み切りを少し早く」しなければ行けない場面で、

数々のオリンピックメダリストを育てた八木弘和コーチは、飛び出すとき、たとえば100メートル先を見ている選手に対して、「100メートルの10センチ先をみるように」という指示を出すと言っている。「早く踏み切れ」と言われても、どうすることなのかがわからず、むしろ緊張が出て逆効果になるような場面では、本人自身の中にある選択肢を活用する以外にはない。

というようなことを書いているが、藤村氏が導入するルールも、選択肢を制限すると言うよりは、制御可能な選択肢の幅を広げ、結果として自ずとあらたな「かたち」へと向かうようなルールであるように思う。それは、多くの人の知恵を、というところから求められたものであると同時に、このようなルールの採用が、多くの人の知恵を、という思想を導いたのではないだろうか。


建築に「このような意味と価値を持ってほしい」と願うだけではだめで、それが自ずと実現するようなルールを考えて、設計手法の中に一つ一つインストールしていかなければならないのだろう。
そのようなルールを具体的に考え出し、実装できた人がいわゆる建築家と呼ばれるのかもしれないけれども、自分に足りないのはこの具体性なんだろうな。
ようやくスタート地点に立った感じ。

「流動的かつ暴力的な形で形成されるコンテクストに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか。」という問いに対してはどうだろう。
例えば、それを一つの要件として、選択肢の幅を拡げてくれるようなルール・設計手法の中に取り込んでしまい、新たなかたちへと形成されるようにしむける、というようなことが考えられる。

やっぱり、ルールのインストールを急がないと飲み込まれてしまいそうだ。




紫原の家 完成見学会


施工会社(N3建設)と共同で、紫原4丁目にてオープンハウスを開催することになりました。

日時 : 7/28(土)~8/3(金) 10:00~17:00
予約 : 7/28,29は不要
    7/30~8/3は要予約
    予約は 099-228-1577 (N3建設)又は info@onoken-web.com (onoken)まで。

※お車は近くの駐車場にお停め下さい。

※お子様が走りまわったり部屋を汚したりしないよう十分にご注意下さい。場合によっては見学をお断りする場合があります。




甑島で珪藻土DIY

軽に材料を積み込んで、甑島の家の珪藻土DIYに行ってきました。
結構広い面積だったので大変でしたが、帰りの船までになんとかなりました。




HYGS+ukkata写真アップ


HYGS+ukkataの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




2才児にとっての”じりつ”とは何か

2才児にとっての”じりつ”とは何か。
そんなお題を頂いたので、ちょっと考えてみたいと思います。

じりつには自立と自律があります。
分析記述言語では自立とは構造に帰属され、自律とはシステムに帰属されるそうです。
では、乳児から幼児へと大きく変化する間にいる2才児にとって、獲得すべき自立・自律とはどういうことを言うのでしょうか。

自立について

自立とは構造に帰属される、すなわち何らかの状態のことを指します。
脳性麻痺を抱え車椅子生活を送る熊谷晋一郎氏は、自立とは何にも依存していない状態ではなく、依存先を分散し無自覚に依存できている状態のことだと言います。

他者から切り離されているのでは単なる孤立ですが、そうではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような関係性の中にこそ自立があるのです。
自立とは、他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言って良いように思います。

自律について

一方、自律とはシステムに帰属される、すなわち、どのようなはたらきの中にいるか、そのあるはたらきのことを指します。
外から与えられた要因を受動的に処理するような機械的なはたらきは他律であり、自律とは環境に能動的にはたらきかけることで動き続けるような生態学的なはたらきのことだと言えます。
受動ではなく能動性の中にこそ自律があるのです。

遊びと自立・自律

このように、自立し自律できるとは、環境に能動的にはたらきかけることで他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言えるように思います。

これは保育における「子ども観」「保育観」と大きく関わります。
『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成』では子ども観、保育観の変化を、子どもは環境から刺激を与えられて知識を吸収する受動的な存在ではなく、自ら環境を探索し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在であり、遊びは子ども自身がつくりだすもの。また、保育者は子どもに教えるのではなく、子ども自身が環境に働きかけ、自ら遊びをつくりだせるような環境を構成しなければならない、としています。
このことは国の指針「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」にも明確に位置づけられています。

これはまさしく、子どもが自立及び自律できることを援助することが保育に求められる、ということを指しているように思います。
そして、未就学児においてそれは日々の生活、特に遊びを通して獲得されるものであり、遊びと自立・自律は切り離すことができません。

自立と自律を保障する園の条件

では、そのためには何が必要でしょうか。
著者は同書で紹介された保育環境の共通項として、

 ・子どもが安心できる環境
 ・多様性を尊重できる環境
 ・子どもの活動が継続的に考えられていること
 ・試行錯誤ができること
 ・創造的でオープンエンドな活動

の5つを挙げ、さらに保育者の共通項として「子どもの力を信じていること」を挙げています。
園の設計において、これらの支えとなるような環境づくりを念頭に置く必要があり、それによって子どもの自立と自律が保障されるべきなのだと思います。

逆に言うと、これらが担保されていない状態や、子どもを受動的な存在と捉える子ども観や保育観が子どもの自立と自律の障害となるのかもしれません。

2才児にとって自立・自律とは何か

0~2才児は、仰向けから寝返り、ズリバイから4つばい、つかまり立ちから歩行へと移動能力を身につけ、環境との関わり合いの可能性が爆発的に増える時期です。
そんな可能性のかたまりのような時期を過ごす子どもたちに必要なのは、自ら能動的に遊んでいいんだという安心感・肯定感と、その先に達成と喜びを見つけた、という多くの経験ではないでしょうか。

そして、その安心感・肯定感と経験とが、3~5才の就学前の多感な時期を存分に遊び学ぶための礎になるように思います。




甑島の家 上棟式

甑島の家の上棟式でした。
なんとか夕方までに屋根下地まで終わり、そのまま餅投げをして、夜は集落の皆さんが集まっての直会。
こんなに集まっての直会はなかなかないです。
すごくいい時間を過ごさせていただきました。(直会の写真撮っとけばよかったなー)






探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明)

中村 明 (著)
東京堂出版 (2007/9/1)

10+1ウェブサイトの寄稿文、
10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト
を読んで気になったので勢いで購入。

onokennote: 文体・レトリック辞典、勢いでポチっちゃったよね。工学部だった、というのもあるけれども、意匠に関わるこの手の話が大学教育で全く触れられなかったのは今でも不思議。当時は雲をつかむ様だった(今は違うのかもしれないし、大学生なら自分で学べ、ということだったようにも思う。) [2018/04/10]


onokennote: 実感としては妹島さんくらいからレトリックによる微細な違いを競うことが主流になってる気がする。当たり前に、それこそが建築であるための入口、みたいな気になっているけれども、それが思考を限定していないか、という気もする。 [2018/04/10]


onokennote: 一定の振れ幅の中に納まる予定調和的なものが建物で、それからはみ出して、何らかの意味・とっかかりを生み出し、人に働きかけるものが建築だとしたら、レトリックの違いに建築としての魅力を感じるのも当然なのかも知れない。(思考の順序が逆かもだけど) [2018/04/10]


そして辞典が届く。

onokennote: 辞典届いた。ほんとに辞典だった。体系に添って並んでいた方が分かりやすかった気がするけれども、このボリュームを順に読み通すのは先が長いので、50音順の方がランダムに気ままに読むくらいで良いのかも知れない。 [2018/04/16]


味わいの型・探索の型としてのレトリック

その際、建築家が設計において意識していた思想や手法、発言などは、ここで一度括弧に入れる必要がある。私たちが目を向けるべきなのは、建築の物としての側面である。なにより、レトリックはつねに事後的に発見されるからだ。(10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト)

 

onokennote: レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。 [2018/04/16]


onokennote: 設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。 [2018/04/16]


onokennote:
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。 [2018/04/16]


onokennote: ある方向で設計が上手い人って、やっぱり目の前のものから何かを発見する力に優れているんだと思う。一人事務所だと、目の前のもの(例えば図面)の多くが自分が関わったものだったりするから、新たに発見して設計サイクルを回すのが難しい。 [2018/04/16]


onokennote: だから、技術・手法にすがりたくなっちゃうのかなー。僕は今の三倍くらいは同じ密度でサイクル回せないといけないんじゃないか、という気がしてる。(ということはワンサイクルあたりのスピードを上げないといけないし、密度を落とさないための発見する技術がいる。) [2018/04/16]


レトリックを創作のための直接的な技術ではなく、探索の精度を上げるための型、だとした場合、サイクル型(超線形?)の設計態度において効力が発揮されるように思う。
では、直接的な創作の技術としてはどうだろうか。

おいしい技術

レトリックを「新しい仕方で環境と関わりあう技術」とした場合、例えば次のようなことが考えられそうである。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ここでいう技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。(それが集団的・歴史的に蓄積されて共有される技術となる。)
人間は環境との関わりの中から技術を獲得していく点で他の動物に比べて突出している。技術そのものが意味と価値の獲得であるから、おいしい技術というよりは技術はおいしい、と言ったほうが良いかもしれない。
(中略)
では、建築においておいしい技術の知覚はどのように考えられるだろうか。いくつか列挙したい。
一つは意味や価値の重ねあわせである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。
あるいは保留。意味や価値がそのまま発見されるような環境を計画するのではなく、意味や価値を内包する環境が生まれる状況そのものをセッティングするという態度に留める。建築は全てを計画し切ることは難しいし、生活の中で不意に訪れる意味や価値の発見は、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多い。
例えば、ある状況のもと何らかの知覚と行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな意味や価値を内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば積み重ねられた技術を知覚する悦びである。
もう一つはずらし。意味や価値とその現れをずらしたり、曖昧さを残すことで、その意味や価値に焦点が絞られ固定化することを回避する。固定化してしまえば意味や価値との出会いの悦びは低減する。ずれや曖昧さはその悦びを継続的なものにしないだろうか。

ここで言う重ね合わせ、保留、ずらしを303の修辞技法の一つで表すとすれば、重技法、沈黙法、換喩、であろうか。
人間にとって、知覚そのものに意味や価値があるという立場をとった場合、レトリックはその意味や価値を際立たせる手法として有効に違いない
これは、坂本一成がの「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」と重なる気がする。

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

おそらく、この象徴へ到達するには、それが浮かび上がってくるまで、探索・調整のサイクルを回すことが有効だと思うのだけれども、もっと直接的・演繹的な設計技術に連なる、建築の修辞学としての建築構成学というものもありそうだけれども、これについては次回改めて。

自分もたまにこの辞典をぱらぱらとめくってレトリックと建築の間で空想してみたいと思うけれども、(先人がいるので)303の修辞技法を網羅するまでのモチベーションは持てそうにないし、そこまでの引出しはなさそう。

立石氏が303をコンプリートした暁には、建築の修辞学として是非書籍化して頂きたいところです。
(氏がキン肉マンを読んだことがあるのか。というのもちょっと気になる。)




あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)




脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
出版社: 人文書院 (2007/8/1)

だいぶ前に『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』で紹介されていた本から数冊購入したのですが、これはそのうちの一冊。

本書で考えてみたいのは、共通世界としての公共空間とは何かということであり、また同時に、これがなくなりつつあるのではないか、そうであるならどうしたら良いのかということである。(p.4)

帯には「公共空間の成立条件とは何か?」「アーレント、ルフェーブルの思想をたどり、公共性への問いを「空間」から捉え返す、現代都市論・社会理論の刺激的試み。」とあります。

公共空間が失われつつあるのではないか、という問いかけ自体は目新しいものではないと思いますが、「空間」から捉え返すとはどういうことか、アーレントからどう展開されるか、また、古びた問いをどう展開するのか、にも興味がありました。

一度目は細切れでしか読めず、ぼんやりとしか掴めなかったので、二度目を読みながら並行して、自分なりにまとめていきたいと思います。

序章

まずは序章から。
 
 
 
序章では、公共空間を考えるためのいくつかの視点・問いが提示されます。

公共空間とは何か。

公共空間とは何か。

ここではアーレントの公共空間に関する議論とジンメルの空間の捉え方を参照しているのですが、公共空間とは、空虚でしかなかった空間が、隣人との相互行為によって「あいだ」が満たされることで意味ある何かとして現れた空間のことである、と言えそうです。

この相互行為によって「あいだ」満たされた状態をどうしたら維持できるのか、を考えることが公共空間を問うこと、すなわちこの本の中心的な問いかけだと思います。

公共空間と私的空間の境界

また、公共空間は私的空間との関係でも語られ、その2つの関係が適切に維持されるような境界のあり方が問われます。

この境界の区別する働きが強くなると、私的空間は分断され、相互行為によってみたされる「あいだ」、すなわち公共空間が失われます。この状態の私的空間をアーレントは「真に人間的な生活にとって本質的な事柄が奪われる事を意味する。」と言います。

逆に、連結する働きが優勢になり、公共空間と私的空間との差異が消え去ると、資産化された私的空間が、いまだ資産化されていない空間を公私問わず併合しながら膨張し、やがて公共空間を食いつぶすことになります。

公共空間と私的空間の境界の区別する働きと連結する働きのバランスが、どちらに崩れても公共空間は維持できなくなるので、この境界をどうバランスよく維持できるか、が問われることになります。

疎遠化と一体化、開けた閉域へ

アーレントの問いかけをもとに論が進むわけですが、アーレントの時代と現在(2007年)とでは公共空間は異なる問題に直面していると言います。

平等の名のもと、管理行政機構によって画一化が進められた時代では、それによって自然発生的な相互行為が排除されることが問題とされ、画一化に抵抗するのが公共空間維持への実践とみなされました。
そこでは平等から自由への価値の転換が求められ、多様性・差異・民主主義と言ったことが唱われることになります。
しかし、この民主主義を求めた「自由」は、やがて資本主義的・経済的な「自由」を求めるネオリベラリズムへと横滑りし、公的なもの、すなわち国家や民主主義的な公共空間の解体を求めるようになります。

公共空間を取り戻すために平等からの転換を目指した自由が、いつしか公共空間を脅かす自由へ変容し、こうして、公共空間は新たな危機に直面することになったのです。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。
そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。

また、テレビやインターネットなどのメディアは、公共空間が存在するならばそれを補完する武器になりえます。しかし、公共空間を欠いた状態では、気分や感情といった水準の公共的情動とも呼べるものによって、疎遠化と一体化を増幅するように作用します。
そこでの一体化は、単なる閉域においてではなく、メディアによって生まれた開けた閉域とでも呼べる領域において進行するのです。

こうして、資本主義が要請する自由が、政治的な討議を行なう公共空間を奪い、人々は代りに出来た閉域へと引きこもるのです。

現代のポピュリズム(極右的な排外主義、スポーツ選手やテレビタレントへの熱狂)、ないしは偏狭なナショナリズムの勃興は、この公共的情動を土台とする。その限りでは、全盛期の総動員型全体主義の土台となった世論の規格化=思想統制と区別しておく必要がある。拘束の内部において画一化し、逸脱を許さないのが全体主義だが、現代の情動の一致状態は、むしろ、画一性とは対極の、差異性、多様性が、どういうわけか不和のない均質的な一なるものへと収斂していく過程にあるものと考えられるのではないか。そしてこの一体化にともなって公共空間が解体していくのではないか。
疎遠化と一体化。公共空間の解体を論じる際には、相反する二つの過程の同時進行を問題化せねばならない。(p.34-35)

序章を読んで

以上、自分なりに序章の概要をまとめてみましたが、そこで頭に浮かんだことも記しておきます。

相互行為に満たされた空間をイメージ出来るかどうかが一つの肝になるように思いますが、この「あいだ」を満たすものはリアリティや密度感・充足感というようなイメージでしょうか。

これは、私が建築・空間に求めるイメージとも近い気がします。
建築に対しては、相互行為の相手は人でもモノでもよく、文化や歴史といった無形のものも含めて考えています。その相互行為のことを出会うという言葉に変えてまとめたのが出会う建築です。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ギブソンの生態学に相互行為を適用することで人間を取り巻く特殊な環境まで拡張したのがリードの生態心理学だと理解しているのですが、ここでの公共空間の議論と生態心理学とは重なる部分が多いかも知れません。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』
そう考えると、相互行為に満たされるというのは、生態学的な知覚の欲求、生きていくための欲求が満たされることで、リアリティや密度感・充足感と結びつくのは自然なことのように思われます。

また、境界のバランスの問題も建築の自立性(建築がそれを体験する人と一体化せずに関係を結べること)との重なりを感じました。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 建築の自立について

こういう重なりは、この本での議論が一般的な「何かが失われつつあるのではないか」という関心とは別に、建築に対する視点も拡げてくれるのではないか、という期待を抱かせてくれます。

また、公共的情動に関しては炎上や社会的リンチ、新国立競技場のザハ外し事件や豊洲市場の茶番等々、思い当たるものはいくらでも挙げられそうですが、この本が書かれたのが2007年8月、twitterの日本語版スタートが2008年4月なので、この本が書かれた後にメディア、特にSNSによって公共空間のあり方がさらに変容している可能性は考えておいた方が良いかも知れません。

個人的な感覚としては、twitterでは個人が複数のクラスタ・分人的に振る舞えた時期があり、公共空間として相互行為に満たされた瞬間があったように感じますが、Facebookでは分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働き、公共空間としての機能は弱まっているように思います。なので、どうすればFacebookの公共空間的機能を強められるか、と言った問いの立て方はあり得るかと思います。

さて、まだ序章。問いかけがあっただけなので、これからどう展開されるのか。


第一章 境界と分離

序章では「公共空間とは何か。」「公共空間と私的空間の境界」「疎遠化と一体化、開けた閉域へ」という視点の投げかけがありました。

そこから第一章では「境界と分離」について。

ジンメルからセネット、個人から共同体へ

ジンメルは都市における分離の問題に対し、個が個を保ちながら孤立に陥ることなく生活するには、個人と群衆との間に距離を設けること(もしくは投げやり)が必要とした。
一方、セネットは都市の問題を、構成要素である共同体の問題とし、共同体の間に交渉のための場が必要とした。

セネットにおいて、都市の問題が、個人の距離の問題ではなく、共同体の空間の問題だと捉えられるが、それらの境界が、共同体が純化(境界からの撤退。疎遠化と一体化。拒絶と否定)に向かう傾向に対抗するような公共空間となるには、どの様な条件があるか、が問われる。

アレグザンダーとルフェーブル、分断と隙間

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、アレグザンダーとルフェーブルが比較される。

アレグザンダーはあいだを有限な集合の中の部分の分断として捉える(静態的)。そこで、あいだが部分相互の交渉のために空間となるには、重合(オーバーラップ)、共通項を重ね合わせることが有効とする。

それに対し、ルフェーブルは、分離した集合の間には、交流欠如の問題だけではなく、政治的な問題があるとする。集団がそもそも他の集団と分離することによって成立しているとすれば重合の有効性は限られる。
分離は政治経済的な作用の帰結であり、心的なものというより資本主義体制下での生活空間に特有の客観的性質である。
資本主義のもと、空間の商品化(工業化された空間論理、交換の論理、商品世界の論理)が進み、等価交換の領域に包括されることによる特殊性・地域性の消去すなわち「場所の均等化」の作用と、空間を剰余価値の源泉とみなし富や階級、民族や宗教の違いに応じた序列を生み出す「階層序列化=不均等化」の作用という、相反する二つの作用によって分離が生み出されるのである。(例えば、郊外は、同質性を求めて集まるところというよりは、集まりと出会いの空間から引き離し、参加の機会を奪っておくために作り出された隔離のための居住地と言える。)
さらには、分断は交流を不平等なものにし、参加者を限定していく

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

境界は、重なり合いのための余白ではなく、それ自体で集め、出会わせていく作用を備えた空間が生成していくための隙間である。分離は現に支配的な形態でもあるかもしれないが、これに対抗していくためには、隙間としての境界的な空間が、中心性としての空間へと生成していくことを要するだろう。それもただ一つだけでなく、無数の隙間が。(p.79)

この生成の過程は支配的な秩序に対し劣勢であるが、ルフェーブルは分離とは別の空間の出現拠点はここ以外ないと確信する。その確信がどこから来るのかは次章以降で。

第一章を読んで

ようやく第一章。(一度読んだにもかかわらず、全く先が読めない(笑)
ここまで読んで、前回書いた「分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働」いている状況が再度頭に浮かびました
SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。
それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか

実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。


第二章 政治空間論ー均質化と差異化

前章の内容と重なりながら、ルフェーブルの政治空間論について掘り下げられます。

均質空間と差異空間 中心性と運動性

ルフェーブルは政治について、権力などの外在的なものではなく、空間そのものがどのように政治的であるか、を問う。

空間は、差異的なもの及びそのための隙間が除去されて均質的になることによって政治的になるが、それらの空間は固定的な枠ではなく、流動的で運動性を有するものとして捉えられる。

この均質化に対する実践は現実の空間が分離され、均質化されていく過程に即しながら、その中の隙間を捉えることで可能となる。その実践は新たな差異空間の生産へと繋がりうるものである。

差異空間と均質空間の間の運動と同じく、中心性の概念も変容する。中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していくが、またその空間の中から集まりと出会いの作用へと中心性を変容するような隙間が見出される、というように揺れ動く。

この中心性のあり方こそが空間の質を決定する。ゆえに、均質化に対抗するには中心性の全体化作用に対抗する必要があるが、それらは現実の空間の変容過程に即してみいだされるものである。(ルフェーブルはその実践のアイデアとして脱中心化と転用を挙げている。)(逆に空間の質が中心性のあり方に関与するというような相互関係でもあるように思う。)

空間の均質化が中心性が全体化へと変容した結果だとすると、均質化に対する実践はその変容にあらがい、差異空間を現させるような集まりと出会いの中心性へと導くことで可能となる

第二章を読んで

めちゃめちゃざっくりまとめましたが、前回

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

と書いたように、ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。

「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。
それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。

僕自身は、まだこの本における「政治」とは何を指すのか、をうまくイメージできていないように思います。自分なりのまとめを最後まで書いて繰り返し読み返すことでイメージできるようになればいいけど。


第三章 公共空間の政治

公共空間は脆弱な空間であるから、その喪失の過程に即した現状認識と実践が必要である。

公共空間の境界

アーレントの帝国主義時代と現代のグローバリゼーションの時代は異なるが、多くの示唆を与えてくれる。

 ・現れの空間…人々がともに集まるところには潜在的に存在し、相互行為によって形成され、それが途絶えると消えてしまうもの。
 ・境界の開放と制限
 ・共通世界…相互行為の土台となる具体的な場所。
 ・世界疎外…手の届く身近なところへの関与、および気遣いのすべてから離れたところへ退避すること。
公共空間が過度に拡張すれば、共通世界を失い、世界疎外がもたらされる。

「全体主義の起源」…国民国家が資本主義経済システムの要請に応じて外部と関わる際に、帝国主義的な膨張政策を採用した。
その膨張の暴力はやがて本国の政治体をも解体し境界を消去していく。アーレントはこの暴力の拡張を制御し、破壊から公共空間を守るために、公共空間に境界を要請した
また、国民国家は膨張の暴力に無力で不完全な排除の政治体であるが、同時に行為者に相互行為の条件・人権を与える。
例えば、難民や亡命者のように属する政治的共同体を喪失した者には、抽象的な人権ではなく具体的な政治体を必要とする

公共空間はあらゆる人間に、政治的行為を営む余地を与えるために開かれていなければならない。が、同時に、相互行為のための共通世界を確保するための制限、また、膨張の暴力から公共空間を守るための境界を必要とする。

境界の消去と排除壁

公共空間は観念ではなく、実質的な帰属を許容し、行為を意味あるものにする空間的な領域である。
それを暴力から守るのに必要なのが囲いとしての境界であるが、帝国主義は<帝国>へと変容し(Hardt&Negri)、内外の区別及び境界は消去されていく
境界の消去の過程にあることを一旦受け入れた上でそれでもなお、公共空間の存立する余地は考えられるか、が問われる。

<帝国>体制下では二項対立が終焉に向かい、支配のやり方が変化し、公的なものの領域を、私有化していくと同時に、政府による監視とコントロールへと開いていく。
さらに、公共空間を確保する境界が消去された後、私有化された空間を保護するための排除壁としての境界が新たに構築されていく。

危険の排除と未来の放棄

ゲーテッドコミュニティなどの私有化された空間は、異物を除去したいという動機のもとで排除壁としての境界を具現化していくように見えるが、実のところは逆に、境界によって外から切り離されることによって恐怖と排除の動機が生み出されていく
その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する
ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。)

この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。

脆弱性(ヴァルネラビリティ)の政治

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。
脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。
相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。

バトラー「全ての他の人間への配慮と引き換えに自分自身を安全にしようとすることは、我々が自分たちの位置を定め、道をみいだしていくための重要な財産を抹消することである。

現れの不可視化と隙間

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされているそこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

第三章を読んで

ここでもいくつかのことが頭に浮かびました。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』)

見てみるとだいぶ前の本ですが、『公共空間の政治理論』の2年前でしたね。捉えどころのない時代をどう生きるか。時代による共通の問題意識が合ったのかもしれません。(今はもっと露骨な形に姿を変えているように思いますが。)

予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

熊谷氏の予測誤差を遊びの文脈で捉えることで可能性に変えていこうという姿勢は、本書での「この不可避的な力に対して、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す」姿勢に重なります。

そのようにして現実の中から何かをみいだしていこうというのが、本書の結論でもあったように思います。
個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません

(著者の最近のものも一度読んでみよう。)


結論

最後にメモ的に終章から。

公共空間の存立条件

・必要なのは公共空間の存立条件が何であるかを示すこと、それも現実の只中において示すこと。
・現実には主要な実践とは異なる潜在している対抗実践との抗争状態であること。
・支配的な実践は人間にとって不可欠の条件を拒否して存続しようとしているが、その条件は抹消できないものであること。
・それゆえ、目的に無理があり永続は困難である。公共空間を実在のものとしていく実践はあながち無理ではない

公共空間はどのようなものか

・ネオリベラリズムの均質空間と抗争的な関係にあるもの。
・耐え難いものの現れとしての行為とそれが隙間に創出するやりとりの空間をどれだけささいで脆弱的なものであっても支えていこうとすることが必要。来るべき公共空間の創出の試みはこれらのささいな空間の根底にある共有のものをみいだそうとするところからはじまる。




安西先生・・・・・園舎の設計が

ネタ古すぎですんません。

 園舎の設計がしたいです。

これまで、「お客様と未来の子供たちのために」をポリシーとして仕事をしてきました。

建築をつくるということは、子どもが育つ環境をつくることでもあります。

40代に突入し、子どもの環境をつくるということに対し、プロフェッショナルとしてより深く関わりたい、という思いが強くなってきました。

そういう思いでいろいろと考えているうちに、これまでこのブログで考えてきたことや、住宅等の仕事を通して培ってきたことが、学校施設のような管理のための園舎ではない、大きな家のような子どもの体験に寄り添う園舎、子どもたちが毎日の自分の成長にわくわくできるような園舎へと、そのままつながっていることに確信を持つようになってきました。
 
園長先生、きっと素敵な園舎を一緒につくりあげていけると思います。
一度、私に提案の機会を下さい。

なにとぞ、なにとぞよろしくお願い申し上げますっ m(_ _)m

園舎の設計に関わる記事をタグでまとめていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい↓↓↓
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:保育園・幼稚園・認定こども園・設計
(随時更新中)
 
 
 あっ、折り紙も折れますよー(^o^)
 園への折り紙巡回展なども受け付けております。

 ■オリケン│太田則宏折紙研究所

保育環境と出会う建築

ここからは余談です。

園舎とは関係なく、子どもの育つ環境と建築について考えていくうちに、大人の役割は子どもが人や物、歴史や文化等々、いろいろなものに多様に出会える豊かな環境(encounters)を用意することだと、考えるようになりました。

その考えを自分なりにまとめたものが、『Deliciousness / Encounters おいしい知覚 – 出会う建築』になります。

保育について学ぶうちに、この考え方が、最近の保育の分野での考え方とかなりの部分で重なっていることに、気づきました。

例えばこの論のベースとなった考えにアフォーダンスやオートポイエーシスがありますが、それは保育の環境構成の考え方に直結しています。

もしかしたら園舎の設計をするためにこれまでがあったのかも、なんて思います。

興味のある方はこちらもどうぞ。
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:アフォーダンス
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:オートポイエーシス
 
 
 
(この記事は先頭に固定表示しています。)




大空間のスケール/子どものスケール B206『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』(建築資料研究社)

建築設計資料
建築資料研究社 (2012/9/1)

接合金物を使ったKES工法による木造園舎21例(保育所15例、認定こども園3例、幼稚園2例、その他1例)を集めた資料集です。
保育所の例が多いのは、燃え代設計等による準耐火構造とすることによって木造の良さを活かしやすいからでしょう。(発行当時はまだ、認定こども園の実例が少なかったのかな)

大空間のスケール 子どものスケール

21例のプランをトレースしてみると、個人的に良いと思う事例とそうでない事例とは結構分かれる気がしました。

良いと思ったものは、プランや断面、構成要素の分節が上手く、大断面集成材による大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケール、と多様なスケールを感じられるものが多かったです。

KES構法は大空間や大開口がつくりやすい構法だと思いますが、それに引っ張られ、ただ大部屋を並べたような単純なプランであったり、スケール感が単調なものはあまり良いように感じませんでした。(小さな子どもが巨大な手掛かりの少ない空間に放り出されても、安心して遊びを展開し続けることは難しいでしょうし、逆に小さな空間だけでは活発な子どもの活動要求を満足させることは難しいでしょう。)

『11の子どもの家』では、久保健太氏が子供の育ちには自由に行き来できる濃淡のある空間が大切だと説いていますし、高山静子氏は『環境構成の理論と実践』で、環境には両義性(個と集団、静と動、緊張と弛緩、秩序と混沌、構造化と自由度、等々)があり、保育者は状況に応じたバランスを常に探す必要がある、と言っています。

そのために、スケール・場の多様性を、安全や使い勝手等を満たしながらどのように用意するか、というのは園舎設計の大きなテーマになるようにと思いますが、多様なスケールを展開するには木造は向いています。また、KES構法はそのスケールを木造としては比較的大きなものにまで拡げられる構法と言えるでしょう。それは園舎にとても向いている特質のように思います。

大人は大空間におおっ!となるかも知れませんし、一時的な利用であればそれで良いのかも知れません。しかし、園舎は子どもが日常的に過ごす場所です。子どもの日々の気持ちを受け止め、安心して遊び、挑戦できるような場であって欲しいと思いますが、そのために必要な事が少し見えてきたように思います。




K公民館耐震改修をアップしました

「これまでの実績」に「K公民館耐震改修」をアップしました。
オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » K公民館耐震改修




戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)

大寺聡 (著, イラスト), 井原慶一郎 (監修)
フィルムアート社 (2018/2/22)

土曜日に霧島アートの森で開催されている大寺さんの個展で購入。(個展は4/15まで。本書は展覧会の公式ガイドブックも兼ねているそうです。)
大寺聡展 Ohtematic 2018(オーテマティック ニイゼロイチハチ) | 霧島アートの森

大寺さんの展覧会に行ったのは2006年3月の「クロニクル展」が最初だったと思いますが、あれからもう12年。早いものです。

魅力的な線と面及びそれらの関係

僕にとっての大寺さんは、魅力的な線と面を操る憧れの存在
その線と面から生まれるキャラクターはどれも、今にも動き出しそうに活き活きとしていて、それらの関係による一枚の絵の世界は躍動感に溢れています。
建築もこんな風にそれぞれが活き活きとし、それらが集まった街が躍動感に溢れていればいいのに、と思わされます。

なぜ、こんなに活き活きと感じるのだろうか、どうしたら建築をもっと活き活きとさせられるのだろうか。いつも考えさせられるのですが、その中心には確かな技術とある種のフェテシズムがあるように思います。
大寺さんの個展では、そのエッセンスのほんの一部でも自分の中に感覚として残ってくれないかなー、という期待と、何かを胸に抱きながら技術を積み重ねればにここまでたどり着くことができる、という希望を胸に作品を眺めることが多いです。

虫自慢

今回の個展のテーマは「21世紀型の小さなくらし」で、これは大寺さんが自らの生活スタイルを通じて表現され続けていることでもありますが、今回は特に虫にスポットが当たっているようでした。
ohtematic.com : 虫自慢が多極分散型社会を作る

そう言えば、僕も小学生の頃は虫キチで、将来は昆虫ハウスを建てて虫と一緒に暮らしたい、というのがその頃の夢でした。
その中でも特に好きだったのが水生昆虫で、水の中に僕たちの窺い知れない独特の世界がある、というのがたまらなく魅力的でした。
水槽に置いたレンガに、狙い通りタイコウチが産卵し、そこからミニタイコウチがうじゃうじゃと出てきた瞬間が、僕の昆虫生活のハイライトだったように思います。(そう言えば、鹿児島ではタイコウチやミズカマキリを一度も見ていないような・・・)
そんな昆虫たちのつくる多様な世界をいくつも切り取って配置し、いつでも眺めることができるとしたらどんなにわくわくするだろう。そんな風に思っていた記憶があります。

子どものころに好きだった、昆虫・折り紙・工作・プログラミング・サッカーのうち、昆虫だけが今の自分に受け継がれていないのが不思議だったのですが、もしかしたら「昆虫ハウス」「小さな世界観を手にしたい」という感覚が少しねじれた形で今の仕事に受け継がれているのかも知れません。

戦い、あるいは精算という名のフェティシズム

先程、ある種のフェテシズムと書きましたが、個展や本書で改めて大寺さんの歴史やライフスタイル、主張や表現に触れて、宮崎で観た「人生フルーツ」のことを思い出しました。

onokennote: あっ、嫁さんの希望で「人生フルーツ」観に行ったんだった [2017/04/05]


onokennote: 自分自身はここで建築を続けるという選択肢と、屋久島で農業をするという選択肢があって、今は建築を続けるという選択をしてる。修一さんは、建築からリタイアして余生的に好きなことしてるんだろうな、と漠然と思っていた[2017/04/05]


onokennote: でも、多分違った。この暮らしは、理想が経済性という言葉に一旦敗退する、という経験を、その後一生かけて清算するための戦いだったんだと思う。そう思うと最後は出来過ぎなくらいの最後だったように思う。 [2017/04/05]


onokennote: 何かを清算するために一生をかけられる、というのは、善悪や良否とは関係なく一つの幸せなんだろうな、と思う。 [2017/04/05]


onokennote: 戦いという言い方はしっくりこないな。もっと自然なものだったように思うけれども、そんなに軽いものでもなかったように思う。
でも、あの生き方も修一さんのものであって、僕のものではないのは確か。 [2017/04/05]


僕には、津端さんの選んだライフスタイルは癒やしという言葉よりも戦いという言葉の方に近いように感じました。静かで穏やか、そして豊かであるという戦い。
同様に「何かの瞬間に出会ってしまった感情を清算するために一生をかけている」というような印象を、魅力的な人の多く(例えば、甑のケンタさんにも感じますし、大寺さんにも感じるように思います。

もしかしたら”出会ってしまった”ものはネガティブなものかも知れません。
でも、その出会い自体はダイヤの原石ののようなもので、かつ出会ったその人だけのものだと思います。それをしぶとくしぶとく磨き続けることができたとすれば、その人の魅力や、共有可能な価値を生み出すことに繋がるように思いますし、そうでないとしても、磨き続けること自体が尊く、世界に多様性を与えるものだと思います。

僕もたぶん、幸運にも(もしくは不幸にも)”出会ってしまった”一人なのだと思いますが、それをどう磨き続ければよいのか。
また、出会ってしまった大人として、次の世代の誰かが出会う機会をどうやれば残せるのか
大寺さんの作品はそんなことを問いかけてくるように思います。

案外、子供の頃夢見た昆虫ハウスにその答えがあったりするかもしれませんね・・・。
 
 
(※ 展覧会のガイドペーパー?には『虫に敬意を評し、虫からの情報をより多く得ることが、田舎暮らしの価値を高めると大寺は考えています。』とあります。その情報を解読してつくられるのが「昆虫ハウス」なのかもしれません。また、大寺さんにはこんな昆虫ハウスがあるよと教えて頂きました。)




コパンの看板つくりました。


コパンの看板つくりました。
詳細はこっちに書きました。




小松原公民館のあれこれ(3/3)

こまつばらカフェ、始まる

2月にあった、公民館での完成祝い、僕はインフルエンザでいけなかったのですが、その時に「せっかくの場所なので、なんかコーヒーでも飲みたいね」という話がでたみたいです。
そして、その二日後には、お試しカフェが開かれて、「月1くらいでやりましょう」という流れになってました。

関わった空間にこういうリアクションがあると嬉しいものですね。

その次のカフェには顔を出してみました。

看板も手作り。

いわゆるお茶飲み会。
普段会わないご近所さんと知り合うきっかけになったりするといいですね。

ベンチ・テーブルづくり

しばらく保留になっていた外構、よくやくお願いしていた芝張りと植木が終わったので、そこに予定通りDIYでベンチとテーブルをつくることにしました。

大工さんが古くてもう使わないから、と厚い木の板を2枚分けてくれたのですが、それを丁度よい長さに切ることに。

僕の持っている丸鋸は板の厚みの半分くらいまでしか届かないので、あとは子どもたちに手ノコで切るように頼んだのですが、丸鋸で切った部分がガイドになってちょうど良かったかも。

ギコギコ

ギコギコ かなり時間が掛かってましたがちゃんと切り終えてました。

コンクリートブロックを置いたところの芝をブロックに合わせてカットして貼りなおしてます。

重いテーブル板をどっこいしょと。ベンチ部分はコンクリートビスで軽く固定しましたが、テーブルは重さがあるので大丈夫でしょう。

そして、屋外用のニスをまた塗り塗り

塗り塗り

塗り塗り

うーん、いい感じでは。

ついでにベンチも塗り塗り

っと、なんとか完成!

子どもとのDIYとしてはうまくできたんじゃないでしょうか。
けっこう、座ってだべったり、コーヒーやお酒を飲みたくなるコーナーになったのでは。

楽しかった。かな

こんな感じで公民館に関わらせてもらってそこそこ大変でしたが、子どもたちが楽しんでくれたのが、なんだかんだ言って楽しかったですねー。

おしまい




小松原公民館のあれこれ(2/3)

DIYするぞー

公民館を改修するにあたって、「建物を強くする」と「建物をきれいにする」の他に、実は「建物に愛着を持つきっかけになる」ということをやらないと、あんまり意味がない、と思っていました。

工事前の会合などでは、あんまり欲張っても通らないだろうと思って、DIY等については「場合によってはこういうやり方もあるかも」と軽く触れるだけにして様子を見ていました。
現場が進むにつれて、やっぱりちゃんとやりたいなー、と思っていたところ、何人かのお父さんが、「せっかくなんで、前にいってたDIYやりましょうよー」と引っ張ってくれることに。

後で計画を修正できるように、ある程度試算をしていたので、

・DIY向きの材料を購入して、壁塗り、床塗りを子どもたちと一緒にすれば工事費も抑えられるし、子どもたちも良い経験になる。
・その浮いたお金で、予定外の外構にも手を入れられる。
・これからはできることは自分たちでやることが大事な時代になるし、未来の町内会を担う(かもしれない)子どもたちに愛着を持ってもらうことが必要では。

という感じで会長さんに相談してみると、会長さんもいろいろな人の目がある中、最初は「うまくできっどかい?」と消極的でしたが、最後は「若いもんでやってみれば」と後押ししてくれることになりました。

こんな感じでやるぞ、と。

材料が続々届く。

1日目 壁塗り

そして、DIYする週末の1日目。

午前中は、大人だけが集まって壁塗り前の養生から。

慣れないながらも丁寧に。

午後からは子どもたちも集まって、壁塗り開始。
塗り塗り。

塗り塗り。

塗り塗り。

終盤、飽きてきた子もいるし、このままでは終わらないということで、子どもには外に出てもらい、気合を入れて

大人だけで塗り塗り。

塗り塗り

と、何とか完了。うまく塗れたのではないでしょうか!

2日目 床塗り

2日目も、午前中は大人だけで集まってもらい、壁と床の養生を剥がすところから。

ぺりぺりっ

っと、養生剥がしも完了。

午後からは子どもたちも参戦して、蜜蝋ワックスをスポンジで

塗り塗り

塗り塗り

塗り塗り

っと、最後はみんなで集まってー

パチリ。

最後はおやつタイム!

片付けたところも、なかなかいいんじゃないでしょうか。

 
これは、子どもたちが興味を持つきっかけになれば、と前の日に模造紙に書いた「ここがスゴイよ!小松原公民館!」

一部の人からは好評でした。(子どもたちは見てくれたんだろうか)

つづく




小松原公民館のあれこれ(1/3)

ちょうど1年ほど前に、自宅兼事務所のある小松原の町内会長さんから、長い間懸案事項だった公民館の改修をしようと思うんだけど、と相談がありました。

それからいろいろとあって、なんとかとりあえず完成と言えるところまで来たので、小松原公民館のあれこれを記録として書いておきます。

現況を調査したら

もともと、公民館の外観はこんな感じ

で、内観はこんな感じ。

話を聞くと、半分は補助金が出るので、これまで溜めてきた会費と合わせて、内装と屋根を含めた外装をきれいにしたい、とのことでした。

概算見積書を見ると、せっかくの会費を使った結果「なんかきれいになったね」ということで終わりそうな予算配分。
あんまりでしゃばり過ぎないようにしよう、と思いながらも、「かなり古いし、災害時は地域の拠点になるべき場所なので、耐震補強に予算を割り振ることも考えた方が良いかも知れません。まずは現況を調べてみないと。」と、町内会の一員として関わる流れに。

窓が多く、耐震要素が少なそうだったので、まずは筋交いや金物を確認しようと小屋裏に潜ってみると、

あれっ、

なんか、絵に描いたような模範的洋小屋組が、

あるじゃないですか。

聞いてみると、この建物の躯体はかなり昔に農協だった建物から移築・再利用されたものらしい。

これを活かさない手はない、ということで、耐震補強のドサクサに紛れて小屋組を一部現しにする形で提案。

(1)建物を強くする。(壁の補強、屋根の軽量化)
(2)建物をきれいにする。(補強に伴い解体が必要な部分はきれいにする)

の2つを中心に優先順位を決めて予算内でできることをやりましょう、ということで計画を進めました。
見積もりをとった結果、予算内である程度のことはできそうだということで、そのまま工事に入ることに。
(実は(1)(2)とは別にやってみたいことと、それに対する秘策を隠し持っていましたがそれは次回)

これは既存の屋根を解体途中。今しか見れないけれども、このままにしたいような光景。

つづく