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遊んで感じ、そして決定する。


考えることと平行して、楽しんで遊び感じること。

最後の決定では自分のセンサーを信じること。

藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』

物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。(藤森照信)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

オノケンノート – B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(倉方 俊輔)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

遊ぶ-感じる-決断というのは一繋がりのものかもしれない。




妖怪の居場所を思う。


はい、すみません。こなきじじぃのつもりです。はい。

マウスで書いてるんで許してくだせい。

妖怪の入り込む隙間、言い換えれば想像力を働かせる余地を残しておくこと。


オノケンノート – B056 『屋久島の民話第二集』

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。 景色ん中に想像の入る余地はなか。 そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。

オノケンノート – B061 『水木しげるの妖怪談義』

神は政治、妖怪は生活。。。妖怪は音。。。妖怪は雰囲気。。。妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

オノケンノート – W006 『杖立橋+Pホール』

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。 こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。




B132 『職業は建築家―君たちが知っておくべきこと』

ローランド ハーゲンバーグ (著)

柏書房 (2004/11)

図書館にて。

全体の感想としてはあまりお勧めではありません。

その理由は

  • 値段(2100円)に対して内容がほとんどない。専門書としては安めの部類だけどテキストの分量がかなり少ない。遅読の僕が1時間もかかりませんでした。
  • テーマが良く分からない。本のタイトルと各インタビューの内容のつながりがほとんど感じられませんでした。初心者向けの本かと思わせるタイトルですが、個々の建築家の作品や思想に親しんでいないと、多分この内容では意味が分からないと思います。
  • 内容そのものもブツ切れで中途半端。個々の建築家にも迫りきれてない。

なんでこのタイトルにしたんだろう。

タイトルに見合うのはとってつけたような五十嵐太郎と村瀬良太による100冊のブックガイドだけ。

もともとは映像 だったみたいですが、こっちもそんなに評判はよろしくない。

あまりその建築家ならではの思想を浮き彫りにしてるとは言い難いけどとりあえず何点かメモ。

シェルターについても同じで、ロビンソン・クルーソーのように、海辺に暮らし、気候が良ければ、外で釣りをします。暑くなったり、嵐がきたら、しばし身を守る建物を造るのです。そのように自然環境に適応し、快適な暮らしをするということです。(原広司:もし自分のシェルターを創るとしたら、どのようなものになりますか?に対する返答の一部)

私が考える安全な空間とは、竪穴式住居のようなものです。半分が地面に埋まっていて、土に触れることができ、その上には丸太がかかっていて、丸太に触れることもでき、全体が、土と丸太、そして周りの森に守られているという、安心感を与えるものです。安全性とは安心感だと思います。したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。(隈研吾:建築における安全な空間とは、どのようなものだと思いますか?に対する返答の一部)

考え方が違うと思います。箱を作り内部空間をコントロールしようとするのは、いわゆる西洋的な近代建築の考えで、そこで空調や暖房器具、二重窓ガラスを用いれば、確かにエネルギーの節約になりますが、エコロジカルとは呼べません。真にエコロジカルな建築というのは、外部空間に向けて開かれているべきものだと思います。21世紀に向かって発展する新しいスタイルは、この考え方に基づくものだと思います。(中略)日本人は、伝統的に内部空間と外部空間の関係がとても大事で、場合によっては、庭などの外部空間の方が大事だと考えてきたのだと思います。(内藤廣:ヨーロッパではエネルギー節約のために窓ガラスを二重ガラスにしていますが、自分の事務所に二重ガラスを使用していない点は、気になりませんか?に対する返答の一部)




人を思い浮かべる


そこで、人がいきいきとしているのを思い浮かべる。

建築も一緒になっていきいきとしているか。関係性は紡げているか。
オノケンノート – TV『福祉ネットワーク“あそび”を生みだす学校』

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

象の建物とそこにいる人がいつもいきいきとしてるように見えるのはなんでだろうか。

方法論じゃなくって単なるまとめになってたり、絵がいいかげんだったりしますが構わず続けますです。




大切な1%を見つける。


決定的でかけがえのない大切な1%を見つけること。

そして、それを残りの99%と同等かそれ以上に愛しむこと。


オノケンノート – B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。 それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

『モモ』風に言えば”99%の豊かさと引き換えに大切な1%を奪っていく1%ドロボー。その奪われた1%はやがて気付かぬうちに心の<スキマ>となっていく。そして、その<スキマ>を埋めようとすればするほどさらに・・・・”というような感じ。

気にしなければ済むことかもしれないけど、建築なんてやってるような人は多分その1%を諦められきれないんだと思う。

”そこに現れた一人の建築家・・・・”なんて物語を夢想しているわけじゃないだろうけど、もしかしたらその1%を少しは守れるんじゃないかと信じたい人たちなんだろう。
(ああ、こんなスケッチ描いてて続くんだろうか・・・)




通信簿

こういうのなんか良さそうですね。
南日本新聞 – 県内ニュース

前田終止霧島市長の公約集(ローカルマニフェスト)について、就任後2年間の進捗(しんちょく)状況を採点する「見もんそ語いもんそきりっま通信簿霧島市長マニフェスト検証大会」(霧島市まちづくり青年協議会主催)が22日夜、同市役所多目的ホールであった。


地方の政治に関しても市民が参加する形での評価するシステムっていうのがもっとあっていい気がします。(そのシステムがフェアであるのが難しいんでしょうか)




時間と場所をとりもどす


素材の持つ時間のオーダーを組み合わせ人間のための時間をつくる。

時間や場所を剥ぎ取ろうとする力に負けない強度を建築にもたせること。

そしてその強度を武器に世界とつながること。


オノケンノート – B097 『前川國男 現代との対話』

グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)

オノケンノート – 世界とのつながり

僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。




生活によって意識を超える


生活を見直すことでそこから意識を超えた豊かさを生み出す、とイメージしてみる。

ここでいう生活とは関係性をデザインすることである。(と言ってみる)

意識から飛び出したものとの関係性。そういうものがきちんと見えているか。


オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。

そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。




デザインのたね

もうそろそろ方法論に落とし込んでいこうかと。

少し前にランダムボタンをつくったので、ランダムにいくつか過去記事を読んでそこから抽出したのをたねとしてメモる。

新しい記事を書いた後のまとめでもOK。

基本フォーマットとしては、 簡易なタイトルと、動詞で終わる短い文。あと、関連タグ。場合によっては引用とリンク。

ここでスケッチ化してみようかな。(続くかな・・・)

明日からでもとりあえずやってみるか。

<追記>

方法論というよりは抽象論が続きますが構わずやります。




これ便利 – Firefox拡張「MakeLink」

ブログに他のブログから引用する時、管理ページと引用ページを何度も行ったりきたりしてコピペしてたんですが、これが結構めんどくさい。せめてブログのタイトル部分でも簡単コピーできないかなー。

こういう機能があればいいのになー、っていうのはたいていフリーであるもんだと思ってfirefoxの拡張機能を探してたみたら思ってた以上のがありました!


窓の杜 – 【NEWS】任意の書式でWebページのタイトルやURLをコピーできるFirefox拡張「MakeLink」

任意の書式でWebページのタイトルやURLをコピーできるFirefox拡張機能「MakeLink」v2.1が、15日に公開された。

こちらからインストールできます。
右クリック>Makelink>configureでいろいろカスタマイズもできます。

僕は

Name:blockquote

Format:<a href=”%url%”title=”%title%”>%title%</a>
<blockquote>%text%</blockquote>

というのを作りました。

引用もとのテキストを選んで右クリック>Makelink>blockquoteを選んでコピー完了。

あとは自分のブログにペーストすればOK。

上の引用もこれで一発でした。




リアルとフィジカルに関するメモ

随分とのんびりとしたReactionになってしまいましたが。

『先端の音楽の告げる予言』さつませんだい徒然草

機械的に造られた環境を「ヴァーチャル」というのなら、その反語はもう「リアル」ではなくなってる。今やそこに位置するのは「フィジカル」。で、リアル はその両方を抱合してる。mixiでの出会いは当人にとっては立派な「リアル」だ。でもそこにはまだ熱い血は通ってない。フィジカルな経験、体験を通じて 血は熱を帯びていく。

になるほど。「リアル」を「ヴァーチャル」に対置することにずっと違和感があったけど、これでスッキリしました。

建築に関して言えば「フィジカル」がより重要、というか「フィジカル」を浮き彫りにするような「 ヴァーチャル」のあり方が求められてる気がする。

ヴァーチャルがある種の抽象の役割を担ってるような。

それと、もひとつ。

『その影は装飾か?』404 Blog Not Found

それは何か?物理である。こうした装飾を施すことで、本来はただのデータに過ぎない、ディスプレイに表示されるさまざまなものに物理的質感が与えられるの だ。そしてその物理的質感が、ユーザーの使用感をより自然なものとする。ものをつかめるのなら、ウィンドウだってつかめるはずというわけである。

確かに、いわゆる『Web2.0風』のデザインは影がついたりと奥行き感があって親しみやすくなってることがポイントなのは確か。

でも、それはデザインの手法やレベルの問題であって、装飾が善か否かという問題ではないと思う。具象的な装飾でなくても抽象化などによって自然の秩序を浮き彫りにすることはできるし、それこそモダニズムが手に入れようとしたものじゃないだろうか。

”装飾”といった場合、人によって捉え方が全く違うのは注意が必要。少なくとも、Dan氏とhigepon氏が同じ装飾について語っているようには思えないし、『「仮想の現実化」というのは必要だし、それが現実に近いほど使用感は「自然」に感じられる。』というDan氏の認識を除けば両者がそれほど違う方向を向いているようには思えない。

higepon氏の『建築に無駄な装飾をとりのぞくモダンアーキテクチャという流派があるが』 というのもモダニズムをスタイルの問題に矮小化してるようで気になるし。

B037 『装飾の復権-空間に人間性を』オノケンノート

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

僕的には、影をつけたり金属を真似たりというのはそういう秩序に近づこうとする一つの方法でしかないし、モニター上のデザインが独自の表現方法をいまだ見出せていない過渡期の状態である証拠なのだと思う。

モニターでの制約をひっくり返すぐらいの表現手法が見つかれば面白いことになるんじゃないでしょうか。

何が言いたかったか分からなくなってしまいましたが、リアルとフィジカルについてちょっと考えてみましょうというメモでした。

 




生活の表出

町並みを豊かで親しみのあるものにするには、生活の表出なんてのも一つのテーマになったりする。

それって、わくわくだったり、おっ!だったり、いいなぁだったり、ほっ。だったり、あれっ?だったりと反応できる何か一つの表情がほんの少しあればそれでいいんじゃなかろうか。そこで見てる人とのちょっとした関係が生まれる表情。

所有権の主張しか表情がないのはやっぱり嫌。




地形とアイコン

okanoaruie.jpg
永山祐子『丘のある家』

引っかかるところのあるものを気が向いた時にメモしてみる。

この人僕と同い年。地形としての強度。アイコンによるイメージの引き伸ばし。

都市型住宅の採光を確保するために考案したすり鉢状の白い屋根を、彼女は「丘」に見立て、その先端に小さな木のオブジェを設置した。誰も登ることのできない、神聖な場所とされた屋根に立つその木は、「私があそこにいけたらどんなかな」と自分を投影するためのもの。『(design dDict 2)』

すごく良く分かるし魅かれるなぁ。




×Reaction×Reaction

僕も楽しく読ましてもらってるあるブログに対して、TBを打つためだけのブログっていうのがあった。

その手があったか。

そのブログにこれまたTBを打つだけためのブログ『○○ ×Reaction×Reaction』ってブログを作ったら面白いだろうか。

っていうか 『○○ ×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction』ぐらいいった先が元のブログだったら元の記事はどう変化するんだろう。(伝言ゲームみたい)

○○バトンってのが一時期はやったけど、こういうReactionバトンってのはあるんだろうか。

meddo氏のアレの別形態でブログに貼り付けて次々バトンで渡せる(そんで戻ってくる)ってのはあり得ないかなぁ?




とろける

友人のブログで知った『溶け行く日本人

まだあまり読んでませんが思いつきで書くぞー。

このコラム集自体が『溶け行く日本人』的な存在の気もする。

現代が『溶け行く』ことが不可避な時代だとすれば、どう溶けるかが一つのテーマにもなりうるし、最近は素敵に溶けた人がトレンドな気もする。




原理・原則と強度について

原理原則だけでは息が詰まってしまう。

例えばコルビュジェは周りに原則を説いたけど、その原則を遵守すれば建築的強度が得られるかと言うとそうではない。
当のコルビュジェは原理・原則を超えた自由を愛したように思う。
それによってしか強度は得られないのではないだろうか。




カテゴリー追加

MEMO
たわいもない事を書きやすいカテゴリーがなかったので追加。単なる思い付きや自分用のメモ、ニュースや人の記事への便乗や突込みなど。
このカテゴリーは気楽にテキトーにをモットーに書くのでその辺よろしく。




B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

Amazonで購入
書評/国内純文学


『本が好き!』経由でこの記事を読んでどうしても読みたくなってしまいました。

図書館にも著者のものはたくさんあったのですが、あえて1985年初版の本書を書評にしているところに興味があったので取り寄せて読むことに。(AmazonではなくOPSIAのHPで取り寄せ買いに行きました。)

いろいろと心に残るエピソードが載っているのですが、その中に、『ヨーロッパに負けないホルンを作ろうとして99.99%同質な真鍮を作ってホルンを作ったがよい音が得られなかった。研究した結果その差は99.99%の真鍮にあるのではなくて残りの0.01%の不純物にあることが分かった』、というものがありました。

塩やブランデーの味の違いも0.何パーセントかの不純物にあるそう。

そのエピソードを話してくれたという機械メーカーの社長さんはこう続けます。

「今の世の中はね、99.9パーセントばかりに眼がいってしまっている。ほんとうのモノづくりというのは、実は残りの0.1パーセントをどう作るかにあるんだということに気がついていないんですねぇ」 (p.40)

あぁ、こういうことなんだろうなと思いました。

パレートの法則ではないけれども、”豊かさの99%は1%の制御できない部分に含まれている”とか言ってみたくなります。(99%というのは大げさかもしれませんが)

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。

それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

その99%に目を向ける方が分かりやすく簡単なのは分かります。しかし、あまりにも皆がそちらの方ばかり向きすぎではないでしょうか。

”1%の何かが決定的にたりないもの”ばかりに囲まれた生活環境ってやっぱり何か哀しくはないでしょうか。

(僕はこればっかり書いてるけど)そうやって、リアリティーが身の周りから失われていってハリボテ化していくのは僕は嫌ですね。

30%は面倒なことが残るけど、決定的な1%は失われていない、っていう方を 選びたいし、実はその30%が決定的な1%をより活き活きとさせることだってあるのです。

寿司ロボットの出現で、安価な寿司が気軽に食べられるようになったと喜んでばかりはいけない。あれは、寿司のようなもの、寿司もどきにすぎない。こわいのは、寿司のようなものばかり食べさせられているうちに、人間は本当の寿司の味を忘れて、のようなものを寿司だと思い込む、ということにある。(p.188)

こんな風に、20年以上も前から危惧されてたことではありますが。

偶然にもunder’s highの『職人』っていうテーマとシンクロした本書、個人的に興味のある部分をクローズアップしましたが、働くってどういうこと、っていうのをとても考えさせられる本です。(あえて引用等はしませんので自分で読んで感じてみてください。)

かえる文庫の『高校生に読ませたい本』にぴったりだと思うのですが、こういう感じをいいなぁ、と感じる感受性が今の高校生の中にもまだ生きてるのでしょうか。

おじさんとしては『昔話じゃん。』で済まされないか、 ちょっと不安。。。




地主たちはどんな戦略をとるべきか?

『遺伝子レベルとのフラクタルな関係で地域経済というものを捉え』るところが面白かったので脊髄反射的にエントリー。
自然選択説[Wikipedia]等参照。この分野の本、読みたくなったなぁ。いろんな説に従って先の記事の地主がどういった選択をするか描くと面白いかも。というか誰かやってくれないかなー。)

「いや、個人レベルだけで考えればそうかもしれないけど、もう少し俯瞰して考えればこういう行動とったほうが合理的じゃないっすか」ということはあると思う。

それと、囚人のジレンマと決定的に違うことは 『彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。』という条件がないということ。

『二人とも懲役2年ですめばハッピーじゃん』という合意をとりあっての選択だってできると思うし、僕にはどう考えたってこの選択が一番合理的に思える。(この場合も裏切りの可能性は残るが、それなら契約を結べばいい。)

後はイマジネーションの問題。

ハッピースカウターの代わりになるビジョンや達成感を得る仕組みがあればいいし、それにはそれを理解するイマジネーションと共有するために可視化するイマジネーションが必要。

あと宮台的には コモンズ、どういうゲーム盤にしたいかというイマジネーションと合意。

まぁ、それを”描く能力”が一番不足してるのかもしれないけど。

こういう進化論みたいなのに詳しい人、最新の理論では地主はどう行動するのか教えてー。

(あと、まだよく読んでないけどこの辺にヒントがないかなぁ)




under’s high vol.4

undersvol4
under’s high vol.4がでたので早速もらってきました。
最近どうしても読みたいと思って入手した本が偶然”職人”がらみの本だったので不思議な感じ。

まだじっくり読んでませんが、前回に比べてテキストの分量がぐっと増えた感じ。じっくり読もうと思います。

皆さんも良かったらどうぞ。(設置店はこちら