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桜ヶ丘の家 建て方

桜ヶ丘の家の建て方を行いました。

途中から45度壁の角度が変わり、屋根が一点に変わる感じなので難易度は高めですが、なんとか屋根下地までいけました。
前日に棟梁が手上げできる分を組んでくれていたのが良かったです。




姶良の家 地鎮祭


姶良の家の地鎮祭を執り行いました、
久々の平屋です。
進行が楽しみ。
(写真は着工前)




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。




基礎完成


桜ヶ丘の家の基礎が完成。
平面形状が見て取れます。
今回はZEH同等仕様で基礎断熱を採用しています。




永留さんのこと


僕が建築を続けていく上で一番の理解者、もしくは応援者(と勝手に僕が思っている人)を失った。
先に逝ってしまった。
このブログは、僕にとってのその時々を記録として焼き付けておくためのものだから、やっぱり、永留さんについても書き残しておくべきだと思った。

永留さんとは結構長い付き合いかと思っていたけれども、僕のブログに最初にコメントをくれたのが、この記事、2009年の1月19日だったので、まだ10年と少しの付き合いでしかない。

このときは、時々ブログにコメントをくれる「すっとん卿」さん、だったのだけど、しばらくしてLEAPの編集者で、建築に並々ならぬ思いを持っている人だと知った。

それからは主にネットを通じて頻繁にやり取りをするようになったけれども、永留さんとは歳も同じで、なんとなく趣味嗜好やキャラ的な立ち位置、ちょっとした子供時代のエピソードなど、自分と重なる部分も多く、何となく他人のような感じがしなかった。

そんな永留さんがある時、僕のことを応援している、と言ってくれた。確か僕が独立する間際、すごく気持ちが落ち込む事があって少し弱音を吐いた時に、それに対しての言葉だった気がする。
なので慰めの意味が強かったかもしれないけれども、「太田さんは、鹿児島に人脈や受け継いだ地盤もないし、学生時代に特別な才能が認められて目立ってたわけでもない。それでも、ほとんどここでゼロの状態から建築をやろうとしていることに共感しているし、応援しているので頑張ってほしい」というような言葉だったと思う。今では、永留さんも何かしら自分自身を僕に重ね合わせるような部分があったのかも、と思う。

このころはSNSで繋がりが生まれはじめた頃だったけれども、それまではほとんど同世代の知り合いもいなくて建築的にはずっと孤独だった。そんな自分にとって、この言葉には本当に救われたし、こういうことを言ってくれる人が身近に存在すること自体がその後の自分にとっても支えになってくれた。

また、独立時の模型展ではトークイベントではインタビュアー役を引き受けてくれた。その時の音源はいっちーが録音してアップしてくれてたものから、こっそりダウンロードしてて、年に一度くらい初心に帰りたい時に聞き返している。このときの最後あたりの永留さんの言葉、「個人的には学生ではないプロの建築家のむき出しの表現衝動を見てみたい」「これらを捨てて新たなフェーズに移行していくのかわくわくしながら見ていきたい」というのはそれからもずっと頭に残っていて、これに応えたい、「ほら、永留さん、僕にもここまでのものができたよ」と一生のうちに一度でも言えるようになりたいと思っていた。

それからは時々SNSでその時々気になったことなどを投げあって、年に一度飲むだけの仲間の一人、というような(僕らにとって心地よい)距離感でここまで来たけれども、やっぱり僕にとっては特別な一人だった。
 
 
 
また、鹿児島には建築に関して批評の場がない、つくり手以外からの視点が表現される場がほとんど存在しないように思うけれども、そんな中、永留さんが地域情報誌の中に建築のコーナーを守り続けてきたことは本当に貴重なことだと思う。それは、実際、簡単なことではなかっただろうし、永留さんもそこに建築に関わる人としての意地と誇りを持っていたと思う。
80回以上続いた『建築のある街並み』のコーナーはこんな文章で始まる。

このコーナーでは、「建築」を紹介します。
ここで扱う「建築」とは、美しい街並みの一角を形作るタテモノ、
または多くの人々の記憶に永く留まるタテモノ、のこと。
街や通りとの関わりから、建築に込められた
持ち主・作り手の思いを紐解きます。

直接お会いしてからすぐの頃、建物見学がてら(一応、建築士の目線でも感想を聞いてみたいとの名目で)このコーナーの取材に同行させてもらうことがあった。その時に、車中で話題の一つとして「このコーナーの頭の文章、永留さんの名前を埋め込んでるんですね。」と切り出したところ「初めて指摘してもらえましたよ。」と笑って言われたけれど、この文章に相当な思いが込められているのはすごく伝わってきた。
その、貴重な場所を背負ってきた人がいなくなってしまった。
 
 
 
そして、昨日、お通夜があった。遺影を見つめていると、今でもすぐそこにいるような感じがした。「オノケンさん、僕のお通夜やってるんすよ、笑えるでしょ。」とあのニヒルな笑顔で言っているような気がした。いやさすがにここでは笑えない、と思ったら少し泣けてきた。
永留さんと一緒に鹿児島を案内した高知の建築の友人がここに来れなかったので、代わりにお焼香を多めにしておいた。
アホみたいにたくさん折り鶴折って帰ったら笑ってくれるかなと思ったけど、何となく人目が気になったので6羽でやめて、また明日と帰った。

今日、告別式に行った。本当に最後かと思ったら本当に泣けてきた。「オノケンさん、僕のお葬式やってるんすよ、笑えるでしょ。」とは言ってくれなかった。ご家族のことを考えるとつらかった。

今、これを書いてる。ようやく、もう、自分の一部を重ねたり、重ねられたり、ということはできないんだと知った。もう、永留さんに直接僕のつくるものを見てもらうこともできないんだな、そういう視点の存在を失ったんだなと知った。
だけど、やっぱりいつの日か、「ほら、永留さん、僕にもここまでのものができたよ、見てよ」と言わなきゃいけない気がした。
 
 
永留さん、本当にお疲れさまでした。僕も一応、これまでみたいにこつこつ頑張ってみるつもりです。どこまでできるか分からないけど、もしその日が来たら報告するよ。

それまでどうぞゆっくりしてて下さい。




気持ちで考えることと考えないことの両義性 B223『堀部安嗣 建築を気持ちで考える』(堀部 安嗣)

堀部 安嗣 (著)
TOTO出版 (2017/1/19)

建築を気持ちで考える。
なぜ、今、このタイトルなのか。それを確かめたくて買って読んでみることに。
まだ、うまく整理がついてないですが、書きながら考えてみたいと思います。

建築を気持ちで考える

気持ちで考える。この仕事を続けていると、このことの難しさや大切さが、時に見失いながらも身にしみて分かってくるように思います。

建築は自分の個人的な”気持ち”だけでつくることは難しい。
当然クライアントの気持ちもあるし、法規や周辺環境、予算や工期と行った壁も立ちはだかります。
そんな中で、それを超えて気持ちを大切にしながらつくり続けるためには、その気持ちを十分に信じられるだけの強さが必要になる気がします。

私は建築をつくる一番の目的は、人間の原初的な身体感覚にシンプルに応えることだと思っています。(p.171)

なんのために記憶を継承できる建物をつくるのか。最終的には、人がその人らしくいられる建物にするためです。

私は建築が背負う重荷を少しずつ取り除いて、本来のシンプルな姿に戻してあげたいと思っています。

これらの言葉には著者の建築に対するシンプルな姿勢が現れていて、その気持ちの強さや普遍性のようなものを感じます。
”気持ち”が個人の思いを超えて、普遍性を獲得しようとしてるとも言えそうです。
しかし、普遍的でありながらその”気持ち”は著者の体験を軸にした著者自身のものでもあるように思います。

建築はそれを設計した人そのものだ、と信じて疑いません。(p.006)

その”気持ち”が個人的なものでありながら、なお普遍性を帯びているところに著者の建築の魅力があるのかもしれません。

建築を気持ちで考えない

しかし、一方でその”気持ち”というものに多少の重たいものを感じる自分がいることも確かです。

自分は、ある意味では大人の気持ち(欲望)がそのまま現れたようなまちに対して喪失感や危機感を感じたところから建築をスタートしています。
そのせいか、気持ちそのものから自由になれるような建築とはどのようなものだろうか、という問題意識が根底にあって、気持ちそのものをストレートに扱うことには若干の抵抗があります。(世代的な面もあるかもしれません。また、自分がたまたま出会えたような世界の豊かさに、たまたま出会えなかったような人に対する想像力も必要だと思うのですが、もしかしたら”気持ち”はそういう想像力を鈍らせるかもしれない、と怖れてる面もあります。)

建築理論についてのパラグラフ|takahiro ohmura|note

同時にこうした状況においては、重要な判断はしばしば設計者の感性的な価値基準によって下されてしまう(そしてその判断が決定的に使い手を束縛する、ということも少なくない)。われわれは“理論”を酷使することによって、こうした場から、消費の欲望も、政治的な抑圧も、感性も、すべて放逐せねばならない。

これは、本書を読んでいる時にたまたまtwitterで見かけたものです。あくまで建築の理論に対する論考なので同列に扱えるかどうか分かりませんが、ここでは感性的な価値基準も放逐されねばならない、とされています

これに対して共感する自分もいて、なぜ建築に関わるのかという部分においては気持ちは必要だけれども、建築を組み立てる過程においてはそれとは一旦離れなければならないようにも思っています。
建築を気持ちで考えない、ということも大切なことのように思うのです。

建築を気持ちで考えながら、気持ちで考えない?

さらに一方で、前回書いたように、ワクワクするような気持ちを大事にしたい、という思いや、その時々の判断の際に自分の気持ちの小さな揺れに気付くような感度がなければ設計はできない、という思いもあります。

建築を気持ちで考えたい、という思いと、気持ちで考えたくない、という思い、両方あるのです。

それはどちらかが間違っているかというと、そうでは無いように思います。

建築には相反するものを同時に包み込むような強さを持つものであり、そのことが建築の豊かさにつながっていると思うのです。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

それは学生の頃からの悩みのようなもので、このブログでもいろいろと考えてきました。例えば、ぼんやりとしたイメージですが、

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ。

もし、気持ちで考えたような建築も、気持ちで考えないような建築も、いろいろと混ざり合ってどこへでも行けるような建築ができるとすればそういうものをつくりたいと思いますし、そのためには気持ちで考えることも、気持ちで考えないこともどちらも必要な気がします。

そうした視点で見ると、おそらく堀部さんの建築も”気持ちで考えた”ような一枚板の建物ではなく、そのような”気持ち”から建築自体が自由になるようなところにまで届いているのだと思います。そうでなければ、これだけの共感を得られないように思いますし、そのことを目指しているようにも感じました。

 
 
気持ちで考える、ってどういうこと?と分からなくなって、書いてみましたが、何か今まで書いてきたことを再確認する感じになった気がします。
たぶん、これが自分の”気持ち”なんだろうな。

それにしても、やっぱり、自分の気持ちで考えて、それを建築にするのって難しい
まだまだそこまで届かないっす。




仕掛けは選択肢の一つとしてさりげなく B222『仕掛学―人を動かすアイデアのつくり方』(松村 真宏)

松村 真宏 (著)
東洋経済新報社 (2016/9/22)

知人に紹介してもらって買った本。
まだ考えがうまくまとまっていないけれども、メモ的につらつらと書きながら考えてみたい。

仕掛け

著者は仕掛を定義する要件として次の3つを挙げている。
公平性(Fairness):誰も不利益を被らない。
誘引性(Attractiveness):行動が誘われる。
目的の二重性(Duality of Purpose):仕掛ける側と仕掛られる側の目的が異なる。
仕掛けを面白く感じるのは目的の二重性によって異なるものが不意に結びつくことにあるように思う。

ここを読んで、事務所のキックオフイベントとして行った模型展を思い出した。
投票によって人型を並べてもらったのは、投票行為であるのと同時に、町並みに見立てた会場の賑わいを生み出すことでもあったし、模型を持ち上げないと展示の一部が見えないようにしたのは、模型に手を触れることを遠慮することを避けることでもあった。
うまくいったと感じた仕掛けは確かにこの定義を満たしていたように思う。

また、便宜的に仕掛けの原理を分類体系としてまとめられていたが、これは原理を理解する手助けになる。
仕掛学研究会ホームページ論文より引用

心理的トリガは物理的トリガによって引き起こされ、互いが自然に結びつく関係にあるとき、その仕掛けはうまく機能する。

建築と仕掛け

さて、建築と仕掛けについて。
東京での修行時代、その時の所長に「お前は建築を装置として考えすぎている。」と指摘を受けたことがある。
そこでなされる行為や、そこから受け取る印象・感情等と建築とを直接的に結びつけすぎているということだと思う。これには言われて確かにそうかもしれない、と思ったのを覚えているが、その時はだからどうすれば良いというのはよく分からなかった。

仕掛けは定義にある通り、目的を予め想定するものである。
建築が人の行為を規定してしまうことの不自由さの是非を問うような議論は昔からあるが、果たして、仕掛けの目的性は建築にふさわしいものなのだろうか
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。

それに対して本書では「仕掛けは行動の選択肢を増やすもの」としている。

仕掛けの良いところは、あくまで行動の選択肢を増やすだけで行動を強要しないところにある。もともと何もなかったところに新たな行動の選択肢を追加しているだけなので、最初の期待から下がることはない。どの行動を選んでも自ら選んだ行動なので、騙されたと思って不快に思うこともない。(Amazonページより)

行動を誘引はするけれども強要はしない。

ギブソンはアフォーダンスという概念で、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したが、そういう視点で仕掛けを見た時、仕掛けはあくまで選択肢の一つとして立ち現れるもので、能動性は担保されうるように思えなくもない。
そして、その能動性が先の3つの要件、公平性・誘引性・目的の二重性によって守られるのだと考えると、この定義の重要性も見えてくる
うまくすれば仕掛けも出会いの一つ足りうるのかもしれないな。(ただし、その効果はこの本でも書かれているように減衰するものであって、減衰後のあり方にも配慮が必要だろう。)

うーん、やっぱり油断すると建築を(出会いのための)装置として考えてしまいそうになる。
そこから距離を取るためにギブソン的な視点の転回を必要としてるんだけど、忙しさにかまけてしばらく思考をサボるとその辺の感覚を見失ってしまうし、その視点と設計という行為とのジレンマに負けそうになってしまう。

結局、修行時代に受けた指摘に応えるためにまだ藻掻いてる感じで、修行はいつまでも続きそうだな。




地域ウォークラリー

今日は保育園で地域のお店などを回る地域ウォークラリー。
うちの事務所もスタンプ地点になったので、普段の建築士の仕事と遊び(折り紙)に興味を持ってもらえるようにガッツリ展示しながら仕事する。

普段あまり接点のない親御さんとも話ができたりして良かったです。




もっとおおらかに、もっとわくわくしながら B221『家づくりのつぼノート』(西久保 毅人)

西久保 毅人 (著), ニコ設計室 (著)
エクスナレッジ (2019/8/3)

建物探訪でぐっときたお二方

『渡辺篤史の建もの探訪』は気が向いた時に時々見るくらいなんだけど、見ながら「ぐっとくるなー。めっちゃ上手いなー。」と思って初めて興味を持った方が二人います。

一人はタトアーキテクツ(島田陽)で、もう一人がニコ設計室。

当時から有名だったのか、まだ無名の頃だったのかは分からないけど、その時初めて知って、すぐにファンになりました。
そのニコ設計室が本を出したと知って急いで買いました。

豊かさとおおらかさと自分の原点

一つひとつの言葉がすごく共感できて、自分の目指すところを言葉と形にして見せてくれたような感じがします。
例えば、学生の時に考えていた敷地の捉え方をはじめ、デザインのたねとして考えていたようなことが、具体性をもって表現されていて、とても豊かなものがそこにあるように感じましたし、『施主力8割』のところなんかそのまんま自分の言葉じゃないかと思えるくらい。

そのワクワクする、ため息が出るような豊かさ、人間臭さはどこか象設計集団に感じるものに似てると思ったら。略歴のところに象設計集団の文字が。
やっぱりなー。

さて、その豊かさの根っこにはある種のおおらかさが見て取れます
それは、プランにも如実に現れてるし、街とのつながりかたにも現れています。おおらかであることによって初めて獲得できるような、どこか懐かしい豊かさ

さらに、そのおおらかさのもとには子どもたちに対する愛情や責任が、もっといえば、著者自身が子どもの頃のわくわくする気持ちを保ち続けていることがあるように思いました。(それは決して簡単なことではないと思います。)

自分はどういうものをつくっていくべきか。それは設計者の永遠のテーマとも言えますが、その原点を思い出させてくれたように思います。

自分も初心に帰って、もっともっとおおらかに、もっともっとワクワクしながら設計を続けられたらなー
 
 

追記(twitterより)

言葉遊びではない、生活の延長としての街への開き方が豊かな印象を与えているように感じたけれども、案外東京の密集した地域だからこそ、というのはあるかもしれない

道路があまりにも車の交通としての色合いが強いとこういう開き方も難しい、というか開くというのが言葉だけになりがち。例えば裏路地のように道路自体がおおらかさを持っていることが大切なような気がする。

もともと道路自体がおおらかさをもっていればいいけど、そうでない時はどうするか。目の前の道路に新しいおおらかさを見出したり、生み出したりするような見立てる力、顕在化させる力が求められる気がする。

一つ前に書いたマイパブリックの話も、おおらかさを顕在化するための手法なのかもしれないなー。そこに懐かしさのようなものを感じてほっとするのかも。ほっとしたい。

後は、そのおおらかさを実現するためにはある程度予算的なおおらかさも求められる。予算の話はきりがないのでそれを与えられた条件の中でどうやってクリアするか




SDGT , HTGI 写真アップ


SDGTの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。


HTGIの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




桜ヶ丘の家 地鎮祭


桜ヶ丘の家の地鎮祭を行いました。
これから楽しみです。




東谷山の家 オープンハウス


お施主様のご好意により9/15(日)16(月)の2日間オープンハウスを開催させていただきます。
時間は10:00~17:00予約不要です。
何かありましたらお問い合わせ下さい。




趣味的な何かをつなぎとめておくために B220『マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり』(田中元子)

田中元子 (著)
晶文社 (2017/12/6)

田中元子さんの言葉は、当たり前なんだけどなぜか言葉になっていなかったことに言葉を与えるような、ふいに芯をつく強さがあって気になっていた。

自分はまちに対して積極的に関われているとは言い難いけれど、共感することも多かったのでメモ。

3%の趣味

いつから実行したかは思い出せないけれども、頂いた設計監理料の扱いについて自分の中であるルールを決めている。

それは、設計監理料のうちの3%程度は何らかの形でお施主さんに還元するということだ。
竣工祝として植栽やポストなどを送ることもあれば、現場の進行をスムーズに進めるために密かに使うこともある。

中でも、壁の塗装や簡単な家具などの一部をDIYなどでやってしまう時の材料代等に当てることが一番多いように思う。

それに対して、「設計料は、図面に対する対価ではなく、お客さんに対するサービス全体の対価であるから。」等々、いろいろな理由をつけることはできるけれども、この本の序盤を読んでいて、それはもしかしたら趣味的なものかもしれないと思った。

最初の要望をお聞きしてからお引渡しまでの間、お金のコントロールに一番神経を使う。絶えず、これをこうしたらいくら増額で、こうしたらいくら減額になる、というような算段をしながら物事を決めていかなければならない。
それが自分の仕事なのだけれども、建築の中にお金のやり取りだけでは生まれないような何かを埋め込みたい(それは職人さんの人間味等で付加されることもある)し、自分自身がお金のやり取りから開放された状態で関わりたい、という気持ちもある。

それはおそらく趣味的な何かを手放したくないと言うことなんだろう

建築にはお金を頂いて関わる以上は、趣味ではなく仕事として誠実に向き合わなければならない、というのは一番基本的な心構えだと思う。
だけども、そのうえで、さらに最後の数%、建築の質を押し上げるためには、趣味の要素を取り入れることもまた、仕事のうちだと思う。
そのために3%の趣味を残している。のかもしれないな、と思った。

マイ「マイパブリックとグランドレベル」

マイパブリックとグランドレベル。
これも、自分がまちを見る時に漠然と、顔がなくて寂しい、とか、人間味があって好きだ、と感じていたことに言葉を与えるような言葉

自分の場合、仕事とは切り離せないことがほとんどだけど、読みながら頭に浮かんだ(プチ)マイ「マイパブリックとグランドレベル」をメモしておきたい。

■先程のDIYなんかは、ごくごく限られた人たちの中でのことだけれども、それをやること自体、には何かしらパブリックな要素も含まれてるように思う。

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » 「棲み家」をめぐる28の住宅模型展
事務所のキックオフイベントで行った模型展。当時のマルヤガーデンズで出来たことがすごく良かった。
主な目的は営業的なものだけども、ふらっと見ていってくれる第三者との関わりは結構趣味的な感じだった。

マルヤガーデンズのガーデンは、店舗のフロアーを本書でいうところのグランドレベルに見立てるような取り組みだったのかもしれない。

■模型展のPR用に公園に模型撮影に行った時に、子どもたちが集まってきたんだけど、こっちの方がマイパブリック感あったかも。


その時についでに撮ってもらってたこの写真が好きで、たまには公園でゲリラ模型展しよう!と思っていたけど、やってないなー。

■事務所の正面のコンセプトは生活の匂いのない通りのグランドレベルに何かしら生活を表出させることだった。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » KMGO ~小松原の家+事務所
KMBO3
(夜仕事している明かりが漏れることを狙っていたけど、実際はSOHOで家族が寝てるので締めてしまうことが多い。)


訳あって、シンボルツリーを伐ってしまったので、昔作った白いベンチを置いた。たまに信号待ちの人が座ってる。でも切り株からまた木が育ってきて座りづらくなってる。(何か愛しく感じて伐れない)


通り沿いには棚を置いていて、昔は模型をずらっと並べてたんだけど、折り紙たちにとって変わられた。よく通りがかりの子どもたちが見ている。

近所の公民館

公民館もDIYで愛着づくり。


公民館が通りから閉じた印象だったので、DIYで浮かせたお金で、植栽とベンチづくりDIYでなるべくオープンな表情に。


月1くらいで、カフェ(なんとなく集まってコーヒー飲みながらダベる)も自主開催されるようになったりして嬉しい。
 
 
 
ちょっとした種はいろいろあるんだけどなー。(育てるのが苦手)




動画

プロモーション用にとある住宅の地鎮祭から完成までの動画を作成しました。
イベントやオープンハウス等で使おうかと思っています。
 
動画はこちら

動画撮影は福留 敦巳 (Atsumi Fukudome)




珪藻土とポーターズペイントDIY


東谷山の家の壁をお客さんと塗りました。
恒例の珪藻土ローラー塗りに加えて、今回はポーターズペイントのフレンチウォッシュのDIYに挑戦。(と言っても、表情に個性が出るので施主ご夫妻におまかせしました。)
裏の土間部分から塗り始めたのですが、ご夫婦で相談しながらどんどん上達していき、すごくセンスよく塗っていただきました。




珪藻土DIY


川内の家でお子さんたちも参加しての恒例の珪藻土ローラー塗り。
休憩を入れながら、みんなで塗っていきました。

愛着が湧いてくれるといいなー。






おおくちたからばこ保育園 写真アップ

おおくちたからばこ保育園の写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




保育園蜜蝋ワックスDIY

保健所の検査の前に床の蜜蝋ワックス塗りに来ました。
小さな子供が触れる場所だから、感触の柔らかい杉フローリングの良さを消さないように。
ウレタンなどのように塗膜をつくらないので、メンテナンスは必要ですが、その分優しい表情です。




何が建築を規定しているかを知ることを足がかりに考え続ける B219『 建築の条件(「建築」なきあとの建築)』(坂牛卓)

坂牛卓 (著)
LIXIL出版 (2017/6/22)

自由になるための道具

だいぶ前に一度読んでいたのだけど、何かピンと来てなくてなかなか書き出せなかった本。

なぜピンと来なかったのか。まずはそこから考えてみたいと思う。

はじめに、『建築の条件』というタイトルを見て、建築であるための条件は何か、を期待して購入したのだけれども、そうではなく、書かれていたのは建築を規定しているものは何か、であった
どちらかと言うと、建築を規定しているものから少しでも自由になりたい、という思いが強かったので、建築を規定しているものそのものにはさほど惹きつけられなかった。

そんな感じで読んだので前に読んだときには書きだせなかった。しかし「作品の分析には使えても果たしてつくる側の論理になるのだろうか。」「無意識に規定してしまっているものを意識の俎上に載せることの意味は何だろうか。」そんなことを考えているうちにようやくこの本の意味に気づいた気がする、

おそらく「建築を規定しているものから少しでも自由になりたい」というのは間違いではない。むしろそこから自由になるためにこそ建築を規定しているものが何かを知るべきである。
この本は自分を無意識に規定しているものに気づき自己批判をするためのもの、いわば自由になるための道具なのだ。ここに直接的な答えが書いているわけではない

そう考えると終章の言葉がやっと頭に入ってきた。

しかし異なるのは、メタ建築が重奏する思考の上に成立し、「条件」を捨象するための戦いを通して生み出されていたのに対し、現在のスペクタクルはグローバリゼーションやネオリベラリズムの求めるものとして現れている点である。(p.297)

状況が要請する、あるいは与えるものを無批判に受け取るところに次へのステップはない。教科書通りの答えが明日をつくることはありえない。(p.298)

なるほど、もしかしたら購入前に期待していた「建築(であるため)の条件」の一つは「建築(を規定しているところ)の条件」に対する批判的眼差しの存在なのかも知れない。

「建築」なきあとの建築?

ただ、再度序章と終章をつまみ読みした今の時点で、まだ疑問に思うことが一つある。

そして失われた「建築」を再度つくり直すことが、われわれに求められている。(p.300)

求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか

それは以前感じた、まだ答えのない疑問でもある。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B213 『人の集まり方をデザインする』)

もしかしたら、その問いに対するヒントは本書の中に隠されているのかも知れないけれども、それは今分からない。

兎にも角にも、この本を自己批判のための道具として使うべく、ここに書かれている9つのテーマについて、再度読みすすめてみたい。

前置きが長くなったが、以後、各項目について、個人的に感じたことを思いつきも含めて簡単に書いていきたい。
 


 

・人間に内在する問題

1.男女性

この章では性が生物学的に、また社会学的に建築に影響を及ぼしてきた経緯が語られるが、自分自身は表現として性別を意識したことは殆どないと思う。
しかし、計画の際に与件として受け取ったり影響を受けていることは無数にある。
例えば、異性同士のお子さんがいるかどうかでプライバシーの配慮の程度が違うし、小さなお子さんの性別で耐久性などの程度も変わってくる場合がある。
キッチンに男性が立つかどうか、や皆で料理をすることがあるかどうかでキッチンのスペースも変わってくるし、共働きの場合は家事のリズムや必要なスペースも当然変わってくる。
そういった条件の変化にはジェンダーに対する考え方の変化などが大きく影響するが、もっと意識的にその先のイメージを考え、提案していってもよいのかもしれない。

性差については

『キレる女懲りない男―男と女の脳科学』
黒川 伊保子 (著)
筑摩書房 (2012/12/1)

を読んでつぶやいた時のツイートを思い出す。

鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » tweet 11/23-05/16

最近プライベート的必要に駆られて男と女の脳科学な本を読んだ。生物学的な役割から脳の機能が異なるのは理解できるし、普段はこの手の本は毛嫌いしてるんだけど、まーわりと面白かった。

男性脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細くなってしまってるので理論化しないと感覚と言葉を結び付けられないし、目の前のことに疎い。でもその分、遠くが見える。

女性脳は脳梁が太く感覚と言葉が直結してて、ややこしいことは考えずにひたすらおしゃべりを繰り返して感覚をキーとしたデータベースを強化し続けてる。それは子育てという観察をベースとした瞬間的な判断を絶えず強いられるから。

もともと機能・特性が違うのでお互いになかなか理解できない。それを前提とすれば、理解できないお互いの言動も愛で合うことができるのでは。みたいな話。早速、実践してみるべ、と思ってもまー簡単じゃないよね。

で、身の周りでも女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なものがリアリティや動かす力を持ちだしてる気がするし、その脇で建築が変わってきた、むしろ建築みたいな概念邪魔じゃね。みたいな流れもある気がする。

そのベースに女性脳的な直感がある気がするんだけど、そこからは「僕(われわれ)のリアリティ(byM氏)」から遠くへはなかなか行けない。行けないというかそもそもそこを目指していない。(遠くへ行くヒントは満載かもしれないけど。)

でも、時間的・空間的・概念的に遠くへ行くことこそが建築という言葉に込められていたのだと思うし、建築の役割・可能性であったと思う。そうであるなら、そこへの意志のないものは建築ではなく建物でいいんじゃね。と思う。否定的な意味でなく。

『建築の条件』のこの章でも日本的かわいいについての言及があったが、そのコミュニケーション的側面、『女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なもの』のが強くなっているのはすごく感じる。
SNS的な共感の集め方や、共感のノリでものごとが進んだり、例えばインスタでの共感が計画イメージのもとになったりすることが身の回りでも多くなってきている。(共感されるものはポジティブなものとネガティブなものとが、ともに増えている感覚がある。)

そう考えると女性性優位の時代、もしくは建物の時代、のように思うけれども、それに対してバランスをとるためのカウンターとして、男性性・建築性がより重要になってくるのでは、と思うあたり、おそらく自分は男性側に寄ってしまっているんだろうなと思う。(自分にこそカウンターバランスが必要かもしれない)
もしくは、価値観共有的なノリの社会に享楽的こだわりを持って向かうような、千葉雅也的な戦略を持つべきかもしれない。

2.視覚性

ここでは、ゲシュタルトが瞬時に把握されるようなモダニズムの視覚性が、時間軸を持った視覚性へ、視覚への不信が空間の消去へ、形象から表面物質へ、といった変化が語られる。

自分を振り返るとコルビュジェの映画的な視覚性から、ヘルツォーク&ド・ムーロンの物質性を憧れとしては通過しているけれども、形象や物質そのものというよりは体験として、もしくは生態学的な探索行為の対象として捉えたいという気持ちが強いかも知れない。それは、探索行為の結果、豊かな空間の中に自らをポジショニングするようなイメージである。
形象を求めてエレベーションをひたすらスケッチしたり、素材・物質を全面に出すような粘り強い検討よりも、PC上に3Dを立ち上げて、変更を加えてはウォークスルーで見え方を動的に検討するということをひたすら繰り返すような検討のウェイトが大きいように思う。コルビュジェ的な視覚性を求めているとも言えるが、むしろ、様々なものが様々な座標に分散しつつバランスが取れているような(アアルト的?)視覚性により興味がある
それは形象も物質性もどちらもあるが、どれか一点に集中するのではなく、それらがネットワーク的な複雑さの中に配置されるようなイメージが強い。
と、同時にそのためには形象や物質性を扱う技量がより必要になってくると思うけれども、全然足りていない、と日々痛感するところである。

3.主体性

つまり主体はその力も地位も失い、挙句に退場したのではない。そうではなく、主体はむしろ他者を包含することでより豊かで可能性のある「幅のある主体」に変容した。(p.83)

ここでは作家的とも言える主体性がやがて勢力を弱めつつも、コンピューターも含めた他者性を招来していく変化が語られる。

自分は設計において他者性を呼び込むことはとても重要だと考えつつも、コルビュジェのような作家的主体性に、未だ人間臭さを伴う固有性を生みだす可能性を感じている

どういうことか。

主体と他者の関係を考えたときに、他者から与えられたものを主体が受け取るという受動的な関係もあるが、そうではなく、他者を意味や価値が見出される環境として捉え、主体はその環境(他者)を探索し、取り込むという能動的な関係が重要だと考えるが、そこには生態学的な態度と意味や価値との出会いがある。

建築に関して他者と出会う主体は、設計者と利用者の2つが考えられる。
主体としての設計者は様々な他者を探索し、意味と価値を取り出して設計を調整する、というサイクルを繰り返す。そこではどんな他者と出会うかによって設計の密度が変わってくるし、密度を上げるためにどういった他者をどうやって招来するか、というのが設計行為における重要な命題となる。コンピューターの例や集合知の試み、観察や出来事といったことはその命題に対する応答とも言える。

主体としての利用者は建築を通して様々な他者・意味と価値に出会う。ここで利用者が設計者の作家的な主体性に出会ったとすると、それは利用者にとっては他者との出会いの一つである。であるならば、設計者も自らの作家的主体性を設計行為における環境・他者の一つとして扱ってしまえば良いのではないだろうか。
そうすれば、作家的主体性か他者か、というような二項対立はなくなり、さまざまな他者からどれをどの程度設計に反映させるかという程度・配分の問題とすることができる

それを突き詰めていけば何でもあり(全てが他者・環境)、になってしまうようにも思うが、何でもありを一旦受け入れることが、ポストモダンでの常套手段である。それを受け入れてなお、かたちへ導く方法を模索しなければならない。

4.倫理性

ここでいう倫理性は設計の側に内在する規範性のようなもので時代や受けた教育などで変わってくることも多い。

そういう規範を解体することが次の世代の規範になったりするけれども、何か規範というものに踊らされている気がしないでもない。 従うにしろ、解体するにせよ、人は何かしら規範のようなガイドになるものを求めてしまうのかもしれない。(規範。|オノケン(太田則宏)|note)

先に書いたように『設計という行為は、つねにハビトゥスの見直しを自らに問いながら行う行為である。』というものもハビトゥスの一つであり、見直しを問うべき姿勢は必要なように思う。(このハビトゥスに縛られているがゆえに、いろいろなものが見捨てられていて建築として成立していないのでは、というのもよくある。それもハビトゥスの違いと言われればそうなので難しいところだけれども。)

ところで、自分は倫理をどのように捉えているだろうか。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。
これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。
ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。 要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

さらに、知覚の公共性は人と人や社会とのつながりを基礎とする自己感、自己のリアリティのようなものを醸成する基盤でもある。これに対し建築は継続的に存在しうるものであるため、知覚を媒介する大きな役割を担っているといえる。それは建築が倫理的でありうる存在であり、大きな責任を負っている事を示している。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » Deliciousness / Encounters)

なぜ、知覚なのか。それは、知覚の基礎性、直接性、公共性が、人間の悦びや生きることのリアリティ、社会や文化といったものに建築がアプローチするための足がかりを与えるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築することに対する肯定的意味が見出だせるからである。

『そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、がその建築の意味と価値である』とした時に、建築が多様な出会いの可能性を保証することが建築における倫理だと捉えている。これは新築に限らず既にそこにある建物にも言える。
これはその時代、その人によって変わってくる規範意識よりはもう少し大きな枠組みでの話かもしれない。例え、ハビトゥスを更新するような小さな行為に見えても、そこに新たな出会いの質が生まれず、むしろ出会いの可能性を破壊しているようであれば倫理的行為だとはみなせない。(そうであれば、ハビトゥスの更新も失敗に終わっているということかもしれない。)


 

・人間に外在する問題

5.消費性

大衆消費社会が建築に与えた影響は、商品化された大量生産住宅の増加、およびデザインの消費という二点に絞られ、後者は一品生産のオートクチュール建築に置いてもその影響を及ぼした。(p.160)

消費についてモノの消費とイメージの消費があるとすると、モノの消費に関してはそれほど意識しているわけではない。プロジェクトやクライアントごとの性格や予算によってある程度の方向性は決まってくるように思うし、その部分にアプローチをするとすれば設計の段階より源流にアプローチする必要があるだろう。固有性という点では大量生産大量消費では限界があると思っているが、与えられた条件の中でどのような可能性を見出していくか、というのは設計者に与えられた役割だと思っている。もちろん、設計者の役割を拡張して、消費性の源流にアプローチすることができれば好ましいし、そのような動きは随所で見られる。今はできる範囲で対応することしか出来ていないが、その先は今後の課題である。

より危機感を持っているのはイメージの消費の方である
正直、モノにしろイメージにしろ、消費そのものはネガティブなイメージだけではなく、サイクルをまわして活力を与えるようなポジティブなイメージも持つようになってきた。先のハビトゥスの更新なども、倫理を消費していると言えなくもないが、それが社会に活力を与えてきたとも言える。

なので、イメージの消費にポジティブなイメージがないわけではない。ただ、その消費のサイクルにただ巻き込まれるだけでは消耗するだけで、自分の存在価値が損なわれてしまうし、新たな出会いを生むことも難しい。そうならないためにはイメージの消費とどう距離をとるか、という戦略がおそらく必要になってくるように思う
そうやって、イメージの消費からある程度自立できて初めて、新たな出会いの可能性に向き合うことができると思うし、モノの消費の源流にアプローチすることにも連続性が生まれてくるように思う。

やはり、消費性から自由になるにはどうすれば良いか。具体的な戦略が必要だ。

6.階級性

格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会。

鹿児島市は平地が少なく、利便性の高いエリアは鹿児島市電が走る線状の地域に集中しているため、収入に対する土地の価格は高く、

(1)利便性の高いエリアにそれなりの土地を買って建物をかなりローコストにするか、
(2)利便性の高いエリアに小さな土地を買って狭小住宅を工夫して建てるか、
(3)利便性の高いエリアから離れ、安い土地を買ってそれなりの建物をたてるか、

というような選択を迫られることが多い。
(1)でローコストで建てるには限界があるため、予算が限られている場合は必然的に(2)か(3)という選択肢の可能性が高くなる。
そのような中、自邸兼事務所は(2)の可能性を提示するために計画したもので、約20坪の土地に約20坪(+ロフト+床下収納)の建物を建てた。土地・建物ともに1100万円前後であるので、立地を考えるとコストをかなり抑えたほうだと思う。(建物は自主施工あり)
その後、14坪弱の敷地での計画も経験したが、いわゆる富裕層ではないところでの建築の可能性を考えると、かなり思い切った優先順位の付け方をしないと成立が難しいし、その思い切りが良い家をつくるための条件のようにも思う。
建築費は年々上がっているため、なおさら思い切りが求められるようになってきているが、その中でなんとか成立するためのバランスを見極めることが我々の仕事とも言える。(その難易度も年々上がっている。)また、そのために奮闘することが生活の場から固有性、出会いの可能性を守ることに繋がると願いたいし、そのような場から建築がたちあがる可能性に対して誠実に向き合っていければと思う

達成型社会は個を孤立させ、よって社会も疲弊する。そこから抜け出る可能性の一つは、社会の無意識のなかで駆動する生産性を克服するために、何かをしない見ない能力を向上させることではないかとハンは主張する。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』)

屋外を含めあらゆる場所に機能が割り当てられた街は息が詰まる。
先日閉店していた店舗をマルヤガーデンズとして再建した玉川さんが亡くなった。そのマルヤガーデンズはまちなかの百貨店でありながら、一息付ける場所になっていることをある方は「無目的でも行ける場っていうのが良いんでしょうね。」とつぶやいていた。自分もそう思うし、天文館に行くとつい本屋によって屋上に行ってしまう。
そういう隙間をつくることに建築設計はアプローチできる可能性を持っている

例えば、長谷川豪が家の中に都市的もしくは非日常的なスケールを持ち込むことで、どこにも属さないような不思議な場を生み出しているように、空間的な操作で、機能を押し付けてきたり、達成を押し付けてくるような場から逃れてそれとはぜんぜん違うものと出会うことをサポートするような質を備えることができるのではと思う。

階級性(格差社会もしくは平準化社会と疲弊社会)から自由になるにはどうすればいいか。
階級性が強要してくるような価値の軸自体を異なる価値の軸へと転換するようなずらしの作法が必要なのかもしれない。

7.グローバリゼーション

いずれにせよ、ぼくたちはいま、個人から国民へ、そして世界市民へと言う普遍主義のプログラムを奪われたまま、自由だが孤独な誇りなき個人(動物)として生きるか、仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民(人間)として生きるか、そのどちらかしか選択肢がない時代に足を踏み入れつつある。帝国の体制と国民国家の体制、グローバリズムの層とナショナリズムの層が共存する世界とは、つまりは普遍的な世界市民への道が閉ざされた世界ということだ。(p.154)(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀は否定神学的マルチチュードの弱点(戦略性のなさ)を克服するものとして郵便的マルチチュード(としての観光客)を提出するが、それはグローバリズムとナショナリズムの中間というよりは、その両者を「ふまじめに」見物してまわるような存在(のよう)である。

グローバリゼーションから自由になるにはどうすればいいか
それはこの「ふまじめ」さの中にヒントがあるような気がしているけれども、まだうまく消化できていない。
学生の頃に表層の戯れとしか見れなかった、狭義の建築的ポストモダニズムとどう違うのか。おそらくパッチワーク的な引用のイメージではなく、オーバーラップによる共存のイメージの先に何かがありそうな気がしている
例えば、東浩紀が引き合いに出したネットーワーク理論の生成過程と設計プロセスを重ね合わせることによって、そのイメージに近づくことはできないだろうか。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。 また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B218 『ネットワーク科学』)

ここで、先にオーバーラップによる共存のイメージと書いたことに対して『公共空間の政治理論』での議論を思い出した。
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B207 『公共空間の政治理論』

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

先のゲンロンの観光客を重ねるならば、観光客が分離されたものを重合(オーバーラップ)するとみるのではなく、取り残された余地に他なる空間を生じさせる動的な存在として捉えた方が良いのかもしれない。プロセス・はたらきこそが重要であるというのは先の設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える考え方と相性が良いように思う。プロセス・はたらきを形の問題へとどうつなげていくか。その先に新しい建築の可能性が開かれている。

8.アート

ここではアートと建築の関係、接近による功罪などが語られる。

自分ではアートをタイムリーに追いかけて建築との関係性を考える、という作業をあまりしてきていない(たまに気になることがあれば雑誌などを読む程度)けれども、同じように現代に向き合っている存在であると捉えれば、お互いに影響を与え合うということは当然ありそうである。
単純に並走しているというよりは、建築は具体的な目的や機能のためにつくられる分、アートの方が純粋に現代に向き合い問題を抽出しやすい反面、建築の方が具体的に人々と関わる機会が多く影響を与えやすい、というようなお互いに補い合うような関係と考えても良いのかもしれない。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

アートを既知の中の未知を顕在化すること、とするなら、アートの分野で顕在化されたものに目を向けることは悪いことではないと思うし、建築そのものにも作用としてのアートを備えさせるというように能動的にアートを取り入れることは、おそらく、アートから自由になるための一つの姿勢のように思う

9.ソーシャル

つまり、ソーシャルの概念が登場するのはだいたいにおいて資本主義が問題を起こす時であり、資本主義が社会の問題を解決できないときに求められる避難場所に思える。(p.263)

ソーシャルについて、資本主義に対するものとして語られる。

資本主義によって解決されることもたくさんあるので、資本主義が社会問題に対して向き合っていないということではない。むしろ解決するものとしての資本主義が本来の姿ではないだろうか。問題は問題の解決に対して、資本の力に頼るか、連帯のようなソーシャルな力に頼るかのウェイトの違いであり、適否はあるだろうが、これらは善悪の問題とは切り離した方が良いように思う
ただ、資本主義が暴走したり、行き詰まって問題の原因となっていることは否めない。それに対して、ソーシャルが避難場所になりつつある。というより、これらも対立すると言うよりは補い合うものなのだろう。これまでは、資本の力とソーシャルな力は適度なバランスで補い合っていたものが、資本で何でも解決できると誤解した結果、資本に傾きすぎてソーシャルな力が失われてしまっただけなのかもしれない。

おそらく、宮台真司の言うコモンズのようなものが日本的資本主義には欠けているのだろう。そこで、コモンズのような意識や作法をインストールするための有効な手段として、ソーシャルな活動が求められるようになってきたのだろう。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B110 『M2:ナショナリズムの作法』)

自分の今の仕事は基本的に資本の力に基づく契約をベースとしており、依頼に対する請負という形がほとんどである。中には地元公民館の改修のような契約の形はとってもほとんどソーシャルな仕事もあるけれども、多くの仕事はソーシャルな力にほとんど頼ってはいない。
それは、コモンズのインストールに対する寄与が小さい、ということを表しているのかもしれない。

仕事の中にソーシャルな側面、コモンズのインストールに対する寄与をどうやって取り込むか。それはプレイヤーによってバランスは変わっても良い(バランスの多様性があったほうが良い)と思うのだが、その自分なりのバランスを見つけられたとき、ようやくソーシャルから自由になれるのかもしれない。

「建築」なきあとの建築(再)

さて、ここまで、各章についてざっと思うことを書いてみた。

「求められていることが「建築」を再度つくり直すことだとするならば、それは『「建築」なきあとの建築』ではないのではないか。
「建築」なきあとの建築は「建築」であるための倫理、すなわち、批判的な視点を持ちそこにある倫理を乗り越え刷新するもの、という倫理そのものを乗り越えた先にあるのではないか。

再びこれについて考えたいところだが、何か一つの『「建築」なきあとの建築』という正解がある、というのではないように思う。

乗り越えるというハビトゥスに対して、乗り越える以外に取りうる戦略はポストモダンの作法とでも言うべきものになるのではないか。”とりあえず”受け入れた何かを活かすことによって空間の密度、もしくは出会いの密度を高めていく。そうやって、これらの建築(を規定しているところ)の条件の上に足場をかけていきながらとりあえず考え続ける。
もしかしたら、その動的な営みの集合の中に『「建築」なきあとの建築』がぼんやり浮かびあがるだけなのかもしれない




設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

Guido Caldarelli,Michele Catanzaro著,増田 直紀 (監修, 翻訳), 高口 太朗 (翻訳)
丸善出版 (2014/4/25)

ネットワーク的設計プロセス論試論?

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

この思いつきを少し先に進めるため、ネットワーク理論についてのイメージを補強しようと思いざっと読んでみた。

この本はネットワークの普遍性とネットワークの多重性を示すことに重点が置かれていて、多様な分野の多様な例が挙げられていた。
読んでいく中で、現れと過程、2つの側面から、建築設計のイメージを膨らませることができそうに思った。まだ論とは呼べるものではなく、ぼやっとしたイメージの域を出ないけれども、思いつきのストックとして書いておきたい。

収束と発散の重ね合わせのイメージ

「つなぎかえ」と「近道」に該当するような操作によってつながりにかたちを与え、空間を収束させると同時に、その操作に「成長」と「優先的選択」を加えることでフラクタル状の分布を与え、空間を発散させる。そういった操作は実際にできそうな気がするし、その操作の精度は誤配に関する思考の精度を高めることで高められるかもしれない。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

ひとつは、収束の空間と発散の空間の重ね合わせのイメージ

ある種のネットワークはスモールワールド性とスケールフリー性の2つの性質を併せ持つ。というより、どの2頂点間の距離も非常に小さいというスモールワールド性を持つネットワークのうち、均一性をを失ったものがスケールフリー性を持つ。と言った方が正しいように思う。
このスケールフリー性を備えたスモールワールドの近さが、視点の持ち方(均一性を感じる範囲に目線を限定し、スケールフリーなハブの存在に盲目的になるかどうか)によって、国民国家的にも帝国的にも見えるのではないか。

例えば、スピーカーから出る音は一つなのに、いくつもの音が聞こえるのはなぜだろう、と疑問に思ったことはないだろうか。音楽が、いくつもの音が重なり合成された一つの波形として記録される。再生時はそれが一つの波形としてスピーカーから出力されるはずだが、人間の耳はもとの複数の音に分解して認識できるという。
同じように、人間の国民国家的ふるまいや、帝国的ふるまいが重なり合ったかたちとして、世界・社会が不均一なスモールワールドのかたちをとる。同じひとつのかたちだけれども、人に感じ取られる際に2つの性質として分解され、視点によって国民国家的にも帝国的にも現れうる、とは言えないだろうか。

このイメージを空間の現れに重ねてみると、収束の空間と発散の空間を同時に感じる、というよりは、見方によって収束とも発散とも感じ取れるような、収束と発散が重ね合わせられたようなイメージが頭に浮かぶ

ではどうやってそのような空間を目指すか。それは「つなぎかえ」と「近道」によって収束を、「成長」と「優先的選択」によって発散を目指す、というよりは、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」、これら全てを駆使して収束と発散が重ね合わせられたような状態を目指すようなイメージである。

ネットワークを自己組織化するようなプロセスのイメージ

これらすべての場合において、ネットワーク全体の秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである。多くのネットワークは、全体の設計図がないにもかかわらず不均一性のような秩序だった驚くべき特徴を見せる。自己組織化の過程を用いることで、その理由を説明できるかも知れない。(p.106)

不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序はトップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。

設計はつまるところモノの配置と寸法の決定の集積である。一方ネットワークは頂点と枝という単純な要素の集積である。どちらも、単純なものの集積が秩序を持った複雑なかたちを生みうる。
そこで、設計行為とネットワーク化のプロセスを重ね合わせるイメージが浮かぶが、それについて考えてみたいと思う。これは特に、自己組織化的な過程を重視するような設計手法との相性が良いように思われる。

そこで、(いつものように)藤村氏の超線形設計プロセス論を引き合いに出してみる。

▲藤村龍至『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』より(p.079)

上の図は有名なBILDING Kのプロセスを示す表で、横軸が模型の世代、縦軸が発見されたルールである。
模型・案の中に時間軸に沿って次々と様々な条件が編み込まれていくのが分かるが、これを、設計に関わる様々な条件(ルール)の間にネットワークを築くプロセスだとイメージしてみる。そのネットワークのかたちが建築として出力される。

このネットワークの頂点と仮定する設計に関わる要素は物理的な要素でも概念的な要素でも、なんであっても構わない。施主の要望、法的規制、間取り、構造、規模、設備、周辺環境、予算、使われる素材、床や壁といった構成要素、施工性や技術、歴史や文化、その他いろいろ考えられる。
これらの要素はそれぞれがグループをなし、そのグループ内での頂点の接続はたやすく距離も小さい。それぞれのグループについて検討している間に、お互いに関連する部分が生じ、そこにつながりが生まれる場合もあるが、あえて距離の遠いものとの間につながりを生むように意識もする。これは「つなぎかえ」と「近道」に相当するイメージである。それほど近道の頻度を高めずともいくつかの枝によってスモールワールド性を獲得できるが、スモールワールド性のもう一つの要件、大きいクラスター係数(三角形をなす頂点と枝の多寡)、つまり近い場所でのネットワークの密度も意識されるべきである。

▲本書より(p.83)

また、こうして検討していくうちにネットワークは複雑なものとなり、中には例えば、先のBILDING Kの表における●を縦に串刺すような、他の頂点との枝の多い(次数の高い)頂点、ハブが生まれる。これも自然に生まれる場合もあろうが、プロセスの中でハブとなるような要素を探すことと、その要素への接続とが並行して意識的に試みられる。これは「成長」と「優先的選択」に相当するイメージである。これによってネットワークが不均一なものとなり、スケールフリー性を獲得できる

▲本書より(p.99)

また、先のハブの存在は設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものとも考えられる。(下に引用した記事は考え方が近いかも知れない)
ここではハブは一つでなくてもよく、スケールフリーな存在として、様々なスケールにおいていくつもあっても良い。むしろそちらのほうが好ましいと思われる。

また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

ここで、設計において、これらの性質の獲得を阻害するものは何か、少しだけ考えてみる。

例えば、前者に関しては、天井懐が考えられる。天井懐は構造や設備などの要件をクリアするために、余裕を持って設定されることが多い。ふところに余裕があれば、構造や設備その他諸々の要素間の干渉をそれほど厳密に考えずとも良くなり、要素間のネットワーク生成プロセスがスキップされる。その内部はブラックボックスとなってしまうため、ネットワークの表現にもあまり貢献しない。冗長性を取り除いていくことによるデメリットもあるが、冗長である、ということはネットワークの生成を阻害する可能性があるとも言えそうである。もしかしたら、RCラーメン構造や在来軸組工法のような、一般化された冗長性の高い工法も同様の阻害要因となりそうな気もする(実感としてネットワーク生成プロセスをスキップしている様な感触を拭えない)が、それに関してはもう少し慎重に考えてみたい。

また、後者に関しては、行き当たりばったりの設計態度が考えられる。次々と現れる条件に成り行きで対応していっても、何らかのネットワーク状のかたちを生むかも知れないが、それはランダム・グラフのような均一なもの(フリースケール性を持たない)である可能性が高く、そこに不均一なネットワークが持つような複雑な秩序は生まれがたい。ハブを生成するプロセスが欠かせないのだ。

以上のように、設計プロセスをネットワークの生成過程に重ね合わせてイメージすることはできそうな気がするし、人の耳が音の重なりを認識できるように、それから生まれた形・建築から、そのネットワークの性質をさまざまに感じ取る、ということも起こりうるのでは、というように思う。

設計プロセスを、ネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉えると、藤村氏の言う「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という原則も理に適っている。
また、「つなぎかえ」「近道」「成長」「優先的選択」といった操作は東氏の言う「誤配」の意味や元のネットワークモデルがランダム性によって生成されることを考えると、操作に含まれる選択には特段根拠はなくても良いのかも知れないし、意外なところ(より距離の大きいところ)とのつながりの方が効果的であるかも知れない。この辺はもう少し考えてみたい。

さらにはこれまでブログで収集してきたこと、(出会う建築に書いたことや、例えばレトリックの応用など)を、このイメージに重ね合わせることによって、より具体的な方法論とすることができそうな予感がある。が、それはまたこれから。