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言葉との距離

自分と自分の発する言葉の距離の大きさを感じて憂鬱になるときがある。

ミクシィの方で、岡さんて方がやってる『蟻鱒鳶ル』のコミュや岡さんの日記を時々ちらちらと見るのですが、いつも心を打たれる。

僕の書いてる事は、イマイチ説得力がない。

僕は文章を書く時、筋道が通ったマトモな文章になってるか。は二の次で、
「自分の気持ちにピタッとしてるか。」
「誰を目の前にしても同じ事が言えるか。」
みたいな事に注意をしながら書いていきます。
(『蟻鱒鳶ル ットントン!』コミュより)

岡さんは(って僕は面識はないのです。数年前のSDレビューの雑誌で見ただけ)自分の文章が下手というようなことを言っているけれども、そこらへんの知識人といわれる人の言葉よりずっと鋭くてぐっとくることを書いている。

人とその人の発する言葉がぴったりくっついている感じ。

僕も時間を縫って何とか言葉を発しようとするのだけど、そうやって出した言葉は独り歩きしてしまって、自分がそれについていけてない。

読む人を意識してしまったり、何か書かなければと脅迫概念のようなものを感じたりと、ブログなんかだとその傾向が強くなりがち。

もっと、自分の足元を見て、そして行動したい。




言葉



かなり大雑把に言うと言葉には2種類あるように思う。

A.思考のための言葉
B.コミュニケーションのための言葉

この2つである。

A.思考のための言葉

「建築家の話す言葉は分かりにくい」と言われることがあるが、言葉が使われる場が思考の場である限り、分かりやすい必要なんて全くないと僕は思う。
おそらく、言葉を発しているほうでさえ、思考の流れのなかで何とか言葉を紡ぎ出しているのだろうから、その流れを断ち切ってまで分かりやすくする必要はない。
それをどう捉えるかは聞き手の自由である。

B.コミュニケーションのための言葉

目的が相手にこちらの考えを伝えることであれば、それは分かりやすい必要がある。

しかし、Aも自分とのコミュニケーションでもあるといえるし、Bも曖昧なものを相手に投げかけることもあろうから、やっぱりこの2つには分けられないようにも思う。ホントは何が言いたかったかというと、

「建築家の話す言葉は分かりにくい」というのは最もな話だがそれも必要なことで、営業的なあまりにもキャッチーな言葉ばかりが飛び交うのも、なんか違うのではないか。と

もっと言葉の持つ流動性や曖昧さ、奥行きといったものを大切にしたいなぁ。と

そんなことです。