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ルールをアップデートしながらインストールし続けよう B210『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』(藤村 龍至)

藤村龍至 (著)
TOTO出版 (2018/8/22)

ギャラ間の展覧会に合わせて出版されたもの。

表紙から始まる序文もしくは宣言文は、全文を暗唱したくなるほどの密度に凝縮されている。

現代的課題の知識化とかたちの提出

序文では、

コンテクストが流動的で読めない状況が訪れた時に、それと形とのミスフィットを取り除くにはどうすればよいか
建築が民主主義と大衆主義のあいだで揺れている中、世論や市場の暴力に抗い、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか

というような課題が挙げられている。
今は新国立競技場や豊洲市場のごたごたに象徴されるような暴力的な状況に、いつ、どのような形でさらされるか分からないような時代である。
そのような中で公共的な仕事をする際は、これらの課題はもはや前提として考えなければいけないものになっているように思う。

しかし、自分は頭では「もはや前提として考えなければいけない」とは思いつつも、それに対応する展開可能な言葉を見つけられていなかった。

本書は、そんな現代的課題に言葉を与えて知識化し、それに対して方法論のかたちで応答する。
序文での

多様性を認め、寛容な社会の実現を信じて、より多くの知識が集まれば集まるほどより良いものができる、と言い切ることに挑戦するべきではないだろうか。(強調引用者)

その作業をより多くの人で行い(中略)集合的な知をかたちづくる方法論へと展開し、建築を社会のさまざまな課題解決に向けた、創造的な知のツールとして再定義したい。(強調引用者)

という宣言的な文章はとても力強く感じたのだが、おそらく、本書全体(もしくは氏の試み全体)が、社会がより良くなろうとするサイクルの一つのプロトタイピングなのであり、読者はそれに対して、自分なりのフィードバックとプロトタイピングによって、大きなサイクルへと参加することを求められているように思う。

ルールのインストール

ここで、問題を少し手元に引き寄せてみる。(毎度、スケールの小さな話になってしまうわけだけど。。。)

先に挙げた状況・課題はおそらく公共的な仕事に限らず、例えば個人住宅のようなものにも忍び寄っている。
テレビや雑誌だけでなく、インスタグラムなどのメディアから大量に、そして個人の嗜好と強く結びついた形で流れてくる情報は、流動的かつ暴力的な形でコンテクストの一部を形成しつつあるし、それに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか、というのはますます大きな課題になっていくように思う。

では、どうするか。

建築にどのような意味と価値があるか、もしくはどのような意味と価値を持って欲しいか、というのはDeliciousness / Encounters おいしい知覚/出会う建築としてまとめてみた。
しかし、カードをつくったり評価シートをつくったりしてみたものの、それらの多くはどうすれば実装できるかがまだ分かっていない、というのが現状である。

さて、本書では、0.00の序文から10.0のあとがきまで、ステップを踏みながら手法がアップデートされているのがよく分かる構成になっているけれども、それは単線的に変化していると言うよりは、複線的なもので、過去のルールに調整を加えながらも新しい要素を扱うためのルールを次々にインストールしていっているように見える。(それは、超線形的で、あたかもBuilding Kの世代とルールの表のように。)

さらに、そのルールは最終的なかたちを直接操作するためのもの、というよりは、そのルールによって自ずと建築に新たな意味や価値が加えられていくようなルールである。

河本英夫が『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』で、自ずと形成されていくようなシステムの生成プロセスについて幾つもの例を出して説明している。
例えば、時速90kmほどで飛び出すスキージャンパーが飛距離を伸ばすために「踏み切りを少し早く」しなければ行けない場面で、

数々のオリンピックメダリストを育てた八木弘和コーチは、飛び出すとき、たとえば100メートル先を見ている選手に対して、「100メートルの10センチ先をみるように」という指示を出すと言っている。「早く踏み切れ」と言われても、どうすることなのかがわからず、むしろ緊張が出て逆効果になるような場面では、本人自身の中にある選択肢を活用する以外にはない。

というようなことを書いているが、藤村氏が導入するルールも、選択肢を制限すると言うよりは、制御可能な選択肢の幅を広げ、結果として自ずとあらたな「かたち」へと向かうようなルールであるように思う。それは、多くの人の知恵を、というところから求められたものであると同時に、このようなルールの採用が、多くの人の知恵を、という思想を導いたのではないだろうか。


建築に「このような意味と価値を持ってほしい」と願うだけではだめで、それが自ずと実現するようなルールを考えて、設計手法の中に一つ一つインストールしていかなければならないのだろう。
そのようなルールを具体的に考え出し、実装できた人がいわゆる建築家と呼ばれるのかもしれないけれども、自分に足りないのはこの具体性なんだろうな。
ようやくスタート地点に立った感じ。

「流動的かつ暴力的な形で形成されるコンテクストに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか。」という問いに対してはどうだろう。
例えば、それを一つの要件として、選択肢の幅を拡げてくれるようなルール・設計手法の中に取り込んでしまい、新たなかたちへと形成されるようにしむける、というようなことが考えられる。

やっぱり、ルールのインストールを急がないと飲み込まれてしまいそうだ。




個人設計事務所の課題と対応する設計プロセスを考える B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』

藤村 龍至 (著)エヌティティ出版 (2014/9/24)

早速『プロトタイピング-模型とつぶやき』と合わせて読んでみた。
これまでの取り組みをまとまった形で読んでみたいとずっと思っていたので待望の単著である。

氏の理論、手法、そして建築を取り巻く環境に対する態度のようなものをどうにかして自分の中の生きたものとして消化してみたいと思っていたし、このブログ(オノケンノート)で考えてきたことを実践に役立つよう具体的に落としこむための道筋を作らねばともずっと思っていた。
なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。

大きな問いとカスタマイズの前提

自分の中の大きな問題意識の一つは、自明性の喪失自体が自明となったポストモダンをどう生き抜くか、ということにある。
藤村氏流に言い換えると、全てが別様で有りうるポストモダンを、単純に受け入れ何でもありをよしとするのでもなく、単純に否定し意味や実存の世界に逃げこむのでもなく、それを原理として受け入れ、分析的・戦略的に再構成する第三の道としてどう提示するか、となるだろうか。

ポストモダンを受け入れた上でどうすればこれを乗り越えられるか。

それは批判的工学主義の持つ問題意識とも重なると思うし、新しい権力・アーキテクチャのもと茫漠とした郊外的風景をどう変えうるかという点で、私自身の問題意識の原点ともぴったり重なる。

超線形設計プロセスは私自身にとって大いに参考になると思われるのだが、ここで私自身の状況に応じたカスタマイズを試みたい。
具体的には小規模な建築物に対して個人事務所として設計にあたるという今直面しているケースを想定して考えてみることとする。

ここで最も影響が大きいのは組織形態が単独の個人事務所である、ということである。
「批判的工学主義の建築」では「その主体はアトリエ化した組織か、組織化したアトリエ」のような組織像とあるが、そのどちらにも該当しなさそうだ。
当然、組織化を目指すという選択肢もあるがそれは可能性としておいておき、あくまで個人事務所として先に上げたケースでの場合を考えてみる。

個人事務所のメリットとデメリット、その課題

まずは、カスタマイズに先立って個人事務所のメリットとデメリットを上げてみる。

メリット1:組織の維持コストが抑えられるので、それをクライアントに還元することができる。建築事務所があまり認知されておらず、低予算の案件の割合が大きい地方においては、うまくすれば生き抜くための一つの形態と成りうると考えられる。
メリット2:プロジェクト全体に目を行き届かせることができるし、組織内のコミュニケーションコストを抑えられる。

デメリット1:分業が出来ず、一度に掛けられるマンパワーが限られる。
デメリット2:複数の視点を得ることが難しく、視点の固定化・マンネリ化の危険性が高い。

個人による超線形設計プロセスの利用を考えた場合、経験的に言うとマンパワーと保管場所の点でプロセスごとに模型を作成し保管することは設計のリズムを維持する上でも負担が大きく難しい。

もし、手法の肝と思われるプロセスごとの模型の作成と保管を放棄すると考えた際、デメリットとして

1:コミュニケーションツールが失われるため、プロセスの共有が難しくなる。
2:立体的・視覚的に見ることによる課題自体を探索する機能が失われ、進化の精度・スピードが低下する。

の2点が考えられる。

1については組織内のコミュニケーションの必要性が小さいという本ケースのメリットによってある程度は緩和されると思われるが、少なくともクライアントとのコミュニケーションは必要である。
2については図面や3DCADによるパースやウォークスルー、また必要に応じて模型を作成することで、常に模型を制作せずともある程度は補えると思われる。

以上から、個人事務所がさらなる効率化のために超線形設計プロセスのプロセスごとの模型作成を省略し、これの利用を試みた場合に考えられる課題は

課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)

また、それらに加えて

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。

の4点が考えられる。

プロセスプランニングシート案

ここで模型のかわりとしてプロセスプランニングシートのようなものが利用できないか考えてみる。

A3用紙の左側に縮小図面やスケッチ・パース等を進捗に合わせてレイアウトし、右側にプロセスに関わるパラメータを記述する。
その際、右側のパラメーターは例えば、横軸にクライアント、環境、意匠・メタ、構造、設備を、縦軸に解決済み、検討中、新規、消失などとした表の中にプロットしていく(できればパラメータ間の構造も表現)。

これによって、左側は例えばディテールやインテリアなども表現でき総体としての比較精度は落ちるがプロセスをより詳細に記述できるようになり、右側はパラメーターの変遷もプロセスごとに一望・比較しやすくなる。

このシートをプロセスごとに作成しながら設計を進めていく。

また、設計作業を探索過程と応答過程に区分し、実際の作業も明確に分けて行う。

探索過程では、シートの内容を現在の環境として捉え、そこから新たなパラメーターを発見したりパラメーターの構造化などを行う。
『知の生態学的転回2 』における関博紀氏の考察を使わせていただくと、パラメーターの出現・消失・復帰・分岐、連結・複合などの操作を行うことになる。

応答過程では、シートの内容をもとにパラメーターと図面の不整合を取り除くべく設計作業を進めていく。

これらは『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』によるところの知覚・技術・環境に当てはめることができるだろう。

このように対応させることにより、生態学的な(知覚-技術-環境)の構造による循環に載せることが出来そうだ。

課題の整理

これは、先に上げた課題に対して

課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
→ プレゼン・打ち合わせ時等にクライアントとともにプロセスプランニングシートを順になぞることで、かなりのプロセスを共有できる。これによってプレゼンの精度を高められるとともに資料作成の手間を省略し効率性も高められる。また、思考プロセスを共有していないことによる無駄な手戻りも防ぐ効果も生まれる。

課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
→ 多くの事務所ではおおまかにはボスが探索過程を担当し、スタッフが応答過程を担当するといった形がとられているように思うが、それを視覚化しつつ一連の流れの中に意識的に配置することで単独でも効率的にこのサイクルを回せるようになり、探索機能を個別に確保できるようになる。また、協力事務所等に作業を依頼する際にもスムーズな連携がとれる。

課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
→ このプロセスの生態学的な循環によって、建築を含めた環境は常に構造的変化を伴い固有性が高められると考えられる。

というように一定の効果があると思われる。

残る課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
であるが、これは課題A-2,3,4に対しても影響が大きいと思われる。

これまでブログで考えてきたことや経験してきたことはデーターベースの強化に役立てられると思うのだが、これを成果につなげるべくプロセスに組み込むにはどうすればいいだろうか。
また、どうのようにすれば探索過程によって発見したパラメーター間の構造を視覚化し、効率性と固有性を高められるだろうか。

ここで残された課題を、先の知覚・技術・環境に当てはめてみると

課題B-1:知覚・・・探索過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-2:技術・・・応答過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-3:環境・・・上記2つで見出された環境をどうすれば構造的に視覚化でき、循環の精度を高めることができるか。

の3つに整理できるように思う。

データベースの強化

個人的なメモのように位置づけているブログ(オノケンノート)は属人的課題のようなものを何とか言葉にしようとしてきたものである。
それを成果につなげるためには、これまで考えてきたことや経験してきたことを社会的課題や個別的課題を含めて探索過程と応答過程に分類し整理することが必要と思われる。

ブログでは「何を」考えなければいけないか、つまり探索過程を重点的に考えてきて、「どう」建築につなげるか、つまり応答過程については今後の課題として余り考えられていないと思う。

なので、まずはブログで考えてきたこと探索過程のデータベースとして整理し、次にこれまで経験したことをもとに応答過程のデータベースとして整理することを考えてみたい。

ここで整理する際に枠組みとして例えば以前考えた「地形のような建築」が利用できそうな気がする。

ここでは地形のような建築の特質として自立的関係性とプロセス的重層性の2つを挙げているのだが、

自立的関係性:これを高めるためには青木淳氏の決定のルールのようなものが有用かと思われる。こういった性質を持ったパラメータをデータベースとして整理する。

プロセス的重層性:プロセスを織り込むことは手法自体に組み込まれているので、ここでは重層化することができるパラメーターを並列的にデータベースとして整理する。

といったように整理する枠組みとして利用できないだろうか。これによって応答過程においてもパラメーターを成果に結びつけやすくなりそうな気がする。

ただ、プロセスを共有するためには相手になぜこの枠組を用いたのかを説明し理解して貰う必要が出てくるかもしれない。なるべく簡潔に説明できるようにしておく必要があるだろう。

これは一つの例で他にも統合してみたいモデルがいくつかあるので、枠組み自体は今後変化していくものと思われる。

終わりに

ということで、まずはシートのフォーマットを作成し実践に組み込むことから始め、平行してB-1,2,3の課題解決に向けて手を動かしてみようと思う。
また、この過程を通じてシステム自体の汎用性と固有性のバランスを調整し、徐々に固有のシステムへと変化させていければと思っているし、それには実践を通じて自分の環境自体にも同様の循環を重ねて発見とフィードバックを重ねる必要がある。まだまだ先は長い。

藤村氏の論の構造と流れについてはある程度は理解できたような気もするが、氏がデータベースの構築と運用をどのように行っているのか?多くは氏の頭の中にのみ存在するのか、それとも何らかの方法で共有がはかられているのか?興味のあるところである。




B171 『アーキテクト2.0 2011年以後の建築家像』


藤村 龍至 (著), TEAM ROUNDABOUT (著)
彰国社 (2011/11)

サブタイトルに「2011年以後の建築家像」とありますが、建築家像は果たして更新されるべきなのか、更新されるとすればどういったものになるのか、自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきか、という問いについて何らかのヒントになればと思い買って来ました。

アーキテクト2.0とは何か?

本書の狙いは以下のとおりである。まず、「情報化」と「郊外化」を1995年以後の建築・都市領域起きたもっとも重要な変化の代表例として位置づけること。そのうえで、そこで起きた建築家の役割の変化を見極め、問題意識を広く共有し、2011年以後の建築家の可能性を討議することである。

table3
上の引用文・表のように序文で本著の狙いとその前提が明確にまとめられており、その後の対談からありうる次の建築家像を読者が共に発見していくというような構成になっています。
表の2011年建築の動きの部分が空欄になっていますが、ここにはおそらく著者達の活動や本書に収められていることが入るのでしょう。

さらに本書のタイトルの説明としてこの表の2011年以後の部分に当たる部分を引用すると

2011年以後の「アーキテクチャの時代」に求められるのは縮小/エコロジー/新しい公共/パートナーシップ/コミュニティといった社会のニーズを汲み取りつつ、ボトムアップ/地域主義/シュミレーション/アルゴリズムといった方法論を駆使して人々のコミュニケーションの深層を設計する「アーキテクトとしての建築家」である。本書ではさしあたりこれを既存の「建築家」と区別し「アーキテクト2.0」と名付けておく。

とあります。
「アーキテクトとしての建築家」というと語義重複のようにも感じますが、”アーキテクト”は『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』などのそれまでのアーキテクチャに関する議論を受けてのもので、アーキテクチャを何らかのかたちで引き受けようとする人、という意味が込められているのだと思います。(引き受けるという表現は完全にはしっくり来てませんが)

アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか

僕は藤村さんと同年代で1995年ごろの、特に「郊外化」に対する問題意識から建築をスタートしているので、『そういう郊外的な希薄さが都市の全体を覆ってしまった現代において、どうやったら濃密さを取り戻すことができるのだろうか』という問題意識には完全に共感できるし、その問題に向き合うには『思想地図〈vol.3〉』のところでも少し書いたように、一種の権力でもあり地方においてより切実であろうアーキテクチャの問題をなんらかのかたちで引き受ける必要がありそうだと感じます。

対談の内容については本書を読んでいただくとして、では自分はどういったスタンスでこの仕事に携わっていくべきかと考えた時に、アーキテクチャの問題をどういう形で引き受けるのか、という問いがありそうです。

少し考えてみると

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

というようなことが思いつきます。(アーキテクチャという言葉を少し強引に使ってるところもありますが)
①と②は建築士としての直接的な設計活動として、③と④は直接的な設計活動を離れた別の活動としてとりあえずは分けられるように思います。

次に、それぞれについて少し詳しく書いてみます。

①個別の設計活動において、設計方法、設計プロセスなどの部分でアーキテクチャに変化を与える。

個別の設計活動において、他者をどう取りこみ、どう濃密さを取り戻すかというのは、身体の時代の方法においても考えられてきたことだと思います。
超線形設計プロセスやアルゴリズムなどをイメージとして頭に浮かべていますが、設計方法、設計プロセスなどの部分で設計活動の及ぶ範囲の小さなアーキテクチャーに変化を与えることでより他者を取り込むことが可能になるように思います。

また、読書中に

onokennote: 例えばtwitterは独立した個のつぶやきのTLが偶然性による干渉によって一種の創造が起こることがある。それには個自身の多面性とTLの多様性、クラスタや地域といった規模感が重要そう。そして、その規模感が独立した個々の集まりの中にぼんやりとした輪郭を与えると共に、(いわゆる)地方において独特なアドバンテージを生み出す大きな要因になっているように思う。これを建築の設計に置き換えてに、例えば超線形のパラメーターのようなものがTL状に独立して流れる中、偶然性による干渉によって一種の創造が起こる、といったイメージが重ね合わせられないだろうか。さらに、ここに規模感のようなものを重ねることで、同様に(いわゆる)地方において独特のアドバンテージを生むようなイメージは描けないだろうか。このアドバンテージ(と感じるもの)をもっと追求することで地方ならではの設計のイメージってありえないだろうか。 こう考えたら、dotの超並列ってTL的だなと思ったのですが、こういうアドバンテージを考えた時にtwitterやFBで他に重要なポイントって何だろうか。リアル(フィジカル)なものとの接続の仕方とか、他のツールとの親和性とかもヒントになりそうだけど。以上思いつきメモ。まー、今は一人事務所だから共同設計的なイメージよりTLに書き込みつつ全体のTLを眺めるような感じかなー。


とツイートしたようにWEBの知見・感覚を活かす方法はありそうです。(他を知らないので比較できませんが鹿児島県はわりとソーシャルメディアを面白く使ってる地域だと思うのでそうした教材はたくさんあるような気がします)

自分の現状としては、今まで本を読んだりブログを書いてきたことの多くは①に関することなのである程度の積み重ねはあると思いますが、実物に結びつけるところがまだ弱いと思っています。
これは今後もこつこつと考え実践していくことはできると思います。

ただ、個別の建物に限られるので射程距離が短いことをどう捉えるかという問題は残りそうです。

②設計活動のステージをより現在のアーキテクチャにのりやすいところへシフト(共生・寄生・ハイジャック)する。

これは批判的工学主義のアプローチをぼんやりイメージしてますが、現在の主要なアーキテクチャに関わりやすいところへ設計活動のステージをシフトすることで①に比べ射程距離が長くなりそうな気がします。
具体的には商業施設や規格・商品化住宅、リノベーションと言った分野でしょうか。

現状としてはリノベシンポ鹿児島を受けてかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)で爪の先をなんとか引っ掛けた、という程度で、ほとんど手を付けられていないというところです。
踏み込むにはそれなりの戦略が必要でしょうし、勇気が要ります。

③アーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行う。

ぽこぽこシステム_建築メタverで書いたようにアーキテクチャに変化を与えうる、関心・行動の連鎖に影響を与えられそうな活動を行うことで例えば建築文化のようなものを定着させて①の射程距離を伸ばすような考え方がありそうです。
例えば個別の設計、イベントなどの活動、SNSの活用などが考えられそうです。
藤村さんが汎用性の高い方法論を説いたり教育を行ったりして射程距離を伸ばされてるのもここに入りそうです。

自分の現状としては、かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)かごしま建築/まちなみマップ『「棲み家」をめぐる28の住宅模型展』などがあたりそうです。

nowheretenbiz鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはじめ、鹿児島でもこの部分の活動母体になりそうな動きはたくさんありますが、僕自身はWEBでの発信程度(それも滞りがちですが)しか出来ていないのが現状です。
それなりに腰を据えてやらないといけませんが、今のところウェイトをそれほど移すことが出来ていません。
デザインマーケットin鹿屋は素晴らしいと思います。簡単には真似できないです。

④現在力を持つアーキテクチャに直接的にアプローチする。

地方の問題の多くは交通と土地の問題に帰着しそうな気がするのですが、そういった構造や制度的なアーキテクチャに直接的にアプローチする方法がありそうです。
岡部さんが少し言われてるようにもっとも直接的には行政や大学などの研究機関、もしくは関連企業などが担うべきことだと思いますが、イメージやアイデアを提出したり、そういったことが議論される場を設ける等できることはあると思います。
また、新しい公共のようにそれを担う人がシフトしていくべき分野もありそうです。

鹿児島市のまちづくりを考えるシンポジウムはここにも入れられそうですが、自分の現状としてはしっかりと関わるところまでは行っていません。

今、土地の分野から建築までを一体的に提案するようなとあるプロジェクトに関わらさせていただいていますが、これには①とともに④の部分でもアプローチができそうで大きな可能性を感じています。

じゃあどうすんべ

じゃあどうすんべ、というところですが、現状は①についてそれなりに考え始めている、というだけで、②③④についてはあまり力を入れられていません。

難波さんの「コントロールできる範囲を見極める」というところは、最近ローカルでよく聞く規模感という言葉ともかぶることもあり印象に残っていますが、それぞれに対してどれだけのウェイトをかけるかというのをきちんと設定しないといけないと感じています。

今、事務所としては1年目を終えたところですが、そのためにもまずは経営をある程度軌道に載せ、必要に応じて①以外の部分にも堂々と一定のウェイトを割けるようにならないといけないし、そのための体制作りがここ2年ほどの課題になりそうです。

なんだか現状をまとめる所で終わってしまいましたが、きちんと戦略をもたないとなかなかアーキテクチャには踏み込めなさそうです。ゆっくりきちんと考えよう。

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追記
基本的には①(もしくは②)を中心としてそこに③、④を明確に位置づける必要がある。明確に位置づけられないものは事務所としての役割とは別にきちんと切り分けるべきだろうな。その部分は他の役割を担うべき人に任せるか、一市民としての立場で動くか、もしくは別名又はリノベ研等の別枠で動くべきなんだろう。
ここの切り分けが明確でないとどこまでいっても曖昧になってしまいそう。藤村さんがTEAM ROUNDABOUTを切り分けてるのが参考になるかな。もう一度整理してみよう。




B156 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』

東 浩紀 (編集), 北田 暁大 (編集)
日本放送出版協会 (2009/05)

興味を持った経緯

藤村龍至氏による「批判的工学主義」「超線形設計プロセス論」をまとめた論が載っているというので今後の建築の議論の前提として読んでおいた方が良いのかな、と思っていたところにtwiiterで

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。/動物化せよ!!というアジテーションに乗っかれないニンゲン=学生が印象論的に嫌悪感を抱いているという印象。設計うまい奴ほど動物なのにね。 RT @saitama_ya もしかして超線形プロセスって設計行為を動物的な方向に持っていくものとして、学生に見られがちなのかしらん。。。


というのを発見。
実は結構自分の興味と重なるのではという気がしてきました。

onokennote: 学生のころ(10年ほど前)妹島さんにポストモダンを突き抜けた先の自由のようなものを感じたんだけど、藤村さんの理論はそれを方法論として突き詰めた、ということなのだろうか。だとすれば大いに興味がある。早く思想地図3号をゲットして東さんの動物化との関連を知りたい。 [12/02 09:21]


オノケンノート ≫ B008『妹島和世読本-1998』

今考えると、妹島の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。 もちろん、妹島の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。

妹島さんにポストモダンを感じて以降、ポストモダンを生きる作法、意味を突き抜けた先にある自由のようなものに対する感心はずっと持っていて東 浩紀の動物化にも結構影響を受けたので、自分の興味とうまく繋がるんじゃないかという気がして早速図書館で借りてきて読んでみました。

まずは先に読んだ序章と藤村氏の部分について考えたことを書いておきます。
(twitter経由で本人が見られる可能性もあり多少尻込みしますが、不勉強な現時点での考えということで)

アーキテクチャの問題

まずはじめに前提となるアーキテクチャの問題について序章と冒頭及び共同討議の導入部を引用しておきます。

「アーキテクチャ」には、建築、社会設計、そしてコンピューター・システムの三つの意味がある。

この言葉は近年、批評的な言説の焦点として急速に前景化している。わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのは、イデオロギー批判ではなくアーキテクチャ批判である。だとすれば、わたしたちはアーキテクチャの権力にどのような態度を取るべきなのか。よりよきアーキテクチャなるものがあるとすれば、その「よさ」の基準はなんなのか。そもそも社会を設計するとはなにを意味しているのか。イデオロギーが失効し、批評の足場が揺らいでいるいま、それらの問いはあらゆる書き手/作り手に喫緊のものとして突きつけられている。(東浩紀)

しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。(中略)しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりした話になってしまい、誰が悪いとは簡単には指差せない。(東浩紀)

僕がブログに感想を書いた本でいうと
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

というのが近いかもしれません。

コントロールする主体がつかめず訳がわからないまま何かに支配されている、そういう感覚が広がる中そういう問題にどうやったらアプローチできるのか、という事だと思います。

地方における問題

onokennote: 工学主義をどう乗り越えるかは、ここ鹿児島でもというより地方でこそ本質的で重大な問題。鹿児島で感じるもやもやを明確に示して貰った感じがする。 [18:08]


工学主義の定義は後で紹介するとして、例えば、街並みがハウスメーカーの住宅やコンビニ、大型商業施設といったどこに行っても同じようなもので急速に埋め尽くされつつある、と感じたことは特に地方都市で生活する方なら誰でもあるんじゃないでしょうか。

個々にとっては例えば地元の顔のみえる商店街も大切だと思ったり、潤いのある街並みのほうが好きだという気持ちがあっても、なぜか先に書いたような画一化の波は突き進んで行くばかりで止められないし、どうすればよいか分からない。

東京などの大都市においては規模があるのである程度の多様性は担保されるように思いますが、地方においては、その人口・経済規模の小ささ、情報伝播量の少なさから画一的な手法に頼りがちでこういった状況がより加速しやすい。と、鹿児島に帰ってきたとき最初に感じました。

皆があるイメージを共有し自らの判断の積み重ねでこの問題をクリアしていくのが理想だと思いますが、実際にはこのアーキテクチャの権力は強力でなかなかそれを許してくれないように思いますし、アーキテクチャの問題は地方でこそより切実だと感じます。

批判的工学主義

onokennote: 思想地図の藤村氏の論を読む。工業化→批判的機能主義(コルビュジェ) 情報化→批判的工学主義 の比較は非常に明確で食わず嫌いでいる必要は全くない [12/02 18:05]


こういう問題に対して藤村氏の提唱する「批判的工学主義」は思考の枠組みを与えてくれます。

本著を読むまではヒハンテキコウガクシュギと聞いて既存の単語のイメージを当てはめても何のことかよくわかりませんでした。
しかし、読んでみれば難しい話でなく、おそらく機能主義とコルビュジェの成果を知っている人であれば誰でも理解できるものでした。

工学主義の定義の部分を引用すると

東浩紀は、社会的インフラの整備による技術依存が進む私たちの社会環境の変化を「工学科」と呼び、整備された環境のもとで演出された多様性と戯れる消費者像の変化を「動物化」と読んでいる。(中略)ふたつの変化が同時進行する状況をひとまず「工学主義」と名付け、「建築形態との関係から、以下のように定義したい。

1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術条件)に従う
2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる
3.ゆえに、建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる

まだよくわからないかもしれません。本著に載っている下の表がわかりやすいです。

[社会の変化と建築家の動き]
table1

「工業化」による機能主義に対してコルビュジェらは単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「機能主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、20世紀の新しい建築運動として提示』しました。その後コルビュジェらの建築は世界中に伝播し風景をガラリと変えました。(その広がりの裾野に行くに従い「批判的」の部分は徐々に失われてただの機能主義になっていったように思いますが)

「工業化」に対し「情報化」を当てはめ同じように考えた場合、”単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示』”する第3の道の立場がありうることは誰にでも理解できると思います。

超線形設計プロセス論は風景を変えうるか

その第3の道の立場を実践するための方法論として藤村氏は「超線形設計プロセス論」を提唱しています。

詳細は本著を読んでいただくとして、この方法論の特徴の一つとして著者は「スピードと複雑さの両立」をあげていますが、これらによって例えば今の風景を変えることは可能でしょうか。

これに対してはよくわからなかったというか、あまたある設計手法の一つであって他の手法とそれほど大きな違いはないんじゃないか。というように感じていました。

だけど、今日、なんとなくどこの誰が設計しかも分からないような変哲もないマンションの前にたって、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみると、何か可能性のような物が見えた気がしました。
誰もがこの風景を少し変える方法論を身につけたとしたら、少し変わるのかな。と

onokennote: 何でもない羊羹形のマンションの前に立ち、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみた。確かに街の風景を変えうる可能性がある。風景を変えるには、誰でも(例えば地方の組織系ともアトリエ系とも言えない設計事務所でも)使える汎用性のあるツールでなければならないと思う。そのためには組織系、アトリエ系それぞれに対応するパラメータの抽出と、それらを統合するノウハウの集積が必要。(前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める。どうせなら、WEB上でノウハウと事例を集積・公開し、集合知を形成するようなシステムと教育システムの構築までいって欲しい。そこまでいって初めて風景を変える力を持ちうるのだと思う。超線形設計プロセス理論に反感を覚える人は、これがアトリエ系とはまったく別のアプローチで汎用性を目指し長期的視点を持ったものであることを理解すべき。


誤解が含まれているかもしれませんが、重要だと感じたのは

・誰でも利用できること。
・組織型・アトリエ系それぞれの長所を結びつける手法であること。

だと思いました。
(アレグザンダーとの決定的な違いは何かということについてはまだ理解が足りない)

最初は「スピードと複雑さの両立」だけで何が変わるのか、と思いましたが、それらはパラメータの一組に過ぎず重要なのは、組織型・アトリエ系の再統合にあるのだと思いました。(例えば前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める)

特に前例のコルビュジェは伝播力という点では天才だったと思いますし、彼は機能主義を「乗り越えた」というよりは自分のやりたい事のために「利用(戦略的に再構成)した」のだと思います。

藤村氏もメディアの利用や啓蒙するスタイルはコルビュジェに似ていると思いますが、コンテンツにおくウェィトは少し違いがあるように思います。学生たちの反応をみると、初期導入の部分ではコンテンツのウェイトを増した方がうけが良いようにも思いますが、そこは汎用性のあるプロセスを鍛えるためにあえて抑えているのかもしれません。
(こんな発言も)

ryuji_fujimura: と、強気な主張をしつつも、オリジナルのスタイルを確立してファンとだけ仕事をするサッカがうらやましく思えたりもする。「厨房には立ち入らないで下さい」とか言ってみたい。よほど自信が無いと言えないからそれが言えるだけでもすごいとは思う。


超線形設計プロセス論は風景を変えうるか、ということについてはまだ分かりませんが可能性のひとつのとしてはあるように思います。

批判的工学主義の立場を取る際の方法論は他にもあるかもしれませんし、アーキテクチャへのアプローチは今後意識するようにしようと思います。

ポストモダンを生き抜く作法となりうるか

僕の個人的な興味である、建築が”ポストモダンを生き抜く作法”を体現できるか、という意味での「動物化」との関連はよくわからなかったのですが、もしこのプロセスの応用によって、意味に頼らずとも魅力的なものができるのであれば可能性はあるのかもしれません。

最初の引用を繰り返すと

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。 [02:06]


ここに挙げられている方たちの建築は共通して”ポストモダンを生き抜く作法”を体現しているように見えます。

僕自身はそれに対して方法論を持ち合わせていないので、もう少し方法論に対して意識的である必要があるかもしれません。