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B127 『モナ・リザと数学 ~ダ・ヴィンチの芸術と科学』

  • ビューレント・アータレイ、高木 隆司、佐柳 信男
  • 化学同人
  • 2310円

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書評/サイエンス

久々の本が好き!プロジェクトからの献本。
300p以上に渡ってダ・ヴィンチを軸に芸術と科学について書かれた本書は読み応え抜群。

じっくり読んでいたら結構時間がかかってしまいました。

同じ出版社から同時期に献本されていた他の本のタイトルはどれも興味をひくものばかり。概ね評価も高かったようですし、この『化学同人』という出版社は結構良いかも。

タイトルと薄っぺらな内容だけで引っ張れるだけ引っ張るような本も多い中、真正面から化学(科学)と向き合って出し惜しみなく直球をばんばん投げるようなスタイルはこの出版社の出版や化学(科学)に対する哲学と自信を感じさせます。

ただし、美味しいところをピックアップしてさぁどうぞ、という感じじゃないので、オタク的に入り込めない厳しいところもありますが。

さて、この本を読んで。

芸術と科学をつなぐことが一つのテーマだと思いますが、その前にそれらが別々の方を向いているという感覚が僕には余りありません。

自然が両者の仲介役であるというよりは、 両者とも自然を表している同じ兄弟という感覚です。それは、わざわざ声高にいうようなことでもない気がしますがどうなんでしょう。

内容についても芸術と科学の接点を本気で知りたいという人には多少物足りないというか冗長な感じがします。取り上げられている接点は黄金比を中心とした割と古典的なものがほとんどでそんなに新しい視点はないですし、”芸術と科学の接点”となる新しい学問でダイナミックなものは他にいくらでもあります。(いくつかは”自然のかけら”としてこのブログでも紹介しています。)

そんな新しい学問とダ・ヴィンチが絡めてあればもっと面白かったと思います。(押絵も少なく見難いのでその辺もちょっと不満。)

ただ、ダ・ヴィンチの天才ぶり、というか好奇心の塊っぷり・マルチタレントぶりがその冗長さによってかえって表れているかもしれません。

ダ・ヴィンチマニア、もしくはオタク的に入り込める人には凄く楽しい本でしょうし、ダ・ヴィンチから学べることも多いです。(著者にも少しオタク気質を感じます)

ということで、『モナ・リザ数学』という視点であれば△、ですが副題の『ダ・ヴィンチの芸術と科学』という視点であれば :まる: 、といった感じでしょうか。




絶望と嗤いもしくは笑い

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だめだこりゃ – 書評 – 団塊漂流:404 Blog Not Found

そして極めつけが、このオビ。
[あなたは勝ち逃げできたか?]

だめだこりゃ。そりゃ絶望しまっせ。
それにしてもこの絵は恐ろしい。なんだかドキリとさせられます。(この絵についてはググって下さいな。)

いつの時代も、誰の中にもサトゥルヌスは潜んでいるんだろうけど、 それを忘れてしまうと上のような言葉が普通に出てしまうんだろうな。

ただ、ネガティブな要素を拾い上げて批判するのは簡単だ。そろそろそういうのを卒業したいなぁ、と思っているところにDanさんの新しい記事

赤木智弘たちに足りないもの – 書評 – 若者を見殺しにする国 :404 Blog Not Found

それが何か、やっとわかった。
笑い、だ。
(中略)
だからこそ、嗤ってはいけない。笑わなければならない。

なるほどね。

「嗤う」ことの裏にある影の魅力も捨てがたい。

だけど、「嗤うのではなく笑う」ためにはより強さが必要だし、そこにはその強さに見合うだけの深い影がある事を思えば「笑う」ことの方がより魅力的なのかもしれない。

そう思うと、上のサトゥルヌスの絵は笑っているように見えて・・・こないか。やっぱ哀しいね。




サツマティック報告会

に誘って頂いたので行ってきました。(ってM氏から誘いのメッセージが来たのは今朝。なんでそんなに急やねん!)

場所はM氏プロデュースのハワイアンなカフェ&レストラン『プルメリア』

[gmaps:31.59211440620821/130.5598685145378/17/460/300]Cafe de Plumeria[/gmaps]

ここのロコモコはほんとうまかったっす。(カレーもお勧めだそう)

それはそうと、いろいろな方がいて楽しい時間を過ごせました。

クリエイター系の人がほとんどだったのですが、皆さんいい仕事されてるのに腰が低くていい人ばかり。

近くに座ってお話させていただいたのは、ここでも何度か取り上げた『Region』を企画している渕上印刷の若松さん、写真家の川越さん、デザイナーの江夏さん

話しているうちに、住まうということの本質だとかリアリティだとかの話になって結構自分の気持ちに気付かされました。うーん、面白いなぁ。

地方ならではの独特のリアリティのあり方っていうのに可能性がある気がする。

楽しみにしてたNY展の映像はあまりじっくり見れなかったけど楽しかったからまぁいいか。(そのうちまた見せてもらおう)

ほんと 関係者でもないのに誘ってくれたM氏に感謝です。またよろしく!(乱文失礼)

(NY展に出展された方々と是非ゆっくり話したい、と思ってたのですが声をかけきれなかった相変わらずのヘタレです・・・。)




サイクルシティ

朝チャリンコをこぎながら考えたたわいもないこと。

まちがどこかのスタイリッシュな自転車メーカーと提携。

EKポイントをなんとか制度化し、一定数以上のポイント所持者で希望する人にはスタイリッシュなちょっと高級目の自転車を一定期間無償貸与。

自転車はEK実践者としてのステイタス、またはサイクルシティなまちとエコな自転車メーカーを宣伝・イメージアップする素材となる。

加世田あたりでどう?

というか谷山あたりでどう?




WORDPRESS2.3

使っているWORDPRESSがver.2.2.3だったのですが、どうもタグの扱いはver2.3にした方が高機能そう。

ということで、仕事の息抜きも兼ねてver2.3にバージョンアップさせてみました。

ところが、データベースの構造が違うらしくいろいろとうまく動かない。勘を頼りに適当にいじってるとますますおかしくなってデータベースのどこかがおかしくなった模様。

どうしようもないのでいったんデータを削除して入れ直してみました。

それでもうまく動かないし、対応してないプラグインもいくつかある。いったんはWORDPRESSはもう止めてFC2に戻ろうかとさえ思いました。

最後に、日本語版のインストールが不十分だったのかもと思い、本家版を上書きしたらなんとか動いてくれました。いやぁー危なかった。こういうのはあんまり勘でやるもんじゃないですね。

まぁ、たしかにタグは使いやすくなったけど、使えないプラグインはあるし、一旦保存していた記事を全部インポートさせたら記事番号が全部変わっちゃった。最悪。そこら中のリンクがおかしくなってしまったけど、もう直す気力はありません。(そのうち少しずつでも・・・・直すかな・・・)

うーん、余計な時間をくったけど気を取り直して仕事の方をがんばろう。




タグ

記事に★マーク(お勧め度じゃなくてどれだけ言いたいことがあるか)をつけようと思い、最初はカテゴリーを利用してやってみようとしたんだけどいろいろと不具合が出てしまいました。

それで、いまさらですがタグの扱えるプラグインを導入してみたのですが、ほんといまさらながらタグって面白いですねー。

関連記事を勝手につなげてくれるし、いろいろと可能性がありそう。

これまでの記事にはタグをつけてなかったんだけど、今までを振り返る意味もこめて最初から読み直してタグ付けしてみようかなぁ。

タグ付けしていくにつれてタグクラウドがどんな形に変化するのか楽しみ。(自分以外の人には全く興味がないと思いますが・・・)




B126 『無有』

竹原 義二 (著), 絹巻 豊 (写真)

学芸出版社 (2007/03)
竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。

文章と図面と写真を行ったりきたりしながら頭の中で歩き廻ると、様々なシーンが浮かび上がりその奥行きの深さにどんどんと引き込まれる。

この歩き廻る作業を何度も繰り返せば相当な力がつくんじゃないだろうか。建築を学び始めた人には是非ともおすすめしたいし、何年か後に読み込む目が育ってから歩き廻ると全然違った新たな発見があると思う。

ところで、ズレやスキマ、余白といったものが光や素材や人の動きを通して、奥行きや豊かさに変わっていくのだけど、そういうものは無駄として捨てられてきたものでもある。安さと機能性を求めるだけではなかなか辿り着けないものだし、実物なしには説明のしにくいものでもある。

坪単価という指標だけで見れば決して安くないものも多いと思うけれど、それを説得して実際の空間に仕立て上げられるのがやっぱり実力なのだろうなぁ。

ちなみに、各章の見出しは以下のとおり。

序章建築の原点
1章手仕事の痕跡
2章素材の力
3章木の可能性
4章内へといざなう
5章ズレと間合い
6章つなぎの間
7章余白と廻遊
8章「101番目の家」へ

僕の中での別の永久保存版に通ずるものがあります。(日本建築というものの奥の深さには計り知れないものがある。)

あと、メモ代わりに2箇所ほど引用しておきます。

いわゆる一室空間は、人つながりの壁と天井、床で囲まれ、おおらかな空気をもつが、空間がその内側だけで完結しようとする。それが一室空間の弱さでもある。これまで述べてきた素材の力、区間の連続性や内と外の曖昧な関係といった試みは、一室空間というよりは、ひとつながりとなった空間の中で、様々な要素が様々な密度でずれ、その中で意識的に「間合い」をはかり、無数の関係性を結ぶために仕掛けられたものである。このような空間は、一室空間に比べて寸法は緊密になるが、心理的な奥行きや拡がりをもたらすのである。

こうして「間」を保ちながらつながっていくという微妙な関係が形成される。それは物理的には限られた空間に、いかに拡がりを与えられるかという工夫であり、極めて日本的な感覚である。住まいを分節し、その間を外部空間で結んでいった時、自由度のある住まいが住まい手の意識を鮮烈にし、想像力を掻き立てる。そして人が訪れるたびに異なる出会いが生まれることで、空間に対する奥行きも変化するのである。




Satsumatic × Architecture

金曜日、ひさしぶりに友人と会って話をした。

この友人と合うと何かしら発見があったり問題がクリアになったりして、いつもいい刺激をもらう。

先日行われたの「サツマティック」というNY展の仕掛け人でもあるのだけど、話をしているうちに「Satsumatic」というのは自分にとっても結構重要なキーワードだと気がついた。

3月にあった「鹿児島のかたち・地域のかたち」というシンポジウムで見つかりかけた気がしたパズルのピースがこのキーワードでクリアになった気がする。

「Satsumatic」の意味するものそのものに目新しさがあるわけでもないのだけど、それを言葉にし発することで浮かび上がってくる何かがあるように思うし、『リアリティ』と『生活そのもの』を手元に引き寄せるためのテーマとなりうるのではないか、という気がしている。

だからといって具体的なイメージをもっているのではないんだけど・・・。

具体的な何か、とうより、長い時間を掛けて考えているうちに自分の中から 「Satsumatic」な何かが自然と立ち上がるようになればいい。(ああ、やっぱり自分でも考えていたことだ。やつは自分の事ばっかりしゃべっているようで、実はコーチング的なスキルがあるんじゃないか。)

先は随分と長い気もするけど(具体的なものと向き合いながら)じっくりやっていこう。




都城市民会館秋祭り-追記-

都城市民会館秋祭り+シンポジウム+親睦会に参加して僕なりの感想をつらつらと。

今日でこの建物と対面するは4回目ですが、ようやく内部を見学できたました。

そこでは設計や建設に関った人たちの気持ちの強さを感じることができましたし、シンポジウム・親睦会で存続活動を続けてこられた方々の真剣さや明るさに触れられたことは僕自身にとっても非常に有意義な経験でした。
もしかしたら、人が今まさにまちを動かそうというダイナミズムに触れた初めての経験かもしれませんし、こういう、人の気持ちのこもった、そしてさらに、関係者の思いを超えて建物自体が独自の存在としての命を宿したような建物を簡単に壊すべきではないと強く思いました。

市民会館をなぜ壊さないで欲しいかは何度か書きましたが、やっぱり大切に使っていくことが次の世代に対する大人の責任だと思います。
親睦会で「都城市民会館の再生利用を考える会」代表の黒木さんとお話する機会があったのですが、お孫さんが「なぜ壊すの?」と聞かれるそうです。なんとなく特別な存在なのでしょう。

それを壊すということは、お孫さんから特別な存在を将来にわたって奪うということです。さらにいえば、お孫さんには心象風景・思い出として市民会館が残るかもしれませんが、今から生まれてくる子供たちは思い出にすることさえできないのです。
そういうことを続けていけば本当に砂漠のような風景になってしまい、一番大切な”ヒト”が去っていきます。そうなってからでは遅いのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、本当に残ってよかったし未来に向けての活用を議論できることは幸せなことだと実感しました。

と言っても僕は都城市民ではないんですが。ただ、思いのこもった建築が経済の道具にされて壊されることを避けられた、という事実が嬉しいのかもしれません。

帰りはヒラカワさんに途中まで送って頂き、最終電車で帰ったのですが、電車に揺られながらそういえば都城市薩摩川内市に感じが似てるかも(人口密度には若干開きがありますが)と思いました。
なぜか川内の方々とまちづくりなんかについて語る機会があったのですが、川内の方のあんな記事こんな記事を思い出してこういう概念は使えるかもと言う気がしてきました。

僕なりの理解ですが、人々の振る舞いに「プレイヤー(選手)」「ディレクター (スタッフ)」「オーディエンス(観客)」という3つの型があるとします。

昔の市民会館には何か催し物があると長い列ができていたそうですが、それはプレイヤーとスタッフの提供するものをオーディエンスが受け取るという形だったと思います。

娯楽の少なかった時代はそういう形式で良かったのかもしれません。しかし、娯楽のようなものが分散化し、ましてはMJのような新しい施設ができた今では市民会館には別の形式が求められているのだと思います。

別の形式とは例えば、今までオーディエンスだった人をプレイヤーまたはディレクターに引き込んで”共に楽しむ”という形式で、市民会館がそのためのステージ(舞台)となることです。

シンポジウムでの多くの意見もそういう方向だったと思います。

それはハードとしてのステージでもあるだろうし、人々の意識をつなぎとめる ため、イメージを共有するためのの意識の上でのステージでもあると思います。(ステージだと観客を想定してしまいますのでフィールド(場)といった方が良いかもしれません。)

そのためには、いろんな人が簡単に参加でき、思い思いにプレイヤーになれる仕組みづくりが必要でしょうし、そうした思い思いの活動をひとまとまりにするための共有のイメージづくり、例えばシンボルマークをつくるなどの一種のブランディングのようなものが必要になるでしょう。

当然、大学側の理解と協力が無ければできないことですが、それは大学自体のブランディングにもつながることですし、「解体の危機から一転全国でも”先進的な事例”」といえるような活用のされ方ができれば、 全国的に希有なポジションを獲得できます。

それは市、大学双方にとって願ってもないこと、まさに千載一隅のチャンスだと思います。というより、その道しかないようにも思いますが。

とまぁ、そんなことを考えながら帰りました。

もしかしたら、そういう物理的にも心理的にも共有できるものがある(残せた)都城はまだ幸せな方かもしれません。

都城が新しいまちづくりのありかたを切り開いてほかのまちや危機に瀕する建物の関係者に希望を与えてくれるようになることを願います。

最後にヒラカワさんはじめ関係者の方々、お世話になりどうもありがとうございました。そして、お疲れ様でした!




都城市民会館秋祭り

miya00.jpg
都城市民会館秋祭りに行って来ました。

上の写真は西都城駅から。駅を出てからホームからよく見えることに気付き、入場券を買って再度ホームに上がって撮影しました・・・・ちょっと抜けてましたね。念願の内部を見学できたり、懇親会に参加させていただいて楽しい時間を過ごすことができました。いろいろと感じる部分があったのですが、とりあえず今日のところは写真のアップだけにして、後日追記します。
おやすみなさい。

miya02.jpg

※これまでこのブログで都城市民会館にふれた記事はこちらからどうぞ




小屋組み

koyagumi.jpg
木造の小屋組みを考えていて、柱の関係や全体のプロポーションから2つの候補があったのですが、ようやく一つに落ち着きました。
棟の位置と勾配で見え方がが結構変わってくるので、無駄の無い架構や構造の安定性などを考慮しながらずっと悩んでたのですが、今朝二つを並べてみてやっぱりこっちの方がいろいろとうまくいきそうだというのが見えてきました。

よし、両側同じ勾配でいこう。

気持が落ち着いたところで、今から都城に行ってきます。[WK02]




いいなぁ

guragura.jpg
藤浩志さんのぶろぐより『グラグラタウンゲーム、販売はじめたようです。』

いいなぁ、こういうの。というか立派な製品じゃないですか。

NPO法人+arts(プラスアーツ) の名称もなるほど、という感じです。artsが主役じゃなくてあくまでartsをプラスすることで何かが生まれる。みたいな。

このゲームをベースに、それぞれの地域のマップに置き換えて、ゲームツールを作ることそれ自体が防災のワークショップとしてとても可能性がある。
そのプロセスにおいて子どもや大人がいろいろな問題を話し合いながら「つくる」場が発生する。
そこが重要なんだと思う。
そのイメージサンプルとして価値がある。

ここまで作ってしまうのは凄すぎだけど、なんといっても楽しそう。

「楽しく学べる防まちすごろくゲームFURAFURATOWN」、FURAFURATOWNで大型SC大発生!庭で買っていた”ヤギ”がお客取りに!・・・とかね。

そういうワークショップはありかも。(そういえば子供のころスゴロクとかカードゲームとか勝手につくってたなぁ。消しゴムではんこを作ったりして。)




Q&A

本の感想文を100冊達成してから、自分なりに考えをまとめないと、とずっと思っていてようやくQ&Aができたのでアップします。(できたと言ってもとりあえずのものでこれからもいろいろと手を入れていきます)

CONCEPT のところを充実させるつもりだったのですが、もう少し読みやすい形式はないかということで、先にQ&Aを作成することに。

思った以上に時間がかかってしまいましたが今の時点での考えをある程度言えたかなと思います。

ほんとはもっと短い文章にするつもりだったんですけどね・・・・。

読んだ感想や、もっとこういう書き方にした方がいいよ、とかこういう質問も入れた方がいいよというアドバイスがありましたらコメントいただけると嬉しいです。




Region NO.09

鹿児島にはもう一冊、質の高い文化的フリーペーパーがあります。

それは、友人も企画に係わっている渕上印刷のRegion

昨日垂水に打ち合わせに行ったときに 市役所の待合に置いてあったのでもらってきました。

そういえば特集は『焼酎遺産』。かごしま探検の会の東川さんが取材を受けたと言ってました。

帰りのフェリーで読んでみると、いくつかの文章が心に残る。

まずは冒頭の岡田氏のエッセイ『「どうだ」より「どうぞ」の美学』より

在来の素材は、確かに水や雨や風を「どうだ」と遮ってはくれない。(中略)しかし、そのぶん人の気持も優しく受け止めてくれる。(中略)ただ私は、「どうだ」とそびえる二百メートルを越すガラス張りのビルより、二百年を経て「どうぞ」とたたずむお堂に心が和むだけだ。(中略)
柱のはしばし、梁のすみずみ、甕の肌のきめのひとつひとつに、そこにただよう菌や気や人々の思いが息づいている。容れるものと容れられるものが相通じる。

まさしく僕が大切にしたいと思っていること。『容れるものと容れられるものが相通じる。』状態なんて本当に理想です。いや、ほんと最後の一文はそのまま僕の理想として掲げてもいいぐらい。
次に東川さんの文章

遺産というものは、単なる遺物または過去の物ではなく、現在の社会といつかの時代とを「文化」や「物語」で結びつける関係性の象徴だ、と私は思う。つまりこれまでとこれからの両方を伝えるものであり、また遺産のある地域の表情を伝える役割を担うものであるとも考えている。

いまのものづくりの多くに決定的に欠けているのはこういう時代を超えた視点と関係性をつむぐ想像力だと思う。それにしても東川さんはこういう艶っ気のある文章も書けるのですね。さすが。(艶っ気のある全文はregion読んで下さい。)

最後に大石酒造の大石社長の言葉より。

焼酎造りにおいて、常に一定の味を保つことは確かに重要かもしれません。しかし、自然の材料を使っている以上、たとえば芋の状態によって去年と今年では当然味は変わるわけです。そのゆらぎの幅を許容することで、古い技術や設備が受け継がれていくのではないかと思います。

伝統に真正面から向かい合っている人だけあって言葉に重みがあります。このことは全く建物についても言えます。『ゆらぎの幅を許容する』ゆとりの精神、これを持てるかどうかでうまい焼酎を毎日飲めるかどうか(建物についても同じ)が決まってくるように思います。
しかし、実際はこのゆらぎを全く認めないような世の中になってきているようで怖い。(関係する視点でイトイさんが管理について語ってます。「前回」の文から読むと面白いですよ。)

(引用中の強調はオノケン)




under’s high vol.3

undershvol3.jpg
under’s highのvol.3が出たのでさっそくもらってきました。

今回の特集は本。ということで、かえる文庫のところで僕もちゃっかり写ってます。予想通り覇気のない写りでしたが幸いにもそれほど大きい写真ではないのであまり気になりません。(半分にしてという願いは届きませんでしたが、やってたらちょっと狙いすぎになってたかもしれませんね。)

インタビューの部分の内容は初めて読んだのですが、このスペースで結構うまく言えてるんじゃないでしょうか。お疲れ様でした。

それにしても回をおうごとに内容が充実してきてますが、ここまでのクオリティを空き時間にやるのは季刊でも大変そう。

そうそう、under’sのみなさんがナマイキVOICE主催のアートマーケット で「藤浩志賞」をもらってました。おめでとうございまーす。

偶然ですが藤さんといえばかえる文庫とかえるつながりです。 今、かえるがあつい。かも。




打ち合わせ

日曜に屋久島からオーナーご夫妻が鹿児島に出てこられて打合せをしました。
今回は旦那さんのご両親(土木関係の会社を経営されていたので建築についても詳しいです)も含めての打ち合わせ。
特に緊張していたわけじゃなかったのですが、前日気合を入れすぎてほとんど寝てなかったせいも合って、いつにもましてろれつが回らずだいぶん挙動不振だったと思います・・・。

柱の寸法や屋根の材料、その他特に耐久性に関わるところなどを打ち合わせ。

その後、窓形状や仕上げ材など細かな打ち合わせに。

実はそのときに意見に違いのあった素材について自分の思うところを再度お話しようと 前日に話す内容を考えて何度も予行演習までしていたのですが、寝不足で言葉がうまく出なかったことと、作っていった模型を見られて喜んでいらっしゃる様子をみると、そこまで一つのことにこだわらなくても最後に喜んでいただければいいかなと思い始めて言葉を引っ込めてしまいました。

設計者としては ヘタレなことかもしれませんし、どこまで自分が良いと思う事を貫いくのが最後に一番喜んでもらえるのか、というのは永遠の課題かもしれません。そういうことではプロとして無責任だ、自分の信じることをやり抜くことで喜んでもらえ、とお叱りを受けるかもしれません。

だけど、 受け入れる中にも発見や新たな可能性が生まれることも確かです。

建築家の村野藤吾の有名な言葉に「私は、プレゼンティストですから99パーセント施主の言う事を聞いています。しかし、99パーセント言う事を聞いても、1パーセント村野が残る。そして、その1パーセントが全体を支配するかも知れない。」というようなものがありますが、そういう境地までいくのはまだまだですね・・・。

あと、100分の1の全体のラフ模型と30分の1のリビングの内観模型をつくったのですが、喜ぶお施主さんについあげてしまいました。

それは良かったのですが、写真の一枚でも撮っておけば良かったなぁ




恒例の問題転用?(追記の追記の追記あり)

恒例のたこはんさんから問題転用。

先生はA君とB君に次のように言った。

「1以上13以下の自然数x,y(x≦y)を選び,A君にはxとyの積を,B君にはxとyの和を教えます」
そして積,和をそれぞれ教えた。

教えられた積を見てA君は言った。
A「この情報だけではx,yは特定できません。」…発言(ア)

教えられた和を見てB君は言った。
B「この情報だけではx,yは特定できません。ただ,A君がx,yを絶対に特定できない,ということは分かります。」…発言(イ)

発言(イ)を聞いたA君は言った。
A「それならx,yは特定できました。」…発言(ウ)

発言(ウ)を聞いたB君は言った。
B「それならx,yは特定できました。」

以上の会話からx,yを特定せよ。

中学入試の問題だそうです。
マジ?

では回答を考えます。
まず、1~13の中には素数が2,3,5,7,11,13の6つあります。

そこから(ア)~(ウ)について検証してみます。

と思いましたが、この先は暇な時にでも考えてみましょう。
では、皆さんはどうぞ。

追記
あ゙~~~また昼休みがー
放っておけない性分なもんで・・・・・
僕の回答はこちら
スッキリ指数は65%というところでしょうか。
これが試験問題だったらあってるか不安でしょうがないです。ところで、これを中学入試に出されてぱっと答えられるのはよっぽど勘がいいか類似問題を解いたことがあるかでしょう。
これを受ける小学生はほんと大変だ。こういうのが解けるようになって変に万能感みたいなのをもたれても嫌だし。
中学受験、やらされなくてほんと助かった~

追記の追記
すっきりしないと思いながらチャリンコこいでたら間違いが二つも思い当たりました。
一つは素数×素数でも1があるため例えば6のように1×6、2×3とその積だけでは確定できないこと。
もう一つはx+Yの組み合わせが一種類しかない場合はBが最初に確定できるということ。だめだめですね。ということでやりなおし。(やりなおし解答はこちらです)
今度はスッキリ指数は78%というところ。
薩摩之風さんの答えを見ると同じでした。ほっ。(確かにエクセル使いたくなります。だけど、途中をじっくり読む気力はもうありませんでした)それにしても、 ほんとに小学生にこれ解けるのか!?

追記の追記の追記
薩摩之風さんの答えをみてみると僕の解答には見落としがありますね。
(素数)×(素数)でなくても、例えば4×7のように一方が7,11,13の時は4×7=24を2×14=24のように置き換えようとしても一方が13を超えてしまうので×。これも確定できます。
ということは一方が7,11,13の場合はそれだけで確定となるから、1+7=8以上のx+yはすべてA氏確定ということになる。よってx+y<8なのだけどそれが抜けていました。うーん、確定条件を定義しようとしたけどうまくいきませんでした。きれいに解こうと思って失敗する典型的な例ですね。薩摩之風さんの表方式がヴィジュアル的にも理解しやすくて正解かも。




朗報!

ヒラカワさんのブログを見てびっくり。

2011年に都城に移転予定の南九州大学が、市民会館の20年間の借用を申し入れ、市が前向きに検討するというコメントを出した。そんなニュ-スが飛びこんできたのが29日の朝9時過ぎでした。


慌ててニュース検索してみると
現代建築の傑作都城市民会館解体一転保存へ南九州大に貸与検討 =2007/10/30付 西日本新聞朝刊=

「現代建築の傑作」とされながら、解体される予定の宮崎県都城市民会館について、南九州学園(宮崎市)の渋谷義夫理事長が29日、都城市役所を訪れ、20年間の貸与を申し入れた。2009年4月に南九州大学キャンパスの一部を同市に移す同学園は、入学式などの会場として同会館を活用したいとしている。長峯誠市長も「公共性の高い大学施設としての活用なら市民も理解してくれる」と述べ、保存に前向きな意向を示した。

やったー!
こういうことってあるもんですね。大学の施設なら使われ方としては理想的じゃないでしょうか!

うーん嬉しい!11日どうしようかな~。

※このブログで都城市民会館にふれた記事はこちらからどうぞ




ハッピースカウター

たこはんさんのこの記事に便乗して、昔想像した事を。

ドラゴンボールのスカウターのようなハッピースカウターというものを装着していると想像してください。

目に見える、周りの人たちや犬や猫や植物や、いろんなもののハッピー指数がスカウター上に数値化されていて、それとともに様々なレベルのハッピー指数の合計も表記されている。(例えば目に見える範囲、今いる町、今いる国、地球全体といったレベル)

そして、その数値はリアルタイムに変化していて、例えばある人にいいことがあるとピローンという感じで「ハートマーク+132」とかいうのが頭のあたりに浮かび上がる。悪いことがあればブー「涙マーク-1791」 とか。自分の行動に関する数値の上下は合計値の部分にもピローンと表示される。

例えば自分が何かすることでピローン、ピローンと ハートマークが連発して周囲の合計値がぐっと上がれば気持ちいいだろうし、なにかを買ったとたん地球レベルの合計値が「-6819」とかでたりするとなぜ、って思うかもしれない。

みんながこれを実際に装着しているとしたら、サトラレみたいな気持ち悪さもあるかもしれないけど、みんなが自分がハッピースカウターをしている事を想像しながら行動するとしたら結構良くなるんじゃないかと妄想したりする。

例えば車を運転してるとして自分の都合だけでやたらとクラクションを鳴らしたりすれば、周りの数値がいっぺんに下がって気持ちが悪いだろうし、そっと、車を間に入れてあげれば小さいピローンの連鎖がきっと気持ちいい。利益を自分や自分の直近だけでなくもっと大きく捉えられるようになるように思うし、きっとそっちの方が気楽だ。

個人的には損か得かというと損なことでも、合計値があがればいいじゃないってこともあると思う。結果、自分のハッピー指数があがってたみたいな。

まぁ、良いとか悪いとか損とか得とかそんなことはどうでもよくても、ピローンの連鎖が気持ちよくないでしょうか。

ただ、笑顔が目的化すると気持ち悪い気もするし、数値がいっぺんに下がるのを楽しむ輩も必ず現れるでしょうが。

この想像、今は自分のオリジナルな気になっていますが、もしかしたらどこかで見たのかもしれません・・・




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。