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あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)




環境構成技術の集大成 B201 『ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」』(川和保育園)

川和保育園 (編集),‎ 寺田 信太郎 宮原 洋一
新評論 (2014/10/20)

重層的な遊具構成の園庭で有名な川和保育園を紹介した本です。
遊具を中心とした園庭での生活の紹介、子どもたちのつぶやきの紹介、園長先生の考え方の紹介、の3章からなっていますが、ダイナミックな園での暮らしぶりがよく伝わってくる本でした。

環境構成技術の集大成

この園庭はかなり高いところがあったり、異年齢が混じっている中で夢中で遊んでいたりと、一見、危険で特別な園庭を使いこなしている特殊な例のように見えがちです。

しかし、それは見方を変えると、長年の試行錯誤による積み重ねをベースとした環境構成という専門技術によって支えられているもの、と捉えることができます。
そうすると、この園庭は保育の基本的な理念と技術の先に辿り着くべくして辿り着いた環境構成技術の集大成とでも言えるようなもののように思えます。

いくら無鉄砲な子どもでも、こうしたことに挑戦するときには慎重になるものである。子どもを信じて挑戦させるということは、観念的なことではなく、まさにこのような環境設定による具体的な問題だと思う。(強調引用者・以後共通)

こんなところにも、園庭の基本原理である「環境を設定するが、あとは子どもの自主性に任せる」という考え方が生きている。

ここが、本当に大事なところである。つまり、何としても回したいという思いである。この思いこそ、意志の力の根源である。そして、この思いは、それぞれの発達年齢による生活グループに所属しながらも、0歳時から年長児までが一緒に暮らす園庭環境が生み出していると言っても過言ではない。このダイナミズムこそ、大いに着目したいところである。

それらのでこぼこも含めて、園庭の隅々までの絵が私の頭のなかには入っている。無意識にやっているところはひとつもない。だから、見学に来た人に、「どうして、あそこは出っ張ったままにしているんですか?」と聞かれれば、その理由をすべて答えることができる。自分たちでつくるということは、すべてにおいて、どうすればより楽しく遊べるか、危険を回避するためにはどういう配慮が必要か、といったことを細部に至るまで考えるということである。

いろいろなルートが確保されている立体構成。
何かに挑戦した先に新たな楽しみがあるという構成的工夫。
何かに挑戦するには、それに見合う能力が身についてなければ挑戦にまで至れないという構成的工夫。
小さい頃から異年齢児とともに過ごすことで、自然と身につく、意欲や、配慮、怖れや危険を回避するふるまいなど。
見守りという技術を身につけた保育者。

などなど、どれも環境構成の技術として考えられるものです。
ものとしての環境だけでなく、保育者はもちろん、園児それぞれが園としての文化の一員として環境構成の中で大きな役割を果たしていることも重要なポイントでしょう。

もし、この園庭に、新しい園児、新しい保育者、新しい保護者が突然やってきて同じように活動を始めたとしたら、いきなり上手くは周らないだろうし、怪我も起きるかもしれないな、と思います。

しかし、逆に言えば、「子どもたちのためにどんな環境が必要か」「そのためにはどうすればいいか」を考え共有することが出来さえすれば、できるところから少しづつはじめ、園庭を園の文化とともに一つひとつ積み重ねていくことで、川和保育園のような園庭にもたどり着き得るのだと思います。

一度、そういう場作りに挑戦してみたいものです。




保育の現場で「どうしてそうするのか」の原則を共有するために B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』(高山静子)

高山静子 (著)
エイデル研究所; B5版 (2014/5/30)

環境構成という専門技術

この本では、さまざまな園の異なる実践に共通した原則を説明することを試みました。原則は、実践の骨組みとなる理論です。原則ですから、理想の園や理想の環境を想定して、それに近づくことを求めるものではありません。人が太い背骨を持つことでより自由な動きができるように、それぞれの保育者が、環境構成の原則を持つことによって、より自由で柔軟な実践ができればと願っています。

保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設での保育に関する理論を何かしら知っておきたい、ということで手に取ったのですが、めちゃめちゃ参考になりました。

例えば、学童期以降の子どもは、机に座り教科書を使って抽象的な概念を学ぶ、ということができます。
しかし、乳幼児はまだそれができないので、自ら直接環境に働きかけ、体験を繰り返すことで、さまざまなものを学んでいきます
直接教えるのではなく「環境を通して」教育を行うのが原則で、保育者はそのために、子ども自らが学べる環境を構成していく、というのが幼児教育の一番の特徴・独自性のようで、とても腑に落ちました。

そのために、保育者には、高い専門性に基づいた広く深い知識と環境構成の技術が求められるのですが、それは「園と家庭や地域とのバランス、安全と挑戦などのさまざまな矛盾の中でのバランスを踏まえた上で、その時々の個々の子どもの状態に合わせた環境の構成・更新を繰り返す」という非常に高度なものです。

そのような実践のための理論を体系的にまとめたのが本書ですが、保育に求められることの専門性と理論の大枠がイメージできたというのは大きな収穫でした。
また、僕はこれまで、子どもが育つ上での建築をどうつくればいいか、というのを一番のテーマとして考え続けていて、「「おいしい知覚 – 出会う建築」」というところに辿り着きました。
そこで辿り着いた考え方と、保育の分野での考え方と重なる部分が多いように思ったのですが、それがあまりにもぴったり重なるのにびっくりしました。(もともとの問題意識の設定からすると当たり前といえば当たり前なのかも知れませんが、もう、保育施設を設計するためにこれまでがあったんじゃないか、くらいに感じます。)

理論の必要性と展開

では、そのような理論をなぜ知っておきたい、と思ったのか。

例えば、保育のための空間を設計するという場面を考えた時に、個人的な体験や好みで決められることも多いような印象があります。それがスタートでも良いと思うのですが、保育の現場では特に「どうしてそうするのか。そうしたのか。」が説明できた方が良いと思いますし、そのために「太い背骨」となるような理論があることは非常に有効だと思うのです。

「どうしてそうするのか。そうしたのか。」ということは、建物の設計や建設の段階では、多くの関係者が同じ方向を見て良いものをつくっていくために必要なものです。
また、建物ができた後の実際の保育の現場でも、保育者や保護者等の関係者が、同じ方向を見て良い保育を実践していくために必要なものだと思います。そして、それが子どもたちのよい体験へとつながります。

園の目指すもの・思想といった大きな枠・物語は園長先生等トップが描くことが多いと思いますが、保育者や設計者がそれをプロフェショナルとして実践のレベルでさまざまな要素に落とし込んでいくには、専門的な理論の枠組みを掴んでおくことは非常に大切です
その点でこの本に書かれているものは、まさに!という内容でした。

この本で学んだ背骨としての理論を実践として展開できるように、さまざまな事例や理論の研究を進められたらと思います。
同じ著者の実例よりの本も買っているのでとても楽しみです。)

建築に求められるもの

ところで、環境構成は状況に応じて臨機応変に行われるべきものです。そんな中、建築空間には何が求められるでしょうか。

園が子どもも興奮させ一時的に楽しませる場所であれば、できるだけにぎやかな飾り付けが良いでしょう。しかし園は、子どもの教育とケアの場です。そこでは、レジャーランドやショッピングセンターの遊び場とは一線を画した環境が求められます。子どもたちが、イメージを膨らませて遊んだり、何かの活動に集中するためには、むしろ派手な飾りがない落ち着いた環境が望ましいと考えられます。

著者は、基本的には子どもが個々の活動に集中できるように一歩引いた存在であるべきという前提です。
例えば、空間を構成する技術として「子どもの自己活動を充足させることが出来る空間」「安心しくつろいだ気持ちになれる空間」「子どもが主体的に生活できる空間」「個が確保される空間」「恒常的な空間」「変化のある空間」など挙げ、それらのバランスをとりながら空間を構成する、と書いています。

その他、さまざまな事が環境構成の技術・理論としてまとめられていますが、保育者のための理論という意味合いが大きいので、重点は個々の場面での環境構成という短いタイムスパンに区切ったものが多かったように思います。

それに対して、建築は、子どもにとっては建築は在園中の長い期間接するものですし、個々の場面だけではなく建築全体としても子どもの環境になりうるものです。また、それは街からみると、もっと大きなスパンで存在するものですし、風景としての要素も小さくはありません。

ですので、個々の発達段階の空間構成に寄与できる空間をつくるとともに、建築全体としても園の思想を表していること、まちの風景であること、子どもにとっての原風景となれるような建築体験ができるものであること、などが建築には求められるのではないでしょうか

特に子どもにとっては、住宅を除いて初めての長期的な建築体験の場になることが多いと思います。建築でしか出来ないような体験、出会いを作り出すことも設計者の大きな役割だと思いますし、そのための術を磨いていきたいですし、それは住宅も同じだと思います。




発達はエキサイティングで面白い B197-198『発達がわかれば子どもが見える―0歳から就学までの目からウロコの保育実践』(乳幼児保育研究会)『0歳~6歳子どもの発達と保育の本 』(河原紀子)

乳幼児保育研究会 (著)
ぎょうせい (2009/3/7)

河原紀子 (監修)
学研プラス (2011/3/15)

保育期間の子どもは目まぐるしく成長していき、その発達段階に合わせて、必要な支援や環境に要求されるものが変わってきます。
保育園、幼稚園、認定こども園などの保育環境を設計する際にはそれに対する配慮と想像力が必要だと思い、読みやすいものをまずはざっくり読んでみることに。

上の本は、発達段階の区分が細かくテキスト量が多かったり、観察ポイントの開設やコラムが充実していたりするので、発達の理解や疑問の解消に向いていそうです。
下の本は、イラストが多くて読みやすかったり、発達表がついているので、ざっと理解したり、設計の際近くに置いてイメージを膨らませるのに向いていそうです。

また、実際に自分の子どもの発達と照らし合わせながら遊ぶヒントにもなりそうです。

発達保障理論と新たなアフォーダンス形式の獲得

ところで、「発達」という言葉に初めて意識的に出会ったのがいつかと言うと、バリアフリーと福祉施設について調べていた時に見つけた「発達保障理論」という言葉が最初だったように思います。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』)

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

引用元のページで、いくつか引用として抜き出しているのですが、発想が建築的で面白いのです。(この方の書いた本がないか、と思い探していますが見つかっていません。)

この発達保障理論は、言い換えると、何かを与えられるだけでなく、いつでも主体的に何かと出会い、関係を切り結べる(それによって発達できる)ことを保障しよう、ということなんじゃないかと思います。
これは、障害者福祉施設の現場の視点によるものだったと思いますが、同様のことを保育の現場でも「子どもが自ら出会い、育つことを保障しよう」というように言えるのではないでしょうか。

また、アフォーダンスの視点はリードによって発達という視点にまで拡張されています。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)
人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

ここでは、アフォーダンスが発見される相互行為が、
・[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的・対面的フレームの中での二項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・<認識>の共有
 ↓
・[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>
 ↓
・[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>
と発達していく過程が描かれています。

これも、どんどんと出会いの窓が拡張されていく過程として保育の現場に重ね合わせることが出来るでしょうし、保育園を「促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場」として捉えているところも面白いですね。

さらに、次の本の目次を一部抜き出すと、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B184 『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』

第I部 発達と身体システム
第1章 発達――身体と環境の動的交差として 丸山 慎(駒沢女子大学)
第2章 運動発達と生態幾何学 山コア寛恵(立教大学)
第3章 ゴットリーブ――発達システム論 青山 慶(東京大学)

と、あるように、生態学的(アフォーダンス的)視点で発達を捉えています。もしかしたら生態幾何学的な視点で発達段階に合わせた設計をする、ということも考えられるのかもしれません。
また、要因と結果を中心に捉えられがちな「発達」をアフォーダンスの視点は動的で能動的な行為そのものへと引き戻してくれます。子どもの発達は、今目の前の行為の中にあるのです。

今回は分かりやすい2冊を選んで読んだけれども、事程左様に発達はエキサイティングで面白いものなんじゃないかという気がするのです。

(よく知らないまま季刊「発達」を数冊買ってみたので、どんな感じかちょっと楽しみ。)




「子どもが育つ」状況に満たされた場 B195『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』(加藤 積一)

加藤 積一 (著)
小学館 (2016/7/22)

コラボレーションの理想形

ふじようちえんは、佐藤可士和と手塚建築研究所がコラボレーションし、日本建築学会賞を受賞した建築として有名です。

この本は、そんなコラボレーションのもう一人の主役、園長の加藤積一さんから見た「ふじようちえんのひみつ」のお話。

その園長先生がこのコラボレーションについて次のように語っています。

可士和さんはその話を聞いて、「園長先生。僕はその子どもの育つ状況をデザインしましょう」と言いました。
状況をデザインする。
なんていい言葉でしょう。その状況を手塚さんが建物として形にしていきます。真ん中に「子どもの育ち」があって、「学びをデザインしたい」が「状況をデザインしよう」になり、「建物としてのデザイン」となっていったのです。そしてこの三極のスパイラルがいまでも動き続けているのです。

それは、三者が自分の役割を果たしながらコミュニケーションを重ね合い、同じ目標である「子どもの育ち」のデザインへと向かっていくという、理想的なコラボレーションの形のように思います。

どんな建築も例えば施主と設計者、施工者といった関係者によるコラボレーションです。
それがこんな風に理想的な形で建築に着地できたら最高ですね。

「子どもが育つ」状況に満たされた場

下の画像は内容を掴むためにノートにまとめたものですが、上は本書の「子どもが育つ状況説明図」を写したもの、下は園で実践されているアイデアを箇条書きで抜き出したものです。

上の図には「◯◯で育つ」という状況が建物内に限らず敷地いっぱいにみっちりと書き込まれていますし、下に抜き出したアイデアも60に達しました。

内容は、「一日中歩き廻れ、互いの様子が見え、屋根の上をぐるぐる走り回れる楕円形のプラン」や「力を入れないと最後まで閉まらない引戸」と言ったハード面から、「畑作り」や「ふじようちえん検定」といったソフト面まで幅広く、それらのアイデアは全て「子どもが育つ」状況をつくる、という一点へとつながるように考えられたものです。

こんな風に、ふじようちえんは「子どもが育つ」状況に満たされているのですが、その根底には子どもの観察と科学的な分析によってつくられたモンテッソーリ教育があるようです。

モンテッソーリとアフォーダンス、出会う建築

それでは、モンテッソーリ教育とはなんでしょう。
保護者などに聞かれたとき、まず私はごくかいつまんで、「それぞれの子どもの中にある、自ら育とうとする力を十分に発揮させてあげる教育です。」と答えています。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」
これが、マリア・モンテッソーリの得た結論でした。

モンテッソーリはこの教育を行う上で「環境」が重要な鍵になると考えます。子どもは大人が教えるから育つのではなく、環境と交流することによって育つのです。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」ことを前提に、「大人(親や先生)」は、その要求を汲み取り、自由を保障し、子どもたちの自発的な活動を援助する存在に徹しなければならない。

これらのモンテッソーリ教育に関する言葉は、僕がこれまで建築について考えてきたことに驚くほど似ています

僕は「何が建築にとって大切か」をずっと考え続けてきました。それを、アフォーダンスやオートポイエーシスと言った理論をベースに『おいしい知覚 – 出会う建築』としてまとめた事があります。

簡単に言うと、人を含めた動物は環境を探索することによって、環境との新しい関係を切り結ぶ可能性(アフォーダンス)を見つけ出し、それによって成長・発達していく存在であるし、そこに喜びもある。また、環境としての建築は多様な可能性(アフォーダンス)と出会えるものであり、そこで可能となる出会いの多様さや深さが建築の意味と価値と言える。というようなことです。
要は、その建築にどんな出会いの可能性が含まれているかが大切だ、ということです。
(かなり読み難いかもしれませんが、興味のある方は『おいしい知覚 – 出会う建築』を読んでみて下さい。)

人間が育ち、生活していくためには、そういう出会いの可能性を豊かに持つ環境が大切だと思うのですが、それは「子どもが育つ」状況に満たされることが大切、ということと重なります。

また、アフォーダンスの理論では、人は何かの刺激に対して反応して生きているのではなく、能動的に環境を探索することによって、そこから意味や価値を発見・抽出し、それを利用することによって生きている、というように機械論的受動性から生態学的能動性へと転換を図るのですが、それは先生に教えられるのではなく、子どもが自らを成長させる、というモンテッソーリの基本的な考えとよく似ています。

そういう視点で見ると、ふじようちえんは敷地も含めて「子どもが育つ」ために必要な出会いの可能性に満ちた建築、まさに「出会う建築」だと言えるのではないでしょうか。

これまでずっと『おいしい知覚 – 出会う建築』について考え続けてたのですが、保育園や幼稚園、認定こども園といった子どものための建築ほど「出会う建築」が求められている建物はないように思います。
これから、いくつかの読書録を通じて、子どものための場が、どのように「子どもが育つ」ために必要な出会いを生み出してきたか、またはどのようにして生み出せばよいか、を研究していきたいと思います。




ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2000/11)

これまで読んだ本でも何度も引用されており、生態学を社会性のようなもとつなげられそうな予感がして読んでみた。

世界/環境との切り結び

進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/環境との切り結び>という考えが中心ににありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった

まず、重要と思われるいくつかの用語を挙げながら”自分なりに”まとめておきたい。

<環境との切り結び>・・・環境の情報/アフォーダンスをピックアップし利用したり改変したりすること。生態学のベースとなる考えで能動的に行われる。受動的に刺激を受け取り反応するといった考えとは反する。この能動性がおそらく決定的で、「環境から」入力があるのではなく「環境を」探索する。入力されたものを組織化するために脳があるのではなく、切り結びを協調させるための一つの機能として脳が進化したと考えられる。司令主義的原理ではなく選択主義的原理

<情報>・・・個体をその環境と一体に結びつけることを助けるもの。外部特定的な情報自己特定的な情報がある。アフォーダンスとほぼ同義であると思われる。それは行為の調整を通じて環境から価値を得るための<資源>となり、また行動や進化の選択圧ともなる。このような選択圧は行動の時間のスケールから、個体発生の時間スケール、系統発生の時間のスケールまであらゆるスケールで生じ、一つの行動の選択から進化にまで関わる。

<行動/行為>・・・アフォーダンスを利用するために環境と特定の関係を結ぶこと。行動は能動的で<調整>するものであって機械的・受動的に<構成>されるのではない。また、遂行的活動探索的活動がある。<行動>は自己と周囲との関係を変える動物個体の能力と定義されている。

<行為システム群>・・・多種多様な環境があるためそれを利用する多様な行為システム群が分化するような選択圧がかかる。大きくは「基礎定位システム」「知覚システム(探索的)」「行為システム(遂行的・非動物的環境)」「相互行為システム(遂行的・動物的環境)」に分けることができる。その中にさらに「移動システム」「欲求システム」「操作システム」「有性生殖システム」「養育・グルーミングシステム」「表出システム」「意味システム」「遊びシステム」などが挙げられている。

<意識>・・・生態学的な<知覚>とほぼ同義。動物は自己の周囲のアフォーダンス群をその場で利用するかしないかにかかわらず意識する。情報のピックアップ・探索的活動そのものが能動的な行動であり、意識はその成果であると言えるかもしれない。それは自覚的であったり信念を持つといった機械論的神経機構による反応のことではない。

<心理学/動機づけ>・・・<心理学>は心身二元論における刺激-反応過程の心を探る研究ではなく、<運動するもの>の研究、すなわち動物がいかに周囲と切り結び、その切り結びをいかに調整するかについての研究だと定義される。そこには行為と意識の両方が分離されずに含まれる。同様に<動機付け>は正の心的状態を求める快楽主義ではなく、動物がその生息環境のアフォーダンス群とそれぞれ独自の道において関係するように進化してきた選択圧への調整の過程だと考えられる。感情との結合が仮に生じたとしても副次的なことでしかない。

<意味/価値>・・・<意味><価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。

ここで書いたことは全て<個体と世界/環境との切り結び>の考え方と整合する。すなわち、この視点から総合的な心理学を研究する道を切り開いたと言えるが、建築を考える上でこれらはどういう意味を持つだろうか。
建築が環境の一部であることを考えると、この事によって建築が生態学的に<生きること>に対して大きく関連していることに対する信頼を得られる、という点で意味があるように思う。言い換えると、建築を考える際に<個体と世界/環境との切り結び>の視点、すなわち建築がどのような知覚と行為の可能性を担保できるかという視点を持つことによって様々なことにアプローチする可能性が開かれたと言っても良いかもしれない。
当然この考え方が100%正しいという保証はどこにもなく、将来には全く違った視点に書き換えられるかもしれない。しかし、生態学的な視点が建築に対しても新たな視点を提供しており、それは私がそれとは知らずこれまで考え・感じてきたことにかなりの部分で重なっていることは確かである。(だからこそ興味を持ったわけだが。)今の時代を生き、建築に関わっている一人としては信頼してみる価値はあるように思う。

人間への拡張

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)

人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的な対面的フレームの中での二項的な相互行為。単純な反応や真似など。(これは声や行為を挟んだ三項的な相互行為とも考えられそう)。自己と他者を理解し始める。表現や簡単なゲームもできるようなる。

[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為。同じ物を挟んでの相互行為で環境のアフォーダンスを共有できるようになる。物を交互に動かしあったり他者と遊びや活動を共有できるようになる。文化のなかに入り始める。

[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。すなわち<認識>を共有できるようになる。<認識>は人-物-人の三項関係の物の部分に認識を当てはめた相互行為とも考えられる。生きたプロセスであり、自己と周囲との接触を維持する(持続性を獲得する)能力でもある。また、その課題に含まれるアフォーダンス群のまとまりをまとまりとして知覚できるようになる。さらに、その技能を時刻や場所と関連づけた日常のルーチンとしても認識できる。また、人間は<満たされざる意味>、意味への予感のようなものを動機として先立って行為に携わる傾向性があるという。分からないけれどもやってみるというのが認識の発達をリードする。

[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>は人-物-人の三項関係の物の部分に言語を当てはめた相互行為とも考えられる。言事は、観念あるいは表象の手段ではなく、情報を他者に利用可能にするための手段であり、それによって自身および集団の活動調整に寄与するものである。また、言語がこれほど強力な調整者である理由の一つは、人々に現在の環境状態だけでなく、過去や未来の環境状態を意識させるからであり、これは変容され集団化された一種の予期的制御である。このことはひょっとするとヒトのもっとも根本的な変化であるかもしれない。また、言語はあるものを共有するために選択する「指し言葉」から、指し示すだけでなくコメントする「語り言葉」へと発達する。

[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>は上記の人-言語-人の三項関係の相手の部分に自分を当てはめた相互行為とも考えられる。すなわち自分が生成(行為)した言語を環境として受け取り自分で知覚し、さらに生成(行為)するサイクルが思考なのではないだろうか。実際の場面では三項関係の相手は自分・相手・書物などと入れ替わったり、環境から知覚の一種として言語を抽出するような行為もあるかもしれない。本書では思考は、世界の諸側面を自分自身に向けて表象する自律的能力と定義している。思考はより複雑な予期的制御を可能とするだろう。

三項関係への当てはめは個人的な解釈によるところもあるので誤解が含まれているかもしれないが、これらも全て<個体と世界/環境との切り結び>が基本にある。それは逆に、人間が世界/環境とよりうまく切り結ぶことを動機として進化してきたこととともに、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことで発達可能性を担保し続けてきた文化的・歴史的存在であることを示している。

これは建築が長期間に渡って切り結びを担保できる存在、すなわち文化的メディア(媒体)であることの可能性と責任をつきつけるものではないだろうか。そして、その可能性は<個体と世界/環境との切り結び>に対する信頼の先に開かれているように思う。

また、<思考>の三項関係の[言語]の部分に設計(案)を配置することでそのまま設計論になる。さらに、この設計プロセスや、意識-行為システム、思考システム、文化的発達保障システムなどはオートポイエーシスシステムとそのカップリングのイメージを重ねることでより働きとしてのダイナミズムと強度を持てるようになるように思う。
(アフォーダンスについて一番の疑問はなぜオートポイエーシスと融合したような理論が見当たらないか、である。私の知る限りではいくつかの対談で見ただけで融合はしなかった。何かそれを困難にする理論的壁が存在するのだろうか・・・)

400ページほどの文章を自分の関心に従って簡単にまとめたので、これを読んだだけでは良く分からないかも知れないが、個人的な記録としてはそれなりにまとめられたと思う。あと一冊同じリードの本を読んだ後、知覚をベースに建築に対する考えをまとめてみたいと思っているがうまくいくだろうか・・・。




生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他)

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2013/6/29)

以前3回にわたって感想を書いた『知の生態学的転回』の第1巻。

先にこのシリーズ3巻の部構成を引用しておく。

1 身体:環境とのエンカウンター
序章 意図・空気・場所――身体の生態学的転回
第I部 発達と身体システム
第II部 生態学的情報の探求
第III部 生態心理学の哲学的源流と展開
終章 魂の科学としての身体論――身身問題のために

2 技術:身体を取り囲む人工環境
序章 知覚・技術・環境――技術論の生態学的転回
第I部 環境に住まう
第II部 アフォーダンスを設計する
第III部 21世紀の技術哲学
終章 技術の哲学と〈人間中心的〉デザイン

3 倫理:人類のアフォーダンス
序章 海洋・回復・倫理――ウェザー・ワールドでの道徳実践
第I部 生態学的コミュニケーション
第II部 人間のアフォーダンス
第III部 社会的アフォーダンス
終章 可能性を尽くす楽しみ,可能性が広がる喜び――倫理としての生態心理学
[座談会] エコロジカルターンへの/からの道

2の技術は人が環境との関わりの中から技術がどのようなあり方であるかが書かれていたように思うが、今回はその前段階として発達や進化、意識といった人と環境との関わり、認知や知覚について書かれていたように思う。そして、第3巻は複数の人によって構成される社会へと射程が拡がっていくようだ。

心身二元論と環境との境界を超えたイメージ

知覚について多くの人は、環境から刺激を受け取り、それを脳が処理し、その結果行為が行われる、また、発達などは予めプログラムされた結果である、というようなコンピューターや機械に似たイメージを持っていると思う。
この巻の「転回」はそのイメージからの脱却することにある

そのイメージをここで説明するのは難しいし専門ではないので正確に捉えられている自信はない。
それでも書いてみると、動物が能動的に環境に働きかけ探索しながら情報をピックアップしていく過程で、身体と環境、行為と知覚が同時に進みながら新たな行為と知覚が紡がれていくというようなイメージだ。その基盤は環境と身体に埋め込まれている。どのような行為に繋がるかは予め厳密に決められているというよりはその都度発見されていくような動的なシステムなのだと思う。

そこではデカルト以来の心身二元論と環境との境界が超えられている。(そして、もしそれがより可能性のある考え方だとすると、デカルト的心身二元論に基づいた今の教育は少し古臭い気もするし、固定的なイメージを植え付けているという点で罪悪ですらある気もする。)

子どもと生き物に関する番組をよく見るが、どうしてそのように振る舞えるのか不思議に思うことが多い。
例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。
アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)

しかし(この本で本能については書かれていなかったが)仮にそのような生態の基盤が環境と身体と欲求の中に埋め込まれていると考えると何かしっくり来た。例えば、アリに育てられているチョウの幼虫という環境が存在し、その幼虫を感知するような身体を備えたハチが、そこに卵を産みたいという欲求を持つとすると、本能によって緻密にプログラミングされていなくともこういった複雑な生態が成り立つような気がした。そのハチにとっての意味が環境自体に備わっていると言えるが、それは異なる生態にとっては異なる意味となる。さらに、身体に含まれる自由度が環境の変化によって異なる関わり方を生み出すこともあるだろうし、それが進化と繋がることもあるだろう。(選択交配とは異なる進化の可能性もこの本で触れられていた。)

少し脱線したが何が書きたかったかというと、知覚や行為において環境と身体の境界は曖昧でダイナミックな関係にあるということである。その「転回」の面白さはデカルト以降の科学感が染みこんだ頭ではすぐに見失ってしまうのだけども。

設計との関連

さて、これらの「転回」は設計とどのような関連があるだろうか。言い換えると設計にどのような「転回」が起こりうるだろうか。
大まかなイメージは掴めつつあるのだが具合的に設計に落としこむところまで行けていないのでもう少しイメージの精度を高めていく必要がありそうだ。

以前書いた技術に関することと一部重複するかもしれないが、整理するために今回の本に関連して思いつくことを列挙しておきたい。

・隈研吾のオノマトペ
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B183 『隈研吾 オノマトペ 建築』

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。

この二面角の定義では、二つの面の配置が私たちにアフォードすることが述べられている。『生態学的知覚論』で挙げられた面の配置の用語は、そのリストアップと定義の方法が今ひとつ不明瞭であるものの、確かに言えるのは生態幾何学の用語が知覚-行為にとって意味のあるレベルで環境を記述する可能性を持っているということである。(本書p77)

一つはギブソンの生態幾何学的な環境の捉え方をそのまま建築の形態へと翻訳することで、隈さんのオノマトペはそれを実践したものであると言えそうだ。
また、スタッフにオノマトペの曖昧な言葉を投げかける設計手法は生態的な探索過程の実践的置き換えと言えるだろう。

ギブソンの『生態学的知覚論』は専門的な実験過程が詳細に書かれていて読むにはかなり大変だろうと予想していたため後回しにしていたけれども、思い切って購入してみると思っていたより遥かに読みやすそうなので一度じっくり見てみようかと思う。(こんなことならもっと早く読むべきだった。)
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B177 『小さな矢印の群れ』

隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。 例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。 隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。 四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。 実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。

直接的に探索モードの場、というイメージを空間に重ねることも生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳することに繋がるかもしれない

・地形のような建築

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

だいぶ前に書いた地形のような建築は、(私)との関係性を保てることが一つの特徴だと考えていたのだが、これは言い換えると探索の余地、もしくは身体と環境、行為と知覚が動的な生態学的関係を結べる余地とでも言えるだろう。

・塚本由晴のふるまいと実践状態

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略) 詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。( 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(『WindowScape 窓のふるまい学』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape 窓のふるまい学』)

塚本さんのふるまいや実践状態という言葉にも生態学的関係への意志が見てとれるモノとヒトに対する眼差しの精度を高めることによって生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導いていくことができるはずだ。島田陽さんの建築の部分を家具的に扱うこともこれに関連するように思う。

・ニューカラー的な建築

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。 設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

関り合いによって初めて建築として立ち現われるものをイメージすることも生態学的関係を志向することなるように思う。それは隈さんのいう反オブジェクトとも重なるし、そのためにそのイメージを維持し続ける必要があるだろう。

・分かることへの距離感を保つ

他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B173 『考えること、建築すること、生きること』)

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。 寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

分かることへの距離感も保ち続けること、少年のモードを維持し自在な建築を目指すことはおそらく生態学的関係を開くことへと繋がるように思う。

・設計プロセスの工夫

なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』)

動的で生態学的関係を考える際には必ず藤村さんが頭に浮かぶのだが、そのプロセスにはそのような関係の発生が埋め込まれている。(そして、その部分で氏の「建築」に可能性を感じている。)
しかし、まだしっくりとした自分なりのプロセスの設計ができていないというのが現状である。
クライアントや環境、その他与件に対して探索と応答を繰り返す普通の設計を誠実にこなせばいいとも思うのだが、その精度を高める工夫は必要だろう。

・都市的な目線
現状、自分に最も不足しているのが都市的な視点であるように思う。これまで書いたことは主に建築の空間をイメージしているが、生態学的関係を都市へと開いていくようなことは可能だと思うしそれによってまちなみはより楽しく豊かなものになるだろう。
そのために長谷川豪さんの建築内部と都市を貫くような視点を持つことも必要だろうし、実践状態が街を行く人に感じられるような表出の仕方も考える必要があるだろう。

まとめ

まとめると、
生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳したり、モノへの眼差しの精度を高めながら生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導きつつ、分かったことなったり建築がオブジェクトになることを避ける姿勢を維持しながらそれらを実現できるプロセスを考え、更にはその視線を都市へと拡張していく。
となるだろうか。

また、生態学的関係を開く上で関連があると思われるが、まだ明確な言葉にできていないことを課題という意味も含めて挙げておく。

・「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ03「建築の領域」中田製作所)

「建てること(つくること)」の中にも生態学的関係への可能性があるように思う。

・既知の中の未知との出会いのセッティング

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

既知の中の未知との出会いをセッティングすることは高度な手法であるかもしれないが、それゆえに精度高く生態学的関係を開くことができるように思う。

・内発的制約と熟達化

ストリートダンスの熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得し、同時に多様で洗練された表現への自由を獲得することであるといえる。(本書p125)

リズムに合わせて膝をダウン又はアップさせる実験では、テンポを早くすると非熟練者はアップ課題においても意に反してダウン動作になってしまうそうだ。「熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得」することであるという指摘は当たり前のように思える。しかし、それが力任せなものではなく、人と環境との関係の精度を高めることで冗長性と自由度を獲得するという点で新鮮に映った(イチローのバッティングが頭に浮かんだ。)。では、設計や空間における熟達化とはどのようなものだろうか。何が内発的制約となり、そこから自由になることでどう変わり得るだろうか。




B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』

中村隆司講師(バリアフリー研究会?)?


どこから入手したかは忘れたが、前に福祉施設についていろいろ調べていたときに見つけてコピーしてたもの。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた。

バリアフリー的発想・理念と理想についての話からいくつか抜き出してみる。(・・・は中略を示す『仲間達』とは入居者)

生活者としての素朴な発想こそ、最高の思想だということです

よく、福祉村と言う言葉がありますよね。個人的には、あんまり好きじゃないんです。・・・何でもそこで揃うからとても便利なようで、一番大事な人と自然と社会との交通交流がないんですよ。・・・ですから”ゆめのむら”じゃなくて、こだわって私たちは”ゆめのまち”と言ってきたんです。

このバリアを作り出してきた言葉とその思想
ア)生活の自由・文化・人権を制限してきた”安心・安全”
私はこの安心・安全という言葉が、どれくらい仲間達を苦しめてきたかと思うんです。
・・・確かに正義を守る安心・安全もあります。同じように大事なものは、その人が欲求・不安・心配・要求・文句を何でも言え、運営・実践に、参加・参画できる安心・安全です。
・・・それから、発達とか成長の希望・可能性のもてる安心・安全

イ)生活を縮め、生活を細めてきた”奉仕”や”サービス”
サービスの質の向上と言いながら、実際は仲間たちの生活を縮めてきたのではないかと私は思っています。少々不便でも面倒でも、今度は何々したいという仲間たちの欲求とか意欲、要求が創出されるハードとソフトのシステムこそ本当のサービスじゃないかと思うんですよね。
・・・つまり、サービスによって助かったのではなくて、”もっと何々したい”という意欲がでてくる。それが本当の福祉サービスじゃないかなと思ったんですよね。

ウ)生活を、不安化させる狭い意味での”バリアフリー”
・・・狭い意味でのバリアは、あえて”区別”という言葉にも置き換えることが出来るんですね。区別とは、人間関係、社会関係作りの基礎です。
・・・すべてがバリアフリーではなくて、仲間達にとっても大事なバリアがあるような気がするんですよね。

これらは(施設を営むものならなおのこと)寄り掛かりたくなるような便利な言葉である。
便利な言葉は思考停止の罠となる。
しかし、中村氏は(おそらく)鋭い観察によってこの罠に陥ることなく自らの思想を導きだしている。

最後のバリアフリーについてなどカーテンや垣根、果ては敷居といったちょっとした段差の意味合いにまで注意を払い、へたな建築士よりも理解がある。

何でもフラットにすればよいというのは安易すぎるし、そういう考え(?)では、微妙な機微のようなものも失われ、記憶や文化といったものまでフラットで貧しいものになってしまうように思う。

「フラット」そのものが目的ではないはずだ。

要するに私たちがつくらなくてはいけない物は、仲間達が自分自身の時間、自分の空間、自分の人間(じんかん)、つまり人間関係を作り出すということです。別の言い方をすれば時間と空間と人間関係の主人公になれる環境整備を徹底的に目指すことです。

私達の理念とか思想は発達保障理論に基ずいています。

ようやく、「発達保障理論」がでてきた。

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

この理論は全国障害者問題研究会の理論だそうだが、様々なところに応用できそうだ。

正確な理解かどうかは分からないが、この論のミソは複数の価値の軸を設定することにあるようだ。

例えば上のグラフ。
高齢になったり障害が重くなるにつれ「出来るか出来ない」(縦軸)といったことは当然弱くなる。
ところが、「感情とか表情とか思い」(横軸)は膨らんでくるだろうという想定をする。
すると、縦軸を支援するんじゃなくて横軸を支援するという視点が生まれる。

このように軸を複数、例えば2つの軸を設定することで、二元論的な考えを抜け出せる。

一つの軸では線的な「評価」しか出来なかったものが、2つの軸とすることによって面的になり、そのあらわすものは「評価」ではなく個々のポジション、「個性」となるように思う。

それはもっと次元が増えても良いだろう。(自分のイメージとして扱えるのは限界があるだろうが)

他にもこの講演録には自立と依存、ルール・規則と表現・役割保障、その他、時間や空間いろいろなグラフがのっていたが、やはりそこには独特の視点がある。

それは、例えば以下の文章にも表れている。

私達が提案し過ぎるのではないかと思うんですが、仲間達にとって、迷う時間は大事なんです。

昼は視覚の世界です。そして、夜は聴覚、嗅覚、触覚の世界ですよね。ここでもいろんな環境整備やサービスの質が違うのではないかと思うんです。

規則を学ぶ事からいかに不規則を作り出すかという発想です。・・・この不規則の中に私達の豊かさがありますよね。どこまで不規則を作り出せるか、保障できるかということです。

この空間と時間も、いままでは連続するというふうにやってきたんですけど、どこまで非連続する空間を作り上げるかということですね。非連続とは、生活のメリハリですね。

素晴らしい。
ほんと建築的な視点だ。

このもとになった発達保障理論のテキストを読みたいと思ったが、探し出せなかった。
良いのがないだろうか。