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B170 『建築に内在する言葉』


坂本一成 (著), 長島明夫 (編集)
TOTO出版; 1版 (2011/1/20)

マルヤのジュンク堂に寄った時にお目当てがなくて、ふと目に入って買った本。
たまにはがっつりした建築論を読みたいと思ってたのと、坂本さんの文章をもっと読んでみたいと思っていたので買ってみました。

全体を通して、例えば形式のようなものを定着させると同時にそこからの『違反』を試みることによって『人間に活気をもたらす象徴を成立させる』というようなことが書かれていて、とても参考になりました。
これに似たことがいろいろな言葉で置き換えながら何度も出てきます。

定着と違反は反転可能なもの、もしくは並列的なものかもしれませんが、本書を振り返りながらざーっと挙げてみると

定着・・・現実との連続、コンセプト(概念的なこと・理念的なこと・テーマ的なこと)、非日常、概念の形式、構成、統合、都市的スケール、固有性(根源的とも言える建築のトポス、客観的形式、集団としての記憶を形成するエクリチュール)、記憶の家、永遠性、アイデンティティ、対象としての建築、全体的な統合に依拠した配列・・・

違反・・・現実との対立、現実の日常的なもののあり方、構成・形式自体を変形・ずらす・相対化・弱める、曖昧なスケール、曖昧さや両面性による素材の使用、構成要素の配列の組み換え、バランスの変更、統合への違反、建築のスケール、反固有性(あくまで固有性を前提としその結果も固有性を保有しうる固有性の格調の範囲にある違反)、今日を刻む家、現在性、活性化、環境としての建築、他律的な要因による並列、併存的な構成・・・

作用・・・ニュートラルな自由な空間、場所的空間、押し付けがましくなくより柔らかく自由を感じさせるもの、付帯していた意味を中性化し宙吊りにする、生き生きしたもう一つの日常を復活、矛盾・曖昧・二重性・宙吊り・対立・意味の消去・表現の消去、自由度の高い建築の空間、現実の中で汎用化し紋切型化した構成形式の変容を促す、類型的意味を曖昧にする、象徴作用、建築が<建築>として象徴力を持ちうる、<生きて住まうこと>の感動と安堵に対する喜びと活気、建築をより大きな広い世界へとつなぐ・・・

これらのもとにあるのは

精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。

という思いであり、さらに、そのもとには戦後橋の下に住んでいたある家族の家という個人的な情景があるように感じました。
こういう情景と比較した一種の喪失感のようなものは時代的に多くの人と共有できるように思いますし、そのための方法を多くの人が探っているんだと思います。

ここでいう象徴力という言葉は前回書いた固有名と社会性の関係に繋がるように思いますが、そのへんをもう少し自分の中ではっきりとした言葉にすると同時に具体的に方法論として積み重ねていかないといけないと感じています。

具体的なヒントとなる良著でしたが、それだけにしっかりと自分のものに置き換えないとですね。

また、読みながらふと、パタン・ランゲージやアルゴリズムと言ったものにも違反のシステムが組み込まれているべきだと思ったのですが、もしかしたら複数のレイヤーやパラメーターを重ね合わせることで、関係性の中からそれぞれに一種の違反が生まれることがすでに組み込まれているのかも知れないと思いなおしました。

『違反』の部分はおそらく個性と言うか個人の持っている情景・イメージや問題意識に左右されざるを得ない、又はそうあるべきものだと(現時点では)思うのですが、その前に違反するとすればその違反を誰がどのように起こすのかということをイメージしておく必要がありそうです。

簡単に書きましたがこの本は近年でも1,2を争うヒットで何度もじっくり読みたいと思っています。




YNGH 内部下地


内部の壁・天井下地が進んで空間がだいぶ見えてきました。
2階個室レベルの2m弱の壁より上部はガラスでぐるっと視線が通るようになっていて、いろんなところからトップライトを通して空が見えるようになってるのですが、良い感じにまとまりを与えてくれそう。

ここまで、スケールやら素材やら視線の通りやら本当にイメージ通りになるか胃が痛くなりそうなくらいドキドキしてたのですが、やっと確信が持ててきました。油断は禁物ですがいい家になると思います。

完成が待ち遠しいなー。毎日でも現場通いたいなー。




KBGN 地鎮祭


心配していた天候も回復し無事地鎮祭をとり行うことが出来ました。
気持ちを新たにぐっと感度を高めていこう。がんばろー




B169 『ウィトゲンシュタインの建築』

バーナード・レイトナー (著), 磯崎 新 (翻訳)
青土社; 新版 (2008/6/20)

読書会の3回目に井原先生にウィトゲンシュタインについてちょっとした解説を頼まれたので、読んでみました。
それをもとに、『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』とウィトゲンシュタインの建築をどう絡めるかをメモしたので多少手を入れて載せてみます。

ウィトゲンシュタインの建築について【メモ】

ウィトゲンシュタインは全てをコントロール出来なかったにもかかわらず、なぜ「私の建築」と呼んだのか。
p.166を読んで浮かぶ問はこうである。しかし、建築のプロセスやできたものを見るかぎり、また一般的な建築家の仕事を考える限り、彼はこの建物を「建築」とするために「私の建築」と呼ぶにふさわしいほどコントロールしたという印象が結局拭えなかった。細部の構成も幾何学的に熟慮されていて、『ウィトゲンシュタインの建築』巻末で多木浩二が前期ウィトゲンシュタインの哲学との並行性に触れているように「建築への意志」を十分に持っていたと見れる。

なので、先の問を「ウィトゲンシュタインはこの建築を通じて何をなしたのか。また、教師の経験を通じて「教える・他者性」ということに重要性を見出していたと思われるのに、なぜ重要な部分で「建築への意志」を貫いたのか」と置き換えてみる。

特徴
(1) ストロンボウという施主は非常に個性・主張の強い人物であった。
(2) 共同設計者(エンゲルマン)の案をほぼ踏襲しており、エンゲルマンは最後まで関わっている。
(3) 天井を後で数センチあげたり、技術的に困難なスチールワークのディテールを技術者の意見を聞かずに貫いたり、ミリ単位で細部に異常なほど固執した。

考察
(1)については建築の設計においてよくあることである。
(2)についても実際は一人の建築家が全てを決めることはほとんどなく、スタッフや共同設計者が多くのことを担い、それでも重要な役割を担った人が「私の建築」と呼ぶことは一般的である。(実際にはエンゲルマンはある程度身を引き多くをヴィトゲンシュタインの個性に委ねたよう)
(3)についても同時代の近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが「神は細部(ディテール)」に宿る」と言ったように、建物が「建築」足りうるためにディテールにこだわることはよくあり、エンゲルマンが行った基本設計とは施主の要望とは異なるレベルで「私の建築」とするためディテールに「建築への意志」を込めることは十分考えられる。

以上から、建築家のあり方として特別だったとは言えないように思う。
これは流れで言うとウィトゲンシュタインが「世俗的な建築」を「隠喩としての建築」から開放したと言えるかも知れないが、ではなぜ、同じ世俗的な他者である職人の意見を無視してまでディテールに拘る必要があったのか。

仮説
これには(1)のストロンボウ婦人の個性が強かったというのがひとつの大きな理由のように思える。
施主とウィトゲンシュタインと同一の規則を有しない他者であったと仮定した時に、そこで両者の、又はウィトゲンシュタインの建築と施主のコミュニケーションを成立させるため、建築に「固有名」を与えることを望んだのではないか。
『ウィトゲンシュタインの建築』に「しかしその内部は二十世紀の建築史においてもユニークなものだ。全てが熟慮されている。慣用されていたものからも、職業的なアバンギャルドからも、何ひとつ直接的に移植されたものはない。」とあるように、建築が施主に内面化されてしまわない固有性を持ったものにするためには徹底的にディテールに拘る必要があったのではないか。

これは、例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てが施主が内面化できる中にコントロールされるように構造化されてきたことと全く逆である。
このような住宅は誰でも設計・施工でき、たいていの客が理解でき、クレームを最小限に抑える必要性から、そこで用意されるものや価値観は施主に内面化されるもの(またはそう錯覚されるもの)が厳選され、そこから外れないように徹底的にコントロールされてきた。
そのような建物は「モノローグを超えたコミュにーケーション」を拒絶するもの=施主に完全に内面化された「社会性」のないものになってしまっている。そして、それが今の建築・都市景観の貧しさにつながるのでは、という今日的な課題とも関連しそうである。
そして今ではモノローグを超えた「世俗的な建築」そのものが非常に困難になっている。

「世俗的な建築」の困難(補足)

ここでのモノローグとは自己対話というだけでなく、内面化された他者との対話も自己対話に帰結するとし、モノローグ、または独我論の内にある。また、社会性とは内面化されない他者との対話の間に生まれるものである。

大量生産による工業製品は現代を生きる殆どの人に内面化されたもので、工業化という技術の外部に出ること(=社会性を得ること)は困難である。また、そこで多様性を装って予め準備されている価値観も内面化されていることを前提に厳選されたモノローグを助長するものでしかなく、その外部と出会う機会はかなり奪われてしまっている。
そのような中で純粋に「世俗的な建築」であること、または出来事であることは今となっては困難を伴うものになってしまった。

この本を読んで一番の収穫は、得体のしれない言葉だった「社会性」というものを多少掴むことができ、それに対して「固有名」を与えたり関係性を築くことが有効だと思えたことでした。
事務所のロゴに込めた、建築が施主や設計者に内面化されない独立した存在(固有名を持った存在)であって欲しいという思いと「社会性」という言葉が繋がったのには大きな勇気をもらえました。




B168 『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』

柄谷 行人 (著)
岩波書店 (2004/1/28)

鹿児島大学の井原先生より全3回の読書会にお誘い頂いたので参加してきました。(2回目は日程を勘違いして不参加という失態を犯してしまいましたが・・・)

学生の頃に磯崎さん周辺の本を読んでからこの手の本には苦手意識があって、あまりまともに読んでこなかったのですが、なおさらこれはいい機会だと思い、今の自分の問題意識の先につながればいいなと読んでみました。

読書会での議論をまとめようとすると収集がつかなくなりそうなので、読書会前にメモしたことを多少読書会での議論を加味しながら書いておこうと思います。
いつものごとく個人的なフローの記録という位置づけですのでお暇な方はどうぞ、という感じで。

「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」

私が本書でやろうとしたことは、ディコンストラクションをコンストラクションから、すなわち建築から考えてみる事だといえる。(p.3)

本書には「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」という大きく3つの流れがあり、「制作」「生成」と「世俗的な建築(教えることと売ること)」の間にはダイナミックな「転回」があるような構成なのですが、まずは、特に序文を参考にモダニズム以降の建築の流れをこの3つの流れに大まかにプロットして見ることからとっかかりを探すことにしました。
プロット自体はかなり大雑把で強引なものであり、個人的な解釈や印象に基づくものです。メモにすぎないのですが、おかしな点はご指摘頂けると嬉しいです。
プロットの先に探したいのは著者の「転回」の先にあるであろう今の建築に対するヒントです。
また、定義が曖昧なまま書いてますが、「主体」とは何かということもテーマとして重なるように思いました。

「制作」

モダニズム・機能主義や、例えば幾何学の応用等がこれにあたるかも知れません。

建築家がある思想のもと全てをコントロールし「建築」を制作できるという信頼がベース。
個人的には建築単体としては豊かで魅力的なものが多い気がする。
その魅力・豊かさの源泉は「主体」としての建築家の豊かさが建築に織り込まれていて、建築そのものが「主体」と成り得てることではないだろうか。ただ、都市のスケールでの「制作」になると一転して退屈で息苦しいものに感じる。
また、「主体」としての個人の建築家を離れ、機能主義のみが独り歩きした建物は、どちらかというと、主体不在で「生成」された、ポストモダン的なものになっているように思う。(そしてそれにはあまり魅力を感じない)

「生成」

狭義のスタイルとしてのポストモダニズム・ディコン等は機能主義の「外部」に出ようとしたが、結果として、その操作を行う「主体」としての建築家の「外部」に出られず、どちらかと言えば「制作」の範囲にとどまっている、という印象。

コンピューターの発達により非線形的な方法を導入して、「別様であり得る」可能性の中からあえて一つを選んだ、というような方法は「主体」が曖昧にされつつ、建築としての質を建築家が担保するという点で「生成」的でありながら「制作」的でもあり、現実的にはバランスがよさそうに感じる。

純粋な「生成」というのは難しそうだけれども、建築家不在の建築がそれにあたるのか?
「生成」に主体の不在を求めると、なんとなく貧しいイメージしか浮かばない気がする。(実際には生成=主体の不在というのは正確ではないと思いますが上手くつかめてません)

「世俗的批評」

これは「世俗的な建築」と言って良いかも知れないけれども、超線形設計プロセスや超並列設計プロセスは「世俗的な他者」をコミュニケーションに組み込みつつ社会性の中に豊かさを織り込んでいくという点で「世俗的な建築」の可能性を示すもののように思う。

「制作」から「生成」へと移るさいに「主体」が忘れられ、その先でまた、別の形での「主体」のあり方が求められている。と言うような印象。

転回の先に何を求めたのか

この本を読むにあたって一番知りたかったのは、著者はなぜ「外部」を求めたのか?「転回」の先に何を求めたのか?ということだったのですが、強引にプロットしてみてなんとなく自分の問題に引き寄せられたような気がします。

「制作」での「外部」への欲求は建築と言うより都市のスケールでの不自由さ・貧しさ・息苦しさから。
「生成」での「外部」への欲求は主体の不在による不気味さ・貧しさから。
とすると、「転回」の先に求めるのは都市における建築と主体の新たなあり方のようなものかもしれない、と思いました。

読書会でも「ポストモダンの社会でいかにして、あえて主体たりうるか」と言ったことが話題に登ったのですが、建築や都市の語を例えば個人や社会といった言葉に読み替えることもできそうです。(適切な言葉を当てはめれば著者の欲求にも当て嵌まりそうな気が。)

第3部「教えることと売ること」で出てきて気になった「教える-学ぶ」「社会的/共同体的」「固有名」「社会性」については合わせて読んだ「ウィトゲンシュタインの建築」の所で書きます。つづく。

—-うーん、まだまとめるほど頭が整理できてないのでほんとのメモ書きみたいになってしまいました。期間を開けて何周か読んでみないと・・・。




YNGH 上棟式


天候にも恵まれ、子供たちもたくさん集まり、とてもいい上棟式でした。
これから仕上げ関連。気を引き締めて行きましょう。

(子供たちは別の餅まきからはしごしてきた様子。彼らの情報網、侮れません。)




YNGH 軸組建方


現在、軸組建方中。
今週雨が降ったので少し遅れがありましたが、人出の入る今日が晴れてくれて良かったです。
内部は複雑な構造のため、組んでいくのが大変だったようですが、軸組がすごく密実に見えました。
床がスキップしてるため地震力の流れには注意して筋交いを入れたのですが、筋交いと根太レスの合板で固めればかなり丈夫な構造になると思います。


内外のスケール感も今のところイメージしてた通りでほっとしてます。


各ポイントからも桜島がバッチリ見えそうです。

やっぱり現場はいいですねー。急速に形になっていくのを見るとワクワクしてきました。




YNGH 配筋検査


今朝雨の中、設計事務所と住宅瑕疵担保責任保険の検査機関の配筋検査を行いました。
大きな指摘事項もなく順調に進んでいます。予定していたコンクリート打設は雨のため明日以降に延期。
この段階ではもっと狭く感じるかと思っていましたが、思ってたより広く感じました。




YNGH 実施模型




少し時間ができたので1/100の実施模型を作成しました。

なぜこのタイミングで模型をつくるかというと

  • 全体のプロポーションや光の入り方の最終的なチェックのため。
  • 施主や施行者等関係者に全体像を正確に伝えると共に、テンションを少しでも上げてもらうため。
  • 募金プラスプランにご賛同いただいたお施主さんへのプレゼントとして。

    建物は最後は人がつくるものなのでテンション上げてもらうのは結構大事です。
    どのスケールでつくるか悩みましたが、手のひらサイズで眺めやすくて凝縮した感じにしたかったので1/100で製作。模型というよりもドールハウスをつくる感覚で作ってみました。写真には写ってませんが内部もそれなりにつくりこんであります。

    一度お施主さんにお渡しして眺めてもらってからは、現場に置いて職人さんたちに見てもらい、竣工の際にはお施主さんにさし上げようかと思っています。
    (現場で壊れないように簡単なケース作らねば・・・)


    フロアレベルが7つもあるので模型つくるのも結構大変でした。
    上棟すれば躯体がガイドになるからいいけど、プレカット屋さんは頭が痛いかもです。




B167 『自然な建築』

隈 研吾 (著)
岩波書店 (2008/11/20)

図書館でなんとなく手にとった本なのですがこのタイミングで出会えて良かったなと思えました。
僕の不勉強もありますが、隈さんの印象が少し変わったように思います。何というか隈さんの身体性に初めて触れられた気がしました。(テーマのせいもあってこれまでのキレてる印象が少し和らいだ分、僕的には”届いた”本でした)

今まで全く意識したことなかったけど、技術に対する意識という点で隈さんと藤森さんって似ている所があるかもしれません。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B117 『藤森流 自然素材の使い方』

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

こういう風にして引き寄せられる何かに対してすごく興味があるのですが、もっと外に飛び出して足と手を動かさないといけないなという反省と共に、ほんの少しずつでも前に進んで行きたいと勇気をもらえました。

P.S
いっちーに隈さんの出演しているこの本を話題にしたラジオを教えて頂きました。
ラジオ版学問ノススメSpecial Edition隈研吾(建築家)[2009/02/01放送]




YNGH 地鎮祭


確認も近々下りる予定。いよいよ工事が始まります。




YNGH 5th


まだ確定ではないですが、厳しかった予算調整も何とか方向が見えてきました。
いろいろと申請関係を同時並行で進めないといけないのでかなりぎりぎりのスケジュールですが、7月内着工を目指してスパートです。




B166 『WindowScape 窓のふるまい学』

東京工業大学 塚本由晴研究室 (著, 編集)
フィルムアート社 (2010/10/29)

塚本さんの”ふるまい”という言葉について興味があったところ図書館で目にしたので借りてきた本。

冒頭の文章が良かったので一部引用。

なぜふるまいなのか
20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。
(中略)
窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。

「人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている」「窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまう」「隣り合うことに価値を見出す経験の論理」

ちょうど、昨日の飲み会で主にコストとの折り合いの関係から、「名作と呼ばれる建築の仕上げなどがクロスやアルミサッシなどの工業製品に置き換えられたら、その空間の質は残るか」みたいな話が出たけれども、それほど影響が出ないタイプの建物と決定的に影響が出る建物があるのだろうと思います。

では、工業製品と付き合って行かざるをえない中でどうすれば「世界を感じ取るためには不可欠なもの」をとりもどせるか。

いわゆるモダニズムの正攻法かも知れないけれど、一つは空間の質を素材の持つ力に頼らず、例えば構成などで担保するような方向があると思う。
工業製品が「それ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物」だとすると、それを前提として受け入れてしまい、枯山水じゃないけれども抽象の力を借りて「人間が世界を感じ取るためには不可欠なもの」を引き寄せるような方向。(抽象もコストがかかりがちだけど)

もうひとつはそれ自体の輪郭の中に閉じこめられてしまった物を再び開こうとする方向があるのかも知れません。一つ目の方向との違いは分かりにくいかも知れないけれど、抽象よりももっと具体的・身体的な部分でリアルに迫るようなイメージ。
それをどうやって開くかというのはまだよく分からないけれど、例えば
・構成を身体的なところまで細分化?していって、閉じたモノを絡み合った関係性の束の中に落としこむことで完結させないようにする。
・もっと具体的にものの使い方や意味をずらしてしまうことによって閉じた輪郭を関係性の中に浮かび上がらせる。
というようなことがようなことがイメージされます。
あと、工業化の過程でブラックボックス化した技術をどう可視化して手元に引き寄せるか、というのも一つのテーマになるのかな。

この辺は実践を通して手応えを掴んでいくしかないなぁと最近良く感じます。




KBGN 2nd



こちらも納まりを意識しながらパースを作成。
これから図面化しながら詰めていきます。




YNGH 4th



図面もとりあえず一通り書いたので、確認のため内部パースを作成しながら何点か修正。
構成が複雑な分、出来る部分でローコストに配慮したけれどもさてどうなるか。




かごまちシンポのミーティング

昨日マルヤガーデンズで「第2回かごしままちづくりシンポジューム」の会議があるということでふらっと行ってきました。

その中で清水さんの「移動と滞留」の話が印象的でした。
自分の中でうまく整理は出来ていないのですが、なんとなく掴みどころがなくなりそうな議論の中で何か軸を決めるとっかかりになりそうな、そんな予感のする話でした。
そのあたりについて清水さんがブログを書かれていたのでリンクを貼っておきます。

清水哲男の「鹿児島・天文館徒然草」 : 第千四百十段「移動と滞留」考え中…

この話を聞きながら、「かごまちシンポっていったい何なの?」「かごまちシンポって結局何をしたいの?」というような批判めいた言葉がこれから先もずっと付いて回るんだろうなー、というようなことを考えました。
最近自分の周りのことを振り返ってみても、この疑問・批判に対して、これでもかってくらいシンプルに、明確に、分かりやすく答える言葉を見つけていく作業がきっと大事になってくるんじゃないかと思いました。(必ずしも結論である必要はないかも知れませんが)

その言語は主催者側が活動を続けていく上での指針にもなると思いますが、自分たちが理解しているだけでなく、なんとなく遠目で眺めている第3者にも届くようなものであった方がいいように思いますし、学内や部外者に協力を求める上でも必要になってくるのだと思います。

近々、ブログのようなものを起こしてくれると思いますので(サイトがあれば、この記事からでもリンクを貼れたんだけど・・・)、その時には上の疑問に対して簡潔な言葉で答える記事を書くことに是非チャレンジして欲しいなと思ったりします。

また、「概念の範囲」という言葉もすごくとっかかりのある魅力的な言葉だと思うのですが、まだ自分の中では整理できていません。うーん、何かが整理できそうな匂いがぷんぷんするんだけど。。。

僕は一つ前の記事で、生活風景のデザインというような言葉を使いました。
都市交通を「移動と滞留の手段」とする捉え方がまずあるとして、一つ視点を変えて、その手段の結果としてどのような生活の風景が現れるのか、という視点もあるように思います。

車を便利だとして優先させて言った結果、生活風景が貧しくなってないかな、というのが一つ前の記事だったわけですが、こういう視点と「移動と滞留の手段」という視点の関係がどうなのか、まちづくり・活性化、概念の範囲・平面の範囲、というような言葉の中、これがどう整理できるか、いまいち分からなくなってるわけですが・・・。
ちょっとゆっくり考えてみたい気がします。




エイリアンから生活を取り戻せ(とか)

昨日久しぶりにMさんと話をして、個々の設計についてもいろいろ刺激になったのですが、トランジットモールなどの話をしながらふと、昔書いた記事を思い出しました。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » 自動車エイリアン説。

もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。 車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。

※車社会の善悪の話ではなく、生活風景のデザインの話だと思って読んでください。僕も少なからず車社会の恩恵を受けていますから。

天文館のトランジットモールも魅力的なのですが、毎日暮らしているこの場所はもっとどうにかならなかったんだろうかと、一生活者として思うことがよくあります。
毎日、保育園まで歩いて子供たちを迎えに行っているのですが、その帰りに二人の子供と道路を歩くのは緊張を強いられとてつもないストレスを感じます。

さっきの話の続きで、エイリアンに侵略されてる妄想をしながら、例えばいくつかのエリアの地図を【ヒトのための空間】と【車のための空間】とに塗り分けて面積比を出したらどんな結果が出るでしょうか?
例えば5階建ての1階のピロティが駐車場のところは4:1で按分する方法があるかもしれませんが、いっそのこと、その平面的なエリアがヒトのための空間として活き活きしてるか、車のための空間として活き活きしているかで、えいやとどちらかに塗り分けた方が面白いかも知れません。

そうして、出てきた結果が仮にヒト:車=4:6だったとして、それを7:3にするにはどうすればいいだろうか、と考えてみるのは面白そうです。

通過交通用の道路以外の一分を歩行者専用にしたり、それが現実的でなければ、ヒトの生活よりのコミュニティ道路にしたり、はたまたソフト的な部分でOSOTO的に活用し、特定の日だけヒト:車率を変えたり、または、人の生活空間をより活き活きとしたものにして車よりも人の空間と感じられるようにしたり、と方法はいろいろありそうです。

自分の住んでいる街を一度、エイリアンに侵略されている街として想像しながらヒト:車率はいくらぐらいだろうか、それを変えたらどんな生活ができるだろうか、と想像しながら歩いてみると面白いかも知れません。

※再度書きますが車社会の善悪の話ではなく、生活風景のデザインの話です。車好きの方ごめんなさい。




KBGNスタート



国分市街地からそれほど遠くない場所に自然のような地形が残る稀有な土地。
生活に根ざした良い家ができそうな予感がします。

模型は最新版を撮影して後日アップ予定です。




B165 『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』

山崎 亮 (著)
学芸出版社 (2011/4/22)

マルヤガーデンズでコミュニティデザイナーを務められた山崎亮さん(studio-L)の待望の単著。
帯に「状況はまだまだ好転させられる」と書いてありますが、こんなに未来への可能性にわくわくさせてくれる本に出会ったのは久しぶりのような気がします。

10年以上前、僕も卒論でコミュニティの視点からみたコーポラティブハウスの可能性みたいなことをやりましたが、その時はコミュニティという言葉に可能性と行き詰まりを同時に感じてその感覚は長く残っていました。
その卒論では確か「ヒト・モノ・関係」からコミュニティを捉えながら、コーポラティブハウスという「モノ」をつくる過程で「ヒト」「関係」が生まれてくるという視点でしたが、あくまでそのベースには「モノ」ありきだったように思います。

山崎さんの「コミュニティデザイン」という言葉もその延長線上にあるとは思うのですが、サブタイトルの通り「ヒト」もしくは「関係」に真正面から向き合うことによって「コミュニティ」と「デザイン」という言葉が新鮮な可能性を持ったように感じました。同時にコミュニティという言葉に感じた僕の中の行き詰まり感をようやく払拭できたように感じられました。

コミュニティデザインの理論やハウツーがまとめられているのではなく、山崎さんがこれまで実践されてきた実例が多数掲載されているのですが、そこから山崎さんがどうやって今の山崎さんになったのかの一端や、実践することの大切さがみえてきますし、そこから得られるものは読む人によって変わってくるのではないでしょうか。

昨日、東川さんがテーマを見つけることの重要性を言われましたが、いろいろな立場の人がいる中で共有できるテーマを探り問題の突破口を開いていく場面がなんどもありちょっと感動的でもあります。(ダーツで物事が動き出すところもグッと来ました)
たぶん、この辺の感覚っていうのがすごく大事になってくるんだろうなぁと思いますし、そういう視点でもう一度読み返してみようと思っています。

また、同じく昨日の話で、関わり方、というのが出ましたが、自分はもろもろのことに対してどういう立ち位置で関わっていくか、というのが大きな課題です。僕自身はものをつくるのをやめられないと思いますし、一番にはそこで責任を果たしていきたいと思いこれまでやってきていますが、可能性をそこに絞ってしまうのもちょっと違うかなと感じています。
事務所の経営を考えながら自分に何がやれるか。何をやるべきか。どうやってやるべきか。はたまた誰とやるべきか。
まだまだ答えは出そうにありませんが、少しずつ見つけていきたいと思います。(と言いながらずるずる行きそうなので、どこかで集中的にやらないと自分自身も変われないんだろうなぁと思ったり。)

まー、とにかくマルヤガーデンズで山崎さんの仕事の一端に触れられたのは僕にとって(おそらく鹿児島にとっても)幸運だったと思います。どっちかというと僕は家でこもってコツコツ仕事するのが好きなんですが、やっぱりこの経験を活かさないのは勿体無いと思っています。

最後に本編より最後の一文

日本全国で生じているさまざまな課題は、当然僕たちだけで解決できるものではない。コミュニティデザインに取り組む人が少しずつ増えることで、ひとつでも多くのまちが自ら課題を乗り越える力を高めることを願っている。

それぞれの地域が抱える課題と向き合いたいと考える全ての方、また行政の方にも一読をお勧めします。

※あとこの本は脱いでもすごいです。。。

参考

まだ観れてませんがこれも面白そう。
Ustream.tv: 11/2マルモ出版&リクルート住宅総研 共同主催【特別授業「山崎亮の仕事術」】(1), hair5mm LIVE 11/02/10 03:40AM. 生活…

中原慎一郎さんと服部滋樹さんのトークショー。テーマはかなり近いです。
Ustream.tv: ユーザー d-department: トークショー「新しいコミュニティストアという存在」, Recorded on 11/04/30. デザイン

(たとえば)リノベ研の方で山崎さんに触発されて書いた記事他
『新しい公共』と自走力のアーキテクチャー – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
クラスタ化する社会とTwitterとチューリップ(前編) – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
クラスタ化する社会とTwitterとチューリップ(後編) – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)




大寺さんトークショー『市電とまちの未来像』

今日はイラストレーターの大寺さんの個展最終日ということで18時から東川さん(探検の会)とのトークショーがあったので行ってきました。(コーディネーターは味園さん(37Design))

坊津まで祭りに行った後だったので子供も疲れ気味で途中退席してしまいました。なので途中からはUSTで視聴)

▼トークショーの様子(1~3まであります)

大寺さんの話では「国交省はLRTの導入支援をしていて、市民の意識次第でいつでも火がつけば実現できるのでは」「富山は構想から開業まで3年で実現した。これは未来の話というより、今日、明日の問題」というようなところが印象に残りました。

その後味園さんが言われたように、では実現出来ていないのはなぜなのか?何が足りないのか?みんながこうだったらいいよね、ということを実現させるための力ってなんだろうか?
また、東川さんが「未来を描くときに自分がどういう立ち位置でそこに関わっているのか、関わり方をイメージすることが大切」というように話されてましたが、自分はどういう形で関わることが可能なのか?
そういうことが頭を周りました。登壇者の方に「僕はどういう形で関わればいいでしょうか?」と聞くのも、それは自分で考えなさいよ、って話でしょうし、質問もできなかったのですが。
(こういう場での質問って結構苦手ですねー。どうしても感想になってしまうし、ARCH(K)INDYの時も感じたんだけど、最近リアルタイムに言葉が浮かび難くなってる気がします・・・)

永山氏の「コミュニケーションの間口にどういったものが有効か?」というような質問に対して東川さんが「共通のテーマを見つけることが重要」といった事を言われてましたが、ちょうど今読んでいる本で感じたことと重なった気がしました。(これについては後で読書感想を書きますが、いろいろな立場の人がいる困難な問題でも、まさに共有できるテーマを探り当てることで突破口が開かれていく実例が多数紹介されていました。)

次回のかごまちシンポがどういう展開になるかも楽しみですが、自分はどうやって関わっていけるのか。限られたリソースの中でどれだけのことが出来るか分からないけれど、僕ももっと具体的なイメージを持たないといけませんね。

・大寺さんのように未来を共有できるイメージを提供する。
・そのイメージを拡げてより多くの人で共有できるようにする。
・イメージが共有されていくことを可視化して具体的な数字やかたちに落し込みよりリアルに共有できるようにする。
・具体的に実行するための調査・計画。そのための予算。
・実行。

等、様々な役割・フェイズがあると思うのですが、誰か、そういう自分の立ち位置を共通のイメージの中にそれぞれマッピングできるような、ロードマップのようなものを描ける人はいないでしょうか。(残念ながら能力・リソース的に僕には無理。もしくは個人じゃ無理)

あっ、とある方が「うわー、いますっごいことに気付いちゃった!これはますますやらネバダ!」とつぶやいてました。なんだろー。wkwk..gkbr….