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B097 『前川國男 現代との対話』

松隈 洋他
六耀社(2006/09/26)

「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。

中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。

『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。

■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)

しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)

また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。

思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に

一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。




B095 『ル・コルビュジエのインド』

北田 英治 写真
彰国社(2005/06)

先日のシンポジウム「鹿児島のかたち・地域のかたち」で”1950年以降・インド以降のコルビュジェ”と言うのが話で出たので、そういえばそういう本があったなぁと図書館で借りてきた。

そのときに案出するベースになったのは、スケッチブックに見られるように、観察ですね。チャンディーガルを歩いたり、インドの風物を観察を描き留めながら、民族の普遍的な知恵がどこにあるのかを探っていく。でもそれにベタッと寄り添ったものをつくるのではなく、それを一度、建築と人間の関係に置き換えて、新しいものをつくる。そうやってタイプを変形、変容させてゆく能力が、後期の彼を支えていたのだろうなと思います。(富永譲)

シンポジウムで言われたのはまさにこういうことだったと思う。
今までなんとなく自分の中で何かが足りないと感じていたのだけれども、このシンポジウムで画竜点睛というか、空いたところのピースを見つけた感じがしたのだ。(全く感覚的なレベルでしかないが)

読書感想ももうすぐ100冊だ。なんやかんや言ってコルに帰ってきそうな気がしてきた。

コルと吉阪隆正の自然に対するアプローチを「海の人」「山の人」と対比している所や、インドでの仕事のアプローチをカーンとコルで「誰でも理解できるシンプルで厳格なルールをつくるか、あるいはアクシデントを全部受け入れるか」と対比しているところが面白かった。モデュロールが厳密な幾何図形を前提とせずとも美しさを担保したから、コルは形の自由と有機的な野生を獲得できた、という分析もあってなるほどと思ったのだが、全てを受け入れる懐の深さとそれを全体としてまとめあげる力量が、これほどおおらかな建築を可能にしたのだろう。




B070 『意中の建築 下巻』

意中の建築 下巻 中村 好文 (2005/09/21)
新潮社

中村好文・下巻。

やっぱり建築って素敵だと思う。

中村さんはあとがきに、学生から「建築家になるための才能や資質」を問われたときの答えとして次のように書いている。

「もし、僕みたいな市井の住宅建築家になるつもりならね…」と前置きをして、私がまず挙げるのは、
・計画性がないこと
・楽天的であること
のふたつです。もちろん、ほかにも「日常茶飯事を惰性から祝祭に変えられる才能」とか「清貧に耐えられるしなやかな精神」とかもっともらしいことも言いますが、なんにしても最初のふたつは備わっていた方がよいと思います。

うん、妻には申し訳ない(?)がこれらには自信ありだな。

それは、喜ぶべきことのはずだ。きっと。

建物見学で計画性がなくて楽天的といえば、僕もけっこう無茶をしたりしたことがある。
この本でも最初に出てくるサヴォア邸。
パリ郊外にあるコルビュジェの傑作ですが、学生の時に見に行きました。しかし、ここで漫画のようなことが起こりました。

今考えると馬鹿丸出しですが、若気の至りと思って軽く笑ってください。

行ってみると、サヴォア邸は改修工事中らしく見学不可になっていました。しかし、結構な高さの塀越しに中の様子を伺うと人の気配がありません。

はるばるフランスの田舎まで来たのです。

ちょっと、近づいて写真撮るぐらいならいいかな。という誘惑に駆られました。

下のGoogleEarthで見つけた画像で言うとちょうどAのあたりの塀を乗り越えて建物に近づこうとした時、Cのあたりから一匹の犬がひょこひょこ出てきました。

ges.jpg

何じゃ、と思ってとっさにBの位置の木の影に隠れると、その犬はふらふらと歩いてまたCのところに戻りました。

なんか、やばいかなぁと思っていると、今度は犬と一緒に太ったおじさんが一輪車のようなものと草すきフォークを持って出てきて庭掃除を始めてしまいました。

人がいたのかと後悔するも、どうすればよいか分からずただ隠れてじっと身を潜めていると、能天気そうな犬がひょこひょここっちへやってくるではありませんか。

そして、その犬となんとなく目が合ってしまったのですが、別に吠えるでもなくご機嫌であたりをふらふらと歩き回り、ある時突然、その犬は僕の隠れているちょうどその木の幹に片足挙げてショーベンを始めたのです。

なんとなくおちょくられてる気がしてきた時に、おじさんが一輪車を押して犬の方へ(つまり僕の方へ)近づいてきました。

こりゃだめだ。と思い、僕は意を決し、フランス語は分からないので『アイムソーリー』といいながら、敵意がないのを示すために両手を上に挙げて出て行きました。

すると、太ったおじさんは白い顔がみるみる赤くなってなにやらもごもご言い出しました。

そして、僕は文字通り「つまみ出され」ました。

と、これだけのことですが、そのショーベンシーンがあまりに漫画チックで記憶に焼きついています。

楽天的というよりは無謀な話でした。撃たれなくて良かった。

ちなみに、一緒に見学に行った同じ建築学科のクールなツレは僕が塀を登ろうとしたとき「俺は他人のふりをする。ちゅうか他人や」といってその辺をぶらぶら散歩し始めました。

そっちが正解。




B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永 譲、中村 好文 他
TOTO出版(2002/01)

2001年に安藤研がギャラ間で行ったコルビュジェの全住宅模型展に合わせて開かれた講座の記録。
(偶然にも僕はちょうどこのころ無理がたたって入院中で、病室でサヴォア邸やガルシュの家なんかの1/100模型をつくっていた…)

富永譲・中村好文・鈴木恂・八束はじめ・伊東豊雄がコルビュジェについて語るのだが、久しぶりのコルビュジェはとても新鮮で面白かった。
うーん、惚れなおす。

最初の方に出てくる写真や言葉を見るだけでため息が出てくる。

コルビュジェは戦略としてキザで大袈裟な物言いをしたという捉え方をしていた。
しかし、そういう側面はあるとしても、奥の部分にはやっぱり人間への愛情で満ちあふれているのだ。

そうでないと、こうも語りかけては来ない。

前にもコルについて書いたけれども、コル自信もかかえる小ざかしさや雑念を超えた大きな純粋さに心を打たれる。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

そういえば、日経アーキテクチュアの創刊30周年記念特集の対談(2006.4-10号)でも新しい世代の「抜けている感覚」の是非や身体性というものが語られている。
それは「知覚的」か「実存的」かという問題だろうが、僕なんかの世代の多くはそれらに引き裂かれているのではないだろうか。
「知覚」への憧れと「実存」への欲求。
その間にあるのはおそらく一見自由に見えて実はシステムに絡めとられてしまう不自由な社会であり、そこから抜け出そうとすることが僕らを引き裂く。

もっと若い世代だとその今いる地点から「知覚」や「実存」への距離はどんどんと拡がっているように思える。(特に「実存」への距離)
また、その距離に比例するように「知覚」への憧れと「実存」への欲求は深まり、さらに分裂する。

実存的建築家に学生なんかが再び惹かれはじめているのも分かる気がする。

それらを全く異なるもののまま同居させるコルの複雑性。
これこそがコルビュジェの魅力の秘密かもしれない。

あと、この本の伊東さんの話は相変わらず魅力的だったが、他にも鈴木恂の「屋上庭園とピロティ」を「(コルビュジェの例の)手と足」として捉えるところも面白かった。
建築を身体の延長として捉えるような感じ、擬人化やキャラクターを持つことへの興味はもしかしたらコルビュジェの影響かもしれないな。




B059 『吉阪隆正の迷宮』

吉阪隆正の迷宮
2004吉阪隆正展実行委員会 (2005/12)
TOTO出版




吉阪隆正といえばコルビュジェの弟子でコルビュジェの翻訳をした建築家という以上のことはあまり知らなかった。
しかし、この本を読んでみると、吉阪隆正はすばらしく魅力的な人間なようですっかり虜になってしまった。

それもそのはず、吉阪は内藤廣や象設計集団などの僕の肌にあうなぁと思う早稲田系の建築家の師匠にあたる。

吉阪を良く知る人の対談などがメインでその変態ぶりというか天才ぶりというか、型にはまらない感じが強く伝わってくる。
なんとなく”良寛さん”が思い浮かんだ。

余計なものには惑わされずに、まっすぐにはるか先をみつめる眼差しが目に浮かぶが、その眼差しはこの今現代よりもずっと先を捉えているように思う。

「有形学」「不連続統一体」「生命の曼荼羅」「発見的方法」

合理性や理屈の中からこぼれ落ちてしまうものにも限りない魅力がある。

合理的できれいではない。だけれどもそこには、実感というか手ごたえというか触感というか、なんともいえないもの、実存に関わる何かがある。

それは合理的であることよりも合理的(?)で魅力的なことだと思うのだけれども、それに同意してくれる人はどれぐらいいるのだろうか。

吉阪隆正。詳しくは知らなかったけれど希望を感じた。




B023 『ルイス・カーンとはだれか』

ルイス・カーンとはだれか 香山 寿夫 (2003/10)
王国社


カーンについて考えようと思って図書館で借りた本。
カーンの本というよりは、カーンに思いを寄せる香山壽夫の本である。

著者の香山であるが、僕が大学生のころ彼の書いた『建築意匠講義』を借りてきて、大学のコピー機で全頁コピーをしたのを懐かしく思い出した。

大学の授業に不満をもっていたこのころ、僕がはじめて空間の捉え方などを学んだのが『建築意匠講義』であった。
そして、その中で香山によって語られていたカーンの言葉が僕がカーンの思想に触れたほとんど唯一の経験である。

さて、この本であるが、思想の紹介という点では『建築意匠講義』とダブる点も多い。
が、香山個人としてのカーンに対する思いをより強く伝えようという気持ちが伝わる内容だ。

この、本を透してのカーンの印象は、宗教的な人、言葉と行動の人、という感じだ。

僕の受けた印象では、カーンの言葉は若干大袈裟で押し付けがましく感じる。
なんとなく重いのだ。
それを重く感じるのが良いか悪いかは分からない。
しかし、思索を重ねた末のその言葉を重く感じる自分には少なからずショックを受けた。

言葉については別の項で少し考えたが、おそらくカーンの言葉は思考のための言葉で、カーン自身のためのものなのだ。(コルビュジェの言葉とは対照的に)

そして、その彼自身の思索の跡を追うのが僕にはおそらく億劫なのだ。
僕はカーンではない。

(そういう感覚は例えばアトリエ・ワンなどの若手の言葉の使い方にも感じる。彼らの発見する『言葉』はすごく個人的な印象がある。)

香山はカーンを『共通感覚』のうちにある、という。僕の印象とは正反対だ。
そのような『共通感覚』は今では幻想だと思われている。
それでもなお、そのようなものを信じて疑わず、真っ直ぐに進む姿が僕には宗教的に映ったのだが、僕にはそれがうらやましい。
僕にはいまだ見えていないし、「それが建築に対する誠実な姿勢だ」と言われればなんら返す言葉がないからだ。

「オーダー」「フォーム」「ルーム」「光」「沈黙」といったカーンの言葉は魅力的だ。
しかし、僕にはやはりそれらの言葉は基本的にカーン自身のものだと思う。

僕も、カーンのような言葉が紡げるようになりたい。

追記

「億劫」と言うのは言い過ぎた。
疲れていたみたいだ。

カーンの言葉は示唆に富んでいるし、そうやって思索することこそ必要だ。

ただ、カーンの思索にはなんとなく物悲しさを感じる。それは、映画の試写会の映像のみの印象を引きずっているからかもしれない。
でも、おそらくその印象は誤解なのだ。
カーンの思索は最後に「喜び(joy)」へと連なる。

この時代にカーンのように孤独な思索を重ね、作品を残してきたのはやはり偉大であるし、カーンの思索に跡に身を任せようとすることはやはり快楽でもあると思う。




B007 『TADAO ANDO  GA DOCUMENT EXTRA 01』

book7.jpg二川幸夫/インタビュー(A.D.A EDITA Tokyo)1995.07
学生のころにおそらく僕が始めて買った作品集です。
建築を意識し始めたころに、安藤忠雄とコルビュジェにはまったのだが、これは当時の関西の学生の通過儀礼とでも言えるようなものだったと思う。
――閉鎖的な大学だったので、当時のほかの大学のことは実は知らないが――

当時は、世界を旅したエピソードや、元プロボクサーで、独学で建築を学ぶという遍歴に、そして建築に対する実直さに素直に魅かれたものである。
冒頭のインタビューを読み、何度初心に戻れたかわからない。

しかし、建築を学び始めてしばらくすると、その実直さが急に照れくさく感じてしまい「安藤忠雄」に興味のないふりをはじめ他の興味の対象を必死に探し始めるのである。

「安藤忠雄」的なものをとりあえず脇において、他の可能性をいろいろ考えたりもしたが、そういう見栄をはるのをそろそろ辞めて、いいものはいいと思っていいのでは、と考えるようになったのは割合最近のことである。

「安藤」的な姿勢、実直にモダニズムを突き詰める姿勢から生まれる、バカ正直にみえる安藤忠雄の建築は、類まれな「強度」を持ち、建築物としての存在意義を確保しているように思う。
方法はどうであれ、それこそが大切なのではないか?
『負ける建築』を書いた隈研吾でさえ「強度」を口にする。宮台真司もしかり。

「強度」という概念はドゥルーズからの言葉だろうが、実は僕はよく理解していない。
しかし、なんとなく今でもキーとなりうる概念の匂いがする。
今後の興味の対象である。

ちなみに、この作品集で好きだったのは、成羽美術館で、アプローチの構成にくらくら来た。