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B142 『犯罪不安社会 ~誰もが「不審者」?』

著 浜井 浩一 (著), 芹沢 一也 (著)
光文社 (2006/12/13)


引き続き芹沢氏関連の本を読みました。

凶悪犯罪は増えていないし、低年齢化もしていない。っていうのはよく聞きますが、こういうことを他の人に話した時に「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応が何度か返ってきたことがあります。

それで、一冊は関連の本を読んでみようと思っていたところにこの本にぶつかったので読んでみました。

凶悪犯罪は増えていない

第1章で浜井氏がやさしく解説してくれているので、詳細は本書にあたっていただきたいですが、犯罪統計を読むと凶悪犯罪は増えていませんし低年齢化もしていません。

反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
少年犯罪データベース少年による殺人統計
等のサイトを見ても分かりますし、少年犯罪データベースのほかのページには昔の凶悪犯罪が列挙されていて、現在が犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないことが分かります。(あまり気持ちのいいものではないのですが)

それでは何が変ったのかというと犯罪の語られ方が変ったということです。
それまでもあった個々の犯罪が「時代の象徴」として語られるようになり、その次には「恐怖の対象」として語られるようになった。
それによって、「犯罪」が増えたのではなくて「犯罪不安」が増えた。

では、それの何が問題なのでしょうか。

ヒステリックな社会はごめんだ

子供たちを人が信じられない子に育てたくはないが、事件が起こる度、やはり私も子供たちに「知らない人がお菓子をあげるといっても、ついていっても、ついていっちゃダメよ」と話をしてしまう。
先日、散歩に出かけた時に、手をポケットに入れたまま、子供たちを乗せた乳母車に近づいてくるおじさんとであった。
おじさんは手を出し「かわいいねぇ」となでようとしただけだったが、その頃、刃物をポケットに隠し持ち、いきなり子供を切りつけるという事件を聞いた直後だったので、血の気が引いた。(『朝日新聞』名古屋版2006.3.18)

上の文は芹沢氏が引用した文ですが、実は僕も「血の気が引いた」ことが何度かあります。

普通のコミュニケーションの機会が恐怖の瞬間になる。
冷静に考えて、目の前のおじさんが通り魔である確立はどれぐらいでしょうか。その確立は車に乗って、あるいは道を歩いていて交通事故にあう確立に比べたらどうなんでしょうか。

もし根拠のない単なるイメージによって、ヒステリックな息苦しい社会で不審者に怯えながら生活をしなければいけないとすれば、それはちょっとごめんだと僕は思います。

また、そのヒステリックな社会から締め出され追い詰められるのは例のごとく、高齢者や障害者等の弱者です。(刑務所に入所しているのはこういった人たちばかりで、それは治安悪化の結果でなく、治安悪化「神話」の帰結だそうです)

そういう、他人へのイマジネーションを欠いた社会も、単なるイメージに世論と政治が振り回される社会もやっぱりごめんだと思います。

考える一つの基盤として一読してても良いかもです。

メモ

・犯罪の語られ方についての芹沢氏の「醒めない夢」から「醒めない悪夢」へという例えは秀逸。

「醒めない夢」:1988年に起きた宮崎勤の事件をきっかけに、「醒めない夢」という解釈ゲームに引きずり込まれた。不可解な事件の時代性が語られる。いくら解釈を試みても決して実態のつかめない「醒めない夢」
「醒めない悪夢」:2001年の池田小の事件をきっかけに、犯罪は解釈ゲームの対象から恐怖の対象へと変る。犯人は解釈不能な怪物となり、その怪物の影に怯える社会。「不安」という実体のないものによる恐怖は決して消えることのない「醒めない悪夢」

芹沢氏の分析には流れというかストーリーがあって分かりやすいのですが、このインタビューの第2回、第3回で語られているようにそのベースには「フーコー的なものの見方」があるようです。

・「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応から読みはじめた本ですが、こういう問題で一番大切なのは、人間は偏見を持ちイメージに流されるもので、自分も例外ではない、というところからスタートすることかもしれません。
どこまで疑ってもきりがないかもしれませんが、その自覚は絶えずなくさないようにしたい。自戒を込めて。

・「ヒステリックな社会」も「他人への配慮」も方向はまったく逆ですが同じイマジネーションがベースになっています。
その違いはどこから生まれるのでしょうか。
・自分は偏見を持つという自覚の有無
・それによる「知る」責任の自覚の有無
・イマジネーションの射程距離。自分の直近だけしか想像しないか、自分を離れたもっと多様なものへイマジネーションを広げられるか。

・とかそんな感じか?ほかには?




B141 『狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』

芹沢 一也 (著)
講談社 (2005/01)


ちょっと長くなりそうです。

仕事で略称「医療観察法」について調べる機会がありました。

最初に医療観察法.NETにたどり着いたのですが、どうもいろいろと議論のある法律のよう。
このサイトの「入門編~初めての方へ~」のところにあるリーフレット(PDF・最後だけでも是非読んでみてください)の八尋氏の書いた結びの文章が心に残ったので、


を最初に読み、その他いろいろと調べているうちに司法と医療の関係に問題がありそうだと分かり、そしてたどり着いたのが本書です。

他にも


等が参考になりました。マンガの好きな方は『ブラックジャックによろしく』が分かりやすいかと思います。
こういうデリケートな問題をマンガにするには相当な勇気がいったのではないでしょうか。

この非常にデリケートな問題に対し、数冊読んだだけでは断定できないとは思いますが、この法律に肯定的で説得力のある文章には今のところ出会えていません。どうやら根本的なところに問題が潜んでいそうな気がするのですが、本書はそれに対してひとつの見方を示してくれています。

また、僕の親しい人の中にも精神科ユーザーが何人もいますが、信頼できる魅力的な人たちばかりです。
デリケートな問題なので触れるべきではないとも考えましたが、この問題の根本には誤解やイメージの捏造が最大の問題としてある事を考えるとやはり何かしら書くことにします。

医療観察法の問題点

この法律を調べていて気付いた大きな問題点は大まかに次の二つです。

・精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということ。
・医療という名のもとで精神障害者が司法の世界からはじき出され不当に扱われてしまうこと。

精神障害者=危険という偏見

問題はこの法律が単なるイメージの刷り込みによる世論をうけて出来たということです。

詳しくはいろいろなところでも書かれているので省きますが、『精神障害者=危険』というのはイメージだけで、実際には犯罪率や再犯率はむしろ低いのです。

『ブラックジャックによろしく』でも描かれていますが、きっかけになった池田小の事件の犯人は精神病を詐病してたのですが、メディアは煽るだけ煽って肝心なその後のフォローをほとんどしていません。

結果、『精神障害者=危険』というイメージのみが一人歩きをしてしまいました。そして、ここが一番の問題なのですが、この法律はその誤ったイメージに『国のお墨付き』を与えてしまいます。つまり国が『精神障害者=危険』ということを認めた、というメッセージを流してしまうのです。

それが、多くの精神科ユーザーやその家族の方をどれだけ追い込んだか想像してみて下さい。
あなたやあなたの大切な誰かがふとしたことで追い込まれる様子を想像してみて下さい。
それが正当な理由なく、単なるイメージの暴走で国を挙げて行われている悔しさを想像してみて下さい。

人間は自分は偏見を持たないと思っていても、誤ったイメージで偏見を抱いてしまうものだと思います。
オノケンノート ≫ BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』

僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。

この番組をみて、同じ人に対する僕の見方がこんなにも見た目で左右されるのかと本当にショックを受けました。
人間は偏見を抱いてしまうもの。そこからスタートしなければならないと思いました。
そして、偏見に気付くには「知る」しかありません。

精神障害者=危険なのではなく、一般の人々と同じく、危険な人もいればそうでない人もいる。それだけです。

保安処分?

医療観察法では「再犯のおそれあり」と判断されると無期限で施設に収容される可能性があります。
司法による懲役刑よりもはるかに長く収容される可能性もあり、いわゆる「保安処分」以外なにものでもありません。

「保安処分」の是非そのものについてはここでは置いておきますが、問題は保安処分が必要だとすれば実際には再犯率の高い性犯罪者などもっとしかるべき対象がいるのに、なぜイメージだけで精神障害者だけが特別扱いされるのか。ということです。

ここにもうひとつの問題、医療と司法の関係についての問題があるように思います。

狂気と犯罪との偽装結婚

本書でその医療と司法の関係の歴史が紐解かれるのですが、そこで描かれているのは精神医学が主導権を握るために司法に介入し狂気と犯罪との関係を捏造していく歴史です。

だが、ここに大いなる詐術が持ち込まれる。犯罪と「狂気」との関係が、犯罪を行った人間をこえて一般化されるのだ。犯罪と「狂気」の関係はもはや偶然でないとされ、そこに普遍的な因果関係が捏造されてしまうのである。そうなると、たまたまある精神障害者が犯罪に及んだものとは、もはや考えられなくなる。ここが「狂気」の歴史に生じた最大の転換点だ。

まさに、精神医学が狂気と犯罪とを偽装結婚させたのです。

そうなると問題は、刑法第39条「心神喪失者の行為は罰せず、心身耗弱者の行為はその刑を軽減する」にあるのではないかという気がしてきます。
実際、刑法第39条によって裁判を受けることも出来ずに不利益をこうむることも多いようですが、これによって精神障害者が特別扱いされることが、『精神障害者=危険』というイメージを強化する源泉となっているようです。また、重大な事件をおかした者を司法から医療へ丸投げしてしまうことによる弊害も計り知れません。

「狂気の脱犯罪化」という思想

何よりも必要なことは、精神の病を過剰な意味づけから開放して、「普通の病気」にすることではないか。「狂気」の脱犯罪化こそが、現在、最も求められていることではないか。
そのためには、犯罪を行った精神障害者も裁判を受けることができる仕組みをつくるべきではないだろうか。

僕が今まで考えた中では、この思想の先にしか最終的な解決策はないのではないかという気がしています。
精神障害者も同じ司法の上で平等に扱われるために、刑法第39条を見直すことも必要かもしれません。(刑を軽減することはあっても良いと思いますが)

どうですか?保岡法相。

p.s
・難しい問題ですので、間違い等ありましたらご指摘ください。
・調べている途中こういうページを見つけて最初びっくりしてしまいました。これなんていう誘導尋問?っていう感じでとても調査とは言える代物ではないですが、これを内閣府がしてたのだから今は少しはましになってるのかもしれません。昭和36年は保安処分が刑法に採用されかけた年みたいです。
・先のプロポーザルはまだもやもやしてますが、『精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということをできるだけ避けること』を主題にしました。あまり過激にはしてませんが、おそらく発注者サイドには受け入れられないと思います。