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コンセプト

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「コンセプト」

これも「デザイン」同様、芸術家気取りと思われやすい。

conceptを辞書で引くと「概念・観念・着想・考え」とあるが、この場合、「構想」を加えたほうが良いと思う。

「コンセプト」は意志の共有の為には欠かせない。
また、自ら意思決定を行う為の基準となる。
いわば補助線のようなものである。
デザインのうまくいっているものは、この補助線がうまく機能しているのである。
それは、ぱっと目に見えたり、うまく隠されていたりするが。

人はおそらくその補助線の存在を「無意識に」察知する能力を持っている。
頭で理解するのではなく、感じるのである。

そんな補助線はデザインに全く興味のない人にはどうでもいいかと言うと、僕はそうは思わない。

建築は環境のひとつである。
誰であっても、いやでも日常的に関わらざるを得ない。
知らないうちに感じとり、無意識に大きな影響を受けているに違いない。

おそらく、補助線による「意味の縮減」は美であり、快楽であろう。
興味があろうがなかろうが心地よいものは心地よいのだ。

だから、僕たちは「芸術家きどり」とののしられようが、補助線の存在とデザインに気をかけなければならないのである。




偽物の氾濫

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偽物の氾濫

昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。

例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。

自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。

大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。

偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。




B011 『自分の頭と身体で考える』

養老 孟司、甲野 善紀 他
PHP研究所 (2002/02)

最近「ふけた」「ふとった」といわれることが多くなった。
それで、最近『ウォーキング』なるものをしなけりゃならんか、と思ってしまった。

不覚にも。である。実際少しばかりやってしまった。

目的のない「散歩」はとても好きである。
しかし、「健康」を目的にした「ウォーキング」というものには昔から違和感を感じていた。
「ジムのマシンでウォーキング」にはなおさら違和感を感じる。
なぜ、身体を動かすために金を出さなければならないのだ。
ケチで言ってるのが大半だが、『身体』を金でどうにかしようというのはどうも腑に落ちない。
「サプリメント」もしかり。

おそらく、ストレスが多く、健康を守ることも困難な現代社会を生きるには必需品。 ということなのだろうが、 その、アメリカ的な何でも意識でコントロールできると思っている傲慢さと、一見合理的に見えて、実は単なる対処療法でほとんど本末転倒な思想が嫌なのである。

変えるべきは現代社会のほうだろうに、対処療法は原因を補強する。
ほとんど罠である。

罠にはまるのはシャクである。

危うく罠にはまるところであった。

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。
それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。
(そんなことは関係なく、僕が自然から抜け出せるはずもないのだが)
しかし、これほど脂肪がついてしまってはまったく説得力がない。このままではこの『境界線』を手放さなくてはならなくなる。
それはそれでよいだろうが、罠にはまるのはシャクである。
損な性格である。

そこで、名案を思いついた。
はじめて人力以外で動く自転車(原動機つき)を手に入れたのだが、我がチャリンコを復活させて、これで通勤してやる。

やけである。

しかし、これで、やせる。体力がつく。環境を破壊しない(つもりになれる)。ガソリン代が浮く。事故に会う確立が減る。ボケーっとできる時間が増える。早起きが出来る。ちょっとした悲哀を感じられる。世の中を斜めに見れる。などなど様々な特典を得られる。
なんと合理的なのだろう。ここで躊躇してしまっては僕は非合理的な人間ということになる。

今日(27日)事務所においていたチャリンコのパンクを修理し、乗って帰ってみた。
どうやら40分ぐらいで家に着きそうだ。
なんだ。楽勝である。むしろ期待はずれだ。

そういえば僕が東京にいるころ定期代がもったいなくて小田急線の千歳船橋のアパートから六本木の事務所までチャリンコで1時間かけて通っていたのだ。
あのときのほうが僕は野性味を持っていた。

これで、野性を取り戻せると思ってウキウキ、ウッキーとしだした矢先に擦り切れていたタイヤがついに破けてパンクしてしまった。 もうこのタイヤはだめだ。

これで、週末までチャリンコはおあずけとなりました。

前置きがながくなりましたが、この本について。養老孟司は好きである。
ちょっと売れすぎたけど、昆虫好きだから。甲野善紀も好きである。
丸山弁護士に似てなくもないけど、顔が不敵だから。

両者とも強烈なオリジナリティーをもっていてかっこいいのだ。
NHKか何かで甲野善紀のわけのわからない動きと、わけのわからない自信を見てすっかりファンになってしまったのよ。

二人の対談はなかなかになかなかで、当たり前のことばかり言ってるが、それがオリジナリティだと感じさせる。

きっと、僕も似たようなことを感じている。はず。

何か大きなものに飼いならされていない『ぐれ』続けている二人は素敵である。




B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
——————–
さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
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オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B005 『CASA BARRAGAN カーサ・バラガン』

齋藤 裕
TOTO出版 (2002/04)

メキシコで活躍した建築家、ルイス・バラガン(Luis Barragan 1902-88)の住宅の作品集、というより写真集。建築家の斉藤裕が解説を加える。
テレビなんかでも紹介されたりするので、比較的知られている建築家だが、恥ずかしながら僕はじっくりと作品集を見るのは初めてだった。
掲載されているのは、バラガン邸、プリエト邸、ガルベス邸、サン・クリストバル、ギラルディ邸です。

とにかく、単純に、美しい。

『静けさは、苦悩や恐れを真の意味で癒します。どんなに豪華な、あるいは、ささやかな家であろうとも、静けさに満ちあふれた住まいをつくることは建築家の使命なのです。・・・』ルイス・バラガン

斎藤裕の解説文のタイトルが『生の謳歌』であるように、静けさのなかから生命感が溢れ出してる。
そういう感じです。

しかし、それはいったいどこからくるのだろうか。

バラガンの住宅はモダニズムの手法による徹底した抽象化という印象を受けるのと同時に土着的な、身体的な感覚を受ける。
この両者のバランスが、すばらしいのだ。抽象化とはこういうことか、と思わされる。

抽象化はまさしく日本建築のお家芸であったであろうが、バラガンは面の構成や色などにによって、物質を、光を抽象化する。
抽象化によって余計なものは削ぎ落とされ、自然、世界そのものを受け止める素地ができ、静けさのなかから生命感が溢れ出しているような場所と時間が生まれる。

また、バラガンはアシエンダ(大農場)の昔の記憶、原風景と呼べるものを大事に抱えていたようである。
そういうものがバラガンのバランス感覚を支えていたのだろう。
それは、バラガンの、そしてメキシコのものである。

おそらく、自分のなかにも原風景と呼べるものはあるし、割合大事にしてきているほうだと思う。
奈良の田舎で走り回った風景、遊び、屋久島の自然と生活・・・そういったものを改めて見つめ直したい気持ちになった。

また、この本で印象に残ったのは、建築家と施主の幸せな関係である。
施主はバラガンの住宅に誇りを持ち、感謝し、大切に住み続けている。

バラガンは幸せだ。

住宅もひとつの環境である。
環境とはおそらく与えられるものではなく、「関係」でしかないと思う。
施主と住宅(願わくば環境の全て)の「関係」をつくる手助けすることが建築家の職能のひとつだと思うのだが、今はそういうことは忘れられ、住宅でさえ商品となり、人々は受身で住宅を消費する。

自分の住宅(環境)と「関係」を結べるのは自分にしかできないのに。




B004  『意味に餓える社会』

ノルベルト ボルツ
東京大学出版会 (1998/12)

だいぶ前に買った本であるが、僕的にはヒットした本である。
がいまだ整理しきれない。

ここにはニーチェの「神の死」の後、ポストモダン社会をどう生きていくか、ということを考えるヒントがある。

著者は『意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ』と言い、われわれに意味を与えようとする様々なものの意味の意味を分析し、バッサバッサときっていく。

それはもう、ギター侍も真っ青なぐらい痛快に。

現代のような社会では複雑性と向き合うことを恐れ、思考をサボれば、分かりやすい意味の補助具にすがりつかざるをえなくなる。そして、その補助具に無意識に頼りすぎると自分の判断を失う。
その結果、ある種の「暴力」に知らずに加担するかもしれない。

見渡せば、そういった暴力はいたるところに見つけられる。

しかし、「意味」をクールに突き放すことには、自らの足場を不安定にし実存が崩れ落ちてしまうのではという恐怖がつきまとう。
いまだ僕は、「クールな視点の後の自由」と「実存的恐怖」の間を揺れ動いている。

もし、その恐怖を突き抜けることが出来たなら、もしくは突き抜ける必要がなかったなら、再度、この本について書いてみよう。
もし、この問題を解決できている人がいるなら、その秘訣・ヒントを教えてほしい。

以下、目次(一部は小見出しと部分抜粋も含む)
興味をそそる見出しが並ぶ。(時事ネタ多く古くなったものもある)
第7章、最後の小見出しは「すべてがデザイン」である!!

●●序論

・われわれの現実において、自明なものはもう何もない。自明性の喪失自体が、まったく自明になっているのだ。
・現代を生きるということは、価値のコルセットをつけて生きること、大きな理念や制度の型にはまって生きることではないのだ。人は自分が何であるかを自分で決めなければならない。意味はますます私的なことがらになっていく。

○意味の政治
・問われるのは実はひとつのことである。すなわち、きわめて複雑な、カオスと紙一重の世界と、どのようにかかわったらよいのか?複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対する憧れがいたるところで生まれる。そこで、人々はいまや、失われた意味を捜し求める。

○超自然としての自然
・環境問題が存在しないのではない。他の関連から切り離された環境問題「自体」が存在するのではなく、何らかのシステムが自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは、本来、それぞれのシステムが非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
・エコロジーは逆説的に、豊かな国々の豪華商品になってしまった。そうなると、環境問題に関する市民の感度は鈍ってくる。成長の限界についての感度の成長も限界に達した、とさえいうことができる。

○意味の意味

○意味論的カタストロフ
・これらは特定の概念が使えなくなったことを嘆いているにすぎない。まさにこの点で、またこのようにして、意味の問題が生ずるのである。どんな文化も、意味を仕立てるための一定の規則に基づいて成り立っている。だから、ある社会のこうした意味論的仕掛けが壊れてしまうと、意味の問題が生ずるのだ。したがって、意味の機器と渡渉するものは、何よりもまず、もはや昔ながらの概念をもってしては現代を満足に記述できないことを示唆するにすぎない。
・これに対して、多くの人々は、昔ながらの理論が役に立たなくなったことを、矛盾として世界に投影するという形で反応する。こうして「危機意識=批判的意識」が生まれるのだ。
われわれは単数集合名詞の檻に生きている。つまり、本来複数でしかありえない実態を一戸であるかのように見せる概念の折に生きている。「歴史」「現実」「人間」
・意味論的カタストロフに直面して、多くの人々は言葉を失う。開放をまったく欲しない人々も多い。だから、われわれの文化は、世界が見通しが利かないものになったことを紛らわすために人々に意味を提供し、言葉の補助具を用意するのだ。

○鍵になる概念
・われわれは明確な概念を必要とする。ただし、それが補助的な構成物に過ぎないことを忘れてはならない。そして、補助的な構成物なしにはやってゆけないということ自体が、この本のテーマなのだ。
・この本は、意味の問題を魔術から開放した上で、楽しげに「その日暮らしで行けばよい」と呼びかけるものではない。クールな実務家は、すでに幻滅に基づく世界像を持っているだけに、全然学習するつもりがない。「実務」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実に過ぎない。
・理論なしには、そしてヒエラルヒーなしには、いやでもやってゆけない。ヴィジョンを欲しながら同時にヒエラルヒ-を捨てることはできない。未来のブラックボックスを開くための鍵となる観念こそが、ヴィジョンの名に値するであろう。

●●第1章 扱いにくい灰色の基本問題・・・複雑性

○カオスとブラックボックス
・およそ自信のあるデザインならば、世界を開く構想のつもり、意味創出のつもりでなければなるまい。なぜなら、デザインとは、ブラックボックスの世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠となる。
・デザイナーは、単純化の名人だ。彼らは常に、複雑性の縮減を任務とする。
・デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術すなわち不透明な仕掛けに対する人間の不安を除かなければならない。

○三つの世界
・われわれ全員にとっての問題は、単純化することによってしか世界の複雑性に答えられないということにある。
・かどの複雑性は、まさに政治にとって、実務の優位という帰結をもたらす。
・哲学者でさえ、原理とか最終的根拠付けとか言うものは存在せず、われわれは常に「かのように」的な構成と取り組まねばならないこと、どんな理論の中心にも概念へと分解できないメタファーがあることを、ようやく理解しているようだ。
・そうした埋め合わせが必要だということは、環境に対し適切に対処するに足りる自己の複雑性を持たないということである。

○単に単純でないというだけのことではない
・刺激から守ってくれるものなしには、または刺激に無知でなければ、やってゆけない。何らかのフィルターが一定の情報を「ノイズ」として度外視することによって、複雑性が縮減される。

○人間本位主義と啓蒙主義
・「危機」という語は、高度の複雑性を単純化し、政治化するものである。はっきりいえば、危機は例外状態ではなく、現代に生きるわれわれのノーマルなあり方なのだ。
・「意味」とは、複雑性の自己記述に他ならない。だから、われわれの世界に意味がかけているわけではなく、われわれの属するさまざまのシステムそれぞれの価値が注目されていないというだけのことなのだ。
・ヒューマニズムもまた、複雑性の問題を覆い隠すものである。その友愛主義は人間を尺度として世界を測るものだが、それはとりもなおさず、生じたことの責任を人間に負わせるということだ。しかし、複雑性とは、人間のせいにできないということ、具体的な人間のせいだといえないことにほかならない。
道徳主義者が世論の動向を決めるのは、彼らがメディア受けするだけでなく、人間の心理を味方につけているからでもある。つまり、新しい思考というものは、それが緊急に必要なときに鍵って実現可能性を持たないのだ。ストレスに曝された者は昔ながらのやり方を頼りにする。複雑な観念を持ち出しても、たいていは空振りに終わってしまう。

○未来ないし統計
・統計が好まれるのは、構造を理解しなくとも数を比較するだけで複雑の諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
・人々は今日、経験を信頼しないでトレンドを探り当てようとする。経験の軽視とトレンド志向とは表裏一体を成すものであろう。

○時間の矢印の破片
○原理主義者たちと阻止者たち
・生活時間と世界時間がかけ離れるや否や、意味を求める問いが発せられるのである。
・イタリアの映画監督パゾリーニは、低開発にとどまることが阻止者(カテコン)としての力を持つと説いている。後進性こそがユートピアとされるのだ。これと全く同様なのが、世間でもてはやされている「ユックリズムの再発見」の、背後にある発想である。ユックリズムを再発見しさえすれば、もうついてゆけないという体験を解釈しなおして、救出のしるしとみなすことができる、とされるのだ。
・ちなみに、ここには、阻止者論(カテコンテイク)のマーケティングが持つ大きな力、遅れをとったことを逆手に取る一種の販売技術が潜んでいる。「万年筆は、テンポを落とすこと、時間の流れに錨をおろすことの表現です」
・阻止者論を見ても原理主義を見てもいえるのは、現在を自己確認的に肯定する態度がますますまれになったということである。
・いまや、新しいものは終わろうとしているのだろうか?実際、終わりの時を示唆するしるしは沢山ある。

●●第2章 意味社会

・つまり宗教は、何が起こるか分からない(不条理な)世界において儀式により意味を構成するわけだ。
・無論、生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティーの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な問題にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。

○近代性の落とし穴
・われわれの近代世界が提供できるのはただひとつ、「何のために」を説いたり目標を掲げたりしないでやっていく「機能的意味」だけである。われわれの社会は、高次の意味を問うことがないからこそ、抵抗なく機能するのであろう。そこから言えるのは、意味を問うのは逃げの姿勢だということだ。「意味が見つからないこと」を気に病むものにとっては、すべてが別様でもありうることが(つまるところ自分の自由が)悩みの種なのだ。

・だから、私が思うには、失われた意味を求めるのは近代性の落とし穴から逃れようとする試みに他ならない。

○救済の約束
・もう一度ヤンチュを引用しよう。「意味に対する欲求は、人間意識の進化における強力な自己触媒的要素にほかならない」。われわれは意味を求めることによって、さらに発展しようとする自分の意識を刺激するのである。

○世界の脱魔術化
・社会学的にそっけなく言えば、生存の意味とは何かという問いは、生存そのものの彼岸で現れる。そうした問いは、肉体労働と自然の強制から開放されていることを前提としているのだ。世界と格闘しているものは「救済」してもらうどころではなく、「やる」しかないのだ。
・学問史家の立場からすれば、意味の喪失が体験されるようになった理由は二つしかない。
*近代の知が準拠すべき基準の喪失*知の分業化、ブラックボックス化
近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する{つまりブラックボックス化}と言う条件の下でのみ、知の探求者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。
・人々は理解しないものを用いるために、それに従うのだ。つまり、理解に代えて了承に甘んずるしかないのだ。世界に沢山の知があればあるほど、私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。
・世界が科学的に・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。

○ナルシシズムの痛手
・人間を尺度として世界を測ることは、もはやできない。これを「擬人的」に表現するなら、世界は人間を見捨ててしまったのである。すでにニーチェが、そのことをはっきり見抜いていた。「われわれはこの場所、この目的、この意味のせいで存在するのだ、こんな状態になっているのだと言えるような、場所も目的も意味もありはしない。とりわけ、全体を裁くこと、測ること、比較すること、まして否認することなどできるわけがないし、誰にもできまい」。

○学者たちと尊師たち

○近代的であることのコスト
・われわれの近代社会の特徴を、社会学者は彼らのそっけない用語で、さまざまの機能システムの分離と呼んでいる。善と真と美、法と権力は、分解して互いに無関係なものになっており、それぞれが特殊な文化によって、すなわちプロフェッショナルたちによって扱われるものになっている。
・しかし、それらは互いにどんな関係に立つのだろう?全体はどこに、一体性はどこにあるのか?答えはない。ここにぽっかり空いた空隙が、意味を求める人々を吸い込むのだ。つまり、意味喪失感の背景として、各部分システムそれぞれの独自性、特殊領域、固有論理が分かれてきたということがある。そして、機能ごとの分離がすべて意味喪失として体験されたことは明らかであろう。
・すなわち、近代化とは常に、一体にかわって差異を、ということなのだ。
・かなりの人々によって、「意味の欠如」として体験されるものは、実は意味の地平が開かれていること、オプションが豊かなことに他ならない。逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまな形で過剰に提供されていることの結果である。何もかも、大きな意味があるとされるのだ!だから、「意味を見出せない」とは実のところ、「すべてが別様でもありうる状態を苦にする」ということ、つまり結局は「自分の自由を苦にする」、「不確定性(コンティンジエンシー)を苦にする」ということだ。

○押し売り的な救い手
○カタストロフの魅惑
○不幸せな「補助具をつけた神」
○(不)幸せのマネージメント
○独自の型
○重荷を下ろした意味概念
○意味を求める努力
○情報と神話
○意味の身代わり
○学問と政治の対話?
○エリートへの過大な要求
○政治化ではなく大衆化を

●●第3章ポストヒューマン・・・人間という尺度からの別れ
●●第4章批判的意識の大思想家たち
●●第5章それぞれのメディア世代
●●第6章メディアの世界
●●第7章文化・・・近代化の埋め合わせ
○深刻化をやめる
○あるがままの自分でいたい
○文化批判の文化
○重荷からの開放が重荷になる。



○すべてがデザイン




モノの力

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モノには素材そのもののもつ力がある。

人は自分たちが思っているより、ずっと多くのことをモノから感じ取っていると思う。

感じることによって人とモノとの関係が生まれる。

モノが自分の存在を受け止めてくれることだってあるかもしれない。

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




敷地

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ふさぎこんだ敷地

現代の多くの住宅を見てみると、どんな敷地であっても規格化された家を無造作に置き、その家と周りの環境とは切り離されているように思います。敷地の残りの部分を庭にしていても、それが内部の生活とつながっていないため、庭とは名ばかりの存在になっています。場所によっては木の一本もなく敷地の隙間は見捨てられています。

敷地から飛び出す

法律によって敷地に建てられる建物の割合が決まっているので、敷地全てを家にすることはできませんが、建物の配置、窓のとり方、壁の配置、植栽などによって、敷地いっぱいを有効に活用することができます。石をひとつ置くだけでぐっと広がりを感じさせることもできます。

また、想像力を駆使すれば、敷地の枠を外れイメージはぐっと広がります。家そのものの床面積を重要視する傾向がありますが、家を小さくすることで逆に何倍もの広がりを感じるようになることも多々あります。

僕は、敷地に座り込んでじっと動かない、ふさぎこんでいるような住宅を見るとすごくもったいなく思います。

せっかくの敷地ですから、有効に活用し、さらに敷地の枠も外せるような建築を建てたいです。

日本建築から学ぶ

すごく、大雑把に言うと、欧米などでは厳しい自然環境や外敵から身を守るため、壁によって内部を基本的に外部と切り離す建築が発達しました。

一方、日本では比較的気候が温暖ということもあり、”借景”など、巧みに周りの自然環境などを取り込み、周囲と一体化した建物が建てられました。

そして、木の柱と梁の構造、開け放せる建具、縁側や軒の深い庇等が発達したといわれます。

昔の日本建築には領域をあいまいにする作法で学ぶべきものはたくさんあるように思います。




私と空間と想像力

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自己と世界

「私のいる空間が私である」ノエル・アルノー

自己と世界との関係ははるか昔から人間にとって主要なテーマでありつづけました。

普段私たちはこういう事は考えることもなく私は私で世界は別にあるものと感じていると思います。しかし、音楽の世界に浸っているとき、大自然に包まれているときなど、何か自分の世界が広がり、世界と一体になったような感覚は誰でも感じたことがあると思います。僕にとってそのひとつが屋久島での体験でした。

領域の拡大

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

建築的な話をすると、家の中心に階段があるとします。その階段をのぼらなくても、階段は登ることを想像させその上の部分にまでイメージを広げます。また、快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げます。さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながっています。

鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれます。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。

「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。




世界観

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古代ギリシャ人の世界観

古代ギリシャ人は建物の配置を厳密に数学的に計算して配置していました。ギリシャ建築の建物の配置にも大まかに2つのタイプがあります。イオニアの人たちは宇宙は無限であると考えていました。そのため、無限に広がる世界に恐れを感じ、自らの領域を確立するために周囲を囲うように建物を配置しました。

一方、ドーリスの人たちは宇宙を有限なものと考えていました。そして恐れることなく、必ず外に向かって開けるような隙間ができるように建物を配置しました。

世界の捉え方

このように、世界のとらえ方は人間の根源的な恐れのような部分に密接に関係しています。

どちらが良いと言うことではなく、現代の社会や人々の考え方によって、建築は変わるということです。

逆に、私たちの周りの環境は私たちの世界観を作り上げます。ここに建築に携わる人に与えられた責任があるように思います。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。