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素材の力(石・土)

オノケンノート ≫ B126 『無有』

竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。実は図書館で借りたんだけど、絶対買いの一冊です。

少し前に購入しました。
それで、しばらくは家のスタディをする前に2章以降を1章ずつ再読して自分なりに消化してからスタディに取り掛かることにしてみます。

第2章『素材の力』・イサム家イズミ家・石と建築・土と建築・素材から空間へ

密度の高い文章でどこを抜き出しても趣深いのですがいくつか引用してみます。

石には「沈黙の美」を感じる。石は多くを語らないが、見るものに時間の重みを伝えてくれる。石が存在している、それだけで人の心を沈黙させる。(中略)ひとたび眠りから目覚めた石は、空気や雨に触れ、長い風雪に耐えながら、その質感を千変万化させ、新たな場を生み出していく。

雨が当たらないときには、石に生命を吹き込むように、水を打つという文化が日本にはある。そして水を打つことのできない内部空間では、石を鏡面に磨き、光を反射させる。

中でも効いている石がひとつだけある。「かい」と呼ばれるその石を感じた時、空間と、そこに佇む人の身体の重心が重なり合う。

と、続けていこうかと思いましたがキリがなさそう。もっと艶っぽい文章がたくさんあるのですが、引用は中断して僕なりにまとめることにします。(twitterの影響かなかなか文章が頭の中で組み立てられない。)

石について

さまざまな素材の中で石ほど時間の流れや、重力など自然の中に含まれる要素をストレートに表す素材はないのではないでしょうか。

それは人工物である建築の中であたかも自然の代理人もしくは案内人のように立ち現れます。

壁として立ち上がるときは地面の代理人のごとく私たちの前に現れ、その重量感は上から積まれたものが徐々に下へと伝わっていくというよりは、地面から壁としてたち表れる際に重力に抵抗した痕跡としての表情のように見えます。
大地と一部としてのそのあり方は、地球規模の懐の深さで私達を受け止めてくれます。

また、地面に敷かれた石は案内人として私達を目的の場所へと優しく導いてくれますし、置かれた石は想像力を通じて自然の奥行きを私達に感じさせてくれます。

それらの石の表情を決定付ける要素は例えば重量、色・テクスチャー、大きさ、厚さ、形、目地の幅や深さ、リズムなどであり、水や光の当たる場所かどうか、日常的な空間か非日常的な空間か、などでも変ってきます。
日本建築では「真・行・草」の概念のようにこれらの作法が高度に磨かれています。
建築よりは地面に属するものとしての扱いが多いかもしれません。

土について

土も自然そのままの状態に近い素材ですが、石に比べると人間のコントロールしやすい中間的な素材といえるかもしれません。

なんとなく大地から立ち表れた石壁が人間界に送り込むために産み出した子供のような感じがします。
地球的とはいわなくとも、工業的な時間ではなく農業的な時間を感じますし、左官の技は自然と人とを融合する高度な技術だと思います。

土の表情はテクスチャーに拠る部分が大きいように思います。混入する素材や荒さ、表面下げの技法等で様々な表情が生み出せます。それは、土を自然と人口の間のどこに位置付けたいかで変るかもしれません。荒く仕上げた自然に近い表情から、熟練の職人の技による繊細で緊張感のある表現まで。
どちらにしろ、完全に自然でも人口でもない表情であるところが面白いところです。

こちらは地面よりは建築としての方が扱いやすいかもしれません。

鹿児島の石と土

鹿児島では石や土というと火山によるものが一般的だと思います。
溶結凝灰岩 – Wikipedia

溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん、welded tuff)は、火山の噴火によって空中に放出された噴出物が地上に降下した後に、噴出物自身が持つ熱と重量によってその一部が溶融し圧縮されてできた凝灰岩の一種。

シラス (地質) – Wikipedia

シラス(白砂、白州)は、九州南部一帯に厚い地層として分布する細粒の軽石や火山灰である。鮮新世から更新世にかけての火山活動による噴出物であるが、地質学においてはこのうち特に入戸火砕流による堆積物を指す。

鹿児島は石倉や石塀、石橋、あとタノカンサァなど石が生活に溶け込んでいます。
検索結果 文化遺産オンライン
探検の会でも溶結凝灰岩という言葉はよく出てくるのですが、例えば加治木石というのがありました。
オノケンノート ≫ W042『すごいぞ!加治木のまち歩きRETURN』

島津義弘のお膝元ということで歴史の宝庫なのですが、地元の加治木石を利用した石垣などでつくられたまちなみが印象に残りました。

それは、溶結凝灰岩が比較的加工がしやすく手に入り易かったからというのがあるのでしょう。
その分強度がないのかと思いましたがそうでもないようです。
鹿児島と石の文化

溶結凝灰岩は、単位体積重量2gf/cm3、間隙率14~32%程度と軽くて空隙に富んでいますが、それなのに圧縮強度は115(軟質部)~749(硬質部)kgf/cm2と大きく(下図参照)、コンクリートと同程度を示します。

(大谷石の圧縮強度は151.8kgf/cm2? ■大谷石の物性試験(比重・吸水率・圧縮強度・曲げ強度):大谷石のKANEHON

ただ、溶結凝灰岩は重量感や存在感に乏しいように思います。
そういう意味ではシラス左官材として利用するのが正しいように思いますが、溶結凝灰岩は鹿児島の風景を形づくって来ているものですし、それは僕も好きな風景でもあります。

重量感や存在感に乏しい溶結凝灰岩の石としての使い方の決め手はまだ見えていないのですが、おそらく先に書いたような強く立ち表れる石のあり方とは違うとらえ方をしないといけないのだと思います。

まだまだ鹿児島の風景から学ばなくてはいけません。




素材に対して誠実である。




視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。

オノケンノート – 偽物の氾濫

しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。

藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)

素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。

それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。

また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。

オノケンノート – モノの力

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




B126 『無有』

竹原 義二 (著), 絹巻 豊 (写真)

学芸出版社 (2007/03)
竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。

文章と図面と写真を行ったりきたりしながら頭の中で歩き廻ると、様々なシーンが浮かび上がりその奥行きの深さにどんどんと引き込まれる。

この歩き廻る作業を何度も繰り返せば相当な力がつくんじゃないだろうか。建築を学び始めた人には是非ともおすすめしたいし、何年か後に読み込む目が育ってから歩き廻ると全然違った新たな発見があると思う。

ところで、ズレやスキマ、余白といったものが光や素材や人の動きを通して、奥行きや豊かさに変わっていくのだけど、そういうものは無駄として捨てられてきたものでもある。安さと機能性を求めるだけではなかなか辿り着けないものだし、実物なしには説明のしにくいものでもある。

坪単価という指標だけで見れば決して安くないものも多いと思うけれど、それを説得して実際の空間に仕立て上げられるのがやっぱり実力なのだろうなぁ。

ちなみに、各章の見出しは以下のとおり。

序章建築の原点
1章手仕事の痕跡
2章素材の力
3章木の可能性
4章内へといざなう
5章ズレと間合い
6章つなぎの間
7章余白と廻遊
8章「101番目の家」へ

僕の中での別の永久保存版に通ずるものがあります。(日本建築というものの奥の深さには計り知れないものがある。)

あと、メモ代わりに2箇所ほど引用しておきます。

いわゆる一室空間は、人つながりの壁と天井、床で囲まれ、おおらかな空気をもつが、空間がその内側だけで完結しようとする。それが一室空間の弱さでもある。これまで述べてきた素材の力、区間の連続性や内と外の曖昧な関係といった試みは、一室空間というよりは、ひとつながりとなった空間の中で、様々な要素が様々な密度でずれ、その中で意識的に「間合い」をはかり、無数の関係性を結ぶために仕掛けられたものである。このような空間は、一室空間に比べて寸法は緊密になるが、心理的な奥行きや拡がりをもたらすのである。

こうして「間」を保ちながらつながっていくという微妙な関係が形成される。それは物理的には限られた空間に、いかに拡がりを与えられるかという工夫であり、極めて日本的な感覚である。住まいを分節し、その間を外部空間で結んでいった時、自由度のある住まいが住まい手の意識を鮮烈にし、想像力を掻き立てる。そして人が訪れるたびに異なる出会いが生まれることで、空間に対する奥行きも変化するのである。




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




B097 『前川國男 現代との対話』

松隈 洋他
六耀社(2006/09/26)

「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。

中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。

『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。

■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)

しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)

また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。

思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に

一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。




コスプレ

cospla.jpg
整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B042 『デザイン言語-感覚と論理を結ぶ思考法-』

奥出 直人 (著, 編集), 後藤 武 (編集)
慶應義塾大学出版会 (2002/5/8)

慶應義塾大学のデザイン基礎教育の講義をまとめたもの。
取り上げられている講師陣は以下の通り多岐にわたる。

隈研吾塚本由晴三谷徹久保田晃弘佐々木正人Scott S.Fisher高谷史郎藤枝守茂木健一郎東浩紀永原康史原研哉港千尋

「デザイン言語」という言葉には、コミュニケーションツールとしてデザインを捉えることや、感覚(デザイン)と論理(言語)を統括するということが期待されている。
しかし、それはデザインの基本的な性質であって、あらためていうことでもない。
だからこそ、基礎教育のテーマとして選ばれたのであろう。

後藤武が「他者性に出会いながら自分をたえず作り直していくこと」をこの講義に期待しているように、各講師は「他者」としてあらわれる。

第一線で活躍している彼らはそれぞれの独自の視点からデザインの問題を発見している。
例えば「コンピューター=素材≠道具」「演奏する=聴くこと」「脳・感覚=数量化できない質感(クオリア)」というように発想を転換することによって大切なものを浮かび上がらせるのだ。
そこで浮かびあがるのは、近代的なデザインが軽視してきた『身体性』のようなものである。
(もともと、「考えること」と「つくること」はひとつの行為のうちにあったが、近代になってそれらが分離して「設計」「デザイン」という概念が生まれた)
そして、その浮かび上がらせ方、顕在化の方法というものがデザインなのかもしれない。

だが、その方法とは(共感ができるとしても)各々の身体性に基づくもので他人に教えてもらえるものではない。
自ら感覚と論理を駆使して”発見”する以外にないのである。(つまり”他者”としてしか接触できない)

それは、僕がこれまで書いてきた読書録の中でゆっくりと、そして明確に浮かび上がってきたものと一致する。

全くあたりまえのことなのだが、答えは自ら描き出す以外にないし、自らの個人的な感覚・身体性の裏づけなしには人の共感も呼ぶことはできないということだ。
(逆説的だが個人的であることが他人へのパスポートとなるのだ。)




MEMO「素材」

「素材」のことを考えるとき、同じように自分にとってルールブックの建築がある。・・・ブリンクマンとファン・デル・フルクトが設計したファン・ネレの工場である。これは私が素材を考えるときの教科書だ。その建築が教えてくれるのは、建築を構成するモノたちが「即物的=ザッハリッヒ」であることの意味であり、近代建築にとっての素材というものの持つ意味だ。(岸和郎)




MEMO「廻遊」

「廻遊式住居」とは、このような日本の庭が築いてきた精神性と構成法を、現代の住居をつくるうえでの手法として考えたものである。決して広い住宅に限らず、小さな家であればあるほど、廻遊できるということは、空間に広がりと奥行きを持たせる。分岐点を設け、素材を転換し、あるいは立ち止まるべくシンボルを仕組む。例えば、極小住宅においてあえて大きなテーブルを置くことは、その周りを必然的に回るという行為が生まれ、生活にエンドレスな回路を組み込むことになる。
・・・住宅の平面においてこれまで無駄だと思われ切り捨てられてきた「間」の空間を意識的に操作すること、そしてその「間」を領域的にとらえ、住居を構成するそれぞれの室と絡めて構成すること。「廻遊式住居」というテーマは、近代の住宅がある意味で切り捨てざるを得なかった生活文化の見直しや、現代の家族関係の回復も含めたさまざまな要素を内包している。(竹原義二)