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隙間によって関係性を生み出す。



ぴったりではなく、すこし隙間を残すことで能動的に環境と関われる余地を残しておくこと。
それによって生まれた関係性が生活=豊かさとなる。

オノケンノート – 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。
洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。 何もなければいいというものでもないのである。

『決定ルール=自然環境』によって地形を生み出すという手法も有効そう。関係を受け止める強度を建築が持てる。

オノケンノート – 『棲み家』

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。
なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。
それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。




B126 『無有』

竹原 義二 (著), 絹巻 豊 (写真)

学芸出版社 (2007/03)
竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。

文章と図面と写真を行ったりきたりしながら頭の中で歩き廻ると、様々なシーンが浮かび上がりその奥行きの深さにどんどんと引き込まれる。

この歩き廻る作業を何度も繰り返せば相当な力がつくんじゃないだろうか。建築を学び始めた人には是非ともおすすめしたいし、何年か後に読み込む目が育ってから歩き廻ると全然違った新たな発見があると思う。

ところで、ズレやスキマ、余白といったものが光や素材や人の動きを通して、奥行きや豊かさに変わっていくのだけど、そういうものは無駄として捨てられてきたものでもある。安さと機能性を求めるだけではなかなか辿り着けないものだし、実物なしには説明のしにくいものでもある。

坪単価という指標だけで見れば決して安くないものも多いと思うけれど、それを説得して実際の空間に仕立て上げられるのがやっぱり実力なのだろうなぁ。

ちなみに、各章の見出しは以下のとおり。

序章建築の原点
1章手仕事の痕跡
2章素材の力
3章木の可能性
4章内へといざなう
5章ズレと間合い
6章つなぎの間
7章余白と廻遊
8章「101番目の家」へ

僕の中での別の永久保存版に通ずるものがあります。(日本建築というものの奥の深さには計り知れないものがある。)

あと、メモ代わりに2箇所ほど引用しておきます。

いわゆる一室空間は、人つながりの壁と天井、床で囲まれ、おおらかな空気をもつが、空間がその内側だけで完結しようとする。それが一室空間の弱さでもある。これまで述べてきた素材の力、区間の連続性や内と外の曖昧な関係といった試みは、一室空間というよりは、ひとつながりとなった空間の中で、様々な要素が様々な密度でずれ、その中で意識的に「間合い」をはかり、無数の関係性を結ぶために仕掛けられたものである。このような空間は、一室空間に比べて寸法は緊密になるが、心理的な奥行きや拡がりをもたらすのである。

こうして「間」を保ちながらつながっていくという微妙な関係が形成される。それは物理的には限られた空間に、いかに拡がりを与えられるかという工夫であり、極めて日本的な感覚である。住まいを分節し、その間を外部空間で結んでいった時、自由度のある住まいが住まい手の意識を鮮烈にし、想像力を掻き立てる。そして人が訪れるたびに異なる出会いが生まれることで、空間に対する奥行きも変化するのである。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。