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身体性/関係性マップ

5月5日のつぶやきで考えたこと。

onokennote: やっぱりコルからは学ぶことしか見つかんないんだよな。 [05/05 01:03[org]]


onokennote: 身体性からのイメージを都市的なものまでぐぅーっと柔らかく引き伸ばすために必要なものはなんだろう。 [05/05 01:06[org]]


onokennote: でも、例えば総体としての社会に対してもっとこうなって欲しい、というような視点はもともと学生のころから基本テーマとしてあったはずだし、それも身体的な感覚に近いところから出てるはず。 [05/05 01:10[org]]


onokennote: いろんなスケールを通してぐぅーっと引き伸ばしたイメージに身体性に基づく何かをプロットしていき線状になるまで育てていけば、滑らかに違和感無く連続したイメージを持てそうな気がする。 [05/05 01:13[org]]


身体性に基づいたところから様々なレベルでの多様な関係性を築ければ豊かな建築ができるんじゃないかという思いがあるのですが、それをマッピングしてみたらどうなるだろうということでフォーマットをつくってみました。


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まだほとんど何も書いてませんし思いつきの段階ですが、横軸にはスケールを縦軸にはいくつかのグループを割り当てて、その中に建築に繋がりそうな要素をどんどん書き込んでいけばスケールを横断した大きなイメージを持てるようにならないかなと思っています。
ヒント・キーワードの部分は全体を通して方法論に繋がりそうなことをメモ的に。
最終的には文字ではなくイラストっぽいので1枚にまとめられたらいいんだけどそこまで行きつくかなー。

2年ほど前にも自分なりの評価シートを作ろうとして結局そのままになってるので今回もやっぱり行きつかないのか。(今見てみるとこの評価シートも何とかカタチにしときたかったな)

こういうのをソーシャル的につくれればいいと思うんだけど経験的にはネット上でそういうのを期待するのは案外難しいんだよな。ワークショップ的ブレスト的にやれば可能性はあるのかな。

長めの時間をつくって手描きでごりごりっとやってみるか。




構成についてのメモ3

吉岡徳仁によるバーゼル ワールド2009のスワロフスキーブース

きれい、というのと同時に巨大な生物のようで少し怖いという感じがしました。

この動画を見た感じだと、一つの要素の動きに応じて隣接する要素の挙動が決まってくる構造のようですが、個々の要素の関係性によって全体があらわれる一つの例ではないでしょうか。




隙間によって関係性を生み出す。



ぴったりではなく、すこし隙間を残すことで能動的に環境と関われる余地を残しておくこと。
それによって生まれた関係性が生活=豊かさとなる。

オノケンノート – 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。
洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。 何もなければいいというものでもないのである。

『決定ルール=自然環境』によって地形を生み出すという手法も有効そう。関係を受け止める強度を建築が持てる。

オノケンノート – 『棲み家』

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。
なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。
それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。




Region NO.09

鹿児島にはもう一冊、質の高い文化的フリーペーパーがあります。

それは、友人も企画に係わっている渕上印刷のRegion

昨日垂水に打ち合わせに行ったときに 市役所の待合に置いてあったのでもらってきました。

そういえば特集は『焼酎遺産』。かごしま探検の会の東川さんが取材を受けたと言ってました。

帰りのフェリーで読んでみると、いくつかの文章が心に残る。

まずは冒頭の岡田氏のエッセイ『「どうだ」より「どうぞ」の美学』より

在来の素材は、確かに水や雨や風を「どうだ」と遮ってはくれない。(中略)しかし、そのぶん人の気持も優しく受け止めてくれる。(中略)ただ私は、「どうだ」とそびえる二百メートルを越すガラス張りのビルより、二百年を経て「どうぞ」とたたずむお堂に心が和むだけだ。(中略)
柱のはしばし、梁のすみずみ、甕の肌のきめのひとつひとつに、そこにただよう菌や気や人々の思いが息づいている。容れるものと容れられるものが相通じる。

まさしく僕が大切にしたいと思っていること。『容れるものと容れられるものが相通じる。』状態なんて本当に理想です。いや、ほんと最後の一文はそのまま僕の理想として掲げてもいいぐらい。
次に東川さんの文章

遺産というものは、単なる遺物または過去の物ではなく、現在の社会といつかの時代とを「文化」や「物語」で結びつける関係性の象徴だ、と私は思う。つまりこれまでとこれからの両方を伝えるものであり、また遺産のある地域の表情を伝える役割を担うものであるとも考えている。

いまのものづくりの多くに決定的に欠けているのはこういう時代を超えた視点と関係性をつむぐ想像力だと思う。それにしても東川さんはこういう艶っ気のある文章も書けるのですね。さすが。(艶っ気のある全文はregion読んで下さい。)

最後に大石酒造の大石社長の言葉より。

焼酎造りにおいて、常に一定の味を保つことは確かに重要かもしれません。しかし、自然の材料を使っている以上、たとえば芋の状態によって去年と今年では当然味は変わるわけです。そのゆらぎの幅を許容することで、古い技術や設備が受け継がれていくのではないかと思います。

伝統に真正面から向かい合っている人だけあって言葉に重みがあります。このことは全く建物についても言えます。『ゆらぎの幅を許容する』ゆとりの精神、これを持てるかどうかでうまい焼酎を毎日飲めるかどうか(建物についても同じ)が決まってくるように思います。
しかし、実際はこのゆらぎを全く認めないような世の中になってきているようで怖い。(関係する視点でイトイさんが管理について語ってます。「前回」の文から読むと面白いですよ。)

(引用中の強調はオノケン)




B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

佐々木 正人 (編さん)

岩波書店 (2007/02)

日本におけるアフォーダンスの第1人者、佐々木正人に関連する書評はこれで4冊目であるがぐっとイメージの広がる著作であった。(ゲストは作業療法士の野村寿子、心理言語学者の古山宣洋、生態心理学者の三嶋博之、哲学者の染谷昌義、齊藤暢人、写真家のホンマタカシ、映画監督の青山真治、小説家の保坂和志)

佐々木正人を初め様々な分野の先端を走る人達が『環境』をテーマに語るのだが、そこには共通のある認識が見て取れる。それは、偶然というよりも時代の流れを感じるものである。

以下、備忘録がわりにいくつかメモってみる。

メモ

●野村寿子(作業療法士)
脳性麻痺の方などのリハビリ用の椅子を作っている方。
これまでは姿勢を矯正するようなつくりであったが、矯正するのではなくサポートをするような作り方で、その処方は全く逆の方向に向くことも。
人間が環境と関わりあえることを信頼しているような作り方。
なるほどの連続。患者さんは環境と関わるサポートを受けることで生き生きと環境との関わりを生み出していく。

● 染谷昌義、齊藤暢人(哲学者)
哲学のことはあまり理解できたとは思えないが、少しだけイメージはつかめた気がする。(イメージだけで言葉が正確ではないと思いますが)
デカルトの認識論(二元論)によって物質と精神の2つに区別され、それが今の世界の認識の仕方の主流になっている。
環境と自己が区別された上でそれらが別個に考察されている。
そこには俯瞰された世界があり(例えば宇宙)その中のある座標に物質としての身体があり、それとは別に自己の意識が存在している。
という見方。
そうではなくてそういう俯瞰する視点を取っ払って、自己と環境の、というとまた二元論になってしまうけれど、自己を含む環境から考察をスタートするやり方があるのでは。

スミスとヴァルツィの環境形而上学(有機体がその中で生活しその中を移動する空間領域や空間領域の部分、つまり有機体を取り囲む環境についての一般的理論)はまさに空間としての環境を扱っている。

●ホンマタカシ(写真家)
カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比

何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。

おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。

建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。

建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。

● 青山真治(映画監督)
《像》ではなく《身振り》に。

同じように 《像》として、または物語としてはっきりと焦点を結ぶことを嫌う。自己と物語の分裂のもと、俯瞰的な視点を持つのではなく、『対象の 《像》への結晶化を 《環境》とともに回避』させる。

『結晶化』によって環境との微妙で豊かな関係性が分断され、物語に回収されてしまうことを恐れるのでは。

おそらくゴダールだけが、人間を信じていない、心理を信じていない

という言葉が印象的。

● 保坂和志(小説家)
同じような対比としてダンテの『神曲』とカフカを挙げている。
カフカも具体的なイメージが焦点を結んだり全体像が掴まれることを回避している。
不思議な部分の積み重ねによって全体像が現れることなく、何かしらのものが(著者は『カフカの現実』と言っている)が立ち現れている。
こういうカフカの表現は空間の一つのあり方。奥行きの表現の仕方を示しているようにも思う。

「一瞬の中に永遠がある」「一にして多なるもの」「朝露の一滴が世界を映す」これらの言葉を私は「わかった」とはいえないけれど、「シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるか」という問いのように難解だとも思っていない。それどころか、世界の真理とは結局のところこのような言葉でしか語らえないとも感じている。

著者は宗教者の言葉に興味を抱いているが、そう言われると禅問答のようだし、禅問答は言葉を拡張して世界の真理を掴もうとする一つの手段とも思える。

関係性によって全体を獲得する?

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。
水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。
それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。
自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。
その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。
そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。ぼんやりとしたイメージでうまく表現できたか分からないし、本著はもっと奥行きがあると思います。気になった方は御一読を。




under’s high

undershigh.JPG
少し前にMBCのどんかごで、たまたま見かけて気になっていたフリーペーパー『under’s high』
ひょんなきっかけから再び意識にのぼったのでもらってきました。

ちょうど打ち合わせ先の近くのTSUTAYAにあるようなので帰りに探してみるとなかなか見つからない。
本を買うわけでもなく、ただフリーペーパーをもらうだけなので忙しそうなレジの人にもなかなか聞けず、しばらくうろうろ探してもやっぱり見つからない。
もう品切れなのかなぁ、と思いつつレジがすいた時に意を決してレジのお姉さんに「すみません、フリーペーパーの・・」と言い掛けた瞬間、目の前のカウンターの上に見つかりました。

ちっちゃー。

ハンディサイズとは知らず、見逃してました。「すみませんフリーペーパーの・・・・これもらっても良いですか。」ときょどりながらごまかしてしまいました・・・。

さて、それは良いとして今回の特集はランドスケープ。

最近、建築はモニュメントではなくランドスケープに向かおうとしているように思います。

それは、建築の焦点が人間のアクティビティや関係性に向いてきたからで、まちを歩いているときにさまざまな活動や関係が立ち現れてくるような楽しさに目覚めたからのように思う。

単体の建築の中でもランドスケープ的な視点が注目されているのですが、そうでなくても個々の建築(外溝なんかも含めて)が豊かになればまちは活気付くと思います。

翻って、自分達の周りを見渡してみると、人の思いの見えない(人々の息遣いや関係性の豊かさも見えない)建物が増えつつあるように思いますがいかがでしょうか。

今の生活の多くはさまざまな関係性を無視することで成立している側面が強いですが、それによってつまらなくなっていることも多いと思います。

関係性を捨てるのが都市化の原動力だったかも知れないけれど、それに反するのではなく、関係性をデザインによって楽しさに結びつけることができれば、まちはきっと面白くなるだろうと思います。(SA・KURA・JIMAプロジェクトなんかそういう意味でもほんと面白かった)

そうそう、ちょっと恥ずかしい思いもしたハンディサイズですが、個人的にはこのちっちゃい感がけっこう好み。

模型も今は1:100でつくっているけど。同じ密度で1:200でつくりたいな、とか思ってしまいました。

とにかく、鹿児島を考える熱いフリーペーパーですので一度てにとってみてください。




B081 『道具と機械の本―てこからコンピューターまで』

道具と機械の本―てこからコンピューターまで 歌崎 秀史、デビッド・マコーレイ 他 (1999/10)
岩波書店


図書館より。世界的ベストセラーだそう。

シリンダー錠の構造からデジタル技術まで、いろいろな道具や機械のしくみをイラストで紹介する。

どんなものでもそれを考え出した人がいる。
しくみを知ることでブラックボックスがそうではなくなる。だからなんだと言うことだけれども、これによって道具や機械と少しお近づきになれた気がしてくるし、大げさにいうと視野が、世界が拡がった気分になる。ブラックボックスに囲まれた不安がちょっとした妄想遊びに変えられるのだからおもちゃのようなものでもある。

もしかしたら勉強というのは関係性を築くことかもしれない。
例えばこういう本や物理学は物や世界・宇宙との関係性を築く技術であると考えられるし、歴史は過去(未来)との関係性を築くことだと言える。そして、関係性を築くと言うことは自らの拡がりを獲得することだと思う。ただ、拡がりを感じたい。それだけのことかもしれない。




B076 『建築依存症/Archiholic』

安部 良
ラトルズ(2006/04)

安部良と言う建築家のことはよく知らなかったがタイトルに魅かれて読んでみたらとても共感できる本であった。

設計者とモノとの距離がとても近い。
そして建物と人との距離も近い。

しかし、その距離を縮めるのはそう簡単な事ではない。

僕の建築のテーマも肉体と建築の関係だから、何かにとことん執着しなければつくれないことがよく分かっていた。

ガウディやスカルパに魅かれ石山研の出身であるのも頷ける。

今の建築はほとんどがカタログから選ばれた「製品」の組み合わせでしかなく、それぞれの「製品」の表情はマーケティングの結果としての外面のいい顔がほとんどである。
モノが人と腹を割って話そうなどとは考えてもいない。例えば、思いをこめられず、ただ貼られたビニールクロスにはモノとしての力は、ない。
そして死んだような表情のモノと人との距離は遠い。多くの人はその距離には無関心だ。

僕もなかなかモノと関わることはできていない。
モニターの中で上辺だけのものを描くことしかできていない。

もっとモノの近くにいきたい。そして、建築に、モノに命を吹き込みたい。

「生活者と会話のできる建築がつくりたい」と僕は文中で何度か繰り返している。もちろん建築が声を出してしゃべるわけは無い。でもただ建築を擬人化して、あたかも会話が成立するような親密な空間をつくりたいと言っているだけでは物足りない。例えば小さめのホールで弦楽四重奏の演奏を体験したときに身体中が響きに包み込まれて深く感情を揺さぶられることがある。バレリーナの肉体の躍動を間近で見て、頭の先からお尻まで、脊髄に電気が走るような感覚を覚えることがある。歌手の声が、それが誌のないハミングのようなものであっても、その抑揚と声色だけで心に直接的に届いて、せつなさや嬉しさを感じることがある。生身の人間によるパフォーマンスが体験者の感情に直接的に届くように、建築もパフォーマンスができると僕は思っているのだ。

あたりまえのことかもしれないが、最近デザインとは「関係」のことだと強く思うことが多い。




B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「中村好文・心地よい家はこうして生まれる」』


>>番組HP(NHK総合)

「どんな家が欲しいのか、依頼者にはわからない」
「主人公は『家』」
「悪条件にこそ突破口あり」

依頼者もまだ知らない要望を掘り出す。
そこにこそ設計者が依頼者と関わる意味がある。

『家』を主人公に持ってくることで、依頼者の、そして設計者の凝り固まったイメージを抜け出せるのだろう。

家が単なる欲望の結果だけでは息が詰まる。

家は単なる所有物であるのではなく、時には大きくつつみこむ父親や母親のような、時には共に楽しみを分かち合う兄弟や友達のような、互いに関係を築ける相手でなければつまらない。

『家』を主人公にすることで、ようやく家が関係を築けるような相手になれるのかもしれない。

「楽しまなければ心地よいものは生み出せない」

どんな状況においても楽しめる自分を維持し続ける才能こそが、建築家にとって最も必要なものではないだろうか。
[MEDIA]




B049 『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』

佐々木 正人
春秋社(2003/07)

日本のアフォーダンス第一人者の割と最近の著。

レイアウトと言う言葉からアフォーダンスを展開している。

アーティストとアーティストでない人の境界があるかは分からないが、著者は学者でありながらへたなアーティストよりもずっとアーティスティックな視点や言葉を手に入れている。

それはギブソンから学んだ『目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか』という方法を実践しているからであろう。

本著を読んで、レイアウトの真意やアフォーダンスを理解できたかどうかはかなり怪しいのだが、ぼんやりとイメージのようなものはつかめたかもしれない。

著者が言っているようにアフォーダンスは『ドアの取手に、握りやすいアフォーダンスがあるかどうか』ということよりもずっと奥行きのあるもの、と言うよりは底のないもののようだ。

様々な分野で、一つのある完結したものを追及し可能性を限定するような方向から、”関係性”へと開いていくこと、可能性を開放していく方向へとシフトつつあるように思う。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。

幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。

建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

*****メモ******

■知覚は不均質を求める。
■固さのレイアウト
■変化と不変
■モネの光の描写。包囲光。
■デッサン(輪郭)派(アングル):色彩(タッチ)派(ドラクロア)
アフォーダンスは色彩派に近い。完結しない。
アトリエワンの定着・観察『読む』『つくる』環境との応答・関係性
■相撲と無知行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。
■表現・意図は「無機」「有機の動き」=「外部と一つになりつつある無形のこと」
クラシックバレエ=「無機と有機の境界」
フォーサイス=「無機の動きと意図の消滅」動きが「生きて」いる。それは舞台と言う無機的な環境の中で、有機の動きを発見し続けるさま。
■肌理(キメ)と粒(ツブ)それがただそれであること(粒であること)と同時に肌理であること。
知覚は粒と肌理を感じ取る。
人工物には肌理も粒もない。自然にさらされ肌理・粒に近づく。物への愛着は粒への感じなのではないか。

レイアウトや肌理や粒の感じや有機ということは急速に身の周りから失われつつある。




B038 『建築を拓く -建築・都市・環境を学ぶ次世代オリエンテーリング』

日本建築学会
鹿島出版会(2004/10)

建築的思考を武器に新しい道を拓いている先駆者25人のインタビューが収録されている。
あまりなじみの無い人もいたのでメモの意味でもざっとあげてみると、

内藤廣大島俊明松村秀一野城智也原利明梅林克大島芳彦松島弘幸アパートメントゼロスタジオ坂村健深澤直人甲斐徹郎玉田俊夫吉岡徳仁西村佳哲福田知弘後藤太一中西泰人love the life勝山里美馬場正尊松井龍哉元永二朗新良太

建築を学ぶ学生を主な読者に想定しているが、”建築をどう拓いていくか”は現に建築に携わる人にも切実な問題である。

この本の中で学生へのメッセージの中で共通しているように感じたのは、
・社会に対して自分がどう関われるかを考える。
・自分の中で感じたものを大切にしそれを突き詰める。

と言うようなことの大切さである。

この本でもいくつものキーワードや方向が見えてくるが、それら全てを突き詰めることは不可能であるし、しょせんは借り物である。
自分でこれと感じたことを突き詰めた先に何かが拓ける。
実際ここに収録されている人もそうやって必要とされるポジションを築いてきたのだ。

僕の本当の興味や出来ることはどこにあるのか。そのための方法は・・・・・

建築という領域を新築することに限定する必要はない、もっと自由に捉えてよいと考えると少し幅が出る。
すぐには答えが出せないのだが、それらを突き抜けるためのきっかけのようなもの、隠し玉はある。(それは秘密。。それを使うかどうかは今後じっくり考えることにする。)

一度、明確なビジョン・ストリーを描いてみたい。

******メモ**********

■本当はみんながほしいと思っているものを掘り起こす能力、あるいはそれをかぎ分けて目に見える形にすることで、イメージを喚起する能力。・・・・製図台の上の真白い紙の上で描けるのが近代建築であるとするならば、出かけていって、見て考えて、そこにいる人と意見を交換しないと、問題すら発見できないと言うような環境体験型の方法論に移りつつあるのだろうと思います。(古谷誠章)
■デザイナーが手を加えることで価値を倍加させていくような手法(大野秀敏)
■「建築家」がどうするか。1.増改築、改修、維持管理を主体とする。2.活躍の場を日本以外に求める。3.建築の分野を拡大する。・・・・第三の道でまず目を向けるべきが「まちづくり」→タウンアーキテクト(布野修司)
■・時間の概念>クロノプランニング・直感が大切。工学と直感は無縁ではない。・「私」を超えること。(内藤)
■リニューアルとは建物をどうやって次の世代に引き継いでいくか(大島)
■・これからの展望が開ける部分というのは結局は生活者しかない。・みんな能力もあるし、繊細さもある。でも、「何かを切り拓いていくぞ」っていう感じは乏しい。(松村)
■人々のアクティビティを呼び込むことによって、広い意味でも経済的価値を生むことが重要。(野城)
■・社会レベルへレンジを広げてみると、まだまだ住宅には取り組むべき問題は山積している。・自分たちが持っている「強み」「リソース」をどのようにデザイン活動に結び付けてゆけるか。(梅林)
■・オーナーの資産を設計デザインという付加価値の観点からマネジメントしますというスタンス。・ただ綺麗にするのではなくて、違う価値基準に乗せ換えてしまいましょう。
■・自分たちの価値観を大切にすること。そしてその価値観やビジョンといったものをしっかりと周りに伝えていくこと。・イメージを育てるのがすごく大変だけれども、それをイメージで終わらせない。(滝口)
■・身体が記憶している、みんなが共鳴する何かがあるはず。・人間のセンサーに対して深い部分で何か感じるようなものを突き詰めてつくってみる、ということが大切。学問として学ぶのではなくて、身体として経験する。(深澤)
■・使い手の意向を読み取って関係性をつくることが本来のデザイン。繋がりとか連続性。・自分にとって価値のあること、心地よいと感じること、そういう感性が現れるのを待つことを大切にしてほしい。(甲斐)
■夢を見、イマジネーションの力を磨くこと(玉田)
■自分なりの生き方で生きていかないとデザイナーとしては成長できない。(吉岡)
■・みんな他人事の仕事はしていない。どんな請負の仕事でも「自分の仕事」にしてしまう。・感動しているとか、心が動いているとか、面白がっているとか、興味のあることがたくさんあるのは、動く大きなプールというか内側の資源(西村)
■デザインを進めていく方法論というか、コンセプトを見つけていくこと自体が大切なことになっていく。(松井)




B030 『負ける建築』

隈 研吾
岩波書店(2004/03)

隈研吾独特の論理的な文章が続くが、今までに比べなんとなくキレがない気がした。

そのわけはあとがきの最後の部分で分かった気がした。

世界で最も大きな塔が一瞬のうちに小さな粒子へと粉砕されてしまった後の世界に我々は生きている。そんな出来事の後でも、まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。なぜなら我々の身体が物質で構成され、この世界が物質で構成されているからである。その時、何かを託される物質が建築と呼ばれるか塀と呼ばれるか、あるいは庭と呼ばれるかは大きな問題ではない。名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(p.230)(強調表示は03Rによる)

ぼんやりと浮かぶ可能性のイメージを何とかしぼりだそうとしていたのだろう。
そのための論理的な文体(強)とその内容(弱)の間のギャップがキレのなさを感じさせたのだ。
論理的分析が伝えたいイメージのための後付の説明のようにも感じられる。それは論理性の限界だろうか。

また、彼のような人のこのような告白には勇気付けられる。

彼でさえ、葛藤を抱えていて最後は「愛情」のようなものを頼りにしているのである。
というより、愛情があるからこそこういう困難な問題、情念のようなものに逃げたくなる問題に対して、あえて論理的に挑もうとできるのだろう。(それは隈の性癖であるのかもしれないが)

論理性の先に途は開けるか。情念が論理に勝るのか。
論理性と情念。おそらくそれらは車の両輪である。
そして、その両者のバランスをどうするかという葛藤は常に僕の中にある。

この本で、隈でさえ情念やイメージのようなものが先にあるということを発見できたことは収穫である。

磯崎新が書いた一文を思い出した。

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。

この本で隈が投げかけたものを自分の中のイメージ・概念として育てなおすことが重要だろう。

*****以後内容についてのメモ*****

各章の隈の分析は僕達にどういうスタンスを取るのか、という問いを突きつけてくる。

・切断としての建築ではなく、接合としての建築というものはありえないか。「空間的な接合」「物質的な接合」「時間的な接合」
建築は切断であるという前提を疑う。切断されたオブジェクトではなく、関係性としての建築について考察する。
切断によって奪われたものとはなにか。接合のイメージとは。

・場と物を等価に扱うイメージとは。(参考:オブジェクト指向)
ミースのユニバーサルスペース(物のメタレベルにニュートラルな場をおくという方法・ベンヤミンのいう「ブルジョワジーの「挫折した物質」と建築を切断する方法)→建築もまた物質であり、ミースの論理は仮定でしかない。
→仮定ではいけないのか。境界は不要なのか。
→「場と物という分割形式」に僕らがどれだけ捉われているかということを考える必要がある。それらと違うイメージをもてないか。

・建築に批評性は必要か。

時代の中心的欲望に身を寄せながら、批評という行為を通じて、その中心を転移させること。

しかし、批評性ということに捉われすぎたのでは。→(ケインズ的)「建築の時代」から開放され初めて『建築家は建築を取り戻す』

オープンな社会の中で、なおかつ必要とされる建築は何か。それを素直に思考することから始めればいいのである。・・・斜めから正対へ。徹底的にポジティブでアクチュアルに。

それは、「建築の時代」に寄り掛かれないということであり、建築家の能力がそのまま要求されるということである。

・形式対自由の二項対立の可否
形式≒抽象化≒主観性の排除その反発としての自由≒現象学≒個人の主観の重視
その克服としてのポスト構造主義→主観(自由)のメタレベルとしての形式それらの動的な循環運動
形式主義的な建築と受けて側とのギャップ。形式を無限に後進していくことが可能・必要なのか。

最も滑稽なのは・・・建築家自体が批評家という観念的存在を擬装して、リアライゼーションに対しての責任を回避し続けたことである。ポスト構造主義、冷戦的言説を駆使しながら、建築家はそのこころざしの正当化に明け暮れ、結果に対しての責任、「建築」に対しての責任を回避し続けた。

リアライゼーション・建築に対しての責任とは。
『徹底的にポジティブでアクチュアル』な姿勢をここでも要求されている。

隈の考察は建築が何に捉われいるかを見つけ出そうという試みである。

・建築家というブランドの問題。設計主体の「私」化の問題。
独裁者か、コラボレーターか。
「私」の設計手法の拡張可能性

巨大なものは、依然ブランディングという手法に支配されている。そこには依然として大きな断絶があり、いくつもの高いハードルが残されている。しかし「私」とい地道で着実な方法を鍛え、一歩ずつ広い領域へと拡げていく以外に、この都市という「公」を再生させる道はない。

・『施主も建築家サイドも自己というものの確固たる輪郭を失いつつある』中でどのような関係を築けるのか。
隈の言うように、『風俗嬢のごとき、つかず離れずの重くなりすぎない距離感』が求められていることを『受け入れることが、今日における良心的建築家の条件と』言えるのか。

建築家の職能自体が問い直されている。

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

・そのようなイメージの行く先はどのようなものだろう。形という呪縛から抜け出せるか。それは「自由」へとつながるのか。(形式対自由の問題と合わせて考えたい)
この文章には隈のつくる建築が表れている気がする。

・建築はエンクロージャー(囲い込まれたもの)であることを乗り越えられるのか。

いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起るのかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。

アクティビティとの関係は。




W002 『都城市民会館』

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□所在地:宮崎県都城市
□設計:菊竹清訓建築設計事務所
□用途:市民会館
□竣工年:1966年

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菊竹清訓のメタボリズムを体現するような作品。

これも、『今となってはどうかな』などと思っていたのだが、さすがに良かった。

早朝だったため内部は見れなかったが、その力強い外観には感銘を受けた。

宮崎駿のアニメに登場しそうな、生物とも要塞とも見える今にも動き出しそうな姿には愛着を覚える。

建物がキャラクターを持つと言うのは大切に思う。

その建物に感情移入できることで、自分の意識と建物の間に関係が生まれ、空間の感じ方に少なからぬ影響を与えると思うのである。

建物に生命を吹き込むと言えば大げさであるが、そんな大げさなことも大切ではないかと思い出しているこのごろである。

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追記(‘07.05.01)
再度訪れてみたけれどもやっぱり傑作。
ほぼ取り壊されることが決定しているようですが残念でなりません。2007.04.29の段階ではまだ外観は見れました。壊される前に是非一度訪れてみてください。(内部は休館になっています。)
新しく出来た施設はどこにでもあるような”いかにも施設”という建物。こうやって都市の中から記憶がなくなり、どことも区別のつかないフラットな都市になっていくのでしょう。
あー、やっぱり残念です。建築がいつも政治の道具ぐらいの扱いなのが悔しい・・・

追記(‘07.05.22)
まだ、存続の可能性は残っているようです!
ここに動向が載っていました。

追記(‘07.10.30)
解体予算可決から一転、大学施設として活用されていくことになりそうです!
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棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。