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なぜ考える(学ぶ)のだろう

なぜ、貴重な時間を割いて本を読んだり、考えたりしているのだろう。

ときおり、そんな疑問というか不安に思うときがある。

きっと、こんなことをしなくても楽しく過ごせるし、設計だって形だけならやっていけるだろう。

しかし、時間を使い、少なからぬ犠牲(とは思っていないけれども)を払って考え学ぶ。

なぜだろう。

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ひとつはこういうことだろう。

どんな職業や行動にも『良心』ってものがあると思う。

建築家には建築家の考えなければならないことがあり、医者には医者の、農家には農家の考えなければならないことがある。

親になれば親として、選挙に行けば投票者として、考えなければならない事がある。

今のような情報過多な時代では、何が正解かなんてことはなかなか言えないだろうが、とにかくそのときの自分の考えるべきことを考えるって言うのが『良心』ってものだろう。

それは、なかなかに難しいことで、自分のごく身近な限られたことに対して考えるだけでも大変であるし、きっちり向き合わないと簡単に安易な考えに絡めとられてしまう。

しかし、あらゆる職業の人が自分の仕事に対してだけでも『良心』を持って行動すればどんなに世の中は住みよくなるだろうか。

とは言っても、僕に出来ることは、建築に関わることを考え学ぶということしかない。

それは、僕が建築に関わる以上最低限の責任であるが、同時に最大のことでもあると思う。

僕は、見せ掛けの慈善事業をやっている人を見れば、その前に自分の仕事で責任を果たせといいたくなるのだ。

その前にやれることがあるだろう。と

とにかく、僕は単にそういう『良心』を持っていたいという欲望があるのだ。

だから考えたいと思うのだろう。
(それは欲望であって、僕がいい人かどうかとは関係ない)

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もうひとつは僕自身が自由になりたいからだろう。

決まった見方や、概念に「とらわれ」ることは出来るだけ避けたいのだ。

というより、そういう概念のようなものを出来るだけ脱ぎ捨てていきたい。

そのためには考えることや、人の考えに触れることは有効だろう。

そうしながら、自分の周りにこびりついているものを少しづつはがして生きたいのだ。

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そして、もうひとつは僕が建築に関わっているからだと思う。

もし、他の職業だったらこんなには考えたりしなかったかもしれない。

建築を考えるとき、ものの見方というものは、単純に空間の質に関わる。

それを、現実の建物に出来る実力があるかどうかは別の問題だけれども、僕の世界の捉え方=僕の考える空間の質なのだ。

だから、僕が考え、ものの捉え方が変わることでどういう風に建築が変わるかに興味があるのだ。

だから、まだ見ぬ自分と空間を見たくて学ぶのだ。

まぁ、そこまで行かなくとも他の人の言うことや、つくるものの感じ方が変わるだけでも十分面白い。

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とにかく、そんなに無駄なことをしているわけではないようだ。

無駄は大歓迎なのだが。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




立体性・廻遊性

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立体性

重力とどう向き合い、どう表現するかは建築においても重要なテーマとなる。、人間の知覚などの多くも重力によって支配されている。

それゆえ、縦の変化はより強く感じるように思うが、現在、「間取り」「坪単価」という言葉が強い力を持つように、平面的な思考が支配的で立体的な空間把握は忘れられがちになってるように思う。

しかし、立体的な工夫でイメージを拡げられることは多い。
チラリズムも役に立つ。

物理的にも概念的にも立体性をもたせることで奥行きが生まれイメージが拡がる。

平面的な構成の先にも大きな可能性を感じているのだが。

廻遊性

行き止まりはそこでイメージを分断してしまう事が多い(逆に存在感のある壁などで意識を受け止め想像力を引き出すということもあるが)。

そういった、イメージの分断を避け、開放するには廻遊性をもたせることは有効である。

建物の内部外部を問わず、ぐるっと廻れるようにすることで、イメージは急に途切れることなく緩やかに円環をつくる。

その円環からもれでるようにさまざまな場所に想像力を引き出す仕掛けを用意することで、イメージはさらに広がりや面白みを増すのである。

そうして拡がったイメージの中を自己は自由に飛び廻る。

選択の自由

今の世の中を行きていくには、多様性や自由と向き合うことは避けがたい。

それは複数の道を突きつけられるということだ。

複数の道があると言うことは選択できるということで、それは可能性であり、自由であり、責任である。

建物の中を歩き回るにしても、ルートなどのさまざまな選択ができることは自由なイメージの拡がりを生む。

そのようにして、さまざまな可能性を感じられる楽しげなものをつくってみたい。