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A-RELEASE 改め オノケン

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このたび架空事務署名をA-RELEASE BUILDINGWORKSHOP 改めオノケン としました。

あわせてこのブログはオノケンノートとタイトルを変えます。

5年ほど前、鹿児島に戻ってきてホームページを作り始めたときにとりあえず何か名前を決めないとと思って”ONOKEN”とつけました。太田則宏建築事務所の略です。(断じてシンケンさんのパクリでもたるけんさんのパクリでもありません。当時は両者とも知らなかったですからー)

その後何度か変えたのですが、分かりやすく憶えやすいほうがいいだろうと言うことで、このたびカタカナのオノケンに変えることにしました。

ロゴ等はぼちぼち考えて行きます。

ということで今後ともよろしくお願いします。




B112 『ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成』

富永 譲
鹿島出版会(2003/06)

またまたコルビュジェ。
またまた溜息が出ます。
あ゛ーとかう゛ーとか言いながら読んでいたので妻はさぞかし気味が悪かっただろう。
象設計集団のときも同じように溜息が出たけど、あー豊かだなぁと感じるわけです。
コルビュジェ、吉阪隆正、象設計集団
という溜息の連鎖に、藤森照信が紹介する住宅を加えて、なぜそれらを見ると溜息が出るのかを考えてみると、そこには関わった人の顔が見える気がします。

鹿児島市などの地方都市で特に顕著だと思うのですが、街を歩きながら建物を見ても、そこに見えるのはメーカーやディベロッパーの顔だったり、工場のラインや収支計算書の数字だけしか見えてこない、つまりはその奥に”金”しか見えてこない建物ばかりになりつつあります。
それに関わっている人間の顔が見えてこないのですね。
こんな建物だけで埋め尽くされた街で子供が育つと考えただけでぞっとします。

だけど、先に挙げた溜息建築には使う人の生き生きとした顔だけでなく、設計者がアイデアを思いついたときの少年のように喜ぶ顔まで思い浮かびます。
そんな生き生きとした建物があふれる街のほうが楽しそうだと思いませんか?

あとがきで著者が

具体的な物のキラメキに出会えるような批評、読み込んでいくと、すぐに新たな設計の筆をとりたくなるような研究。本書がそんな類のものになっているかどうかは分からない。

と書いているけど、そんな心配は無用。コルビュジェの作品そのものにそんな建築少年の心を呼び戻す力がある。
ある意味、そんな建築少年、建築オジサンを生み出しているという意味ではコルビュジェは罪な人ですが。

本書を読んで浮かび上がってくるのは、多様な軸、多様な要素、多様な欲求・・・多様なものを重ね合わせ、関連付け、秩序付ける力とそこから飛び出そうとする力が均衡するコルビュジェの建築であり、そこには一つの視点からでは捉えきれない奥行き・多様性がある。
それは、コルビュジェ自身の持つ奥行き・多様性であるし、それがそのまま建築に表れているから、そこにコルビュジェの魅力を感じ取り僕は思春期の少年のように溜息が出てしまうのだ。
あー、こんなにもわくわくしたんだろうなぁ、と。




再・々・宣言!


boot ○ampの通販番組をはじめてみた時、あぁ、なんかダメ。と思った。

THE☆アメリカ。みんな妙に生き生きしながら同じ動きをしている。やっぱりダメ、ウケツケマセン。

こんなの日本じゃ流行るワケナイヨ。これがスキって言う人がいたら日本人ジャナイネ。とまで思っていたら、いるじゃないですか、アメリカンな人が。
僕の隣に。

(妻が面白いの見つけた、と嬉しそうに教えてくれたので、もしやと思えばまさにboot c○mpでした。)

おまけにかなり流行っているそう。
どうなってんだ。

どうだと言わんばかりの不自然なムキムキがいや。洗脳されちゃったような不自然な笑顔がイヤ。自分の体も力ずくで変えてしまえと言う不自然な健康志向が嫌。

僕のイメージとしては”自然の中で生き抜く民が自然に身につけた自然な健康体”、しなやかで謙虚な身体(まさに自然体)が理想なのだ。
しかし、現実は”不自然な都市生活の中での不自然な不健康体”で”ぶよぶよの尊大な肉体”。
やばい。なんとかせねば。

boo○ campの映像を何度も見てるうちに、なんだか楽しそうに見えてきた。相方と一緒にやるか・・・アメリカ的”不自然な健康志向”を拒絶するのもこれまでか・・・・・

と思っていたら、ナイスな考えが浮かんできました。

それは、これまで2度挫折しているチャリンコ通勤を再開すること。

1度目はチャリンコがパンクして挫折。
2度目は急にはりきり過ぎて膝が痛くなって挫折。

しかし、今は息子を風呂に入れるため、いつもより2時間ほど早く通勤しています。朝はそんなに暑くないし、えっちらほっちらゆっくりこいでも遅刻する心配はありません。チャリンコ通勤にはもってこいじゃないですか。

と言うことで、またかと言う感じですが、チャリンコ通勤復活をここに再・々・宣言いたします!

スタートは妻が近々b○ot campを手に入れるようなので、手に入ってから。僕はチャリ通、妻はbo○t camp。どちらが続くか、どちらが効果が出るか勝負です。(僕の予想では妻は2,3日しかもたないでしょう。ふふふ)

今回の勝負、僕の個人的な問題ではなくなって来ました。
日本人がアメリカ的価値観に屈服することなく謙虚な心を持ち続けることができるかどうか。今後の日本の行く末を占うような重大な勝負になりそうです。

頑張らねば。

P.S 本当はやりたくて(楽しそう)うずうずしてるんですが、 僕は負けません。




B111 『生きさせろ! 難民化する若者たち』

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/社会・政治


「本が好き!」より。
若者の不安定な労働環境を伝えながら『生きさせろ!』というのが如何にリアルで深刻な問題であるかを訴える。
日本が目指してきた社会の歪がすでに『生きさせろ!』という生存権を主張しなくてはならないところにまで来ている。

著者と同じ歳で、東京と鹿児島で派遣のバイトもしていた僕としてはかなりリアルに感じられる内容である。知っている人は知っているが、一歩間違っていれば僕だって負の連鎖に巻き込まれて這い上がれなくなるかもしれないという割とギリギリの位置にいたのだ。
だから、本著で紹介されている気付けば全く身動きの取れないところに落ちてしまっていた、というような事例は、その過程がかなりリアルに想像できてしまう。

いくら働いても生存ギリギリの収入しか得られず、風邪などのちょっとしたきっかけでホームレスに転落してしまうようなフリーター、過労死をいつするかわからない程働かされても何も言えないような正社員。
彼らは根性がないわけでも、怠けているわけでもない。
ただ、たまたま社会や企業の都合の良いところにはめられてしまっただけなのだが、それらが『甘い』とか『自己責任』といった言葉でかたずけられてしまうのがこの問題の一番厄介なところである。(本当に『甘く』なれないからこそ、過酷な条件に耐えてでも働いてしまう。『自己責任』という言葉はフリーター批判者の自己肯定の道具にもなるし、フリーター自信が問題を内面化し、自らをさらに追い込んでしまう原因ともなる。)

具体的なことは本著や類似書をあたって欲しいが、これらの問題は個人的な問題ではなく社会の構造の問題だということをはっきりしなくてはならない。
”派遣”という労働形態が”解禁”になったのはつい最近のことであるし、95年の日経連では労働者を①正社員②契約社員③フリーターに分類してそれらをうまく使いなさいというようなことを提言している。また、最近のホワイトカラーエグゼプションの議論は記憶に新しい。
ようはグローバル化した社会を勝ち抜くために、若い労働力を安く使い捨てにするというのは国をあげての政策であり、3割とも4割とも言われている非正規で使い捨てにされる労働者には、根性があろうがなかろうが、あなたの変わりに誰かがなってしまうということである。

『戦後最大の利益』なんてのは単に若者を使い捨てにした結果であって、”利益”を喜んだり、グローバル経済の恩恵を受けながらフリーターを批判するのは矛盾以外の何ものでもない。

それでは、僕らに何が出来るのだろうか。

月並みではあるがやはり、現状を知ることからはじめるしかないのではないだろうか。
前回読んだ本で宮台真司が日本人は”ゲーム盤”(自分が所属する社会のたとえば環境やルールなど)を意識するのが苦手、と指摘していたが”ゲーム盤”が今どのようなものであるかを知り、ゲームのルールを自分たちで変えていくんだ、という意識を持つことが大切である。
本著で”プレカリアート(不安定を強いられた人々)”という言葉が紹介されている。生きていくのに絶えず不安に曝され続けなくてはならないゲーム盤がすばらしいとはとても思えない。

皆がおかしいと思い少しずつでも声を上げれば少しずつでも変わっていくだろうし、現に民主党などはそういう雰囲気を感じ取って(小泉政権からの)ネオリベ的な自民党に対抗するような軸を設定し始めたようにも見える。

もう一度いう。これらの問題は『自己責任』といった個人レベルの問題ではなく、グローバリズムを背景とした社会の構造的な問題である。
『自己責任』という安易な言葉に逃げずに自分が、もしくは自分の子供が同じ状況に追い込まれたらという想像力のもと、一度彼らの現状に向き合ってみて欲しい。そして、自分たちの問題としてどのようなゲーム盤であって欲しいのか考えてみて欲しい。

また、本著は子供を持つ親や、今まさにフリーターであるという方たちにも読んで頂きたい。いざと言う時に自分を守ってくれる法律や方法、そして「もやい」や「フリーター全般労働組合」といった一緒に行動してくれるところも紹介されていて、それらを知っているだけでも不安は軽減されるだろうから。

新自由主義(ネオリベラリズム)とか現代の自由主義(ニューリベラリズム)とかややこしいですね。

wikipediaより
□新自由主義(ネオリベラリズム)
□現代の自由主義(ニューリベラリズム)
□コーポラティズム

よって、リベラリズムは自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題など様々な弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の意図に反して人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。

というようにネオリベを修正した現代の自由主義というのもあるようですね。(ますます混乱。)
ちなみに、宮台氏は『ネオリベ的な市場万能主義は誤りで、市場を(透明な)コーポラティズム(協調的談合主義)的に制約すべき』としています。

こういうのが一般教養としてもっと広まって、例えば『前回はネオリベ的小泉に期待したけど、どうもうまくないみたいだからどこかもっとコーポラティズムよりの政策を打ち出すところがあればそこに入れよう!』とかいう会話が普通に聞かれるようになってもいいのかもしれない。(それが民度が高いってことか。)

6/28追伸
おたこはんさんが言われるように身近な範囲でコミュニケーションの機会をつくって他の世界へのリンクの可能性を担保するのは必要かもしれない。




B110 『M2:ナショナリズムの作法』

宮台 真司 (著), 宮崎 哲弥 (著)
インフォバーン (2007/3/1)


こちらも本が好き!より。
honsumiさんの書評に『これだけ読者を置き去りにする対談も珍しい。』と書かれていたが、読んでみてなるほど、と感じた。

宮台真司の著作は何冊も読んでいるし、Podcastも聴いた。だけれど、今まで触れた宮台と本著では宮台らの向いている方向が少し違う。本著にはこれまで僕が触れたものに見られた、”一般の読者に対して説明すると言う意識”がほとんど見られないのだ。
専門的な内容に対して読者が予備知識をもっている前提で、それこそ読者お構い無しでどんどんすっ飛ばしていく。

それでもめげずについていくと、読んでいるその瞬間はなんとなく分かったような気にはなる。しかし、1時間もたてばもうどういう論の展開だったか思い出せないことが多い。

これは、これまでもそうだが宮台の言説は、”○○は○○だから○○でその対処は○○である”と言うように、論理的な流れが明確で、まるで数学の証明問題の解説を読んでいるような感じがする。
きっと、あらゆる命題や反論に対してそういう流れを用意しているのだと思う。

しかし、一度読んだだけではその流れが頭に入らない。
受験生時代に化学反応の流れ(ベンゼン環がどうのと言うやつ)を1枚に自分でまとめたのがすごく有効だった覚えがある。同じようにノートにフローチャート式にまとめてみれば頭に入るだろうと思うが、なかなかそんな時間は取れない。ましてや一般の人がそんな労力をかけるはずがない。

そこで提案。

受験参考書のノウハウを取り入れた『チャート式宮台真司2007』とか『M2の使い方社会学は暗記だ!』というような感じの要点のみを簡潔にまとめた参考書を、彼らのいろんな著作を横断・対応させるような形で誰か作ってくれないだろうか。
あくまで補助的な書物ということで内容が絞られていれば絞られているほど良い。
一般の需要があるかはともかく僕は手元に置いておきたいし、こういうものがあれば、もしかしたら多くの人が読みっぱなしで終わることも減るかも知れない。

反復復習は”お勉強”の基本であるし、ある程度基本の流れが頭に入ってこそ応用ができるというものだ。(もしかしたらそういう本がすでに出てるかもしれないが)

なぜ(対談が)続いたのか。理由は明白だ。宮崎氏も私(宮台)も<社会>に関心を示さなかったからだ。<社会>に関心を抱かない二人が<社会>について話すのは気楽だ。全ての対立を単なるゲームとして再帰的に観察してやり過ごせるからだ。・・(中略)・・でも、不真面目というのではない。むしろこうした再帰的態度がラディカルな(徹底した)思考を可能にした。・・(中略)・・<社会>に関心のない二人が・・(中略)・・いつの間にか<社会>について思考しなければいけない場に押し出された。<社会>に多大な関心を抱く物が大勢いる中での二人の共通の道程は何かを意味していよう。

時に突き放したような冷たい印象を受ける二人だが、それは徹底した思考をするために必要なポジションなのだろう。
また彼らの論は普段の感覚ではちょっと戸惑うような選択を促すことも多い。しかし、それに感情的に反発せずに一度冷静に考えてみる価値はきっとある。それで、なるほど自分が安直だったと納得させられることも多いのだ。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

最近宮台は欧州的な生き方を参照することが多いような気がする。日本も、自分たちはどのような未来を目指し、どのような選択をしていくのかというのを個々が真剣に考えなければいけない時が来ているのではないだろうか。
(日本人は”とりあえず自分たちにはおいしいところを”というだけで、何かを”選択する”という思考も苦手ではないだろうか)
誰かが社会を変えてくれるのを待つしかない、自分たちは考えても無駄だ、というのをそろそろ卒業しないといい加減やばい。
そういう意味で、それぞれの仕事や生活のスタイル、また例えばNPOの活動などで別の在り方を模索し実際にそれを描こうとしている人たちがいるが、その先にはかなり開かれた可能性があるのではないだろうか、という気がしている。




可能性が!

コメントを頂いて知ったのですが、都城市民会館存続の可能性が見えてきたようです。

こちらで詳しく書かれていますが、本当に嬉しいですね。
これも東国原効果でしょうか。
まだ決まったわけではないでしょうから、皆さんも存続ムードを高めましょう!




メンテナンス


国分の妹家族が住宅の外壁の塗装をするというので手伝いに行ってきました。

2年に一度ぐらいのペースで塗り重ねているのですが、だいぶ落ち着いてきた感があります。
こうして、自分でメンテナンスできる材料の方が長いスパンで見た場合コストも抑えられるように思います。(メンテナスをある程度楽しめることが必要でしょうが)

また、今回は二人目の子供が生まれるので、ベビーカーが通りやすいように砂利敷きのアプローチ部分を一部コンクリートにしたい、ということでその手伝いもしてきました。

予算を抑えたいということで自力施工にチャレンジ!
(芝生部分はすでに妹たちが自力で貼り終えてました。)
まずは通路になる部分を多少掘り下げて、そこに安い木材を買ってきて型枠を組むことに。


超簡単なつくりですが、何とか見れる形に。


コンクリートを練るのに古い衣装ケースで試してみたのですが、あっけなく底が割れました。ちょっと無謀。この後ホームセンターでタフブネ60っていう既成のケースを買って来ました。


コンクリートの配合がうまくいかず、ゴテゴテになってしまったので、やっぱりモルタルで仕上げることに。
コンクリート一発押さえはやっぱり初めての素人には無理でした。最初からモルタル仕上げで考えるべきだったかな。

うーん、時間にもうちょっと余裕を見て、コンクリートの配合の練習をしてからやれば良かったなぁ。
乾いて型枠がとれたらどんな感じか楽しみ、というかドキドキです。
久しぶりに身体を動かしたので気持ちがよかったですが、明日辺りが心配・・・




B109 『正義のミカタ ~I’maloser~』

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/国内純文学


これも本が好き!プロジェクトより献本していただいた人気青春小説作家による待望の書き下ろし最新刊。まだ発売前の試し刷りのものを頂きました。[注:以下ネタばれ]

”青春小説”が口に合うか怖かったのだが、他の評者の方の評価が高かったのでつい申し込んでしまった。(しばらくは読書ペースを落すつもりだったのに・・・)

複雑な人間関係を描く少女漫画に比べて、少年漫画は善が悪をやっつけるという勧善懲悪の単純な図式ばかりで実社会の複雑さから取り残されている、と言うようなことを指摘したのは確か宮台真司。

この物語も少年ジャンプ的な勧善懲悪の図式で話が進む。
いじめられっこの達人とでも呼べる主人公がその達人振りを買われ一気に形勢逆転!という痛快なストーリーなのだが、その痛快メカニズムもまさに少年ジャンプ的だ。

読みながら”しまった、やっぱり単純な青春小説だったか”と後悔の念が浮かぶ。

しかし、話はある先輩の登場から深みを増し、単純な図式は徐々にグレーなものへと変わっていく。
そして、”なるほどねー!”という感じのラストを迎える。
(部長があんなことになるとは・・・ここはちょっと意外だった)

とはいえ、結局少年ジャンプ的範疇を抜け切れなかった、と言うのが僕の正直な感想だ。小説として十分に楽しく読めたのだが、主人公とある先輩以外のキャラがなんというか想定内過ぎて感情移入できなかったし、僕の中の気付かざるグレーな部分が激しく揺さぶられた、と言うところまではあと一歩行き着かなかった。
これは割りと評判がよかったらしい(?)『華麗なる一族』に同じ理由でまったくといってよいほど感情移入できなかった僕なので他の方はどうか分かりませんが・・・

ここで視点を変えて主要なテーマになっている”正義”について。僕は”正義”というものに結構な不信感を持っている。
アメリカが戦争をするときに持ち上げるのも正義だし、経済格差を生み、弱者を生みだすのもある種の正義だ。正義は強者の側の論理であって、弱者を助けるだけではなくときには強者の立場を守り弱者をさらに追い込むためにも使われる。いっそ猫のように正義や悪といったものはどうでもいい、ぐらいのほうが健全なのかもしれない。では、主人公は最後に猫になろうとしたのだろうか?
そんな気もするが、少し違う気もする。

ほんとのラストで主人公は電車で老人に席を譲ろうとして失敗し、小学生に「ダッセェ」と呟かれる。
それに対し「ださい。よかった。それなら僕のやり方だ」と満足する。

主人公は猫になろうとしたのではなく、正義に対するスタイルを自分にしっくりするものに変えた、と言ったほうが良いかもしれない。

しかし、それは正義を振りかざしたり、無責任・無関心を装うよりは一歩進んだと言ってよいのではないだろうか。
ボランティアにしろ何にしろ、何か行動を起こすには「これは利己的な行為である」という自覚、ある種の偽善を受入れることからしか始まらないと思うから。

そんな風に自分なりの世界との関り方を見つけ出したストーリー、という意味では、これはまぎれもなく青春小説の逸品であります。




B108 『間取りがよい小住宅を作りたい―小さな家のアイディア集』

間取りがよい小住宅を作りたい―小さな家のアイディア集 (2004/02)
世界文化社


ちょっと一般向けの本でも読んでみようと別冊家庭画報の本著を図書館で借りてみた。
そんなには期待していなかったのだけど、どっこいなかなか良くまとまった良書だった。

住宅作家による小住宅の紹介・解説だけでなく、吉村順三、東孝光、清家清、増沢洵、菊竹清訓、篠原一男、安藤忠雄、丹下健三、藤木忠義、宮脇檀と小住宅の傑作が紹介されていり、かなり本格的。
住宅設計のプロセスの紹介や、設計の26のセオリーもおさえるべきことをおさえた内容でこういうことなら一般の人にも知ってもらいたいし、プロも割と使えるものになっていた。(ただし、セオリーで到達できることには限界がある)

これなら、住宅を設計すると言う仕事が等身大で伝わるのではないだろうか。

別冊家庭画報の他の住宅シリーズを読んでみたくなった。

昨日なんとなく見ていた『金スマ』に風水建築デザイナーなる人物が出ていてどこかで見たことあるなーと思ったら、この本に載っていた。この人だけ全体の趣と違って浮いてるなーと思ったので印象に残っていたのだが、今人気の人のようだ。編集部のウケ狙いが垣間見えた見えた気がして本著ではここだけが残念。ちょっと本の方向性がブレたんじゃないだろうか。
家相や風水を否定はしない。環境を読んだり、気の流れを空間の性格や人の感じ方の表現と考えると、なるほどなと思うことも多々ある。ただ、個々の部分だけを挙げて、これは吉、これは凶というのは正直困り者。
ただでさえ、情報過多の部分的な知識の積み重ねで、全体を見失う傾向があるのにそれに拍車をかけることになりかねない。
例えばこの本でも家相の知識として『2階が1階より大きいのは凶』と挙げられている。
一方、同じ本書で挙げられている名作小住宅のベストワンは吉村順三の森の中の家だが、これなどは2階が大きいことにが最大のポイントであり、家相の部分的な知識を盲信してしまえばこの名作は生まれなかったはずである。家相や風水はひとつの知恵として参考にするぐらいがいいのではないだろうか。(風水に徹底的にこだわるのもそれはそれでエキサイティングだが)




B107 『家種(いえダネ。)―建築家と作る家 50の間取り実例集 2005select』

家種(いえダネ。)―建築家と作る家 50の間取り実例集 2005select 桑原 あきら (2005/04)
リトルモア


結構前に図書館で借りたのだが、最近は本が好き!の献本で忙しくて・・・

プロトハウスによるタイトルどおりの本。
本のコンセプトは分かるけれど、著者によって一般の人向けに書かれた解説は、少し媚を売りすぎて建築家の意図がうまく表現されていないように感じた。(建築家という表現にも少し違和感があります。)
建築家に慣れ親しんでもらう入口にはいいかもしれないけれども、中途半端にコンセプチュアルな解説は誤解を与えてしまう可能性がかなりあると思う。この本で建築家に興味を持つか、距離感を感じるかはけっこう微妙。

建築家という記号を商業的に消費するのはいかがだろうか、と思うが建築家と一般の人の距離を縮める必要もあることは確か。

難しい問題だとは思う。ただ、媚を売るのと丁寧に説明するのは違う。クライアントのためを思えば分かってもらえるまで丁寧に説明するプロセスは省けないのではないだろうか。




B106 『脳と仮想』




こちらも「本が好き!プロジェクト」より献本して頂いたもの。
「クオリア」という概念は別の本で少し触れられているのを読んだことがあるが、「クオリア」という問題意識を「仮想」という言葉で展開したのをまとめたのが本書。
本著の中で考察されていることは、おそらく今まで哲学の分野などでさんざん語られてきたことで、それほど目新しいことではないと思う。
しかし、著者の功績は今まで科学の名の元に切り捨てられてきた扱いにくいものを、あえて科学という世界に正面からぶつけた上で、一般の人の科学に対する視界を広げようとした点にある。(それは本著で重要な位置を占める小林秀雄の姿勢でもあると思う。)

もともとある程度の期待を抱いて読み始めたのだが、やはり「仮想」という言葉の射程にあるものは、僕が建築に求めるものとかなりの部分が重なる気がした。

もう10年ぐらい前から、建築において「イマジネーション」が重要であると考えている。それと今、「仮想」を再評価すべきだと言う姿勢とは同じ問題意識によるものだと思う。

IT(情報技術)が全ての情報を顕在化しつつあるように見える今日において、仮想というものの成り立ちについて真摯に考えることは、重大な意味を持つのではないか。目に見えないものの存在を見据え、生命力を吹き込み続けることは、それこそ人間の魂の生死にかかわることではないか。

現実と仮想を考えた場合、科学的思考の中では扱いにくい仮想は価値のないものとして切り捨てられ、現実と呼ばれるもののみが重要視されてきた。そして、それが私たちの思考の大部分を「常識」という形で支配してしまっているように見える。
しかし、私たちの生きていく上での豊かさは仮想というものの中にこそあるのではないだろうか。おそらく、現実と仮想というように分けてしまっているうち、重要であるとされている「現実」というものも「仮想」という大海原の中に浮かぶ氷山の一角でしかない。

建築の空間について考えた場合、建築というものは単なる現実に存在する物質でしかないし、実際、多くの人には建築はそのようにしか捉えられていない。住宅は「何坪の広さのある、建材という名の物質のかたまり」であって、それ以上でも以下でもない。と思われている。
しかし、その物質の配置によって空間が生まれると建築家は考える。
その考え方自体が仮想以外のなにものでもないのだが、空間はまさに仮想であることによって豊かさへの可能性を開くのである。
建築によって仮想と接続されると言っても良い。
単なる物質が永遠の時間や無限の広がりといった仮想を引き寄せることもあるのだ。

著者は空間を『自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想である』と言う。私たちの心は「志向性」によって脳という容器の中から飛び出すのだが、この概念は建築を考える上でも示唆に富んでいる。この志向する先を広げることによって心を、無限の仮想空間へ解き放つことができる。
建築を学んだ人であればこの『志向性の束』というのは納得のいく考えではないだろうか。

人類にとって、「現実」こそ全てと思い込まされている今ほど空間の限定された時代はないのではないように思う。それは非常にもったいないことではないか。
仮想のもつ豊穣さを取り戻すことは建築の役割の一つでもあると思う。しかし、「志向性」と言うものが能動的なものであるとすれば、仮想というものの存在や価値を多くの人が認めるようにならなければその役割を果たすことも難しい。

本書では「仮想」の豊穣さがいろいろな角度で語られているが、多くの人が本著に触れ仮想への扉を開いてくれることを望む。




砂の祭典&九州美術の現況展

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加世田の実家に帰っていたので行ってきました。

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チェコからの招待作家の作品の表情がリアルで妙に惹きつけられました。
少し縁があって昼と夜両方行ったのですが、昼の太陽光の元で砂像を見るほうが細かい陰影があって良いかと思います。夜のライトアップは雰囲気はありますが、砂像の鑑賞にはあまり向いていない気がします。

また、南さつま市民会館で『九州美術の現況展』もやっているのでこちらにも行ってきました。(こっちが本命ですが)
74もの大判の作品が並び、かなり見ごたえのある展覧会です。現代美術の中の歴史的位置付けというようなことは分かりませんが作家が向こうに見えるようなものが多かった気がします。
僕は楽器は弾けませんが、音楽を演奏者や指揮者になったつもりで聴くことがあります。そうするとより音楽の中に没入できる気がするからです。
現代美術は実はよく分からないのですが、同じように出来るだけそれを描いている人になりきってみることを試みながら見たりします。そのときたまにふと作家の思いというか情念のようなものを感じた気になる瞬間があったりします。
他の人は何を考えながら見ているのだろうか、というのは素朴な疑問ですね。

展覧会、砂の祭典、どちらも明日5日までです。
時間のある方は是非訪れてみてください。




W028『輝北天球館』

※この記事は設計者より作品の無断使用との指摘があり削除依頼がありましたので削除致しました。




W027『飫肥城大手門』


□所在地:宮崎県日南市飫肥城跡
□設計:-
□用途:門
□竣工年:1978年復原

18世紀の石組みを生かして復元されたもの。
なぜここに寄ったかというと、石組みは当時のシラスの溶結凝灰岩が使われていると前に読んだ本に載っていたので。

このあたりは町全体が城下町をアピールする観光地でしたが時間がなかったのでゆっくり見れませんでした。

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W026『日南市文化センター』


□所在地:宮崎県日南市中央通1-1-7
□設計:丹下健三+都市・建築設計研究所
□用途:多目的ホール
□竣工年:1962年

丹下健三1962年の作。
大胆な構成。

隣の公園にシートをひいて息子に離乳食を食べさせていると、陽気なおじさん、おばさんが話しかけてきてくれました。
真偽の程はわかりませんが、この建物は鬼の洗濯岩の形から来ていること。若かりし頃、この建物でブラスバンドの演奏などをした思い出があること、などを話してくれました。
なんか宮崎にはフレンドリーな人が多い気がしました。このおばさんも虎翔に何度もキスをしていたし、後から来た86歳のおじいさんは元気さをアピールしようとして虎翔を抱えて走り出すし・・・

都城市民会館のように安易に取り壊されないことを祈ります。(※都城市民会館は解体決定から一転して存続が決まりました!)

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W025『宮崎県総合青少年センター・青島青少年自然の家』


□所在地:宮崎県宮崎市大字熊野字藤衛兵中洲
□設計:宮崎県+坂倉建築研究所
□用途:研修施設
□竣工年:1974年

SFチックな建物です。受付で建築の見学をさせて欲しいと頼んでもあまりピンときていないようでした。そんなに見学者は来ないのでしょうか。
とにかく、見学証を胸からかけてぐるりと見学。

芝の運動場をL字に囲むように建っているのですが比較的背の高いピロティが気持ちがよかったです。

内部をうろうろしていると何か懐かしい気持ちになったのですが、高校のときの寮と同じ匂いがしました。

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W024『宮崎県立美術館 他』


□所在地:宮崎県宮崎市船塚3-210
□設計:岡田新一設計事務所・岩切設計
□用途:美術館
□竣工年:1995年


↑宮崎県立図書館
□設計:安井建築設計事務所
□用途:図書館
□竣工年:1988年


↑宮崎県立芸術劇場
□設計:佐藤・毛利前田設計JV
□用途:劇場
□竣工年:1993年


宮崎神宮の近くに宮崎県総合文化公園というのがあって行って来ました。

それぞれの建物がきちんと設計されているのですが、なんといっても公園と同じ敷地内にあり、図書館、美術館、劇場が一体となった『総合文化公園』であるのが良いなと思いました。

公園に遊びに来た人が美術館を利用する。図書館で借りた本を公園で読む、等々施設の相互利用がしやすいつくりになっていて相乗効果が期待できます。
僕も子供を公園で遊ばせているスキに図書館や美術館を利用できれば助かるなぁと思います。
金をかけてるなぁ、という印象はありますが、土地のインフラとしての一定の価値はあるのではないでしょうか。

一方、鹿児島の施設はバラバラで全体としてのまとまりがない気がします。そのまとまりのなさというか、場当たり的で全体を通したビジョンや見通せる視点がないのは、鹿児島が分散化する観光資源を有効利用できないのや、大型の商業施設を無計画に散らばらせて客を奪い合っているのと共通の根を感じます。

分散化すること自体が悪いのではないのですが、それをイメージとしてまとめる力は必要でしょう。

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W023『旧徴古館 他』


□所在地:宮崎県宮崎市神宮2-4-1
□設計:伊東忠太・佐々木岩次郎
□用途:ミュージアム+カフェ
□竣工年:1907年

宮崎神宮敷地内にある旧徴古館を見てきました。
詳しくは知らないのですが、伊東忠太といえば1943年に建築界ではじめて文化勲章を受章した重鎮です。
ホンモノのナマコ壁は緑の中になじんですごくいい感じ。
老朽化がひどく近づくなと書いてありました。

宮崎神宮は全体を通してモノトーン調で、霧島神宮などのような華やかさがないのですが、神武天皇を祭っていることによるのでしょうか。

同敷地内には民家が数件公開されていたのですが残念ながらタイムオーバーで中をゆっくり見ることは出来ませんでした。
他にも敷地内には宮崎県総合博物館(坂倉順三建築研究所・下写真上から3番目)等もあります。

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W022『現代っ子ミュージアム』


□所在地:宮崎県宮崎市松山1-6-20
□設計:石山修武研究室
□用途:ミュージアム+カフェ
□竣工年:1997年

現代っ子センター現代っ子ミュージアムに行ってきました。
工業製品をなるべく使わないようにし、ここで初めて土をつかったそうだが、土がはがれてきたような表情、でたらめに貼ったような木の板の手すり、もう凡人には何が良くて何が悪いのかわからなくなります。
そういう既存の価値観への抵抗と言う意味あいがあるのでしょうが、それを越えて単純に心地よいと感じました。身体になじむ。

工業製品だけの建築はいずれ精気を失いゴミになる宿命をもつ。土や木や紙はいずれまた土に変える時間を内に持つ。工業製品は壊れていく一方なのだが、土や木は人間の身体や皮膚と同じように豊かで多様な古び方をしながら時間をその中に飼い慣らしていくことができる。(『石山修武 考える、動く、建築が変わる―ひろしま、生活、家、コミュニケーション』)より

このブログでも何度も書いているが、そういう時間が人間にはなじむのだろう。

また、ここの方に現場での石山修武のことなどをいろいろ話していただいきました。

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W021『マミィクリニック伊集院』


□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:有馬裕之+アーバンフォース
□用途:診療所
□竣工年:2004年

4月の26日に義弟の奥さんがここで赤ちゃんを産んだので早速お見舞い(見学?)にいってきました。
前回の鹿児島市建築文化賞受賞作なのですが、有馬さんは全国区で活躍されている方。ずるいなぁ、と思っていたら鹿児島出身なのですね。
建築文化賞も受賞メンバーがある程度決まってきた感があるので刺激になっていいのかもしれません。

助産院やカフェ・スタジオ・エステといった施設が付随していてトータルにサポートする方針のようです。

まさに白いモダニズム正統派という感じの建物ですがやっぱりうまいですね。
構造体を感じさせ軽快な白い建物が光に溶け込むように作られていて、非常に開放的な気持ちになります。

内装はともかく外装に関しては建物完成時が一番美しく、後は汚れるだけというのは否定できないと思いますが、クリニックとしての清潔感を優先させたということでしょう。今後長い期間どういうかたちで街に存在するのか気になります。

物質感を感じさせないぬけのある建築はやっぱり魅力的と思ってしまいました。

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