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「地形のような建築」考【メモ】

今までブログに書いてきたなかで棲み家考の流れから『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』を経て、地形のような建築というのが僕の中で一つのキーワードになっています。

では、仮に「地形のような建築をつくりたい」と言った時どういう論を展開できるのか。取りこぼすものまたは建築になるキモは何かというような事をメモ的に考えてみます。

(地形)の特質とは何か

ここで「地形のような建築」と言うときの地形を括弧付きで(地形)と書くことにして、(地形)の特質は何かを考えてみます。

オノケンノート » 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。

(私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。
この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。

また、敷地と言うものも地形かといえば十分に地形です。
ですが、一般的な造成された敷地に対して(地形)をあまり感じません。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれています。

ですが、平らに造成されてしまった敷地では、すくなくともあるスケールに於いてはそのプロセスが一度リセットされた少数の意思による短期間の結果のみが残ります。

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。

そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

以上の二つを(地形)の自立的関係性・プロセス的重層性と仮に呼ぶことにします。(しっくり来てないのでいいのが思いついたら書き換えます)

地形と(地形)

また、一つの地形である敷地に対して(地形)をつくりたいと言うのはどういう事でしょうか。

例えば(地形)の特質を備えた敷地に対してはわざわざ(地形)としての建築を建てる必要はないような気もします。(それはまだよく分かりません)

ですが、敷地・建物・モノその他私たちのまわりの環境から(地形)の特質は薄くなってきているのが現実としてあり、それに対する欲求は無意識のうちに高まってきているのではないか、という気がしています。

そんななかで地形ではなく(地形)を求めることに建築としての可能性があるのではないかと思います。

地形のような建築とは

これはゆっくり考えていきたいですが、(地形)の特質、自立的関係性とプロセス的重層性を備えたものと言えそうです。(特質についてはもっと考える余地あり)

必ずしも形状として地形のようである必要はなく、概念的なレベルで(地形)的であってもいいし、形状から離れた方がもしかしたら面白い発見があるかもしれません。

また、地形ではなくあくまで建築であるためのキモはどこにあるかも考えて行きたいです。
おそらく地形ではなく(地形)の特質をもった”建築”になるボーダーのようなものがあるはずです。

地形のような建築をつくるには

では地形のような建築をつくるにはどうすればいいか。

まず、地形のような建築と言ったときにいくつか頭に浮かんだものを上げてみます。

(A)伊東豊雄氏・藤本壮介氏等の一連の作品
(B)青木淳氏の決定ルール
(C)藤村龍至氏の超線形設計プロセス論やアルゴリズム
(D)マルヤガーデンズの試み

(地形)への憧れはこれらの方の影響が大きいので当たり前ですが、伊東氏・藤本氏・青木氏らの作品は自立的関係性が非常に高いように思いますし、藤村氏の手法はプロセスを圧縮し、恣意性を排除していくように思うのでプロセス的重層性も自立的関係性も高く(地形)を生み出すための手法ではないかという気もします。
また、人の活動と建築の関係を見た場合、ガーデンとしてのあり方を担保しているのは場の自立的関係性だと思いますし、活動という要素は未来に向けてプロセス的重層性が開かれているとも言えそうです。

では、他にどのような手法が考えられるか、についてはおいおい考えていきます。
アフォーダンスやオートポイエーシスのイメージといった自然のかけらとして集めてきたものがヒントになりそうな気がしますが、狙いを定めて建築に落とし込めるまでもう少し掘り下げる必要があります。

「地形のような建築」がとりこぼすもの

おそらく「地形のような建築」と言った場合とりこぼしそうなもの、というのが出てきそうです。

そういうものをすくい上げることで(地形)の特質を備えつつより飛躍するためのヒントが見つかるかもしれません。

そもそも、生活の場が(地形)であるべきなのか、と言うところからじっくり考えてみないといけません。
これについてもおいおい考えていきます。

以上、twitterのブログ版的な感じで、とりあえずをメモ的に書いてみました。

今後もう少し考えて見たいと思います。何かヒントがあれば教えて下さい。




第1回かごしまデザインミーティング

鹿児島建築の言論空間欲しい言い出しっぺの一人としてブログに書かないわけにはいかないな、ということで。
かなり長くなったし文体もめちゃくちゃですが宜しければどーぞ。

イベントのまとめ

とりあえずイベント内容の(外部サービスまかせの)まとめ。
(1)鹿児島大学建築学科M2のミソノ氏の発言からツイッターでイベントが発生し広がっていく行く様子をまとめました。
参加者がどんどん増えていったり、偶然のタイミングからアトリエ天工人との相互ustが実現するところは非常にスリリングです。
■Togetter – まとめ「鹿児島デザインミーティングvol.1 まとめ #KDMT」

(2)イベントの参加者と概要・レポートは以下。レポートの方にミソノ氏の問題提起の部分が紹介されています。
【だいやめ (だれやめ) 】: 5/23 第1回かごしまデザインミーティング!【改訂版】
【だいやめ (だれやめ) 】: 第1回KDMTのレポート。

(3)当日のustream

(4)相互ustが実現したアトリエ天工人の山下さんのustream

貼りつけただけですが、まとめは以上。

ニホンノハジッコ建築論

短時間できちんとした枠組みをつくっていると思ってなかったのでちょっとびっくりしました。

▲導入部ミソノ氏のブログより画像をとってSlideShareにより作成

このテーマについてはミソノ氏とも何度かつぶやきあってたので(なんか誤解を受けそうな表現w)いちいちよく分かります。
ハジッコがポジティブマイノリィーだということも良く分かります。多分”ニホンノ”ハジッコ、つまり地理的な条件がそうだというのもポジティブに捉えましょうというニュアンスなのではないでしょうか。むしろ、中央-地方の対立軸をあえて相対化するためのハジッコだと思います。

ではなぜ鹿児島で今「ハジッコ建築論」が必要なのか。集まることの意義は何か。

実際にバリバリ建築を生み出している人ほど「そんなに暑苦しく考えなくなくっても」という感じなのかなと思ったのですが、まずは僕の個人的な問題としてどういうことなんだろうか。

ひとつは、宇都さんのシメの言葉にもあったように、個々の設計活動の中で使えるデザインコードのようなものが欲しいということ。

同じデザインコードを使う必要があるとは全く思っていないけれども、人の作品をみたり対話などを通じてヒントをもらうこともあるだろうし、デザインコードのそのまた根拠になっているような考え方っていうのはきっと共有出来るんだと思う。

カゴシマの近現代建築史を浮かび上がらせることがそのままデザインのもとに繋がっていく。

これにはおそらく長いスパンでの蓄積があった方が効果は大きいでしょうし、蓄積はどこかで別の価値に変わるかも知れません。

また、単純に僕はカゴシマで設計をやっている人が何を考えて設計しているかすごく知りたいし、もっとオープンに外に出して欲しいと思っています。

次にカゴシマという社会(これは日本でも地球でも何でもいいんだけど)で設計活動をしていく中で社会とどうやって関われるかということ。

単純に社会に関わりたいというのでもいいし、
studio-L blog: 6/19の「いま、建築に何が可能か」
で投げかけられているように、いやでも死活問題として社会がある。
また、地方都市としての問題も現実としてそこにある。

社会の中で自分がどうやってやっていくかというのもあるし、自分が活動をしていくステージそのものをどうしていきたいのか、というのもある。

自分の中で考えるには限界があるし、そういう時代でもない。他の人が何を感じどう考えているのかも知りたい。社会に対してアプローチするには集まることで効果があがるかもしれない。(物理的に集まらなくても、認識や情報として集まるというような集まり方もあると思う)

並列な情報の時代に「直列でつなぎたい」というのはすごいインパクトがあって、「とにかくスゴそうだ」というパワーを感じたんだけれども、考えてるうちにそんな直列つなぎのアイデアも出てくるかもしれない。

ツイッターをやりだして特に感じるし、天工人の山下さんの発言に少し関係があるかも知れませんが、集まることそのものが凄い勢いで変化しているし、今までイメージできなかった可能性がひろがっている気がします。

皆が必ずしも”活動”をする必要はないと思うのですが、どういうテーマが設定可能でどんな可能性があるのか、ということをまずは知りたいのです。そのためには集まることやカゴシマを軸にしてみる意義があるのかなと思います。

また、この流れであわよくば(公的機関が発注すると言う狭義での)公共建築物についても話しが聞ければいいな、というのがありました。今の鹿児島では公共建築物の設計をしようと思えば、ほとんどの場合は一定のレールに乗っていないと権利がありません。

それはいろいろな意味で”ルール”ですからそのルールに基づいて権利を取得しないのが悪いということもあるし、ルールによって担保されている部分もかなりあります。

しかし、鹿児島でも多くの優秀な設計者がそのレールに乗れない、または乗らないという判断をしている事実は単純に勿体無いという気持ちがあります。

僕もそのレールに乗るという選択肢はあったのですが、開業時の判断では”乗らない”を判断しました。
この辺についても他の方が乗ってるのか、乗らないのか、乗れないのか、興味がないのか、その辺から聞いてみたい気がします。

この部分にアプローチをしようと思えばおそらく個々の力では難しいし、単純に集団の力をと言うのであれば利権団体と変わらず古いやり方を繰り返すだけの気がします。
対立軸を生むようなやり方もしっくりこないし、可能性がもしあるとすればどこにあるんだろうかというのは良く見えませんがこれもひょっこりアイデアが浮かぶやもしれません。

ただ、今から(狭義の)公共建築物うんぬんとこだわっても仕方ないんじゃないかと言う気もします。
公共建築物の担っている機能のうち多くのものはもしかしたら、公的機関を主体とせずともその機能を代替したり補完するものが新しい集まり方の可能性の先に生まれてくるかもしれません。
感覚的なものでしかないですが、もしかしたらマルヤガーデンズはその先駆けになるかも知れませんし、経済状況や情報分野のあり方の変化の速度を考えるとそれが当たり前になるかもしれませんし、そちらにアプローチする方が可能性が大きいかも知れません。

そういう動きによって公共というものの空気が変わって公的機関が変わるかもしれません。

天工人山下さんのustから

東京なんかのメジャーであったところが勝つって言うのは前世紀の話で歴史や内容を持っているところが残る・大切のいうのはむしろ、今回のテーマや活動する動機の核心の部分であると思います。

それが今回集まってくださった方で共有されていたかどうかは分かりませんが、それをまずは共有してみてその先を考えてみましょうというのが第1回目の目的だったと言えるかも知れません。

「クロスカルチャー」「関係をつくったなかで自立した関係の両者が融合していくコラボレートではなくて、その次に新しい次元のものをつくり得るというのがクロスカルチャーで、そういう点では東京も鹿児島も関係ない」
「今までの既存のシンポジウム・展覧会じゃない方が良くて、専門領域だけじゃなくて一般の人を巻き込んだ方がいい。」「リアルとインタラクティブ」「鹿児島が中心となって発信する」

キーワードとしてあげていただいた「クロスカルチャー」「リアルとインタラクティブ」

うまく消化ができていないのですが新しい集まり方の可能性のようなものを感じました。
自立した個々よりも関係性そのものの動きに重きをおくとすればオートポイエーシスが頭に浮かぶのですが(オートポイエーシスもう少し勉強せねば)、これは藤村さんの本を読んだ時に感じたことと似ています。
オノケンノート » B150 『1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築』

実は著者の唱える「批判的工学主義」をきちんと読んだことがないのですが、この本を読んで、著者にはそんなイメージ、ある問題意識(よりもう少し大きなくくり、社会性のようなものかもしれませんが)が作動し続けて大きな運動体のようなものになるイメージがあるのかもしれない、と思いました。

そう考えると”集まることの意義”については、さっき書いたような個別の動機だけではなく、関係性そのもの、集まり方そのものに焦点をあてることも必要かもしれません。

最後に

ということで今回の動きに対する僕個人の動機をひとことで言うと「可能性を開きたい」ということになるような気がします。

まー、まだ1回目なので今後どういう展開になるか。その先の話は楽しみに取っておきましょう。
テーマさえ発見し続けられればぜったい面白くなると思いますし、面白くなって関係性の動きのようなものが出てくればテーマも勝手に決まっていくんじゃないでしょうか。




身体性/関係性マップ

5月5日のつぶやきで考えたこと。

onokennote: やっぱりコルからは学ぶことしか見つかんないんだよな。 [05/05 01:03[org]]


onokennote: 身体性からのイメージを都市的なものまでぐぅーっと柔らかく引き伸ばすために必要なものはなんだろう。 [05/05 01:06[org]]


onokennote: でも、例えば総体としての社会に対してもっとこうなって欲しい、というような視点はもともと学生のころから基本テーマとしてあったはずだし、それも身体的な感覚に近いところから出てるはず。 [05/05 01:10[org]]


onokennote: いろんなスケールを通してぐぅーっと引き伸ばしたイメージに身体性に基づく何かをプロットしていき線状になるまで育てていけば、滑らかに違和感無く連続したイメージを持てそうな気がする。 [05/05 01:13[org]]


身体性に基づいたところから様々なレベルでの多様な関係性を築ければ豊かな建築ができるんじゃないかという思いがあるのですが、それをマッピングしてみたらどうなるだろうということでフォーマットをつくってみました。


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まだほとんど何も書いてませんし思いつきの段階ですが、横軸にはスケールを縦軸にはいくつかのグループを割り当てて、その中に建築に繋がりそうな要素をどんどん書き込んでいけばスケールを横断した大きなイメージを持てるようにならないかなと思っています。
ヒント・キーワードの部分は全体を通して方法論に繋がりそうなことをメモ的に。
最終的には文字ではなくイラストっぽいので1枚にまとめられたらいいんだけどそこまで行きつくかなー。

2年ほど前にも自分なりの評価シートを作ろうとして結局そのままになってるので今回もやっぱり行きつかないのか。(今見てみるとこの評価シートも何とかカタチにしときたかったな)

こういうのをソーシャル的につくれればいいと思うんだけど経験的にはネット上でそういうのを期待するのは案外難しいんだよな。ワークショップ的ブレスト的にやれば可能性はあるのかな。

長めの時間をつくって手描きでごりごりっとやってみるか。




W050 『意外な史跡の宝庫 小野町の魅力☆新発見』

久しぶりにかごしま探検の会のまち歩きに参加してきました。

解説音声はこちらのケロログで聞いて下さい。説明は東川さんにすべておまかせ。

各ポイントのGoogleMapは
岩崎橋付近をスタート
石井手用水
聖宮・・・あけぼの幼稚園横から竹やぶを直進
田の神さぁ・水門
日枝神社
六地蔵尊

地元の人もこんな場所・歴史があることをしらないかも知れません。
音声をiPod等にいれて各ポイントをめぐれば、擬似探検の会ができそう。
Ust中継とか絶対面白いと思うけど(twitterで東川さんに突っ込み入ったり)だれかやりません?




設計事務所を10月に開設します。

オノケン

先日、勤め先の所長に設計事務所を開設するので辞めたい旨を伝えました。

といっても、前々から「もし辞めることがあれば代わりを探さないといけないので半年程度前には言ってほしい」と言われていたので、今の現場が終わる9月末まで勤め、設計事務所を開設するのは今年10月になります。

個人住宅・集合住宅・事務所・店舗・病院その他どんな建物でも、皆さんのお役に立てる機会ができれば嬉しいです。(率直にいうと、新築・改築・リフォーム問わずお仕事まってまーす!です)

ワクワクとともに不安もありますが、多くの人に喜んでいただけるような仕事が楽しくできればと思っています。

その前に、このサイトも「どんなことを、どういうふうに、いくらで」やれるのかと言った、基本的な情報を伝えられるように修正しないといけないなー。