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IEってほんとに・・・

今日、久しぶりにInternetExplorerでサイトを見てたら表示にいろいろと不具合がでてる。

それを直すのに何時間もかかってしまいました。無駄な時間使った・・・。

IEを無視したいところですが、このサイトを訪れて下さる方のブラウザの7割以上がIEですので直さないわけにはいきません。

FirefoxでもGoogleChromeでも、IE以外なら何でもいいんでみんな乗り換えればいいのにっ!

GoogleChromeがどう評価されるのかは分かりませんが、IE以外の選択肢になることをGoogleパワーで推し進めてもらいたい。




W042『すごいぞ!加治木のまち歩きRETURN』


加治木でのかごしま探検の会のウォークラリーに参加してきました。

雨が降りそうなのでどうしようか迷ったのですが結局息子を連れて二人で行きました。
同じ会に参加するおばあさんが「東川さんは晴れ男だから大丈夫」と言ってた通り、雨も何とか持ちこたえてくれました。

島津義弘のお膝元ということで歴史の宝庫なのですが、地元の加治木石を利用した石垣などでつくられたまちなみが印象に残りました。

石垣や緑があり、地形に奥行きや起伏があり、道もカーブを描いていたりと、親しみを感じさせるまちなみです。
こういうまちなみがこういう場所に残っているというのを感じられただけでも収穫でした。

P.S
ほぼ同じコースの記事がありました。写真はこっちの方がきれい。(投稿日が昨日ですが、偶然?)

加治木町・仮屋馬場通り – 鹿児島みてある記2
加治木町・曽木家の茅葺門 – 鹿児島みてある記2

この方の記事を見ていると、鹿児島はすばらしい町並みがまだ沢山残っているんだなぁと勇気付けられます。




FLASH

昔いじってたFLASH5を引っ張り出してきて、トップページのアニメーションを作ってみました。

モーショントゥイーンはなんとなく覚えてたようです。

5年ほど前はオールFLASHのホームページにしてたのですが更新がしずらいのでやめてしまいました。
その後、バイト先の人にFLASH関係の本を全部貸してそのまま・・・・。

SCRIPTの使い方は完全に忘れてしまいました。
返してくれるかしら?ってか携帯つながるかなぁ?




eulerian cycle

与条件のスタディ。

一筆書きで環をなす一枚の壁・スラブで空間を作る試み。

どこまでもつながっていく壁がイメージを引き伸ばす。

実は藤本壮介のK Houseを横に倒してみようとしただけなのですが。
昨日垂水へ行くフェリーの中でなんとなくスケッチを書いていたらなんかまとまりそうだったのでざっとつくってみました。

K Houseのような突き抜け感がないのはスラブの扱いが常識的過ぎたからかも。

オノケンノート‐HOUSE STUDY-10 [eulerian cycle]




雑誌をみて

帰りにちょっと本屋によって雑誌を見てたら「新建築」に藤本壮介のHouse Nが載ってました。

どんな空間になるんだろうかと思っていましたが、実物の写真を見ると初めてみるような空間でした。
写真だけなんで、実際に長時間過ごす住まいとしてどう感じるのかは判断できませんが、新鮮な心地よさを感じられそうです。

また、「住宅特集」で青木淳による長谷川豪のインタビューが載ってましたが、狛江の家のテラスに目隠しをまわさない意志に興味を持ちました。
地域性にもよりますが、実際あそこで過ごすには少し勇気がいるだろうし、お客さんのことを考えれば目隠しをつけた方がいい、となりがち。
それでも、あえて目隠しをつけないことで、建物がかわいらしい奴に見えてくるから不思議です。
町並みにおいての効果は、2Dデザインのホワイトスペースに似ているかもしれません。

たまには雑誌を見るのもいいかな。




複雑な心境です。

こないだ提出したプロポーザルですが、15社の中、ウチの事務所に決まったみたいです。

所長は喜んでいましたが、正直、複雑な心境。

審査講評を読む限り、当たり障りのないことしか書いておらず、うまくまとまっている、つまりパズルが上手に解けた、っていう評価しか読み取れませんでした。

単なるパズル以上の思想が担当者にあればいいですが、誰も問題を共有できる人がいなければ相当のストレスを溜め込みそうです。

例え僕が投げ出したとしても代わりの誰かが設計を行うでしょうし、制度そのものをすぐに変えることも無理でしょうから、与えられた条件の中で出来る限りのことをするしかありません。
ですが、どういうものをつくったとしてもこの仕事によって「制度そのものを強化してしまう」事からは逃れられそうにない気がします。

こういう問題で苦しんでいる方々に顔を向けられなくならないような仕事が僕に出来るでしょうか・・・・無理かもなぁ・・・・

憂鬱だ。




B143 『藤本壮介|原初的な未来の建築』

藤本 壮介 (著)
INAX出版 (2008/4/15)


影響されるのが怖くて我慢してたのですが、結局買ってしまいました。

藤本氏は1971年生まれで、ほぼ同年代。違和感なく、すっと入ってきました。

当たり前でいて新しい

書いてることややってることは、一見、当たり前のようでいて、実はすごく新鮮で説得力があります。
こういう、『原初的』な説得力を持ちながら『未来の建築』を発見しているところが才能なんだろうなぁ、と思います。

ところで、僕も学生の頃『棲み家』の魅力というものを考え始めて、
オノケンノート ≫ 棲み家

僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。

今でも、それを追っているようなところがあるのですが、こういう欲求は藤本氏はじめ、僕らの年代にある程度は共通しているような気がします。

それではそういう欲求はどこから生まれているのでしょうか?

集団的無意識への欲求

藤本氏はいろいろな関係性をその『成り立ち』のところまで遡って、その関係が生まれる前の未分化な状態に思いを馳せることで発想を得ているようです。

最後の藤森照信との対談では(若干、噛みあっていない気もしましたが)藤森氏が述べた『集団的無意識』というのがキーワードになったと思うのですが、それで藤本氏の目指すイメージが少し浮かび上がったような気がします。

民家の魅力は、集団の無意識を満たしていることにあります。ああいう形が練り上げられ、成立するために、ものすごい時間をかけているからなんです。その長い時間の中で、自然化が行われるんですね。(中略)その秘密は時間なんです。時間は個人を越えた、集団的無意識のような感覚に働きかける力がある。それを人為的に出来るのかということですよ。(藤森照信)

近代化は時間や集団性といったものとの断絶を前提として進められたと思うのですが、そんな中で育った僕たちには時間の生み出す集団的無意識に包まれたいという欲求がたまっているのかもしれません。

そういう欲求が建築を、自然の生み出すような自分たちの手の内を越えたような存在であって欲しいという願いになっているのかもしれません。

藤森氏はその可能性を「材料」の持つ時間に見出していますが、藤本氏はあえてそれに頼らず、建築の「成り立ち」だけで実現しようと考えているようです。

工業製品である建築材料のみを使ってその「成り立ち」だけを実現する、庭のような建築を生み出せないかと考えています。(藤本壮介)

藤森氏が「藤本さんは時間を偽造したいと言ってるのではないでしょうか?」と言っていますが、藤本氏は原初的な関係性にまで遡ってそれを未来に接続することで時間(自然)を建築に取り込もうとしているように思います。

ルイス・カーンはじめ、建築の原初に遡ろうとする考えはこれまでもあったと思います。
それと、集団的無意識に包まれたいというような強い欲求がつながったところが新鮮さの秘密なのかもしれません。




犯罪が私たちを不安にしているのか

少年犯罪、最近では犯罪被害者について書いている藤井氏が対談集を出すようです。

対話集の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』(双風舎)。|藤井誠二のブログ

いま編集中の本の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』

鋭く対立している議論もあれば、ぼくがインタビューアーに徹しているパートもある。いずれにせよ、「重罰化社会」をどう考えればいいのかという切り口が満載で、いまゲラを読んでいてもかなりの読みごたえがある。この問題に関心がある方は必読だと思う。

最近こういう問題に首を突っ込みかけたのでこれも読んでみよう。




評価シート

事務所でなんとなく読んだ日経アーキテクチュア (2008-3-10)に竹中工務店の作成した環境配慮設計(環境人間学)評価シートというのが掲載されていました。

CASBEE(建築物総合環境性能評価システム)等の省エネ等環境に配慮しているかどうかを評価するシステムはこれまでもありましたが、これと併用するもうひとつの軸として、「自然を媒介とした情感の部分」を軸に評価するシステムを独自に作成したものです。エコとエモだそう。

転載は自粛しますが、このシートがまるまる掲載されていてなかなか良さそうです。

「知覚の素地」「触覚」「嗅覚」「聴覚」「味覚」「視覚」のそれぞれの項目に対して、「配置」「中間領域」「平断面」「素材」「ディテール」の各設計段階でどのような配慮を行ったかを具体例をもとにチェックしていくというものです。

例えば「触覚」の「中間領域」の具体例は「温湿感変化のある経路空間/湿とりしたピロティ・半地下空間/風を冷やす中庭の池・水盤/風を通す出窓の風穴/光風を取り込む屋上庭園/風邪の抜けるピロティ/その類」とあります。

僕もエクセル化して活用しようと思っていますが、学生の人なんかは参考になるのではないでしょうか。

ただ、このシートを使えば自動的にいいものが出来るというわけではなく一つのツールでしかありませんし、注意しないと大手らしい優等生的建物になりがちだと思われます。(雑誌なんかを見ていても、大手事務所はきれいにまとまりすぎてるのでだいたいすぐに分かります)

経済性のみで建築が決まることが往々にしてありますし、こういう「エモ」な側面は軽視されがちなので、こういうシートで具体的に評価をする習慣ができればある程度の成果は上がるかもしれません。弊害ももちろんあるでしょうが、役所なんかにこういうのが広まるのは価値観のカウンターとしていいんじゃないでしょうか。

ただ、もっと違う視点のものも欲しいということで、これまでブログなどで考えてきたことのまとめも兼ねて、第3の軸、自分なりのオリジナルシートをつくってみようかと思っています。

とりあえず、最初のバージョンが出来たらアップします。

追伸

とりあえず作りかけのヤツを置いときます。
竹中版は最初の方でとまってたみたい。
誰か補完してくれたらな~。




B142 『犯罪不安社会 ~誰もが「不審者」?』

著 浜井 浩一 (著), 芹沢 一也 (著)
光文社 (2006/12/13)


引き続き芹沢氏関連の本を読みました。

凶悪犯罪は増えていないし、低年齢化もしていない。っていうのはよく聞きますが、こういうことを他の人に話した時に「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応が何度か返ってきたことがあります。

それで、一冊は関連の本を読んでみようと思っていたところにこの本にぶつかったので読んでみました。

凶悪犯罪は増えていない

第1章で浜井氏がやさしく解説してくれているので、詳細は本書にあたっていただきたいですが、犯罪統計を読むと凶悪犯罪は増えていませんし低年齢化もしていません。

反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
少年犯罪データベース少年による殺人統計
等のサイトを見ても分かりますし、少年犯罪データベースのほかのページには昔の凶悪犯罪が列挙されていて、現在が犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないことが分かります。(あまり気持ちのいいものではないのですが)

それでは何が変ったのかというと犯罪の語られ方が変ったということです。
それまでもあった個々の犯罪が「時代の象徴」として語られるようになり、その次には「恐怖の対象」として語られるようになった。
それによって、「犯罪」が増えたのではなくて「犯罪不安」が増えた。

では、それの何が問題なのでしょうか。

ヒステリックな社会はごめんだ

子供たちを人が信じられない子に育てたくはないが、事件が起こる度、やはり私も子供たちに「知らない人がお菓子をあげるといっても、ついていっても、ついていっちゃダメよ」と話をしてしまう。
先日、散歩に出かけた時に、手をポケットに入れたまま、子供たちを乗せた乳母車に近づいてくるおじさんとであった。
おじさんは手を出し「かわいいねぇ」となでようとしただけだったが、その頃、刃物をポケットに隠し持ち、いきなり子供を切りつけるという事件を聞いた直後だったので、血の気が引いた。(『朝日新聞』名古屋版2006.3.18)

上の文は芹沢氏が引用した文ですが、実は僕も「血の気が引いた」ことが何度かあります。

普通のコミュニケーションの機会が恐怖の瞬間になる。
冷静に考えて、目の前のおじさんが通り魔である確立はどれぐらいでしょうか。その確立は車に乗って、あるいは道を歩いていて交通事故にあう確立に比べたらどうなんでしょうか。

もし根拠のない単なるイメージによって、ヒステリックな息苦しい社会で不審者に怯えながら生活をしなければいけないとすれば、それはちょっとごめんだと僕は思います。

また、そのヒステリックな社会から締め出され追い詰められるのは例のごとく、高齢者や障害者等の弱者です。(刑務所に入所しているのはこういった人たちばかりで、それは治安悪化の結果でなく、治安悪化「神話」の帰結だそうです)

そういう、他人へのイマジネーションを欠いた社会も、単なるイメージに世論と政治が振り回される社会もやっぱりごめんだと思います。

考える一つの基盤として一読してても良いかもです。

メモ

・犯罪の語られ方についての芹沢氏の「醒めない夢」から「醒めない悪夢」へという例えは秀逸。

「醒めない夢」:1988年に起きた宮崎勤の事件をきっかけに、「醒めない夢」という解釈ゲームに引きずり込まれた。不可解な事件の時代性が語られる。いくら解釈を試みても決して実態のつかめない「醒めない夢」
「醒めない悪夢」:2001年の池田小の事件をきっかけに、犯罪は解釈ゲームの対象から恐怖の対象へと変る。犯人は解釈不能な怪物となり、その怪物の影に怯える社会。「不安」という実体のないものによる恐怖は決して消えることのない「醒めない悪夢」

芹沢氏の分析には流れというかストーリーがあって分かりやすいのですが、このインタビューの第2回、第3回で語られているようにそのベースには「フーコー的なものの見方」があるようです。

・「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応から読みはじめた本ですが、こういう問題で一番大切なのは、人間は偏見を持ちイメージに流されるもので、自分も例外ではない、というところからスタートすることかもしれません。
どこまで疑ってもきりがないかもしれませんが、その自覚は絶えずなくさないようにしたい。自戒を込めて。

・「ヒステリックな社会」も「他人への配慮」も方向はまったく逆ですが同じイマジネーションがベースになっています。
その違いはどこから生まれるのでしょうか。
・自分は偏見を持つという自覚の有無
・それによる「知る」責任の自覚の有無
・イマジネーションの射程距離。自分の直近だけしか想像しないか、自分を離れたもっと多様なものへイマジネーションを広げられるか。

・とかそんな感じか?ほかには?




B141 『狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』

芹沢 一也 (著)
講談社 (2005/01)


ちょっと長くなりそうです。

仕事で略称「医療観察法」について調べる機会がありました。

最初に医療観察法.NETにたどり着いたのですが、どうもいろいろと議論のある法律のよう。
このサイトの「入門編~初めての方へ~」のところにあるリーフレット(PDF・最後だけでも是非読んでみてください)の八尋氏の書いた結びの文章が心に残ったので、


を最初に読み、その他いろいろと調べているうちに司法と医療の関係に問題がありそうだと分かり、そしてたどり着いたのが本書です。

他にも


等が参考になりました。マンガの好きな方は『ブラックジャックによろしく』が分かりやすいかと思います。
こういうデリケートな問題をマンガにするには相当な勇気がいったのではないでしょうか。

この非常にデリケートな問題に対し、数冊読んだだけでは断定できないとは思いますが、この法律に肯定的で説得力のある文章には今のところ出会えていません。どうやら根本的なところに問題が潜んでいそうな気がするのですが、本書はそれに対してひとつの見方を示してくれています。

また、僕の親しい人の中にも精神科ユーザーが何人もいますが、信頼できる魅力的な人たちばかりです。
デリケートな問題なので触れるべきではないとも考えましたが、この問題の根本には誤解やイメージの捏造が最大の問題としてある事を考えるとやはり何かしら書くことにします。

医療観察法の問題点

この法律を調べていて気付いた大きな問題点は大まかに次の二つです。

・精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということ。
・医療という名のもとで精神障害者が司法の世界からはじき出され不当に扱われてしまうこと。

精神障害者=危険という偏見

問題はこの法律が単なるイメージの刷り込みによる世論をうけて出来たということです。

詳しくはいろいろなところでも書かれているので省きますが、『精神障害者=危険』というのはイメージだけで、実際には犯罪率や再犯率はむしろ低いのです。

『ブラックジャックによろしく』でも描かれていますが、きっかけになった池田小の事件の犯人は精神病を詐病してたのですが、メディアは煽るだけ煽って肝心なその後のフォローをほとんどしていません。

結果、『精神障害者=危険』というイメージのみが一人歩きをしてしまいました。そして、ここが一番の問題なのですが、この法律はその誤ったイメージに『国のお墨付き』を与えてしまいます。つまり国が『精神障害者=危険』ということを認めた、というメッセージを流してしまうのです。

それが、多くの精神科ユーザーやその家族の方をどれだけ追い込んだか想像してみて下さい。
あなたやあなたの大切な誰かがふとしたことで追い込まれる様子を想像してみて下さい。
それが正当な理由なく、単なるイメージの暴走で国を挙げて行われている悔しさを想像してみて下さい。

人間は自分は偏見を持たないと思っていても、誤ったイメージで偏見を抱いてしまうものだと思います。
オノケンノート ≫ BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』

僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。

この番組をみて、同じ人に対する僕の見方がこんなにも見た目で左右されるのかと本当にショックを受けました。
人間は偏見を抱いてしまうもの。そこからスタートしなければならないと思いました。
そして、偏見に気付くには「知る」しかありません。

精神障害者=危険なのではなく、一般の人々と同じく、危険な人もいればそうでない人もいる。それだけです。

保安処分?

医療観察法では「再犯のおそれあり」と判断されると無期限で施設に収容される可能性があります。
司法による懲役刑よりもはるかに長く収容される可能性もあり、いわゆる「保安処分」以外なにものでもありません。

「保安処分」の是非そのものについてはここでは置いておきますが、問題は保安処分が必要だとすれば実際には再犯率の高い性犯罪者などもっとしかるべき対象がいるのに、なぜイメージだけで精神障害者だけが特別扱いされるのか。ということです。

ここにもうひとつの問題、医療と司法の関係についての問題があるように思います。

狂気と犯罪との偽装結婚

本書でその医療と司法の関係の歴史が紐解かれるのですが、そこで描かれているのは精神医学が主導権を握るために司法に介入し狂気と犯罪との関係を捏造していく歴史です。

だが、ここに大いなる詐術が持ち込まれる。犯罪と「狂気」との関係が、犯罪を行った人間をこえて一般化されるのだ。犯罪と「狂気」の関係はもはや偶然でないとされ、そこに普遍的な因果関係が捏造されてしまうのである。そうなると、たまたまある精神障害者が犯罪に及んだものとは、もはや考えられなくなる。ここが「狂気」の歴史に生じた最大の転換点だ。

まさに、精神医学が狂気と犯罪とを偽装結婚させたのです。

そうなると問題は、刑法第39条「心神喪失者の行為は罰せず、心身耗弱者の行為はその刑を軽減する」にあるのではないかという気がしてきます。
実際、刑法第39条によって裁判を受けることも出来ずに不利益をこうむることも多いようですが、これによって精神障害者が特別扱いされることが、『精神障害者=危険』というイメージを強化する源泉となっているようです。また、重大な事件をおかした者を司法から医療へ丸投げしてしまうことによる弊害も計り知れません。

「狂気の脱犯罪化」という思想

何よりも必要なことは、精神の病を過剰な意味づけから開放して、「普通の病気」にすることではないか。「狂気」の脱犯罪化こそが、現在、最も求められていることではないか。
そのためには、犯罪を行った精神障害者も裁判を受けることができる仕組みをつくるべきではないだろうか。

僕が今まで考えた中では、この思想の先にしか最終的な解決策はないのではないかという気がしています。
精神障害者も同じ司法の上で平等に扱われるために、刑法第39条を見直すことも必要かもしれません。(刑を軽減することはあっても良いと思いますが)

どうですか?保岡法相。

p.s
・難しい問題ですので、間違い等ありましたらご指摘ください。
・調べている途中こういうページを見つけて最初びっくりしてしまいました。これなんていう誘導尋問?っていう感じでとても調査とは言える代物ではないですが、これを内閣府がしてたのだから今は少しはましになってるのかもしれません。昭和36年は保安処分が刑法に採用されかけた年みたいです。
・先のプロポーザルはまだもやもやしてますが、『精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということをできるだけ避けること』を主題にしました。あまり過激にはしてませんが、おそらく発注者サイドには受け入れられないと思います。




追い込み


勤務先でとあるプロポーザルに参加しているのですが、仮眠をすませ、明日の夕方の提出に向けて最後の追い込み中です。

このプロポーザルでは、対象施設の存在意義や設計者の社会的責任と振る舞いについてなどいろいろと考えさせられたのですが、いまだに自分の中で明確に答えが出ていません。(いや、本当は答えが出てるのかもしれませんが)

コミットすべきではない、という想いと、問題意識を持たない設計者よりはマシ、という思いとの間で悶々としたままですが、今はやれることをやります。

何冊も関連書籍をあさったので、詳しくは落ち着いたら書いてみようかと思っています。

あー、このプロポーザル、本心では採れて欲しいような欲しくないような・・・。複雑な心境です。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展 ギャラリートーク


RAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展のギャラリートークがあったので行って来ました。

鹿児島大学准教授の井原慶一郎さんとイラストレーターの大寺聡さんのコラボレーション。
展開がまったく予測できなかっただけに楽しみにしていた展覧会です。

ギャラリートークでは展示されている作品の背景などを順に説明して下さって興味深い話を沢山聞くことが出来ました。

この展覧会のもとになった『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』は特定のメッセージを声高に主張するようなタイプの本ではなさそうです。研究の一成果の中からどういうメッセージをうけとるのかは個々が何を感じ考えるのかによるのかもしれません。(まだパラパラとしか読んでいないので誤解しているかもしれませんが)

そういう意味では特定のメッセージと言うよりはこの本をきっかけとした大寺さんの世界観が展示されているのだと思います。そこにコラボレーションの面白さがあると思うのですが、その世界に羨望の視線を送りながらも、職業柄かこの本で提示されている視点を僕の中でどう位置づけたらいいのかということに興味が向きます。

管理された視線?

ギャラリートークを聞きながら印象として浮かんだのが「移動性をもった仮想の視線」というものも管理された視線でしかないのではということ。
大寺さんのsale@departmentという作品の中、エスカレーターに乗っている人たちは主体性を剥ぎ取られた監獄の中の人のように見えました。

「パノラマ、ジオラマ、ショーウィンドウ、パサージュ、デパート、万国博覧会、パッケージツアー、映画、ショッピングモール、テレビ&ビデオ、ヴァーチャルリアリティ・・・」、どれも見る側と見られる側、見る空間と見られる空間がはっきりと区別でき、その視線はあらかた計画・管理されたものでしかありません。

パノプティコン(全展望監視システム)の断面が描かれた作品がありましたが、「移動性をもった仮想の視線」は見られる側に主体性を与えているようで、管理の仕方が実はより巧妙になっただけではないのかなと言う気がしました。
例えばショッピングモールにしてもそのミニチュア世界の完結した中で自由に振舞ってもらっている限り、客を管理することは容易になります。
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

後で井原さんに聞いてみたところもともとはフーコーがパノプティコンを引用して描いた主体と、ここでいう遊歩者は対立する概念だったようですが、パノプティコン的遊歩者というような概念も後に提示されているようでした(間違ってたらごめんなさい)。

想起するキーワード(備忘録として)

わけが分からないと思いますが、この展覧会の前後に浮かんだキーワードを備忘録として時系列で並べてみます

移動する仮想の視点-現実の再現
リアリティリアル-フィジカル
コルビュジェ建築的プロムナード写真→映像
アフォーダンス移動する視線環境とのインタラクティブな関係リアリティ
ミニチュア
ポストモダンシミュラークルアートデザインの役割
パノプティコン管理社会
受動性と能動性モチベーションの減退
スーパーフラットバリアフリーメンテナンスフリー○○フリー
歴史の消滅時間・記憶の消滅

なんとなく「ウィンドウ・ショッピング」的なるものに否定的な見方になってしまいそうですが、否定的な部分とそうでない部分も混ぜ合わせたようなイメージがもてればいいなと思います。

また、最近の伊東豊雄や青木淳の「動線体」、藤本壮介初め若手建築家などをみると、「見る側と見られる側、見る空間と見られる空間」のような単純な図式を溶解させることによって新しい主体性を得ようとしているように思いますが、これとうまくつながるのかどうか。

8月11日まで

展覧会は明日(本日)8月11日19時までです。まだの方は機会があれば是非。

ちなみに、大寺さんのヴィジュアルブック(写真左・500円)はかなりオススメです。

『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』はじっくり読んでいずれ感想書く予定です。




boolean-1


ヴォリュームを直接的に扱ったものを与条件としてみる。

直方体を大地も含めて別の直方体が貫く。
そういう明確な操作が建物と人との関係性を浮き上がらせることはないだろうか。

その内部を貫きえぐられた断面を主要な開口としそれ以外の開口を最低限に抑えることで、割と面白い関係が生まれそう。

ヴォリュームの操作は他にも試してみたいのでboolean-1としとこう。

えっと、まとめて模型つくらないとなぁ。

オノケンノート ≫ HS-09 貫通した家




B140 『アート/表現する身体―アフォーダンスの現場』

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2006/09)


以前から、佐々木氏はどうしてアートやデザインにこうも肉迫できるのだろう、と思っていたのですが、この本の冒頭で理解できたように思います。

佐々木氏は若い頃に文楽(人形浄瑠璃)に魅せられて、その道を志して修行をしたことがあったそう。
文楽は途中腰を傷めて挫折したそうですが、その間に自ら修行をしながら超一流の人の身体から生み出されるものを目の当たりにした経験があったからこそ、理論をアートやデザインに結びつけることが可能になったのでしょう。

さて、この本は様々な研究者がさまざまなアートの第1人者について科学的に分析するパートと、アーティストへのインタビューのパートで構成されています。

ゲストとなるアーティストは

・劇作家/演出家:平田オリザ
・落語家:柳田花緑
・指揮者:井上道義
・ヴァイオリン奏者:マルグリット・フランス
・アニメーター:高坂希太郎
・舞踏家:岩名雅記
・写真家:新正卓
・文楽:吉田勘弥

分析のパートは少し読みづらかったですが、それを受けてのインタビューのパートはそれぞれのアートに対する姿勢、身体性とアートの関係を感じられて面白かったです。

建築における身体性、というものには昔から興味がありましたが、どうやって身体性を建築に結び付けられるからはこれからのテーマでもあります。

設計者の顔がみえる建物に魅力を感じるのですが、このテーマに関するヒントがここにあると思っています。




自動車エイリアン説。


まち歩きのときに東川さんが谷山の路地がいずれ区画整理でなくなると言われていましたが、ずっと先のことだろうと思っていました。いまどきそんな無駄な事をしないだろうとも。
だけど、妻から「本当に区画整理されるそうだよ」と聞かされて調べてみると本当のようです。

鹿児島市ホームページ |谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画決定

先般、縦覧いたしました谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画につきましては、このたび鹿児島県知事の認可を受け、土地区画整理法(昭和29年法律第119号)第55条第9項の規定により、下記のとおり平成20年3月21日付け鹿児島市告示第239号で事業計画決定の告示をいたしましたのでお知らせします。

PDFの計画図を見てみると、はぁーというような区画整理です。本当に必要なのだろうか。
道路が完全に直線でないところが救いですが、先に谷山の別地域(開陽高校周辺)で行われている区画整理のようにまた砂漠のような景色が広がるのかと思うと憂鬱です。
また、このまちの魅力が失われて、どこにでもあり、どこでもないようなまちになってしまうのでしょう・・・。
住んでもいいなと思える風景はどんどん消えていってしまいます。

そんなこんなで、今朝、自転車をこぎながら景色を見ていたら、いつもの景色が妙な風に見えてきました。

自動車エイリアン説

ネタバレになってしまいますが、こないだ読んだSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、地球の支配者は実はネズミで、人間はあることのために利用されていると言うオチでした。

同じように、もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。

車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。
そのために人間は必死で働き、自分たちの居場所をあけわたし、全てにおいて車を優先させます。

道路を拡張し駐車場を最適化するために区画整理を実行し、高速道路を作り、また、(車にとっての)集会場を各地に設置するために(人間用の)商業の場所を一箇所に集約して車のために尽くします。

人間には自分たちが支配者だと思わせるために、ちょっとしたスペースと時間、あと運転という作業を残しておいているのも計算ずくのことでしょう。

建築の計画でも、車の通路や駐車スペースが最優先の条件になって、そのために建物の自由度が大いに奪われる、ということが多いのですが、それも実は自動車に操られていたのですね。

そう思いながら、自転車をこいでると、道を走っている車、駐車場にとまっている車、みんなふてぶてしい顔に見えてきました。人間に気づかれてないつもりだろうが、俺は気づいてんぞと。

こんな妄想もあんまりぴったりしすぎでちょっと怖いですが。
もし明日交通事故にあったりしたら、それはエイリアンの陰謀に気づいたせいでしょう。

エイリアンとの共存を

ただ、僕はエイリアン(車)を地球から追い出せ、と言ってるのではありません。

僕も車のお世話になってるし(車にそう思わされているだけか?)、人間と良好な関係を築いている車も少なくないでしょう。

ただ、もうちょっと、車最優先にしてきた事を人間の側に取り返してもいいんじゃない、と思うだけです。

その時、区画整理は本当に必要か、もっと小規模なことやソフトで解決できることってあるんじゃない、と思うだけです。

是非とも、エイリアン(車)との共存を。

『住宅エイリアン説。』に続きます。(続きません)




小児医療が無料と言われれば

みんなの意見で社会が滅ぶ – レジデント初期研修用資料

黒幕はいない。
(中略)
こんな流れの真犯人は、そんなに困ってない大多数が「ちょっとお得」なやりかたを志向する空気であって、 あとから犯人扱いされる人達は、たしかに破綻の特異点に立ってはいたけれど、 誰にもたぶん、そんな流れを止めるだけの力はなかった。

なんか、良くわかる気がします。
自分にとっての「ちょっとお得」を求めるだけで全体を俯瞰することが出来なくなってしまう。

と言っても、自分だって判断材料がなければ「小児医療が無料」と言われればつい肯定してしまっていたかもしれません。

「みんなにとっての「ちょっとお得」ではないけれど、こっちの方が正解じゃないの」と言っても選ばれる、という民意に対する信頼が必要でしょうが、そのためにはかなりの底上げが必要でしょうね。

ただ、社会的プラットフォームそのものに対する意識の希薄な日本ではなかなか難しいかもしれませんが。

オノケンノート ≫ B110 『M2:ナショナリズムの作法』

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。(宮台)

どうすればいいんでしょうかね。
個々が意識をもって勉強するより仕方がない気がしますが、『社会的プラットフォームそのものに対する意識』は教育である程度意識付けが出来るようにも思います。




B139 『銀河ヒッチハイク・ガイド』

ダグラス・アダムス (著), 安原 和見 (翻訳)
河出書房新社 (2005/9/3)


仮説テント 銀河ヒッチハイク・ガイド・ガイド

ダグラス・アダムスという人は天才ですね。 いわゆる「その発想はなかたった」って、何度言わされたことか。

ということで読んでみました。

ガイドは先の引用先に任せるとして、
うーん、痛快です。ここまであれだと心地よいですね。

感激するしかない発想のレベルと軽快なテンポにやられてしまいます。

深遠さを詰め込んだ袋をべろんと裏返したら、深遠さは宇宙に離散し、袋の中にはちょっとした笑いだけが残った。というような励ましが得られるかもしれません。
もしかしたらですが。

ちなみに、訳者は鹿児島出身の方のようです。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展

先日サツマッティ展が終了したRAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展があるそうですが、なかなか興味深そうな本です。(サツマッティには僕も12日に行ってきました。Tシャツはオンラインで注文できるようになるようです。多分)



ベンヤミンのパサージュ論は建築の本でもちょくちょくでてきてたのですが、残念ながらあまりまじめに勉強してないのでニュアンスが少し分かる程度ですが、パサージュをはじめとした「移動性をもった仮想の視線」をめぐる視覚文化史をポストモダンの視座から読み解く、という内容のようです。
目次をみると建築にも触れられていて俯瞰的に建築を捉えたり、今の鹿児島を考えるヒントもありそう。

訳者の井原さんのサイトを見てみると
Keiichiro Ihara’s Home Page-エッセイ-井原慶一郎-

シミュラークル(現実感の希薄なイメージ)に取り囲まれて、私たちは何が現実かをほとんど見失いかけています。だからこそ、われわれは、もう一度、ポストモダニズムが放棄した現実の再現representationの問題について考える必要があるのです。

とあり、僕自身の問題意識に関係がありそうですし、「移動性をもった仮想の視線」と「現実の再現」の関係にも興味が湧きます。

井原さんと大寺さんのコラボレーションにも大いに興味がありますし、これは読むべきかも(3675円かぁ、専門書だからなぁ・・・)

ところで、先のエッセイを読んで少し考えたのですが、建築はどうしてもリアルなものと立ち現われてしまうものです。
ですが、逆説的にというか、だからこそと言うか、かえってそれがリアリティを失わせてしまっているということがあるような気がしました。
情報のノイズやイメージの渦に埋もれてしまうことを避けるための”一つの手段”として、抽象化なりなんなり、アートやデザインといったフィルターを通すことの重要性が増しているのかもしれません。




自然のかけらを鳴らす


自由な秩序によって。また音楽のように流れるように。

そのための楽器をいくつかこのブログでも集めてきた。

古典的には黄金比から始まり、フラクタルまで。
オノケンノート ≫ B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。 “美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

アフォーダンスを皮切りにもっと流れるような「関係性へ」と移っていく。
オノケンノート ≫ B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。 それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。 (例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。
そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

ほかにも、佐々木氏の著作はヒントにあふれている。
オノケンノート ≫ B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。

オノケンノート ≫ B049 『レイアウトの法則-アートとアフォーダンス』

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。 幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。 建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

また、そのための具体的な道具として構造の可能性を追求することは必須に近いが個人的には踏み込めていない。

オノケンノート ≫ B058 『informal -インフォーマル-』

構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。

こういう流れは、つぎのような感覚の裏返しかもしれない。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

ある種の不自由さ、堅苦しさから、軽々と抜け出してみたい、というのが今の空気じゃないだろうか。

オノケンノート ≫ B019 『建築的思考のゆくえ』

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。 一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。 たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

『自由な秩序や関係性によって、音楽のように流れるように、軽々と抜け出してみたい』というのは今の時代や僕らの世代にある程度共通する欲求なんじゃないかと思うんだけども、ほんとのところみなさんどう感じているんでしょう。