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レビュー04「建築の素材」 403architecture [dajiba]辻琢磨

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先日403architectureの辻さんを招いてのケンペケがあったので参加してきました。

自分なりに何か得るものがあったのでメモとして書いておきます。

メタとベタ、意識と行為

予習で意識していた二つの問い、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ04 予習

この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。

話の流れからこれらに関して直接的な答えが得られたわけではないのですが、この機会を通して強く感じたのは
(a)明確にそしてまっすぐに(旧来からある)概念的な建築やその歴史に対して向き合っている。
(b)辻さん自体が”働き”である。
の2点です。
この2つに対するバランス感覚と両者の濃密な関係性が辻さんのオリジナリティだと感じました。
これらは強引にメタとベタと位置づけられそうな気がしますが、明確に建築を志向していながら、そこから演繹的に計画を行うだけではなく、そこにある状況に対して応答するようなあり方が維持されているのが新鮮で、河本氏的に言えば抽象的で自由な意識と現実的で自在な行為およびそれらの応答関係のようなものが浮かび上がってきたように思います。

レクチャー形式の第一部ではメタ的な説明は最小限に抑えられながら、辻さんの活動が次々と紹介されたのですが、なかなか核心に触れられないと感じつつ、かえってそれによって働きとしての辻さんのあり方が浮かび上がってきたように感じました。
セッション形式の第二部では限られた時間ではあったものの、メタ的な視点に触れられながらメタとベタの関係性が多少なりとも浮かび上がったように思います。

メタとベタをどう関連付けるか

はじめは「建築をどのように捉えているのか」「流動的なネットワークに何をみているのか」といったメタの部分の考え方を知りたい、という気持ちが強かったのですが、途中から関心は「建築としての思考と働きとしてのあり方」をどうつなげているのか」という方向に関心が変わってきました。
自分の問題に引き寄せた時に、例えば働きとしてのあり方を進めようとした際、言い換えるとベタな行為に自分を埋め込んでいった時に、メタな思考というのはどう位置づけられて、どう設計に関わらせることができるだろう、というのがずっとモヤモヤとした疑問としてありました。埋没させればさせるほど密度は上がるかもしれないけれども、建築的な思考からは遠ざかるのではないか、ということを感じながらそれに対する明確なイメージを持てずにいました。(これは、予習での「「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。」という問いとも重なる気がします。)

第二部の終盤に出た「現場での瞬発力と議論はどういう関係か」というような質問とそれに対する応答が印象的だったのですが、403では「議論の積み上げ」と「現場等での応答」の2つが意識的に使い分けられているようです。
403の三人で可能性を排除していきながら、抽象のレベルで建築の強度を担保できるようなものが見つかるまで徹底的に議論を重ね、それを共有してから現場に出ることではじめて瞬発力がうまれる、というようなことが語られていました。
予習時に読んだ際には実感を伴って理解できなかった下記のテキスト

ちなみに、質疑でも答えさせていただいたが、私が考える建築のクオリティは、抽象的で計画的で演繹的な質と、具体的で現場主義的で帰納的な質との関係性によって決まる。その両者を関係付けさせる設計環境を用意することが何より重要である。それはほとんどそのまま、上記した言語と実体験の関係性と同義である。その環境を作る為の方法の一つが、言語や計画を生み出す場所(=設計事務所)と反応するべき現場(=プロジェクトサイト)を物理的に近づけるということであり、さらにその仕事のレイヤーに自らの生活のレイヤーを重ねることで一層両者の関係性は影響し合うだろうと私は考えている。しかしともかく私が彼らに伝えたかったのは、生活と設計と街と現場が一体となったような生き方についてである。(ARCH(K)INDY/博多/佐賀のこと : deline)

が、ようやく腑に落ちた感じがします。
メタとベタの話で言えば、あくまでもベタに振る舞いながら、そこで扱う素材の一つとしてメタを再配置することでメタをベタな働きの中に取りこんでいる、というように言えそうな気がします。そのように捉えることで、建築としての思考と働きとしてのあり方を連続したものにできないでしょうか。

僅かでもいいので新しい視点が発見できれば、と思いながら書いてみましたが、結局は引用したdelineの文章に全て含まれていた気がします。
しかし、自分にとってはそこが腑に落ちたのは結構大きいですし、それだけで今回のイベントに参加した意義がありました。

今の自分の課題は、
・メタ的な思考の精度を高めること
・働き的なあり方の密度をあげること
・両者を関係づける設計環境を用意すること
の3つかな。
いや、それ全部やん。




たこやき大学2015「メディアと共同体」メモ

先日年末恒例のたこ大があったのですが、予定が合いそうだったので忘年会のノリで参加してきました。

例年以上にモヤッとした感じでしたが、chanさんがうまくまとめて下さってました。おおまかな流れはこちらで。

たこやき大学の「もやっと」する授業ノートを大公開! | KagoshimaniaX

以下メモ。参加してない方には分かりにくいかもです。

メディアと共同体、個人の主体性と輪郭

マクルーハン/グーテンベルクを最初の起点にメディアの変遷から話題は多岐に渡ったのですが、自分なりに話を解釈するために横串を探しながら聞いていました。

・印刷技術と聴覚/視覚の変遷
 聴覚(印刷技術発明前、口伝的、私へ)→視覚(印刷技術発明、私から)→聴覚(ラジオやテレビ、私へ)→視覚(&聴覚)(テロップ、私から(&私へ))
 自分の場合、例えば音声による入力と視覚による入力を比較した時、視覚による情報の方が入力の精度が上がる気がします。
 音声の場合は時間の流れがコントロール出来ず受動的なのに比べて、テキスト情報の場合後戻りも含めて時間のコントロールが容易で能動的・主体的に振る舞いやすい。
 気になる動画があったとしても、テキスト化されたものを読んだり自分なりにテキストにまとめて反芻しないかぎりなかなか情報を捉えた実感まで辿りつけない気がします。
 テロップの頻発するテレビは音声とテキストの混合ですが、テロップの表示はある程度持続性があるので、その持続する時間の中に僅かではあっても主体性の入り込む余地が用意されていて、それがテレビをぼんやり眺めることの受動性と能動性の幅をつくりだして、視聴率もしくは視聴時間の増加を促しているのではないか。というのは一つの仮説。

・ものの価格
 定価(私へ)→一物一価の崩壊(私から)
 ものの価格そのものに対して主体性を見出すのは難しいかもしれないけれども、一物一価の崩壊によって選択の幅が広がり私が価格に関わる関係性の度合いは高まると言えそう。

・大量なものと情報へのアクセス可能性
 積読(選択(私から)と私の輪郭)
 大量の情報の中から主体的に選択して輪郭を生み出すことで一定の安心感が得られるのではないか。
 
いずれもメディアを介してのコミュニケーションという面は共通しているかもしれないけれども、そのベクトルの向きが私へと私からのどちらの割合が大きいかは違ってくるように思います。
一物一価の崩壊とテロップの時期の重なりによる共通点がなかなか見つからなかったのですが、そのベクトルやそれに対する欲求の変化と考えると串が通る気がしました。
ちょうど建築に関して「漂うモダニズム」という論考に関連する本を読んでいるところですが、一般的な問題としても大量のものや情報の大海原の中をどう生き抜くかというのがあるよう思います。
おおきな乗るべき船が見えなくなったその時に、一定の主体性や私の輪郭を求める、というのは人間の欲求としてあるように思います。

メディアと共同体というテーマに帰ってみます。
途中、サーカーチームがメディアになると宣言するようなことが紹介されました。
先の話で言えば、メディアの役割のベクトルも「私へ」と「私から」の間で揺らいでいると思うのですが、この宣言はどちらも担う存在になるということかもしれません。
それは私の主体性や輪郭を求める個々の欲求を媒介する役割を担おうとするもので、そこから浮かび上がる共同体は、「私へ」を受け止める個々の集合から、「私から」を求める個々の集合もしくはそれらの混合へと変わり、そこから産まれる私の輪郭の質も変わってくるのかもしれません。共同体をつなぐ糸の質がメディアと時代性によって変わるとも言えそうです。
いじるのが下手、という話も出ましたが、個が「私へ」を求める割合がまだ多いだけでなく、メディアとなる存在が「私から」を受け止める準備が出来ていないことにも原因があるのかなと思いました。時代の流れや潜在的な意識も含めたそれらのミスマッチがつなぐ糸の成長を阻害しているのかもしれません。

最後に、個性というものも話題に上がりましたが、「個性とはメディアに過ぎない」と言ってみるといいような気がします。
何かいいこと言ってそうな雰囲気も出ますし、おすし。




生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他)

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2013/6/29)

以前3回にわたって感想を書いた『知の生態学的転回』の第1巻。

先にこのシリーズ3巻の部構成を引用しておく。

1 身体:環境とのエンカウンター
序章 意図・空気・場所――身体の生態学的転回
第I部 発達と身体システム
第II部 生態学的情報の探求
第III部 生態心理学の哲学的源流と展開
終章 魂の科学としての身体論――身身問題のために

2 技術:身体を取り囲む人工環境
序章 知覚・技術・環境――技術論の生態学的転回
第I部 環境に住まう
第II部 アフォーダンスを設計する
第III部 21世紀の技術哲学
終章 技術の哲学と〈人間中心的〉デザイン

3 倫理:人類のアフォーダンス
序章 海洋・回復・倫理――ウェザー・ワールドでの道徳実践
第I部 生態学的コミュニケーション
第II部 人間のアフォーダンス
第III部 社会的アフォーダンス
終章 可能性を尽くす楽しみ,可能性が広がる喜び――倫理としての生態心理学
[座談会] エコロジカルターンへの/からの道

2の技術は人が環境との関わりの中から技術がどのようなあり方であるかが書かれていたように思うが、今回はその前段階として発達や進化、意識といった人と環境との関わり、認知や知覚について書かれていたように思う。そして、第3巻は複数の人によって構成される社会へと射程が拡がっていくようだ。

心身二元論と環境との境界を超えたイメージ

知覚について多くの人は、環境から刺激を受け取り、それを脳が処理し、その結果行為が行われる、また、発達などは予めプログラムされた結果である、というようなコンピューターや機械に似たイメージを持っていると思う。
この巻の「転回」はそのイメージからの脱却することにある

そのイメージをここで説明するのは難しいし専門ではないので正確に捉えられている自信はない。
それでも書いてみると、動物が能動的に環境に働きかけ探索しながら情報をピックアップしていく過程で、身体と環境、行為と知覚が同時に進みながら新たな行為と知覚が紡がれていくというようなイメージだ。その基盤は環境と身体に埋め込まれている。どのような行為に繋がるかは予め厳密に決められているというよりはその都度発見されていくような動的なシステムなのだと思う。

そこではデカルト以来の心身二元論と環境との境界が超えられている。(そして、もしそれがより可能性のある考え方だとすると、デカルト的心身二元論に基づいた今の教育は少し古臭い気もするし、固定的なイメージを植え付けているという点で罪悪ですらある気もする。)

子どもと生き物に関する番組をよく見るが、どうしてそのように振る舞えるのか不思議に思うことが多い。
例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。
アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)

しかし(この本で本能については書かれていなかったが)仮にそのような生態の基盤が環境と身体と欲求の中に埋め込まれていると考えると何かしっくり来た。例えば、アリに育てられているチョウの幼虫という環境が存在し、その幼虫を感知するような身体を備えたハチが、そこに卵を産みたいという欲求を持つとすると、本能によって緻密にプログラミングされていなくともこういった複雑な生態が成り立つような気がした。そのハチにとっての意味が環境自体に備わっていると言えるが、それは異なる生態にとっては異なる意味となる。さらに、身体に含まれる自由度が環境の変化によって異なる関わり方を生み出すこともあるだろうし、それが進化と繋がることもあるだろう。(選択交配とは異なる進化の可能性もこの本で触れられていた。)

少し脱線したが何が書きたかったかというと、知覚や行為において環境と身体の境界は曖昧でダイナミックな関係にあるということである。その「転回」の面白さはデカルト以降の科学感が染みこんだ頭ではすぐに見失ってしまうのだけども。

設計との関連

さて、これらの「転回」は設計とどのような関連があるだろうか。言い換えると設計にどのような「転回」が起こりうるだろうか。
大まかなイメージは掴めつつあるのだが具合的に設計に落としこむところまで行けていないのでもう少しイメージの精度を高めていく必要がありそうだ。

以前書いた技術に関することと一部重複するかもしれないが、整理するために今回の本に関連して思いつくことを列挙しておきたい。

・隈研吾のオノマトペ
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B183 『隈研吾 オノマトペ 建築』

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。

この二面角の定義では、二つの面の配置が私たちにアフォードすることが述べられている。『生態学的知覚論』で挙げられた面の配置の用語は、そのリストアップと定義の方法が今ひとつ不明瞭であるものの、確かに言えるのは生態幾何学の用語が知覚-行為にとって意味のあるレベルで環境を記述する可能性を持っているということである。(本書p77)

一つはギブソンの生態幾何学的な環境の捉え方をそのまま建築の形態へと翻訳することで、隈さんのオノマトペはそれを実践したものであると言えそうだ。
また、スタッフにオノマトペの曖昧な言葉を投げかける設計手法は生態的な探索過程の実践的置き換えと言えるだろう。

ギブソンの『生態学的知覚論』は専門的な実験過程が詳細に書かれていて読むにはかなり大変だろうと予想していたため後回しにしていたけれども、思い切って購入してみると思っていたより遥かに読みやすそうなので一度じっくり見てみようかと思う。(こんなことならもっと早く読むべきだった。)
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B177 『小さな矢印の群れ』

隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。 例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。 隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。 四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。 実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。

直接的に探索モードの場、というイメージを空間に重ねることも生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳することに繋がるかもしれない

・地形のような建築

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

だいぶ前に書いた地形のような建築は、(私)との関係性を保てることが一つの特徴だと考えていたのだが、これは言い換えると探索の余地、もしくは身体と環境、行為と知覚が動的な生態学的関係を結べる余地とでも言えるだろう。

・塚本由晴のふるまいと実践状態

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略) 詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。( 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(『WindowScape 窓のふるまい学』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape 窓のふるまい学』)

塚本さんのふるまいや実践状態という言葉にも生態学的関係への意志が見てとれるモノとヒトに対する眼差しの精度を高めることによって生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導いていくことができるはずだ。島田陽さんの建築の部分を家具的に扱うこともこれに関連するように思う。

・ニューカラー的な建築

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。 設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

関り合いによって初めて建築として立ち現われるものをイメージすることも生態学的関係を志向することなるように思う。それは隈さんのいう反オブジェクトとも重なるし、そのためにそのイメージを維持し続ける必要があるだろう。

・分かることへの距離感を保つ

他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B173 『考えること、建築すること、生きること』)

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。 寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

分かることへの距離感も保ち続けること、少年のモードを維持し自在な建築を目指すことはおそらく生態学的関係を開くことへと繋がるように思う。

・設計プロセスの工夫

なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』)

動的で生態学的関係を考える際には必ず藤村さんが頭に浮かぶのだが、そのプロセスにはそのような関係の発生が埋め込まれている。(そして、その部分で氏の「建築」に可能性を感じている。)
しかし、まだしっくりとした自分なりのプロセスの設計ができていないというのが現状である。
クライアントや環境、その他与件に対して探索と応答を繰り返す普通の設計を誠実にこなせばいいとも思うのだが、その精度を高める工夫は必要だろう。

・都市的な目線
現状、自分に最も不足しているのが都市的な視点であるように思う。これまで書いたことは主に建築の空間をイメージしているが、生態学的関係を都市へと開いていくようなことは可能だと思うしそれによってまちなみはより楽しく豊かなものになるだろう。
そのために長谷川豪さんの建築内部と都市を貫くような視点を持つことも必要だろうし、実践状態が街を行く人に感じられるような表出の仕方も考える必要があるだろう。

まとめ

まとめると、
生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳したり、モノへの眼差しの精度を高めながら生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導きつつ、分かったことなったり建築がオブジェクトになることを避ける姿勢を維持しながらそれらを実現できるプロセスを考え、更にはその視線を都市へと拡張していく。
となるだろうか。

また、生態学的関係を開く上で関連があると思われるが、まだ明確な言葉にできていないことを課題という意味も含めて挙げておく。

・「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ03「建築の領域」中田製作所)

「建てること(つくること)」の中にも生態学的関係への可能性があるように思う。

・既知の中の未知との出会いのセッティング

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

既知の中の未知との出会いをセッティングすることは高度な手法であるかもしれないが、それゆえに精度高く生態学的関係を開くことができるように思う。

・内発的制約と熟達化

ストリートダンスの熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得し、同時に多様で洗練された表現への自由を獲得することであるといえる。(本書p125)

リズムに合わせて膝をダウン又はアップさせる実験では、テンポを早くすると非熟練者はアップ課題においても意に反してダウン動作になってしまうそうだ。「熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得」することであるという指摘は当たり前のように思える。しかし、それが力任せなものではなく、人と環境との関係の精度を高めることで冗長性と自由度を獲得するという点で新鮮に映った(イチローのバッティングが頭に浮かんだ。)。では、設計や空間における熟達化とはどのようなものだろうか。何が内発的制約となり、そこから自由になることでどう変わり得るだろうか。




ケンペケ04 予習

12月のケンペケに辻琢磨さんにお越しいただく予定なのですが、そのための予習として現時点で考えたことをまとめておきたいと思います。

「建物」と「建築」の分断を乗り越える。

一言でいうとすれば、私は建築を流動状態として捉えている。(中略)「物が動く」流動の途中として建築概念を捉え直すと、新築も解体も改修も減築もすべて同じ建築行為として並列化される。(辻琢磨『応答 漂うモダニズム』2015)

このごろ「建築」と「建物」を再定義し、「建築」の役割・使命のようなものを捉え直してみたい、という思いが強くなっている。

だいぶ前に女性脳と男性脳の本を読んでから「建物」と「建築」も男性・女性と同様にどちらが正しいということではなくそれぞれのあり方に必然性がある異なるものと捉えられるのでは、と思い始めた。
例えば、

「建物」・・・女性的。”今ここ””私たち”の共感とそれに伴うデータベース構築(共感の引出し強化)を志向するもの。

「建築」・・・男性的。空間・時間・身体・意識等さまざまなレイヤーにおいてなるべく遠くへ到達させようとする、いわゆる遠投力を志向するもの。

というように分けられるとする。
最近まで「建物」は近代化・工業化・合理化にともなって画一化された(多くは、「建築」の側からとるに足らないとみなされるような)共感をベースにしたもの、「建築」に成りそこねたものとしてみなされてきたように思う。”今ここ””私たち”の範囲は狭く限定的でデータベースは貧弱、およそ魅力的に思えないもの、というイメージである。

しかし、情報技術の発達と浸透に伴い”今ここ””私たち”の範囲は拡がり、データベースも強化され、共感の力が無視できないものになるに従って「建物」が勢力を増し社会的な意味を持つようになってきている。また、それに伴い「建築」が相対的に意味や力を失いつつあるように見えるようになってきたように思える。

「建物」が意味あるものになってきたということで、それは好ましいことだと思うのだが、分断が顕在化しつつある「建物」と「建築」は本来補い合うべきものであるとすれば、「建物」の役割と同時に「建築」の役割にも意識的であるべきなのではと思っている。

そういった中、403 architectureの活動は共感とネットワークをベースにそれまでの「建物」にアプローチしていながら、同時に「建築」としてのあり方にも手を届かせているように思う。(吉岡賞の受賞がそれを物語っている。)

それは、最初の引用文のように建築を捉え直し、「建物」と「建築」を相対化・並列化することによってなされたように思うし、そこには、最近課題だと感じつつある「建物」と「建築」の分断を乗り越えるためのヒントが隠されているように思う。

働きとしての「建築」

建築を捉え直すという行為があるということは、建築を志向するという意志が存在していると思う。
ここで一番知りたいと思ったのは、その建築という言葉から何を目指そうとしているか、ということで、その部分がまだ掴めきれない。

私が2010年にオートポイエーシスを参考にブログに拙い文章を書いた時に、twitter上で興味を示されたことが印象として強く残っているのだが、先の引用文を読んでそのことが思い出された。
「建築を流動状態として捉えている」という時に、それがその結果を指すのか、状態そのものを指すのか、少しイメージしにくいと思うのだが、建築をモノとしてではなく、モノを構成素とするオートポイエーシス・システムのように(そこからの派生物や流動している状態も含めた)働きそのもののことを指しているのでは、と思うと少しイメージしやすい気がした。

そうであるとするならば、建築を志向するということには、その働きそのものの存在を志向しているということになると思うのだが、そこにどんな思いが込められ、どんな未来がイメージされているのだろうか。

現時点での私の課題

この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。

参考(ごく個人的なやりとりのメモです。昔のツイートを引っ張り出してきて申し訳ないのですが、自分の関心の発端なので。)
ケンペケ 辻さん 予習用2 – Togetterまとめ
ケンペケ 辻さん予習用 – Togetterまとめ




建築の自立について

twiiterで知り合って以前から一度お会いしたいと思っていた高知の建築士の方が鹿児島に来られるということで週末に鹿児島を案内させて頂いた。その時にブログを再開したと聞いたのでそれを読んだり、本人とお話させていただいた中で考えたことを書いておきたい。

以前、氏のブログを読んで

とりあえず、「建築、お前自立しろ。社会性なんてそこからしか生まれないぜ」と言ってみる。とりあえず。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「建築の社会性」ってなんだろう)

と書いたように建築が自立しているとはどういうことか考えてみたいと思っていたのだが、、氏のブログの続きを読んでみると自立ということがテーマになっているようで参考になった。

建築の自立と矛盾

建築について:丹下健三について03「丹下健三は瀬戸内に何を残したのか」

自律した秩序や形式を持ちながら、その場所に根付き、そして静かに「誇り」をみんなに植え付けていく。そういう相反したものを結びつける丹下建築だからこそ、このように芳醇な空間と時間をつくり得ることができたのだろう。
だから僕は「丹下健三は瀬戸内に何を残したのか」という問いに対しては、このように答えたい。 その場に根ざすことによって静かに醸成された「誇り」と、自律し超越性と矛盾を孕み、いつまでも定点を与えない秩序だ、と。

詳しくは引用元の本文を読んでいただくとして、建築が自立することにはそれ自体だけではない何かが必要な気がした。
では、建築が自立している、と言えるためには何が必要なのだろうか。

ここで出てきた「矛盾」は、坂本一成が「人間に活気をもたらす」ために「象徴」を成立させようとし、そのために定着と違反を同時に用いることにも通じるように思う。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B170 『建築に内在する言葉』
丹下健三が残したものがそうであるためには矛盾のようなものが不可欠であったのではないか。さらに言えば、矛盾のようなものは自立と並走すると言うより、目指すべき自立の成立には不可欠なもの、自立の一条件と捉えたほうがしっくり来るような気がする。

また、鹿児島を案内する際、氏とともに廻った建築のうち稲盛会館となのはな館で感じたこともヒントになるような気がした。

建築の自立と他者

稲盛会館はその執念ともいえる仕事を見ると「誇り」を根付かせるのに十分なもののように思えるが、私個人の感覚ではそのような存在になっているように感じない。
なぜそうなのかと考えてみると、一つの原因はこの建築の建ち方にあるのではという気がした。この建物は交通量の多い通りの角に面していながら、鹿児島大学が管理する敷地内に囲われるように建っており、利用されていない多くの時間は周りに人気がない。近くを通っても心的な距離をどうしても感じてしまいそこから何かを感じ取ることを遮られているように感じる。
これは周りから切れているということで自立に近づいているようにも思えるが、そこで感じるのは「自立」ではなく「孤立」に近い。
これが仮に(用途上建物内部は難しいとしても)会館の周りだけでも周辺に対してオープンになっており、そこに何らかの人の気配やそれを見るものと同時に流れている時間や空気を感じられたとしたら人々にとってまた違った存在になれたのではないか、という気がする。
庁舎と違い管理上の問題があるのは分かるが「誇り」の素養を持っているがためどうしてももったいないと感じてしまった。
「孤立」ではなく「自立」しているということは他者から切り離されることではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つものであるのではないだろうか。とすると、建築の自立を考える際にも他者との関係性を考えることは必須であるように思う。

建築の自立と時間

なのはな館は初めて実際に訪れた時に何か自分の身体にフィットするような居心地の良さを感じ(雑誌で見た第一印象とは逆に)個人的には好きな建物であったが、管理費の問題等で一部を残し運営がストップしていた。(さらに、今後本館と体育館以外が解体され県から市へと譲渡されるようである。)
これは他者との関係を継続できなかったため自立することができなくなったとも言えそうだが、運営がストップした後に訪れると、周囲の草木が生い茂る中静かに佇む建物と、そこで遊ぶ子供たちやゲートボールをしている老人たち、散歩している人々が妙にしっくり来て、皮肉にも廃墟のような存在になることで人々の生活の中の風景になっているように感じた。(ただ、当日は残念ながら国文祭の会場になっていたからか草木が綺麗に刈り取られていてただ寂しい風景になっていた)
もちろん巨額のお金を注ぎこんで維持できない建物を建ててしまった責任はあると思うのだが、このまま何十年と時間を経ることできっとさらに風景として人々の生活や記憶になじみ、自立した存在となれるのではという気がする。それは機能という意味とは異なった視点でこの建築が力を持っているからだと思う。(なので、個人的には耐久性がなく管理の必要な部分のみ解体し、コンクリートなどの部分は残し風景として生かしてくれれば軍艦島のように価値が後からついてくるのではと思っている。)

再び氏のブログより

僕は建築というのは本来、時間を超える普遍性、あるいは超越性のようなものを持っていると思っていて、そこで建築は単純に発注者の要望であるとか、経済性や構造的な整合性だけから導かれるものではないもので成立していて、だからこその普遍性・超越性なんだと思うんだけど、まさにこの建築からはそれらを感じるのである。そしてこれは建築家の恣意性からは一番遠い建築の現れである。誰に媚びるのでもなく、ただ自立した建築。時間を超える建築にはそういう特徴があるのかもしれない。(建築について:「津山文化センター」時間を超える普遍性、あるいは超越性)

最近よく思うことがある。形の珍しさや端正さというのはインパクトはあるけれど、美しさの耐久性というのもは薄いのかもしれない。端正さや洗練された形態も究極的なところまでいけば充分時間を超える強度を持ちえるのだろうけど、中途半端なものはあっという間に消費されてしまう。しかしその中でもこの建築をはじめとして、菊竹氏の建築には消費されない建築の力強さがあるように思う。この違いは何なのだろう。(建築について:強度のある建築のかたちについて)

名建築とされる建築が次々と解体されている現状を見るとどうしても、建築の時間、というものを考えざるを得ない。そのことと他者との関係性を含めた自立ということは深く関わっているように思う。
そう考えると、当たり前のようだが物理的・経済的・機能的な耐久性、さらには愛着のような心理的な耐久性というものも建築が自立するために必要なのかもしれない

住宅の自立

翻って、自分が多く直面している住宅について考えてみる。
今のような核家族が一代で建てるような住宅では、予算にも限りがあるし、数十年後誰がどのように使っているかは分からない。100年後の姿はリアリティを持ってイメージすることはなかなか難しい。氏は住宅の重要な条件として「死を見送れること」と言われたが、現状ではそこですらイメージが困難である、と言うのが正直なところである。(だから、公共建築のように大きなスケールで時間を考えられるのが羨ましくもある。)

そのような住宅のスケールにおいて、自立・他者・時間のようなものはどう考えられるだろうか。

5年前に行った模型展でのトークイベントの音声を聞き返してみたのだが、その時も「家がそこに住む人に従属するものではなく並列の関係になれたらいい」というようなことを言っていた。今回の言葉で言えばこの時から自立ということについて考えてきたように思う。
住宅の100年後をイメージすることは難しい。だけど、住宅スケールの時間であってもその時間が公共的な時間の質を持ち、そこに住む人や周囲の人に対して生活とその背景となる風景、そして記憶のようなものを提供できるとすればその役割を果たせたと言えるのではないかと考えている。
そうであれば、たとえ住む人や建物の用途が変わったとしても永く使われるかもしれないし、多くの建物がそのように存在していればきっとその場所は豊かな場所になるように思う。

そのためにも、建築もしくは住宅が自立するためにはどうすればいいかを考え続ける必要があるように思う。




物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾)

隈 研吾 (著)
エクスナレッジ (2015/9/19)

隈さんの本やアフォーダンスの本は時々読んでいる。
けれども、アフォーダンスで環境を読み込み設計を行うプロセスに関するものは何度か目にしているが、環境となる建築そのものの現れに関する具体的な事例はあまり見たことがないように思う。

足がかりとしてのオノマトペ

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。
そこにアフォーダンス的な知覚、身体、体験といったものの感覚を載せることでモノと人との関係を調整しているように思われるが、その感覚を載せられる(体験を共有・拡張できる)という点にこそオノマトペの利点があるように感じた。

出来上がった作品や手法を見ると一見モダニズム以降の定番のもののようにも思えるが、そういった視点で眺めるとオブジェクト・形態を設計するのではなく体験を設計しているという点で根本的な違いがあるように思えてくる。
いや、モダニズムでも体験は重要な要素であったかもしれない。では、違いはどこにあるのだろうか

物質を経験的に扱う

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。
モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。

人と物質との関係を表す圧力

本書では圧力という言葉が何度も出てきているが、オブジェクトとそれぞれのオノマトペから受ける印象を、人と物質との関係(圧力)という視点で漫画にするとこんな感じだろうか。

onomatope

翻って、自分がよく直面する予算の厳しい小さな住宅ではこれをどのように活かせるだろうか
ここにある多くの手法は予算的に難しいように思うが、反面、身体的なスケールに近いため注意深くオブジェクトになることを避けることで関係性を築きやすいような気もする。
そのためには自分なりのスケールに適合したオノマトペのようなものを見つける必要があるのかもしれない。

心地よさと恐怖感

また、写真を眺めていると、建築が自然のような環境としてではなく、ガイア的な生命をまとっているもののように見えてくる瞬間があった。そこでは何か、野生の生存競争に投げ込まれたような恐怖を感じた。
それは、写真を見ただけで実際に体験していないからかもしれないし、建築をオブジェクトとして捉えることが染み付いているからかもしれないし、アフォーダンス的な何かが生存に関わるなまった感覚を刺激したからかもしれない。(見る時で感じる時とそうでない時があるので体調にもよるかもしれない)
大きなスケールの場合、もっと環境そのものと同化するような工夫がいるような気もするし、なまった感覚の方に問題があるような気もする。この辺のことはよく分からなくなってしまったので一度体験して見る必要がありそうだ。




振り返り

過去のブログを振り返り、次への問いを抽出するためのメモ

『ケンペケ03「建築の領域」中田製作所』

ここでの大きな問いは『「建てること」と「住まうこと」の分断をどう乗り越え、それによって住まうことの中に建てることを取り戻すか?』

それに対して、1.(施主を)直接的に「建てること」に巻き込む。2.(職人の)「建てること」の技術に光を当てて住まう人の建てることを代弁させる。3.(設計によって)「建てること」と「住まうこと」を貫く。の3つを挙げた。

1に対しての問いは単純だけど「どの部分をどうやって巻き込むか?それによって何を得られるか?」

2に対しては「どのような技術が住まう人の建てることを代弁しうるか?」

3に対しては「具体的にどのようになれば設計によってそれらの分断を乗り越えられたといえるか?」

また、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っている気がするのだけど「どのような場合に「住まうこと」を貶めたことになるか?その逆は?」

これらを通して、また、最近よく考えることとして「どのような『つくり方』をすれば「建てること」と「住まうこと」の分断を乗り越えられるか?」というような問いがとりあえずは浮かんだ。

さっきの3つは最初に意図してたわけではないけれども、施主・施工・設計にそれぞれ対応してた。それぞれが「建てること」から離れてしまっているのかも。どれか、というよりそれぞれバランスよく対応できるような作り方が理想的なのかな。

昔はこれらは混然一体としたものだったのかも。これらの分断をどう乗り越えるのか、という問いと近いのかもしれない。

井出さんの写真見てると職人的技術とそれに頼りきらない際の設計者的技術があってそれぞれ届けられるものが違うのかもしれない、という気がする。技術そのものによって結果を見せるか、思考によってプロセスを見せるか。手の代弁者か頭の代弁者か。

tweet 11/23-05/16

男子脳・女性脳の流れから女性能的なおしゃべり=価値観の共有・われわれのリアリティが力を持ち出してる→「建築」なんていらなくね?→「建築」は時間・空間・概念的な遠投力を思考するもので男性的→建築が弱くなってきているというより「建物」が豊かになって来ているということでは。

この時「建築を志向する」ということの意義・役割とは何か?「建物」との関係をどう定義できるか?(この辺の自覚が重要になってきているのでは)

続いて、小さな風景の魅力は前状況と後状況の混在、もしくは多層的な状況にあるのでは。前状況のみの単調なものがパズルを解いただけ感につながってるのでは。「状況のレイアウト」を操作するという意識を持つことで豊かさにつなげられないか。

この時、その状況はどのような要素で捉えられるか?(時間軸・関与軸・動静軸など?)また、先ほどの「建築」「建物」の定義付けが出来たとしてそれらの混ざり具合のようなものとして捉えることができないか?それによって空間的な意味でリノベ・新築の分断のようなものを乗り越えられないか?

こないだの「住まうことの」の本質に含まれるべき住まう人の「建てること」において、施工は手を、設計は頭を代弁している(するべき)、というように思ったのだけれども、「建物」が単純な「住まうこと」に直結しているとして、「建築」は(「建物」に欠落している)何を代弁している、と言えるだろうか。

B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

3人を少年のモードを維持している実例が示される。そレによる端的な問いは「どうすれば自分が少年のモードを維持できるか」

3人のキーワードだけ列挙すると
【寺田寅彦/不思議のさなかを生きる】説明し分かったことにしない多様な現象を見る眼・問いの宙吊り・アナロジー/原型的直感・像的思考
【マティス/身の丈を一歩超え続ける】快と装飾・強度・存在の現実性・想起/再組織化・佇む・経験の拡張
【坂口安吾/成熟しないシステム】無きに如かざる精神の逆転・人為を超えたさらに一歩先・成熟もなく老いることもない・あっけらかんとした情感・一生束の間の少年

ここから自分にとっての方法論は世に問うというようなおおげさなものではなく自分の経験と建築を前に進めるための態度のようなものではないか。手法に焦点を当てるのではなく「どのような働きの中に身を置くか」を実現するためのものではないか。

では、そのような働きの中に身を置くために、障壁となっているものは何か、そのために具体的にどのような方法が考えられるか。




折り紙を展示させていただくことになりました。

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しばらく前からはまっていた折り紙。ひょんなことから展示させていただくことになりました。

場所:山形屋中4階 What
期間:10/7-20

170体ほどのいきもの大行進、なかなかの迫力になったと思います。
殆どは他の作家さんの作品を折ったものですし、しょせんは個人的な趣味でやってることなので、あー楽しんでやってるな、と思って頂ければ幸いです。

全てハサミを使わないで正方形の紙一枚から折っているのですが、どうやったらそんなことができるんだろう、と不思議な感じです。自分で折っておきながらあれですが。

興味のある方は是非いらして下さい。




SDGO 川内の家

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川内の細長い敷地に建つ家。
ファーストプレゼン後の要望を反映させながら修正案を検討中。
最後の一押しをなんとか探し当てたい。

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KIGS 写真アップ

KIGSの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




MKGT 南郡元の小さな家

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14坪に満たない小さな敷地の15坪ほどの小さな住宅の計画。

これまでで一番小さな建物ですが、狭さを感じさせないかわいい家になりそうです。

CG及び模型はファーストプレゼン時のものですが、基本的な構成は変わらずに進められそうです。

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ワイン食堂USUKIYA オープン!

泉町で工事をしていたワイン食堂USUKIYAが本日プレオープンで明日より開店します。

ワイン食堂 USUKIYA
 鹿児島市泉町11-8-1F
 Tel/Fax 099-295-0317
 Lunch 11:30-15:00(L.O.14:00)
 Dinner 18:00-23:00(L.O.22:00)

N.3.建設さんの協力もあり、なんとか開店まで漕ぎ着けることが出来ました。
この物件も自分達で壁を塗ったり、木部を塗ったりで大変でしたが、いい感じでリラックスできる場所になったかと思います。

ランチもやるそうなので(6月は週末のみランチ)天文館近辺にお越しの際は是非ご利用下さい。

写真は実績のページにアップしています。外観は天気を見て後日。




ケンペケ03「建築の領域」中田製作所

6/6に中田製作所のお二人を招いてのケンペケがあったので参加してきました。
今回はレクチャー1時間前から飲み始めてOKというプログラムで、なおかつ公式レビューは学生さんたちの担当だったので気楽な気持ちで飲みながら参加。
(体調不良もあったのですが、雰囲気が良くて飲み過ぎてしまい早々にダウン気味に。いろいろお聞きしたかったのにちょっともったいないことをした・・・)

公式レビューは近々学生さんたちからアップされると思います。なので、あまり被らないようにイベントの感想というよりは自分の興味の範囲で考えたことを簡単に書いておきたいと思います。(と書きながらめっちゃ長くなった・・・)

「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。そして、その視点から中田製作所、HandiHouse Projectの取り組みには以前から興味を持っていました。

このブログやフェイスブックで何度か書いているので重複する部分も多いですが再び整理してみようと思います。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が分断されている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものとして成立していて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている。また、その分断化には「所有すること」の意識が強くなったことも寄与していると思います。

先の引用のように、建てることと分断された住まうことは、住まうことの本質の一部しか生きられないのだとすれば、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるか、と言うのが命題になると思います。
ただ、私の場合はあくまでそこに住まう人にとっての本来的な「住まうこと」、言い換えればリアリティのようなものを取り戻したい、というのが根本にあります。ただ「建てること」を取り戻したい、のではなく「住まうこと」を取り戻したい。よって、そのために「建てること」を「住まうこと」の中に取り戻したい。という順序であるということには意識的である必要があると思っています。

では、どのようにすれば「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができるでしょうか。

これまで考えたり今回のイベントを通して考えた限りでは3つのアプローチが思い浮かびます。

1.直接的に「建てること(つくること)」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「建てること(つくること)」に巻き込むことによって「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す方法があるかと思います。中田製作所のアプローチはこれに近いかもしれません。
これはそのまんま建てることを経験するので効果は高いと思うし、その後の効果の持続も期待できるように思います。
原因となる分業化のタテの構造そのものを並列に転換するようなアプローチですが、建てることの中にいろいろな住む人と並列した存在が入り乱れるような状態が生まれ、それによって「所有すること」の意識も解きほぐれるような気もします。(たぶん、それによって違う展開が可能な気もしますがとりあえず置いておきます。)

2.「建てること(つくること)」の技術に光を当てる

住まう人が直接つくることに関わらない限り、この分断は乗り越えられないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば建てる(つくる)行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置する、という行為になってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこではまだつかうこととつくることの間の連続性は保たれていたのだと思いますし、その連続性の中に職人の存在する意義があった(つかう人に「つくること」を届けることが出来た)のだと思うのです。

ですが、工業化された商品を配置するという行為だけではつかう人のつくるという行為を職人が代弁することは困難ですし、それではつかうこととつくることの連続性における職人の存在意義は失われてしまいます。職人が職人でいられなくなると言ってもいいかもしれません。

ここで、1のセルフリノベのようなことが職人の居場所を奪わないか、また技術をどう継承するか、といった疑問が浮かんできますが、私は必ずしも相反するものではないと思っています。
セルフリノベ自体は「つかうこと」と「つくること」の連続性とそこで生まれる喜びを人々の中に取り戻すことができる一つの方法だと思います。
だとすれば、セルフリノベのようなことによって先ほど書いたような職人の存在意義が浮かび上がってくる可能性があるように思いますし、対立ではなく同じ方向を向くことでお互いの価値を高め合うことができる気がします。
セルフリノベによって浮いた予算を職人の技術にまわすような共存の仕方もあるかもしれない。

ここで、どのような技術がつかう人のつくるという行為を代弁しうるか、というのはなかなか捉えにくいように思いますが、その技術に内在する手の跡や思考の跡、技術そのものの歴史などがおそらくつかう人のつくるという行為を代弁するのではという気がします。
そういう代弁しうる技術があるのだとすれば、そういう「建てること(つくること)」の技術に光を当てることが、「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことにつながるように思います。

3.「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く

もう一つは設計という行為に関わることです。(この場合設計という行為は図面を書く、ということに限らない)
先ほど職人の存在意義のようなことを書きましたが、これはおそらく設計者の存在意義に関わることです。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。 (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

簡単に説明することは難しいので、引用元のページを読んで頂きたいのですが、例えば、『建築に内在する言葉(坂本一成)』で書いているような象徴に関わるような操作や、先の引用元の設計コンセプトなどによって「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く共通の概念のようなものを生み出すことによって、住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができる可能性があるように思います。

設計という行為の中にもそういう可能性があると信じられることが大切で、設計者はそれが実現する一瞬のために皆もがき続けているように思いますし、その探求の中にこそ設計者の存在意義があるのでは、という気がしています。

つくりかたを試行錯誤する

とりあえずは、上記の3つが思い浮かびます。これらは新築とかリノベとかの別はなく、おそらくプロジェクトに応じて適切なバランスのようなものがあるように思いますし、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っていると思うのでそのあたりのバランスには敏感でありたいと思っています。

自分自身は新築住宅の設計の仕事が多いのですが、お客さんと一緒につくるようなこともしますし、予算が許せば色気のある技術を使いたいと思います。当然設計そのものが持つ力も信じて取り組みたいと思っています。そうしながら、最初に挙げた生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるかというテーマに応えられるようなつくりかたを、さらに試行錯誤して考えていきたいと思っています。

途中「設計はなるべくクオリティを高めたい、施工はなるべく簡略化して利益を出したい、その相反することをどう乗り越えるのか」というような感じの質問が出ました。それに対して「相反するものではないような気がする」というような応答があったのですが、自分のこれからにも関連しそうなので少し考えてみます。

私も、予算を抑えることが主な理由で一部自分で日曜大工的につくったり、お客さんと一緒に塗装をしたりしています。
最初はその作業をボランティアのように位置づけていたので「設計料は貰っているけれども、無料でそれ以外の仕事をするのはプロとしては好ましいことではないのではないか。なにより本職のプロに失礼ではないか」と悩む時期がありました。しかし、ある時に「名目としては設計監理料だけれども、これは「建築を建てることでお客さんが最終的に満足する」ということをサポートする行為に対する対価として頂いている」と位置づけることでその悩みは解消することが出来ました。その目的のために手を動かすのはおかしいことではないし、その対価も含まれていると考えれば納得できる。

考えてみれば、設計も利益を出そうとすればクオリティなど言わずになるべく考える時間を減らし簡単に済ませたほうが効率的なはずです。しかし、なぜ設計者の多くがそうではなくクオリティのために自分の時間を捧げるようなことをするかというと、やはりお客さんに一番近い位置にいるからで、お客さんの満足度を高めることが最終的には一番自らの利益につながると考えるからだと思います。また、なぜ施工が簡略化して利益を出したいと思うかといえばお客さんからの距離が遠くなってしまっていて利益を出す構造がそこにしかないからだと思います。(多くの公共工事の設計はお客さんの顔が見えないので効率を求めるような思考が強い気がします。また、お客さんの満足度をしっかり考える施工者が多いのも知っているので、意識の問題というより構造の問題かと思います。)

そうだとすると、中田製作所のように設計も施工もお客さんと横並びの状態に変えられた段階で先に上げた相反する構造は解消されるような気がします。皆がお客さんに近い場所で同じ方向を向くことができる。

自分のことに置き換えると、最近、つくりかたを変えていこうとする場合に、「お客さんの満足度を高める」ということを見失わずに、なおかつ利益を出すようなつくりかたをどうすれば実現できるのか、と考えることが多くなってきました。
今は設計監理料(という名目)の枠組みの中でできることを模索している段階ですが、もう少し大胆な方法もあるのでは、という気がしています。

時々ちょっとやり過ぎて自分の首を絞めたり、周りに負担をかけてしまうことがあるので何とか探り当てないといけないと思うところです。




折り紙

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折り紙は子供ころから大好きで、今でもその時の本を見ながら子供に折ったりしていました。
ですが、先日40の誕生日に新しく自分用の折り紙の本を買いました。(30年ぶりくらい)
またしばらくはまりそうです。




tweet 11/23-05/16

久しぶりにツイートまとめ。これまでのブログとの重複も多いけど。


オートポイエーシス~男女脳~方法論~状況のレイアウト

2014年12月11日 システムの思想

河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。

氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。

(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。

僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものは探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。

だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。

ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。

あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。

理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)

まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

ケンペケについては動画が出たら見直しながらメモとして残しておこう。その場ですぐに言葉としてリアクション出来ない感じでもやもやっとしてるので。

方法としてのオートポイエーシス https://m.youtube.com/watch?v=CwexPv90vY… と言うのがあったのでスマホに落として移動中に聴いてる。やっぱりよく分からないけど面白い。

2014年12月25日 建てない建築家

建てるにせよ建てないにせよ、何に対して責任を負ってそれを果たすかが重要なのでは。どちらにせよそれを果たせれば良いし果たせなければ無駄と言われても仕方がない。

その「何に」対しての部分は発注者によるところが大きいのでそこに切り込んでいるのが藤村さんだと捉えている。

建てる建てないを全面に出すのは手段を目的と取り違えているように感じてあまりいい感じがしない。建てるにせよ建てないにせよ自分の果たすべき責任をきちんと果たせば良いし、そこが曖昧であれば明確にするように振る舞えばいい。

建てる建てないは何をの部分から個別的に導き出される、ということではいけないのだろうか。

2015年01月04日) 建築は知っている

ニュータウン的なものへの信頼が根っこにあったのは完全に誤解してたなー。僕は外からみた装った郊外への違和感が根っこにあっていつまでも消化できないでいるのでそこは羨ましくもあり。まー違う経験と違う側面だけど共感できることには変わりないけど。

なんか若干沈み気味だったけど、真っ直ぐに向き合いたいとかなりあがった。時間をおいてもう一回見よう。

2015年02月16日 村上春樹BOT

パターンとは真実よりもむしろ美しい仮説を提供するもの 。

でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。ランダムと同じです。文化的ランダム

受話器が氷河のように冷たくなった。「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてクライアントをめぐる冒険が始まった。

人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ狭小住宅が成立する

[onokennote]
村上春樹風tweet Maker https://chanz.sakura.ne.jp/haruki

2015年03月18日 キレる女懲りない男

最近プライベート的必要に駆られて男と女の脳科学な本を読んだ。生物学的な役割から脳の機能が異なるのは理解できるし、普段はこの手の本は毛嫌いしてるんだけど、まーわりと面白かった。

男性脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細くなってしまってるので理論化しないと感覚と言葉を結び付けられないし、目の前のことに疎い。でもその分、遠くが見える。

女性脳は脳梁が太く感覚と言葉が直結してて、ややこしいことは考えずにひたすらおしゃべりを繰り返して感覚をキーとしたデータベースを強化し続けてる。それは子育てという観察をベースとした瞬間的な判断を絶えず強いられるから。

もともと機能・特性が違うのでお互いになかなか理解できない。それを前提とすれば、理解できないお互いの言動も愛で合うことができるのでは。みたいな話。早速、実践してみるべ、と思ってもまー簡単じゃないよね。

で、身の周りでも女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なものがリアリティや動かす力を持ちだしてる気がするし、その脇で建築が変わってきた、むしろ建築みたいな概念邪魔じゃね。みたいな流れもある気がする。

そのベースに女性脳的な直感がある気がするんだけど、そこからは「僕(われわれ)のリアリティ(byM氏)」から遠くへはなかなか行けない。行けないというかそもそもそこを目指していない。(遠くへ行くヒントは満載かもしれないけど。)

でも、時間的・空間的・概念的に遠くへ行くことこそが建築という言葉に込められていたのだと思うし、建築の役割・可能性であったと思う。そうであるなら、そこへの意志のないものは建築ではなく建物でいいんじゃね。と思う。否定的な意味でなく。

何か建築が変わった、建築は変わらねばならない、みたいなのがあるけど、それって、建築が変わってきた、のではなく、どっちかというと建物の概念の方が変わってきたのでは。そう考えたほうがしっくりくる。

建築と比較して足りないものとしての「建物」ではなくて、もっと豊かな建築と補いあうような「建物」に変わってきてるのでは。だから、建築であり、(愛のある)建物でもある、というような認め合う夫婦のようなあり方を考えた方が建設的で豊かじゃないかな。

最近の建築ってどーよ?な感じは、なんとなく理解し合えない男性脳と女性脳がお互いを貶みながら暮らしてる夫婦だったり、男性が女性化する感じだったりと重なってそんなことを考えた。

(建築がどーこーの前にまず自分ち)

@s_tomokazu なんかまだうまく言えてない。もやっとしてる感じが晴れそうな予感があるんだけど・・・。ってか夫婦喧嘩が足りていないのでは?

残ったちょっとしたモヤモヤが何か分からない。けど夫婦もモヤモヤをずっと抱え続けるんだろうから。

2015年04月23日 あることの自然性と喜び

この本やっぱり面白いと思う。思う、というのはまだ掴めないから。この感覚まで行くのは難しい気がするけど、目標にはなりそう。というか目標にできるほど掴まえられるだろうか。

今日<建てること><住まうこと>みたいなのがちょっと話題になったんだけど、それらをひっくるめて「あることの自然性と喜び」に達するような場を建築に写しとることは可能だろうか。

「あることの自然性と喜び」というと宗教ぽい感じもするけど、それを実現させるためのプロセスを体現できるプロとしてあれるかという話。なんだかやっぱりうまく言えない。今のつくり方との距離はかなりあるように思う。

コストと時間をかければそれなりにできると思うけれども、それらが制限された状態で何ができるか。やっぱりDIY的なものになってしまうんだろうか。

DIY的なやりかたである程度可能かもしれないけれども、それを抜きにした設計者としての現実の抽出の仕方だってあるはずだ。(その感覚までにもやっぱり距離がある。)

画家とか舞踏家は直接的に表現できるけれども、建築の設計は図面というのが間に入るのでなかなかそうはいかない。しかし、その図面の可能性を諦めないということにも可能性が潜んでいると思う。その点では寸法というもののの持つ力をもっと感じないといけないんだろうな。

(いや、寸法でそれを実現できている人はたくさんいるんだろうな)

(この小ささ、みたいなのももしかしたらきっかけになるのかしらん)

2015年04月26日 本も終盤

合間で読んでいる河本英夫の本も終盤。ここは前見た動画の内容と重なっている。動画の書き起こしが欲しいと思っていたのでありがたい。

だけど、やはり終盤のテキストは論のような感じのまとめなのでどうしても理解?応用のサイクルに落ち込みそうになる。

その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章が「原型」として作用しそう。やはりこれがやりたかったんだろうし意欲作であることに間違いない。

宣言と方法論と作品群のフォーマットは自分を客観的に見るためにもトライして見る価値はあるんだろうな。(方法論に関してはずっと言いながら其の意味すらうまく掴めていない)

それは世に問うて闘うと言う程大それた事を思ってるのではなく、あくまで自分の事として。

2015年04月27日 方法論

その辺の規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまう感じがする。責任の問題というかシステムとして起動できる半径の問題というか。

方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。

そういう具体性をむしろ際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。

そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。

なんかもやもやしてる事が少し晴れそうな予感はあるな。よりいっそう引きこもりっぽくなりそうだけどコミュニケーションの感度はむしろ高まりそうな気がする。

(多分Facebookをたまにやる位にした事による開放感のようなものと無縁ではない。コミュニケーションの感度にもFacebook的な質とTwitter的な質の2つがあるとしたらその辺のスタンスを明確にすることと似ていそう)

方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えると掴まえやすくならないだろうか。

要望を聞き条件を整理し形を探る。当たり前だけどその中から具体性が浮かび上がってくるだろうし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。

だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

(もしそうなら学生がズレ続けてもある意味仕方がない。用意された働きの場の質の問題かもしれないから。)

あと数ページだけど、今日はここまで。結局当たり前のことを当たり前に思えるようになるのが一番難しいんだろうな。

@yamaguchiakito その本質がなかなか見つけられない感じです。方法論の多くは結局のところ本人だけのものでは無いかという疑いも若干持っていて、それでいいのではという気もしています。

@yamaguchiakito 河本氏的に言うと理解応用しようとしても直ちに限界に突き当たり本人の体験は一歩も前に進んでいないとなるのではないか。むしろ経験の弾力をどのように残すがというのが大切ではないか。

@yamaguchiakito 一方で本質的な方法論は経験の弾力を奪うものではないという気がしててうまく掴めないでいるところです。

2015年04月29日 〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門

ブログ更新: B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』 – https://tinyurl.com/k6o7d7y

寺田寅彦の章はうまく書ける気がしなかったけど、藤本さんの個展とそれに関する藤村さんとのやりとりのおかげで少しとっかかりが見えた。山口さんに頂いたコメントに関しても少しは近づけた気がする。

40代突入を前に若干の心の整理はできたのではないか。

建築少年とはよく言ったもので、建築は少年の経験モードを誘発するような何かがあるのかもしれない。

よく建築学科を出た後他分野で活躍する人を指して、建築的思考が役に立ってる、みたいなことを言ったりするけど、たった数年の学生の間で他分野を出し抜くほどの建築的思考が身につくもんだろうか、と思っていた。

もしかしたら建築的思考というよりは少年の経験モードのようなものを醸成する土壌が建築教育にはあって、それが他分野に言った時に珍しく感じられるのかもしれない。まー、本人の気質の割合のほうが大きいんだろうけど。

(仮にそうだとすれば、他分野の教育にそういうモードを消すような何らかの欠陥があるようにも思うけど・・・)

この本タイトルは他にもあったんじゃないかという気がする。ストレートすぎるというか硬すぎて中身にそぐわない気が。ちょっともったいない。

この本の文脈で言えばアナロジー・原型的直感は現実を捉えるための手掛かりにすぎないのだけど、藤本さんが誤解を受ける危険性はアナロジー・原型的直感そのものが答えのように映ることにある気がする。(展覧会行ってないので憶測だけど)

2015年05月02日 パスルを解いただけ感

パズルを解いただけ感からなかなか抜け出せないのだけど、その原因ってなんだろう。

乾久美子の小さな風景からの学びの写真を眺めていると、ある状況があって、そこに新たな状況が派生しているような写真が多い。ここの言葉を使うとあるサービスから新たなサービスが派生して、それらがうまく混ざった状況が魅力的に見える気がする。

仮に前者を「前状況」、後者を「後状況」と呼ぶとする(何かいい感じの言葉じゃないけど)。割と具体的な要望からパズルを説いただけだとほとんどを「前状況」として用意してしまってる感じがする。それが奥行きのない「パズルを解いただけ感」になってるのではないか。

そう捉えると、島田陽さんの家具の扱いは「前状況」に属していた要素を「後状況」的なものに置き換えることで、「前状況」と「後状況」の混合状態をつくりだしていると言えないだろうか。(昔、家具は建築かみたいな論争があった気がする。なに論争だっけ?)

「前状況」と「後状況」(もしくはそれ以上多数のレイヤー)のどこに属させるかを意識的に操作することで、「小さな風景」のような魅力に近づけられないだろうか。

植栽なんかは「後状況」的なものを備える分かりやすい方法なんだろうな。あとリノベも比較的簡単に混合状態になる。

あんまり間接照明は使わないんだけど、もしかしたら「前状況」的になってしまう(混合状態が弱まる)感じがするからかな。照明は光らせる道具的に使うことが多い。

2015年05月16日 状況のレイアウト

頭が重くならないうちに前書いたことの続きを書いてみる。

「前状況」「後状況」というのはある時点だけを取り出せばそうかもしれないけれども、実際にはもっと複層的なものだと思うので「状況の重ねあわせ」がある景色をつくるのに有効だと仮定してみる。

そうすると、使用開始後も含めた「状況のレイアウト」のようなものが景色として現れていると言えそう。

それをレイアウトと言った場合、分節やリズム、ジャンプ率や版面率のようなセオリーの準用による見方も出来そう。

その際「状況」とはどういった要素で捉えられるかを考えるのは有効と思われる。思いつくのは時間軸(いつのものか)、関与軸(モノの側か人の側か、自然の側か。またそれにどう関与したか、又は関与の可能性やイメージがもてるか)、動静軸(静的なものか動的なものか)など。

そういった視点で風景や建築をみればいい訓練になりそうだけど。(やってない)




四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

河本 英夫 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014/5/23)

前回の記事で紹介した動画の音源をスマホに落として繰り返し聴いたのだが、まだ上手く飲み込めないでいた。
その動画の中で「理解・応用しようとしても本人の経験は一歩も前に進まない。経験を開かないとダメ」というようなことが言われていて、それがどういうことなのか自分なりに掴んでおきたかった。
また、動画の内容を文字起こししたものが欲しいと思っていたところ、どうもそういう内容の本がありそうだということで買ってみた。

オートポイエーシスの経験 少年のモード

あとがきに

オートポイエーシスの入門版を、オートポイエーシスに関連するキータームをほとんど用いないでやってみている。そこではオートポイエーシスの構想を知るのではなく、オートポイエーシスという経験を感じ取ってもらうための数々の工夫を組み込んだつもりである。

とあるように、第一章から第三章までは寺田寅彦・マティス・坂口安吾といった具体的な人物を取り上げ、経験を開くというようなことがどのように実現されているかが示される。
ここまでほとんどオートポイエーシスという語は現れず、ようやく終章でオートポイエーシスについて語られる。この終章はかなりの部分が動画の後半と重なっており、まさしく期待していたような内容だった。

しかし、やはり終章は論のまとめのような感じなのでどうしても理解・応用のサイクルに落ち込みそうになる。
その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章の方が自らの経験を開くための「原型」として作用しそうな予感が持てた。なのでそこで感じたことを書き留めておきたい。

さて、はじめにの部分で「少年老い易く学成り難し・・・・」を引用し、「少年」とは時間区分ではなく経験のモードだと捉える。
少年の時期が過ぎ去ってしまうから学成り難しではなく、少年のような柔軟な経験のモードがまたたくまに老いてしまうので学成り難しなのである。

その柔軟な少年の経験モードを維持し続けられたとして取り上げられたのが先の三人であるが、私もあと一月を待たずして40代に突入する。この時期に来て「少年老いやすく」ということを急に強く感じるようになった。
少年だと思っていたモードがなんだか急激に老いてきているのでないか。
やっぱり瑞々しい気持ちで仕事でも何でもやり続けたい。そういう分かれ目という意味でわりと重要な一年な気がしているので何とかヒントだけでも掴んでおきたい。

まずは、寺田寅彦、マティス、坂口安吾、それぞれの章について簡単に(現時点で感じた範囲で)まとめておきたい。

不思議さのさなかを生きる 寺田寅彦

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。
寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。

焦点化しない注意を活用するには、どうすればよいのか。意識に力を込めず、感覚を目一杯開いて、感じられるものを宙吊りにしたり謎のまま維持してみる。「何が起きているのだろうか」という感触を維持するのである。

アナロジーは、なにか類似したものを手掛かりに思考していくやり方であり、最終的なものを求めず、また行く先が決まっているものでもない。言語的に見れば、比喩能力に近い。(中略)アナロジーはそうした経験の試行錯誤の場所なのである。

寺田寅彦の科学的思考は、現象を原理に帰着して分かったことにするのではなく、むしろ隣接するアナロジーをずらしながら考察するようなものであった。またそのことを活用して、多くの現象を見る眼を形成したのである。

像的思考とは、直接現象を思い浮かべるような経験の仕方であり、像の連鎖で物事を考察するような経験の仕方である。語を学び、概念を学ぶと、どうしても意味や内容で、語を理解してしまいたい誘惑にかられ、またそれで分かったように考えてしまう。ところが像的思考は、くっきりと像になるものをベースに考えていくのである。

こうした態度の中から生まれたのがまさにオートポイエーシスであり、アフォーダンスだと思うし、ホンマタカシのブレッソン-ニューカラーの議論も頭に浮かんだ。(ニューカラーは問いを宙吊りにし開かれている感じがする)

また、建築の分野ですぐに頭に浮かんだのは谷尻誠の「初めて考えるときのように」と藤本壮介のちょうど今開催されている個展である。

「最近僕が見つけたやり方は、“名前をなくす”ことです。たとえば“コップ“は液体を入れて飲むことに使う道具ですが、それ以上のものではありません。でもその名前を取ってしまえば、花瓶やペン立てに使おうとか、金魚を飼おうとか、積み上げて建物を作っちゃおうとか、自由な発想が出てくる。すると結構いろんな使い方が想像できて面白いんですよ。レールが引かれている今の世の中ではすべてのものに名前が付いていて、それが使い方を規定しています。だから、いったん名前を外して『これって何をするものだろう?』と向き合うことにしたんです」(初めて考えるときのように | 谷尻誠 | TheFutureTimes)

「こっちですよ、と指し示されているものからどうやって逸脱するか。それを一生懸命に考えています。たとえば『カフェを作ってください』と注文されると、途端に“カフェ”という名前が僕を支配するんですよ。カフェは普段から知っている場所だし、ある程度のものは誰でも作れちゃうんですよね」

「名前がないと何をやっているかわからないし、どこへ行ったらいいかもわからないから、本当はすごく難しいんですよ。逆に、新しく名前を付けると『それになる』という面白さもあります。家ができあがってポストをどうしようかとなったときに、ただのワイン箱に『POST』と書いて置けば、きっと郵便物が入るはず。名前には、物事を変換できる強さもあるんです。“取ること”と“付けること”、どっちにも面白さはあるんじゃないでしょうか」

言葉をとることによって問いを宙吊りにし、言葉を付けることによってアナロジーをずらしながら新しい経験のモードへと導いていく。それは、直感的に編み出した少年を維持するための方法とも言えるだろう。

こうして批評してくれるのはありがたい。一方で、この展覧会は、あるいは、建築というものの総体は、このような分析的な記述では、重要な部分がするすると抜け落ちてしまうということに気付かされ、反語的に、建築の本質をあぶり出してくれた形だ。これも言語かされたゆえに見えてくるもの(Sou Fujimoto Twitter 11:29 – 2015年4月28日)

この展覧会を見たわけではないが、挙がってくる情報を見る限り、アナロジー・原型的直感の種となるようなものが大量に羅列されているようである。おそらくそこには寺田寅彦のような少年のモードを維持するための留保への意志が強く現れている。

これに対し、

藤本さんが何か発表するととりあえず何か書いて、「言葉にするとこぼれ落ちるものを追い求めたい」と返されて、というサイクルを10年くらい続けており、もはやパターンw 藤本さんの創作には役に立たなそうだけど、藤本さんの奔放さに惑わされそうになっている人(=自分)にはたぶん役に立つw(Ryuji Fujimura Twitter 13:12 – 2015年4月28日)

というような返しもあったが、そこには方法論に対するスタンスの違いがあるのかもしれない。
藤本氏はおそらく個人的な創造という行為に関わる経験のモードを直接的に方法論として提示しているように思う。それは、あくまで経験のモードの提示であって、安易にかたちだけを真似をしようとすれば個人の経験が開かれるどころか帰って狭い領域に閉じ込められる危険性をもつように思う。
一方、藤村氏は直接的に経験のモードを提示したり、強調することはしないが、具体的なプロセスを記述し、それをなぞることによって間接的に新しい経験のモードが開かれるような方法論となっているように思う。経験のモードを方法論に埋め込むことによって、真似による再現可能性が目指されているのかもしれない。このプロセスによって経験のモードが開かれる度合いはおそらく経験する側の感度や意識による部分が大きいように思われるが、そこに意識的になれずに小さな振り幅にとまり誤解を受ける、といった危険性もあるように思う。

両者は

方法論という言葉、難しいですよね。いまだにニュアンスつかめません。近くに方法論を語る友人が居て、彼は自分が考えやすくするためのものだ、というようなことを言います。僕は他人が実践できるものだと言います。平行線です。笑@onokennote(山口陽登 Twitter10:01 – 2015年4月28日)

とコメントいただいたようなスタンスの違いによるもので経験のモードを開くという一点では同じ方向を向いているように思う。ただし、藤村氏が後でつぶやいていたように、そのスタンスに意識的であるかどうかは重要な点であろう。

例えば、藤本さんが「立原道造」なら自分はやはり「丹下健三」を目指そうと考える。そんなことどうでもいい、という人もいるけれど、創作の方向に自覚的になると成果物の精度も変わって来るし、さらには依頼される仕事も変わって来る。創作の方向が曖昧だと、作るものも曖昧になる気がする。(Ryuji Fujimura Twitter 13:44 – 2015年4月28日)

身の丈を一歩超え続ける アンリ・マティス

マティスの画法は、つねに方法の一歩先にどのようにして届かせるかにある。そしてそのことが新たな快の感覚を生じさせるように、色の配置を組み立てていくことを課題にしている。(中略)経験の境界を拡げていく作業は、境界をぐるぐる回りながら、気がついた時には境界そのものが変容し、拡張しているということに近い。マティスは、繰り返しこうした課題に踏み込んだのである。

ここでは「想起 再組織化」「佇む」「快 装飾」「強度」「存在の現実性」「経験の拡張」といったものがキーワードになるように思われる。

個人的には創作の現場として具体的にイメージがしやすく最も入り込みやすい章であった。引用しておきたいヶ所は膨大になるがなるべく絞って引用しておきたい。

反復は、反復のさなかで過去を想起することであり、想起する経験の中で、過去を何度も再組織化することである。想起は、単なる呼び出しではなく、そのつど再組織化が働く。

そのため自分自身で新たな局面や新たな経験の仕方が見つかるまで、その場で「佇む」ことが必要となる。そしてそこから一歩踏み出せるまでの「こだわり」も必要となる。「こだわる」ことは、もちろん固執することではない。

つまり「影響」というのは、不適切なカテゴリーなのである。むしろ学んだものを、みずからの制作へと組織化し、そこに固有のプロセスが出現するように経験が進んでいくのだから、そうした自己組織化のプロセスこそ問われるべきものとなる。

身体そのものも、まさに存在することの喜びにあふれている。(中略)この喜びが見る者にとっての快につながるように作画することができる。こうした喜びにあふれた顔を描こうとすると、細かな技術による丁寧さが、むしろ邪魔になってしまう。あることの自然性に向かい、このおのずと自然性であることの喜びに到達するためには、落とすことのできるものはすべて徹底的に落としていくことが必要であり、さらには在ることの「強さ」に向かうことが必要である。(中略)こうした効果を、マティスは「装飾」と呼んだ。装飾とは、こうした存在の喜びにふさわしい色と色の配置を見出すことである。

こうした経験の形成される場所を見出してしまうと、絵画はもはや鑑賞の対象でもなければ、立場や観点の問題でもなく、技法の現実化という方法の問題でもない。経験の形成の場所という課題を見出したことによって、彼らはともかく前に進み続けたのである。このとき、作家はすでに少年であり続けることの条件を手にしたのである。

こうした場面での感性の品格にかかわるような解があるに違いない。マティスの作り出そうとした快は、この感性の品格に届かせるようなものだったのである。

触覚から出現する事象を、視覚的な場所に写し取ることこそ、マティスが終生企てたことであり、すでにして終わりのない少年を生きることになった。

一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されるだけであれば、作品の現実は貧困になる。

キュビズムの圧倒的な広がりのなかで、マティスの行った選択が何であるかが今日少しずつはっきりしてきている。作品を作ることがかたちのヴァリエーションではなく、つねに一つの発見であるような、色とかたちの釣り合いを求め、幾何学的な比率と色彩の比率が釣り合う地点を、色の側から求め続けたのである。

飽きは、おのずと出現する選択のための積極的なチャンスである。ここでは無理に別のやり方に変えても、ただちに頭打ちになる。というのもその場合には、観点や視点で別のことをやろうとしているからである。このときいまだ経験が動いていない。次の回路が見えてくるまで、しばらくは宙吊りにされた時間や時期を過ごさなければならない。

何か刺激的で面白いと感じられたとき、それは多くの人にとってたんに刺激的である。そこから更に進めて、何か固有の経験の拡張がなければ、実はまだ何も見ていないことになる。

制作プロセスと作られた作品は、異なる次元にあり、二重の現実として成立している。制作行為で考えると、制作する行為と作品の間で、埋めることの出来ないギャップを含みながら、作品は固有の現実性として成立することになる。ここに制作行為での創発(出現)がある。ある意味で、作品は制作プロセスの副産物であり、このプロセスから手が届かなくなった時に、作品は出現する。あるいはある構想やアイディアを抱いた時、それを直接制作しようとするのではなく、ひとときそれらを括弧入れして、まったく別様のプロセスを進んでみる。そのプロセスの副産物が、当初の構想やアイディアの現実のかたちであるように、プロセスを進んでみるのである。

マティスが行ったのは、そのつどプロセスで経験が拡張するように進むことであった。そのプロセスの副産物が、出来上がった絵画である。ところがこうした制作プロセスのうち、変形のプロセスは、極めて特殊なものであることが分かる。つまり方法的制御のもとで、行く先はほぼ決まっており、作品が完結するのはテクニカルな改変の終了である。

多くの場合、課題を変形して、ただちに対応できるものにして、用済みにしてしまう。つまりさっさと終わったことにしてしまうのである。しかしこうした課題をペンディングにしたままにしておくと、何か最初に受け取ったこととはまったく別様のものが見えてくることがある。

マティスは一貫して、どのような技法に対しても、そこに含まれる可能性を拡張していけばさらにどのような経験の拡張が可能になるかを考えていた。

ピカソは、由来が不明になるほど変形をかけて、変形のプロセスが停止する場所を探すことの名人芸に達している。これに対して、マティスはそれぞれの技法に含まれる可能性を、最大限に発揮できる場所にまで進めていく名人芸に達している。その意味でピカソは終生子供であり、マティスは何度もみずからをリセットする少年であり続けたのである。

こうして挙げてみて、これらは二つに分けれられるように思った。
「快 装飾」「強度」「存在の現実性」などの部分はマティスが目指したもので直接経験のモードに関わらないもの、「想起 再組織化」「佇む」「経験の拡張」などの部分は少年の経験モードに直接関わるものである。
そして、この両者において非常に勇気づけられた。

前者は、個人的に建築を考える上で共感する部分が多く、それらはこのブログでしつこく何度も書こうとしてきたことと重なる。そういう意味では自分は少年であり続けるための条件を手にしているのかもしれない。それはとても幸運なことのように思う。

後者では、今まさに40を迎えようとする、若干の飽きと迷いの中にある自分に一つのあり方を示してもらえたような気がする。今の状態を決して悲観的に捉える必要はなく、次の回路が見えてくるチャンスとして捉えればよい。固執することなく経験のモードを開きながらこだわり佇んでよいのだと勇気がもらえた。重要なのは経験を拡張していくための構えのようなものであろう。

また、建築に関して思い浮かんだのはコルビュジェであった。
コルビュジェは方法に関していろいろと言ったり、古いものを見て(今的に言うと)つぶやいたりしている。しかし、そこでは常に経験の拡張のようなものが目指されていて、まさに「身の丈を一歩超え続ける」少年のようであったように思われる。

成熟しないシステム 坂口安吾

坂口安吾は、人間の自然性をある種の「どうしようもなさ」に置いた。そこから救われようとするのでもなく、またその状態を変えようとするのでもない。達観することも、宿命や運命に委ねることも、余分なことだと感じられるような場所がある。そこには引き受けたり、引き受けなかったりするような選択性が、一切効かない「どうしようもなさ」がある。それは生きていることの別名であるような、生の局面にかかわっている。(中略)そしてこの「どうしようもなさ」に見いだされる美観から日本文化の特質を取り出した。安吾はおよそ本人に面白いと感じられるものは、何でも実行したのである。

ここでは安吾の作品の資質として「無きに如かざる精神の逆転」「人為を限りなく超えた、さらに一歩先」「成熟もなく老いることもない」「あっけらかんとした情感」といったものを挙げている。
しかし、この章は創作そのものというより安吾の生き方そのものようなものを浮かび上がらせており、まだうまくつかめないでいる。

ところが成熟とは無縁で、熟練することが一つの後退であるかのように、経験の履歴を進み続ける者がいる。まるで老いることが他人ごとであるかのように、もはや老いることができなくなってしまった一生を当初より進み続ける者がいる。見かけ上は停止や堂々巡りに思える。だがそれでも延々と進み続けるのである。これは異なる経験の仕方であり、別様に経験の蓄積を生きることである。たんにその都度不連続に作品を作り続けるのではない。不連続に作品を作り続けても、対象の種類が拡がるだけで、いわば様々な領域で食いつぶしを行っているようなものである。
だがそれにもかかわらずなお前に進み続ける者がいる。(中略)それらを総称して「一生、束の間の少年」と呼んでおく。

坂口安吾は、多くの領域で延々と書き続けた作家である。だが作品の技術が向上している様子はない。場合によっては、下手になっていると感じられる場面もある。しかし安吾自身は、上達することをどこか嘘だと感じている。

作為の意匠や工夫をどこかよそよそしく感じ、そうしたものとは別様に出現する現実が、紛れも無い本物だと感じられる場所である。個々の意味の深さではなく、ある種の直接経験の強さが出現する場所こそが、こうした「ふるさと」になぞらえられる経験の局面である。それは安吾の経験の出現する場所であり、生きていることがそれとして別様になりようもない場所である。そしてそこでは意匠の美ではなく、経験の強さこそが問われる。ここでは、美とは一種の経験の強さの度合いのことである。

強さの度合いを感じ分けながら、そこに出現する自己を生きている存在が、安吾の「束の間の少年」である。

それは感性を拡張しようと目指すことではない。むしろおのずと拡張になるように、経験のモードを変えていくことである。

安吾の美観は「どこか違う」ということを感じ取る感性にあるように思われる。それは成熟に向かうことを拒むことによって経験の強度を維持しようとする意志のようにも思われた。

普通は生きていく上で、いろいろな余分な考えが浮かび、その誘惑によって行動してしまうことが多いように思う。個人的にも、例えば作ったものを同業者に良く思われたいと言ったその手の誘惑は多いし、それによる不自由さのようなことを考えることも多い。
そういった局面において「どこか違う」ということを感じ取る感性を発揮し経験の強度を維持できるかが分かれ目にもなるのだろうし、それは建築としても現れてくるものだと思う。

これに関して思い浮かんだのは内藤廣の有名になる前のエピソードであり、自分の感性を信じる強さのようなものであるが、この章に関してはもっと自己と感度良く向き合わなければ見えてこない部分も多いのかもしれない。

方法論について

今、私たちの世界に対する認識の方法はこれまでの歴史の中で形成されてきたものであり、可能性の一つとしてたまたまこうなった、という類のものだと思う。それが私たちのものの見方、経験の仕方を相当に狭めていることは間違いないだろう。
なぜ私がオートポイエーシスやアフォーダンスといったことに可能性を感じるかというと、通常世界を認識しているのとは少し違う(違う歴史を経ていればあたり前であったかもしれない)別の見方を垣間見せてくれるからで、それによって多少なりとも自由に振る舞えるようになると思えるからだ。(たとえば西欧文化にどっぷり浸かった人が東洋の文化にはじめて触れた時に感じる可能性と自由のようなものだろうか。)

その振る舞い方というのはおそらく設計の場面においても根幹の部分で強く影響があるように思う。
それに関連して、何か方法論のようなものを持ちたいとこのブログでも何度も書いている。

方法論とは何なのだろうか。
うまくつかめないでいるし、そのスタンスもいろいろなものがあるように思う。
その中で、自分にとっての方法論とはおそらくそれを世に問うといっただいそれたものではなく、自らの経験を前に進めより良い建築を生み出せるもの、といった範囲にあるものではないかと思う。

それは、世に問うことを否定しているのではなく、自分というシステムを起動し有効に働かせることのできる半径がおよそこれくらいという感覚からくるものである。その辺りの規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまうのではという感覚がある。

その上で、方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。
むしろ、そういう具体性を際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。という気がしていてこの本を手にした。

例えば、方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えてみる。

要望を聞き条件を整理し形を探る。それは当たり前のことだけどその中から具体性が浮かび上がってくるように思うし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。
だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

そう考えると少し気持ちが楽になった。
今取り組んでいることに、当たり前に取り組んでいく。それは、当たり前のことを単に繰り返すのとは違い、少年のように試行錯誤を繰り返すことで経験が前に進んでいくようなものであるはずだ。

「四十にして惑わず」とある。これを河本氏的に解釈するとすれば、四十になって成熟の域に達し迷わなくなる、ということではないだろう。三十代までの紆余曲折を経て、取り組むべき課題に確信を持ったことで堂々と少年のモードに再び戻る準備ができたと言うことではないだろうか。そのための実践の場もこのころにはある程度準備ができているだろう。

自分も確信を持って四十の少年モードに突入していければと思う。

終章 オートポイエーシス少年

最後に終章で気になったところをいくつか抜き出してメモとして残しておく。

ドゥルーズの哲学とオートポイエーシスに共通の課題は、世界の現実的な多様性を出現させ、その多様性の出現が各人の経験の固有性の出現に連動するような仕組みを考案することである。

実際には、プロセスと産物を区分しておいた方が経験を拡げていくためにははるかに重要である。たとえば芸術的制作を行うさいには、プロセスの継続の副産物として作品が生み出されるのであって、作品に向かってそれを作ろうとした、という事態はほとんどの場合成立していない。

このおのずとシステムになるという感触がオートポイエーシスの構想にとってはとても大切なところである。

こうした自在さは、配慮や熟慮とはあまり関係がなく、ましてや視点や観点を切り替えることとはまったく関係がない。必要なのは経験の弾力であり、経験の動きである。このときこうした経験の弾力を備えた現実の姿を、具体的個物で表そうとすると、それが「少年」となる。少年は、発達の一段階ではなく、ある経験のモードの「原型」なのである。

どうしても踏み出せない場合には、こうした作業の手本となるものが存在している。だがそれを読んでしまうと言葉の迫力と現実感に圧倒されて、自分で前に進むことなどできなくなる。(中略)これらを真似ようとすると、間違いなく二番煎じ以下になる。そのため一度忘れて、その後それを思い起こすようにして、自分自身の言葉を作り出していく。想起とは、過去からの選択的な創作である。

ここに必要とされるのが経験の弾力である。というのもあらかじめ方法的にどうするのかが決まっているわけではなく、経験にとって最も有効な仕方を試行錯誤して探しださなければならないからである。

理解したから応用できると思って、やってみると何ひとつ前に進んでいない、ということが起きるのである。こうして気がつけば、理解から応用に進んでしまっている場合は、一度理解したものをすべて捨てたほうが良い。捨てることは、積極的な試みであり、捨てたものが再度経験の中から出現してきたとき、想起されたものはすでに選択され内化している。それがみずからオートポイエーシスを内面化することである。

持続的に息長く仕事をできている場合にも、多くのモードがある。それを真似て同じようなやり方をしても、二番煎じ以下になるが、それは作り出された表現のかたちを真似ようとするからである。むしろある経験の動かし方の特徴を取り出せれば、それを活用できる場面で選択することはできる。




「環境」についてのメモ

昨日運転中に山口陽登氏の講演の音声を聞いて自分なりに環境という言葉を整理したくなったのでメモ。

以前とあるシンポジウムで何人かのデザイナーの話を聞いた時に、その一人がアフォーダンスという言葉を使われていた。
それで懇親会の時に色々と聞いてみたのだけど、昔流行った言葉で、”椅子は座れる”のようなことを難しく言っているだけだよね、という感じだったのですごくもやっとした。

環境とは何かということとつながるように思うけれども、そういった機能と形態が一対一で固定化しているということとは全く違うのではないか。

環境そのものに情報が埋め込まれている、と言ってもそれは受け手との関係性の中から発見的に浮かび上がるものであって、その関係は無限にあるはずである。それを一対一で固定化するのでは、その通り機能主義を難しい言葉に言い換えただけで何の発展性もないだろう。

それでは一種の制度として振る舞ってしまうようになった機能主義に対して、新しい地平を開くチャンスを与えてくれる概念を再び制度の内に閉じ込めてしまうようなものだ。

先の講演の感想でも書いたように、固定化・陳腐化した環境という言葉を受け手の活き活きとした経験に開くことで再び実践状態に戻すことが重要であって、どうすれば関係性の鮮度を維持できるかがデザインの課題になるのだと思う。

そういう意味では「環境」とは常に開かれた可能性の海のようなものであるべきだと思う。

では、そのために具体的にどのような方法が考えられるだろうか。

一つは、機能と形態を一対一で対応させて考えるのではなく、状況をつくるという態度に留めることで機能が具体的な像を結ぶことを注意深く避ける事だろう。それによって、機能が単体でフォーカスされずにぼんやりとした全体の空間・時間の中に溶け込ませることができるかもしれない。(ホンマタカシ氏が言うブレッソン的なものではなくニューカラー的なもののように)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

もう一つは島田陽氏の建築と家具の扱いが思い浮かんだ。
建築の機能を引き剥がして家具的なものに置き換えることで「環境」や「機能」のあり方に変化を与えている。
この時、建築を家具に置き換えることは普通に考えると機能と形態が一対一でより強く結びつきそうな気がするがどうしてそうならないのだろうか。(一般的に家具は機能に対して補助的に与えられるもののように思う。)
よく見てみると、建築の機能を家具に置き換えると言っても、例えば階段が棚や箱になったり、トイレが収納になったりともともとの機能からずらして弱めることで一対一に固定化することを注意深く避けているように思う。
そこにはやはり環境との出会いが状況として用意されている。

このエッセンスを自分なりに展開したいところだが、すぐに思い浮かぶものでもないので実践の中で発見できればベストだと思う。

最後に、先ほどのシンポジウムで最後に話をされた某デザイナーが思い浮かんだ。
徹底した客目線を実践し、目立つデザインではないが繁盛店を次々と産み出しているという方なのだが、話の途中で突然マイクで話すのをやめ地声で語りかけるように話をされた。
なんともないことだけどこれは結構心に響いた。
こういうシンポジウムで話すときにはいい話をしようと思ってしまうものだと思うが、どういう人が集まっているか分からない小さなシンポジウムであってもきちんと伝える、ということに手を抜いていないのが伝わってきたし、いや、この人はお客さんにモテるだろう、と思わされた。
徹底した客目線で考えたものを何でもないデザインとしてまるでデザインされてないかのように施している。それは、おそらく受け手の経験に対して心地よく開かれているだろうし、そこには気づかぬうちに環境との出会いが生まれているだろう。
アフォーダンスのようなものを体験的・実践的に獲得しているように思ったのだが、その態度の現れとしての場を感じることができたのは非常に貴重な経験であった。(後日、著作を読んでみたけれども、テキストからでは感じ取れなかったので尚更貴重だったと思う。)

やっぱり、まずは態度のイメージからだな。そのイメージの鮮度を保ち続けるための技術もおそらくあるはず。




KIGS 地鎮祭

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3月7日に地鎮祭を行い、先日なんとか工事請負契約まで進むことが出来ました。
現在確認申請中で、確認済証を待ってもうすぐ着工です。

まだ、コスト含めていくつか課題が残っており条件が厳しいところもありますが、それを逆手に取ってなんとしても良い物にしなければと気持ちを新たにしたところ。

私の責任を果たすためにはここからが勝負です。




ケンペケ02「建築の旅」光嶋裕介

kenpeke02

2月末にケンペケの2回目があり参加してきました。
今回のゲストは光嶋さん。

ケンペケとしてレビューを書いて蓄積していくということになったようで、今回のレビューにご指名頂きました。
(レビューアーは毎回変わるようです。)

感想等はケンペケホームページの方に書いていますのでご笑覧頂ければと思います。

レビュー02「建築の旅」光嶋裕介 | ケンペケカゴシマ

ブログで個人的に書きなぐることはありますが、こういう立ち位置で書くのは初めてなので結構大変でした。
ですが、いい経験でした。ブログもこれくらい読み返しながら書けばいいのでしょうが・・・。




新しい経験を開くー意識の自由さよりも行為としての自在さを B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』

河本 英夫 (著)
東京書籍 (2002/7/1)

十年以上も前の本であるが気になったので読んでみた。
オートポイエーシスの第一人者である著者と様々な分野の第一人者との対談集であるが、まずは著者の知識の広さと深さに驚かされる。(対談中、著者が対談者にかわって他分野の詳細に対する解説や意見を長々とする場面が何度もある。)

一部前記事と重複するけど、とりあえず断片的なメモをもとに感じたことをいくつか書いておきたい。

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか
その不自由さの中からあえて自由さを突き抜けるという建築の可能性ももちろんあるだろう。
しかし、設計を行為だと捉え、そこでの自在さを獲得する自在な建築といったものの方にこそ可能性は開かれている気もする。

例えば僕がアフォーダンスやオートポイエーシスのようなものをなぜ読むのか。
何か方法論のようなものを身につけたいという気持ちがあったのは確かだが、それよりもむしろこのような(自由であるか自在であるか、世界をどのように捉えそれに応えるかと言った)態度のようなもののイメージを獲得する方が重要かもしれない、とだんだん思うようになってきた。

オートポイエーシスもさんざん道具・理論として扱われることが多かったが、著者はそれを否定する。

一般理論というのは、しょせんは一種の知的遊びに終わってしまう場合が多い。そうではなく、オートポイエーシスがある新しい認識の世界を開くのではないかということに私は期待しているんです。(中略)記述のための道具として使おうというのは、これを道具として使って、何かを主張したい場合です。主張することが問題なのではなく、経験を動かしていって何かを新たに作り出すことが問われている。だから第三世代システム論ではなく、第三世代システムと言い続けている。そのためのオートポイエーシスが何をやっているかというと、結局、ある種の経験の層をもう一度つかみあげてみようということです。そして、それが行為に関わっています。そこが論ではなく、行為なのです。

他にも「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てくるが、これができるようになるのはなかなか大変そうである。
藤村さんの方法論を自分なりに取り入れようとして、なかなかうまく設計に結びつかないのは、方法論に囚われすぎて、経験を開く、というようなことができていないからではないか。方法論を否定しているわけではなく、むしろ現状と方法論がマッチしていないため方法に入り込んで経験を開くというところまで行けてないからではないだろうか。
なんだか、怪しい話のようになりそうだけれども、もう少し経験を開くというような「状態」に意識を持って行って、そのために補助的に方法論を見つけていく、というような流れがいい気がする。

また、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたり

対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
もしかしたら経験を開く「状態」のイメージに時間軸・速度のようなものを加えたほうが良いかもしれない。

展覧会の関連企画での対談があり、その中での鋭い考察が印象に残った。

作品の経験においても同様のことが言えます。意味の方法的な分析の中に解消され得ない作品には、その経験の中に必ず「剰余」の部分が出てきます。その「剰余」というのは、作品に触れている時にずっと動いてしまっている身体や近くの記憶として残っていきます。つかりテクニカルな工夫・操作だけが表面に表れている場合には、既存の意味の枠を延長しているだけですので、そのプラスアルファの「剰余」がない。しかもこの剰余を意味の延長上に意味的な分からなさとして作り出すと、途端に見え透いてしまう。この剰余を作り出すには、身体の動きを活用するのが有効です。内化してしまっている身体の動きを同時に使うと、意味の延長からの想起とか逸脱とは全く違う、作品の経験に触れることができます。

この辺の領域をふんだんに活用したのがゴッホでした。かれは通常の人間の色彩感覚を超えた人です。ゴッホの黄は非常に収まりが悪い。ゴッホの絵を五分くらい見ていただくと分かりますが、どうもこの黄を見るために目の神経を形成しているところがあります。こういう絵によって形成運動が起こってしまうのです。すると、気づくと気づかないにかかわらず確実に強い記憶になります。(中略)つまり、作品に触れることがその経験を形成するところにかかわってしまっている。

大した経験が何一つないのに、テクニカルに人と違うものを作ろうとすれば、すべて意図は見え透きます。したがって、やはり経験が形成される回路を何とかして自分で踏み出してみるということが重要だろうと思います。そこの踏み込み方と、その継続の仕方を機構として表しているのがオートポイエーシスという構想です。この構想は前に進みながら、同時に自分自身を作り上げていくというところを機構化しているわけです。

佐々木正人氏がアート等を語るのも面白かったが、これらの言葉もすごい。前に書いた「既知の中の未知」とも重なりそうな気がする。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

おそらく新しい経験を開くというようなことと共に新しい空間が生まれるのであろう

あと、著者について調べていて下の動画を見つけた。
音源をスマホに入れて移動中に何度か聞いたけど、かなりぶっ飛んでいて面白い。意味は少ししか分からないけど。

1:57:40あたりから経験を開くというような話が出てきます。