1

B119 『海馬 脳は疲れない』

池谷 裕二 (著), 糸井 重里 (著)

新潮文庫 (2002/6)


たこ阪さんのところでかえる文庫した一冊。

いやぁ面白かった。対談形式(しかも糸井メソッド)なので読みやすいのはもちろんのこと、目から鱗な話がもりだくさん。

ちょっと前半部分の目から鱗をメモ代わりに挙げてみると

・年をとると物忘れがひどくなるというのはうそで、引き出しが多くなるので探すのに時間がかかるのと記憶の方法が暗記メモリー法から経験メモリー法に 変わるため。

・ストッパーをはずせ。

・つながりの発見が大事。つながりの可能性はべき乗で増える。

・脳は疲れない。

・頭は歳をとってもよくなる。

・ヤル気はやる前には起きない。やり始めてからヤル気が起きる(作業興奮)

などなど。

こういう話と日常のふとした感覚をつなぎ合わせていくところが糸井さんのうまいところなので、本当の面白さは本著を読んでみないと分からないけれど。 (そういう意味では各章の最後についているまとめはちょっと余計かな。ここが面白かったというところがまとめに挙げられてなかったりしたし。)

池谷さんが受験勉強で数式も覚えず経験メモリーを駆使していたというのは、あっやっぱりっていう感じ。僕も暗記はめちゃくちゃ苦手だったので いつもどうすれば覚えることを少なくできるかを考えていた。

この本を読んで一番思ったのは、『俺は馬鹿だから』とか その手の言葉を使うことが、どれだけ可能性をなくしてしまうもったいないことかということ。

その言葉を使うことで 『俺は馬鹿』な状態を固定してしまうし、脳が生き生きと活動する機会も失ってしまう。(自分の子供にも この手の言葉は使ってもらいたくない。)

うーん、『進化しすぎた脳』も読みたくなりました。(思えばdan氏の書評が『本が好き!』を知るきっかけで、その結果たこ阪さんを知って、その結果同じ池谷さんの本を読んでたりしてる。面白いなぁ)




B106 『脳と仮想』




こちらも「本が好き!プロジェクト」より献本して頂いたもの。
「クオリア」という概念は別の本で少し触れられているのを読んだことがあるが、「クオリア」という問題意識を「仮想」という言葉で展開したのをまとめたのが本書。
本著の中で考察されていることは、おそらく今まで哲学の分野などでさんざん語られてきたことで、それほど目新しいことではないと思う。
しかし、著者の功績は今まで科学の名の元に切り捨てられてきた扱いにくいものを、あえて科学という世界に正面からぶつけた上で、一般の人の科学に対する視界を広げようとした点にある。(それは本著で重要な位置を占める小林秀雄の姿勢でもあると思う。)

もともとある程度の期待を抱いて読み始めたのだが、やはり「仮想」という言葉の射程にあるものは、僕が建築に求めるものとかなりの部分が重なる気がした。

もう10年ぐらい前から、建築において「イマジネーション」が重要であると考えている。それと今、「仮想」を再評価すべきだと言う姿勢とは同じ問題意識によるものだと思う。

IT(情報技術)が全ての情報を顕在化しつつあるように見える今日において、仮想というものの成り立ちについて真摯に考えることは、重大な意味を持つのではないか。目に見えないものの存在を見据え、生命力を吹き込み続けることは、それこそ人間の魂の生死にかかわることではないか。

現実と仮想を考えた場合、科学的思考の中では扱いにくい仮想は価値のないものとして切り捨てられ、現実と呼ばれるもののみが重要視されてきた。そして、それが私たちの思考の大部分を「常識」という形で支配してしまっているように見える。
しかし、私たちの生きていく上での豊かさは仮想というものの中にこそあるのではないだろうか。おそらく、現実と仮想というように分けてしまっているうち、重要であるとされている「現実」というものも「仮想」という大海原の中に浮かぶ氷山の一角でしかない。

建築の空間について考えた場合、建築というものは単なる現実に存在する物質でしかないし、実際、多くの人には建築はそのようにしか捉えられていない。住宅は「何坪の広さのある、建材という名の物質のかたまり」であって、それ以上でも以下でもない。と思われている。
しかし、その物質の配置によって空間が生まれると建築家は考える。
その考え方自体が仮想以外のなにものでもないのだが、空間はまさに仮想であることによって豊かさへの可能性を開くのである。
建築によって仮想と接続されると言っても良い。
単なる物質が永遠の時間や無限の広がりといった仮想を引き寄せることもあるのだ。

著者は空間を『自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想である』と言う。私たちの心は「志向性」によって脳という容器の中から飛び出すのだが、この概念は建築を考える上でも示唆に富んでいる。この志向する先を広げることによって心を、無限の仮想空間へ解き放つことができる。
建築を学んだ人であればこの『志向性の束』というのは納得のいく考えではないだろうか。

人類にとって、「現実」こそ全てと思い込まされている今ほど空間の限定された時代はないのではないように思う。それは非常にもったいないことではないか。
仮想のもつ豊穣さを取り戻すことは建築の役割の一つでもあると思う。しかし、「志向性」と言うものが能動的なものであるとすれば、仮想というものの存在や価値を多くの人が認めるようにならなければその役割を果たすことも難しい。

本書では「仮想」の豊穣さがいろいろな角度で語られているが、多くの人が本著に触れ仮想への扉を開いてくれることを望む。




BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』

土曜日の夜BSで『シリーズ立花隆が探るサイボーグ医療の時代 第2回脳をどこまで変えるのか』を見た。

第1回は“人体と機械の融合”だったそうだが、自宅にBSが無いので見ていない。
しかし、この回だけでもかなり衝撃的だった。

→立花隆のゼミの特設サイトSCI(サイ) に詳しく載っているので時間のある方は是非。

この番組を見て僕は2つの意味でショックを受けた。

一つ目は現在の技術がすでに想像を絶するような領域にまで踏み込んでいること。(以下僕の理解なので正確かどうかは各自判断を)

番組では脳深部刺激療法というのが紹介されていた。
例えばパーキンソン病の患者は手足の震えがとまらなかったり自由が効かなかったりするのだが、それは脳のある部位に異常がありノイズ的な信号を手足に送ってしまうからだそうだ。
そこで、その部分にプラグを刺し込みそのノイズの上から電流を被せていくことでノイズが打ち消される。

その効果は劇的で、機器の電源を入れる直前まで手足を自由に動かせなかった患者が電源を入れたとたんに、それまでが嘘のようにいきいきと動き出す。社交ダンスを踊ったり、水泳をしたりといきいきと。

また、重度の鬱病の患者は”悲しみの中枢”という部分が活発で、それが食欲や他の部分に影響を及ぼしているそうだが、その部分にプラグを刺し込み同じように電流を流すことで鬱の症状が軽減されたという。

なんとなく物理の波の干渉実験を見ているような感じがしたのだが、脳までをコントロールできるとなれば、人間と機械の区別はますます曖昧になるし、実際、この番組を見て脳とコンピューターのイメージが重なってしまった。

今まで、宗教やドラッグなどが脳をコントロールする技術だったのかもしれないが、それがコンピューターにとって替わり、より身近なものになるかもしれない。

どこまでやってよいのか。
第2のロボトミーとなる危険も危惧されている。
立花隆は脳を「人格脳」と「身体脳」に分け、後者のみが医療の対象として操作してよい、というようなことを言っていたが、その境界こそが問題で判断が難しい。

それについて、最後にある倫理学者の話が出た。

医者になるときに必ず向き合う「ヒポクラテスの誓い」に「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。 」とあるように、そこに苦しんでいる患者がいてその人の力になりたいという行為のみがゆるされるだろうということだ。

しかし、なお、倫理観は時代の流れを受けやすい。

そのうちに、プラグレスで脳の特定の部位に刺激を遅れるようになり、インターネットで「脳の快楽プログラム」なんかをダウンロードして楽しむようになるかもしれないし、プチ人格整形がはやって若者がみな妙ににポジティブ・ハイテンションになるような気持ちが悪い世の中になるかもしれない。

二つ目は自分がいかに偏見に満ちた見方をしてしまうかにショックを受けた。

先にあげたパーキンソン病の患者の映像で、脳深部刺激療法を受けた患者が劇的に変化をするのを見たときに、その前後で、その同じ人物を見る僕の見方・感じ方があまりに違うことにショックを受けたのだ。

どのように違うかは説明が難しいが、例えば僕が看護士だったとして、施療後の症状を抑えた人物と施療前の症状の出ている人物と話をするとする。(二人は同一人物)
そのとき、僕はきっと前者には敬語で話しかけるだろうし、後者には小さい子供に話すように話し掛けるだろう。

機械の電源のオン・オフの違いだけで全く同じ人物なのに。
自分の中で上下関係をつくってしまうとまではいかないけれども、こういう風な違いを感じたのだ。

僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。

頭では分かっていてもなかなかその偏見は簡単には取り除けない。
しかし、自分の視線にも偏見や差別といったものが容易に紛れ込むということを自覚しておくことは大切ではないだろうか。
[MEDIA]