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W030『石垣郡の里 大当』


昨日は加世田の実家に帰っていたのですが、天気もいいしちょっとドライブにでも行こうか、ということで前から気になっていた笠沙町の大当(うと・おおと)に行ってきました。

石垣郡の里

天然石(野間岳産鉄平石)を積み上げた石垣郡が特徴の集落で、迷路のような、立体的に構成された路地にとてもそそられます :ぽ:

生活の風景のある街

坂の町なので歳をとると大変だと思いますし、そこに住み続けるということがどういうことかは気安くいえませんが、風景としては新しい街に比べると圧倒的に豊かです。
逆に、今の街がいかに車のために作られているか、というのを強く感じました。
殺風景な街並みと、こういう街並みの間のようなあり方が求められてもいいように思うのですが。

新しく道路を作るんじゃなくて、むしろ主要なものを選んで半分に減らす。そしてそれによって空いた土地と費用を格安駐車場と緑地やヒューマンスケールな路地、子供の遊び場などの整備にあてる。

そうやってできたような街並みを一度想像してみて下さい。
車に奪われた生活の風景を取り戻し、今よりずっと瑞々しい街が頭に浮かばないでしょうか?
建築基準法等の法律も絡んでいて簡単にはいかないかもしれませんが、”間”であればやりようがありそうです。
また、まずはこういう町並み特区があってもいいかもしれません。

追記

途中スーパーの袋をいくつも抱えてる人を見かけたのですが、日常品の配達システムがあるのかなと思いました。


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隙間によって関係性を生み出す。



ぴったりではなく、すこし隙間を残すことで能動的に環境と関われる余地を残しておくこと。
それによって生まれた関係性が生活=豊かさとなる。

オノケンノート – 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。
洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。 何もなければいいというものでもないのである。

『決定ルール=自然環境』によって地形を生み出すという手法も有効そう。関係を受け止める強度を建築が持てる。

オノケンノート – 『棲み家』

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。
なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。
それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。




affo-rest


別の空想案。
テーマはアフォーダンスの森。affordance+ forest

このテーマ自体はもっと追求する余地がありますが、その一つのスタディとして。

グリッドおよび屋内を先行施工し外部はDIYで臨機応変に作っていっても可。
メンテもいるので手が動く人向き。

模型つくるのは大変そう。
前回のに比べて垢抜けてない感じがするのは、検討不足か。
もうひとつ考えたらまとめて模型つくろう。

オノケンノート ≫ HS-06 アフォーダンスの森の家




素材に対して誠実である。




視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。

オノケンノート – 偽物の氾濫

しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。

藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)

素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。

それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。

また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。

オノケンノート – モノの力

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




メタボベイビー



メタボザウルスが子供を産んだら。

今、4つほど空想案を考えているんですが、そうのうちの一つ。

案というより、単なるパクリ。良く?言って二次創作。

危うく殺されかけて生きながらえたメタボザウルスから子供が生まれたら。という設定です。
大きくなったら公共建築になりたいと夢見るSOHO住宅くん。

都城市民会館が出来た当時は世界中の建築学生がまねをしてそこら中に市民会館もどきの案が林立したそうですが、建築のDNAが伝播してどんどん繁殖していったっていいような気がします。

昆虫は幼虫のころはたいていグロテクスないびつさをもっているので、もっといびつにしようかとも思いましたが、なるだけ素直にパクリました。

著作権うんぬんと言われると削除せざるを得ないかもしれませんが、市民会館継続のお祝いと菊竹さんへの敬意をこめて。
個人的スタディの一つと思って暖かい目で見て頂けると嬉しいです。

それにしても、僕が簡単に作っただけでも思ってたよりサマになるんだから、もとの思想の骨格は半端じゃないレベル。
やっぱりすごいなぁと痛感しました。
これはオリジナルでは出来そうにない。

いろいろとデフォルメされた個性的なメタボザウルスがそこら中に建っているのを想像するのもいいかもしれません。

せっかくなので模型までつくってまとめるつもり。いずれPROJECTにアップします。

オノケンノート ≫ HS-07 メタボベイビーの家




秩序を回復させる。




時には装飾のタブーも恐れず。

オノケンノート – B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。

■人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。

また、秩序は幾何学によらなければいけないというわけではない。

オノケンノート – B058 『informal -インフォーマル-』

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。

むしろこっちの方に突き抜ける可能性がある。

もう少し古典的というか基本的な言説としては
オノケンノート – B025 『建築意匠講義』

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

造型論を追い求めた倉田 康男も建築を次のように捉えている
オノケンノート – B040 『建築造型論ノート』

■自らの生きざまを見つめ続けること。そして目の前の畑を耕し続けること。いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。それが建築を学ぶことのすべてなのである。

倉田の造型論は造型論によって捉えようというよりは、むしろ捉えられない不可能性に対する確信から造型論を求めているように思う。

決して宇宙の秩序に到達できないという認識の謙虚さを持った上でそれでもなお秩序を求めること。