1

B170 『建築に内在する言葉』


坂本一成 (著), 長島明夫 (編集)
TOTO出版; 1版 (2011/1/20)

マルヤのジュンク堂に寄った時にお目当てがなくて、ふと目に入って買った本。
たまにはがっつりした建築論を読みたいと思ってたのと、坂本さんの文章をもっと読んでみたいと思っていたので買ってみました。

全体を通して、例えば形式のようなものを定着させると同時にそこからの『違反』を試みることによって『人間に活気をもたらす象徴を成立させる』というようなことが書かれていて、とても参考になりました。
これに似たことがいろいろな言葉で置き換えながら何度も出てきます。

定着と違反は反転可能なもの、もしくは並列的なものかもしれませんが、本書を振り返りながらざーっと挙げてみると

定着・・・現実との連続、コンセプト(概念的なこと・理念的なこと・テーマ的なこと)、非日常、概念の形式、構成、統合、都市的スケール、固有性(根源的とも言える建築のトポス、客観的形式、集団としての記憶を形成するエクリチュール)、記憶の家、永遠性、アイデンティティ、対象としての建築、全体的な統合に依拠した配列・・・

違反・・・現実との対立、現実の日常的なもののあり方、構成・形式自体を変形・ずらす・相対化・弱める、曖昧なスケール、曖昧さや両面性による素材の使用、構成要素の配列の組み換え、バランスの変更、統合への違反、建築のスケール、反固有性(あくまで固有性を前提としその結果も固有性を保有しうる固有性の格調の範囲にある違反)、今日を刻む家、現在性、活性化、環境としての建築、他律的な要因による並列、併存的な構成・・・

作用・・・ニュートラルな自由な空間、場所的空間、押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせるもの、付帯していた意味を中性化し宙吊りにする、生き生きしたもう一つの日常を復活、矛盾・曖昧・二重性・宙吊り・対立・意味の消去・表現の消去、自由度の高い建築の空間、現実の中で汎用化し紋切型化した構成形式の変容を促す、類型的意味を曖昧にする、象徴作用、建築が<建築>として象徴力を持ちうる、<生きて住まうこと>の感動と安堵に対する喜びと活気、建築をより大きな広い世界へとつなぐ・・・

これらのもとにあるのは

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。

という思いであり、さらに、そのもとには戦後橋の下に住んでいたある家族の家という個人的な情景があるように感じました。
こういう情景と比較した一種の喪失感のようなものは時代的に多くの人と共有できるように思いますし、そのための方法を多くの人が探っているんだと思います。

ここでいう象徴力という言葉は前回書いた固有名と社会性の関係に繋がるように思いますが、そのへんをもう少し自分の中ではっきりとした言葉にすると同時に具体的に方法論として積み重ねていかないといけないと感じています。

具体的なヒントとなる良著でしたが、それだけにしっかりと自分のものに置き換えないとですね。

また、読みながらふと、パタン・ランゲージやアルゴリズムと言ったものにも違反のシステムが組み込まれているべきだと思ったのですが、もしかしたら複数のレイヤーやパラメーターを重ね合わせることで、関係性の中からそれぞれに一種の違反が生まれることがすでに組み込まれているのかも知れないと思いなおしました。

『違反』の部分はおそらく個性と言うか個人の持っている情景・イメージや問題意識に左右されざるを得ない、又はそうあるべきものだと(現時点では)思うのですが、その前に違反するとすればその違反を誰がどのように起こすのかということをイメージしておく必要がありそうです。

簡単に書きましたがこの本は近年でも1,2を争うヒットで何度もじっくり読みたいと思っています。




YNGH 内部下地


内部の壁・天井下地が進んで空間がだいぶ見えてきました。
2階個室レベルの2m弱の壁より上部はガラスでぐるっと視線が通るようになっていて、いろんなところからトップライトを通して空が見えるようになってるのですが、良い感じにまとまりを与えてくれそう。

ここまで、スケールやら素材やら視線の通りやら本当にイメージ通りになるか胃が痛くなりそうなくらいドキドキしてたのですが、やっと確信が持ててきました。油断は禁物ですがいい家になると思います。

完成が待ち遠しいなー。毎日でも現場通いたいなー。




KBGN 地鎮祭


心配していた天候も回復し無事地鎮祭をとり行うことが出来ました。
気持ちを新たにぐっと感度を高めていこう。がんばろー




B169 『ウィトゲンシュタインの建築』

バーナード・レイトナー (著), 磯崎 新 (翻訳)
青土社; 新版 (2008/6/20)

読書会の3回目に井原先生にウィトゲンシュタインについてちょっとした解説を頼まれたので、読んでみました。
それをもとに、『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』とウィトゲンシュタインの建築をどう絡めるかをメモしたので多少手を入れて載せてみます。

ウィトゲンシュタインの建築について【メモ】

ウィトゲンシュタインは全てをコントロール出来なかったにもかかわらず、なぜ「私の建築」と呼んだのか。
p.166を読んで浮かぶ問はこうである。しかし、建築のプロセスやできたものを見るかぎり、また一般的な建築家の仕事を考える限り、彼はこの建物を「建築」とするために「私の建築」と呼ぶにふさわしいほどコントロールしたという印象が結局拭えなかった。細部の構成も幾何学的に熟慮されていて、『ウィトゲンシュタインの建築』巻末で多木浩二が前期ウィトゲンシュタインの哲学との並行性に触れているように「建築への意志」を十分に持っていたと見れる。

なので、先の問を「ウィトゲンシュタインはこの建築を通じて何をなしたのか。また、教師の経験を通じて「教える・他者性」ということに重要性を見出していたと思われるのに、なぜ重要な部分で「建築への意志」を貫いたのか」と置き換えてみる。

特徴
(1) ストロンボウという施主は非常に個性・主張の強い人物であった。
(2) 共同設計者(エンゲルマン)の案をほぼ踏襲しており、エンゲルマンは最後まで関わっている。
(3) 天井を後で数センチあげたり、技術的に困難なスチールワークのディテールを技術者の意見を聞かずに貫いたり、ミリ単位で細部に異常なほど固執した。

考察
(1)については建築の設計においてよくあることである。
(2)についても実際は一人の建築家が全てを決めることはほとんどなく、スタッフや共同設計者が多くのことを担い、それでも重要な役割を担った人が「私の建築」と呼ぶことは一般的である。(実際にはエンゲルマンはある程度身を引き多くをヴィトゲンシュタインの個性に委ねたよう)
(3)についても同時代の近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが「神は細部(ディテール)」に宿る」と言ったように、建物が「建築」足りうるためにディテールにこだわることはよくあり、エンゲルマンが行った基本設計とは施主の要望とは異なるレベルで「私の建築」とするためディテールに「建築への意志」を込めることは十分考えられる。

以上から、建築家のあり方として特別だったとは言えないように思う。
これは流れで言うとウィトゲンシュタインが「世俗的な建築」を「隠喩としての建築」から開放したと言えるかも知れないが、ではなぜ、同じ世俗的な他者である職人の意見を無視してまでディテールに拘る必要があったのか。

仮説
これには(1)のストロンボウ婦人の個性が強かったというのがひとつの大きな理由のように思える。
施主とウィトゲンシュタインと同一の規則を有しない他者であったと仮定した時に、そこで両者の、又はウィトゲンシュタインの建築と施主のコミュニケーションを成立させるため、建築に「固有名」を与えることを望んだのではないか。
『ウィトゲンシュタインの建築』に「しかしその内部は二十世紀の建築史においてもユニークなものだ。全てが熟慮されている。慣用されていたものからも、職業的なアバンギャルドからも、何ひとつ直接的に移植されたものはない。」とあるように、建築が施主に内面化されてしまわない固有性を持ったものにするためには徹底的にディテールに拘る必要があったのではないか。

これは、例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てが施主が内面化できる中にコントロールされるように構造化されてきたことと全く逆である。
このような住宅は誰でも設計・施工でき、たいていの客が理解でき、クレームを最小限に抑える必要性から、そこで用意されるものや価値観は施主に内面化されるもの(またはそう錯覚されるもの)が厳選され、そこから外れないように徹底的にコントロールされてきた。
そのような建物は「モノローグを超えたコミュにーケーション」を拒絶するもの=施主に完全に内面化された「社会性」のないものになってしまっている。そして、それが今の建築・都市景観の貧しさにつながるのでは、という今日的な課題とも関連しそうである。
そして今ではモノローグを超えた「世俗的な建築」そのものが非常に困難になっている。

「世俗的な建築」の困難(補足)

ここでのモノローグとは自己対話というだけでなく、内面化された他者との対話も自己対話に帰結するとし、モノローグ、または独我論の内にある。また、社会性とは内面化されない他者との対話の間に生まれるものである。

大量生産による工業製品は現代を生きる殆どの人に内面化されたもので、工業化という技術の外部に出ること(=社会性を得ること)は困難である。また、そこで多様性を装って予め準備されている価値観も内面化されていることを前提に厳選されたモノローグを助長するものでしかなく、その外部と出会う機会はかなり奪われてしまっている。
そのような中で純粋に「世俗的な建築」であること、または出来事であることは今となっては困難を伴うものになってしまった。

この本を読んで一番の収穫は、得体のしれない言葉だった「社会性」というものを多少掴むことができ、それに対して「固有名」を与えたり関係性を築くことが有効だと思えたことでした。
事務所のロゴに込めた、建築が施主や設計者に内面化されない独立した存在(固有名を持った存在)であって欲しいという思いと「社会性」という言葉が繋がったのには大きな勇気をもらえました。