純粋形態としての卵 B310『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(バックミンスター・フラー)

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バックミンスター・フラー (著)芹沢 高志 (翻訳)
筑摩書房 (2000/10/10)

本文の後に追加されている注釈で、訳者である芹沢高志は、フラーに対する敬意を込めて、次のような点について批判を行っている。

(a)フラーの宇宙観、世界観は、徹底的に動的であることを主張していながら、意外に、自己完結した静的なものになってしまっていること。
(b)フラーは世界をグローバルに眺め行動することを主張するが、地球上のいかなる環境にも適応できる技術を求めたが、それが多様性を損ない、均一化を促進する可能性があること。
(c)フラーは軍事技術の「本当に少ないもので本当に多くのことがなせる」ことを、地球環境のもとすべての人の生活を成り立たせるものへと転用せよ、と主張するが、軍事技術は一つの目的にがんじがらめになった線形技術であり、少ないものでなす、とは言い難いこと。また、フラーの技術が必要条件から構成された一般技術であり、生活の場で使うにはあまりにも純粋すぎること。

これまで私は、フラーに対してこの、自己完結感、ユニバーサル感、純粋さ、を感じてしまったため、あまり関心を持っていなかった。

興味よりも先に、不自由さを感じてしまって食わず嫌いだったのだ。

しかし、本書を読んでみて、少し見方が変わった。

私の感じていた、自己完結感、ユニバーサル感、純粋さは、フラーが一般システム理論と呼ぶ、削ぎ落としによって抽出された純粋なものを、そのまま見ているため生まれたものだ。これはおそらく、現代においては卵のようなものなのだろう。

フラーの価値は、具体化する前の極端に抽象化されたシンプルな思想の中にあり、それは今も色褪せておらず、強い説得力を持っている。

ただし、その説得力を持つシンプルな思想は、理想的ではあるが、人間が決して理想に従い合理的に行動する生物ではないことも、また事実だろうし、理想からそのまま生まれた純粋な形態が、単純に受け入れられるとは限らない。

フラーが産み落とした思想と、純粋な卵。
これを、不純で、多層的、多元的な躍動感のあるものに育てていくのが私たちの使命なのかもしれない。

と、書いてみたところ、訳者注釈とほとんど同じシメになってしまった。

フラーの純粋形態にはこれまで、あまり関心を持てなかったのだけれども、その根本のところには興味が湧いてきた。

本当は、この本を読んだ後、しばらくは新たな読書は控えようと思っていたのだけれども、知りたいことは増えるばかり。

とりあえず、子どもと図書館に行ってこよう。




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