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W042『すごいぞ!加治木のまち歩きRETURN』


加治木でのかごしま探検の会のウォークラリーに参加してきました。

雨が降りそうなのでどうしようか迷ったのですが結局息子を連れて二人で行きました。
同じ会に参加するおばあさんが「東川さんは晴れ男だから大丈夫」と言ってた通り、雨も何とか持ちこたえてくれました。

島津義弘のお膝元ということで歴史の宝庫なのですが、地元の加治木石を利用した石垣などでつくられたまちなみが印象に残りました。

石垣や緑があり、地形に奥行きや起伏があり、道もカーブを描いていたりと、親しみを感じさせるまちなみです。
こういうまちなみがこういう場所に残っているというのを感じられただけでも収穫でした。

P.S
ほぼ同じコースの記事がありました。写真はこっちの方がきれい。(投稿日が昨日ですが、偶然?)

加治木町・仮屋馬場通り – 鹿児島みてある記2
加治木町・曽木家の茅葺門 – 鹿児島みてある記2

この方の記事を見ていると、鹿児島はすばらしい町並みがまだ沢山残っているんだなぁと勇気付けられます。




W041『初夏の谷山ふもと散歩』


久しぶりにかごしま探検の会のウォークラリーに参加しました。

はじめてウォークラリーに参加したのが谷山でしたが、今回はもう少し南側。
家族で参加予定でしたが妻は用事があったので僕と息子で参加。

今回の史跡はほとんどが石でした。途中の路地の石垣もいい感じです。
溶結凝灰岩?は鹿児島の一つの景色をつくっていると思いますが、そこから何を見つけ出すことが出来るでしょうか。
東川さんが『こういう路地は車にはやさしくないけど、人にはやさしい。歩いているといろいろな発見もある』というような事を言われましたが、この路地もいずれ区画整理でなくなるそうです。

頂いたマップによると今住んでいるところの近くにもいろいろポイントがあるので帰りに写真を撮って帰ろうかと思いましたが、解散したとたんに息子が寝始めたのでそれは次回に。

(参考)是枝柳右衛門について
ものすごい先生たちー9 – 日本国家の歩み

是枝柳右衛門【名は貞至(さだよし)。鹿児島市外谷山生まれ。代々商を営んでいた。海内ようやく騒然たる時において家産を治めず、早く志士と交わった。文久元年京都に出て中山忠愛に謁し皇権恢復の計を述べ、ついで松村大成、小河一敏と往復した。寺田屋の変後、屋久島に流され、元治元年十月没、享年四十八歳】

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W035『ベンガラのまち 吹屋』


喧嘩をしながらも何とかたどり着いた吹屋。
今、上の地図をおってみると、どうも美術館を出て最初に右に行くか左にいくかが運命の分かれ目だったのかも。
ナビ付の車で行くことをお勧めします。

文化遺産としてのまちなみ

吹屋ふるさと村

赤銅色の石州瓦とペンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み。
この町並みこそ、江戸末期から明治にかけ、吹屋の長者たちが後世に遺した最大の文化遺産です。
豪商が財にあかして建てた豪邸は、全国各地に見ることができます。
しかし、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを競うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町並み全体が統一されたコンセプトのもとに建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります。

山奥の観光地で生活の匂いはあんまりないのかと思っていましたが、普通に生活が営まれており子供がたくさん遊んでいるのには驚きました。先人達の残したこの町並みがここでの生活を担保しているのかもしれません。

ここはかなり特殊なケースで、ある意味では町並みに対して不自由かもしれませんし、そのまま別の場所のまちづくりに活かすことは困難かもしれませんが、山奥にこういう場所が残されているというのは知っておいてもいいのではないでしょうか。

到着時に予定時刻をかなりオーバーしていたためじっくり見ることは出来ませんでしたが貴重な体験が出来たと思います。


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W030『石垣郡の里 大当』


昨日は加世田の実家に帰っていたのですが、天気もいいしちょっとドライブにでも行こうか、ということで前から気になっていた笠沙町の大当(うと・おおと)に行ってきました。

石垣郡の里

天然石(野間岳産鉄平石)を積み上げた石垣郡が特徴の集落で、迷路のような、立体的に構成された路地にとてもそそられます :ぽ:

生活の風景のある街

坂の町なので歳をとると大変だと思いますし、そこに住み続けるということがどういうことかは気安くいえませんが、風景としては新しい街に比べると圧倒的に豊かです。
逆に、今の街がいかに車のために作られているか、というのを強く感じました。
殺風景な街並みと、こういう街並みの間のようなあり方が求められてもいいように思うのですが。

新しく道路を作るんじゃなくて、むしろ主要なものを選んで半分に減らす。そしてそれによって空いた土地と費用を格安駐車場と緑地やヒューマンスケールな路地、子供の遊び場などの整備にあてる。

そうやってできたような街並みを一度想像してみて下さい。
車に奪われた生活の風景を取り戻し、今よりずっと瑞々しい街が頭に浮かばないでしょうか?
建築基準法等の法律も絡んでいて簡単にはいかないかもしれませんが、”間”であればやりようがありそうです。
また、まずはこういう町並み特区があってもいいかもしれません。

追記

途中スーパーの袋をいくつも抱えてる人を見かけたのですが、日常品の配達システムがあるのかなと思いました。

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素材に対して誠実である。




視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。

オノケンノート – 偽物の氾濫

しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。

藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)

素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。

それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。

また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。

オノケンノート – モノの力

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




傲慢?

昨日は天気がよかったので家族3人でチャリンコに乗って永田川の上流の方まで行っておにぎりを食べました。
谷山も産業道路側は交通量が多くて落ち着かない感じがありますが、少し山の方にいくとすごいのんびりしてて良い感じ。
いい気分転換になりました。
チャリンコサイコー :にこ:

廃墟?

だけど、帰りに新しい住宅地の方を通ったのですが、この辺の風景を見ると気が滅入ります。

工業製品だけでつくられた建物が整然と並んでいる住宅地。

それにしても、何でこんなに気が滅入るのかと思ったら、建物ばかりでなく、外構含め、植栽などの緑が全くないのです。
建物たてたらそれで終わり。道路もアスファルトで固められてるし、どこにも人の気持が入り込む隙間がない。これじゃ廃墟としかいいようがありません。

それでも、こういう景色が次々と作られている現実を思うと、僕の感覚の方ががおかしいんじゃないかと不安になってしまいます。(育った奈良の五條というところも結構田舎だったし、屋久島は言わずもがなだし)

まぁ、僕の感覚じゃなくて、こういう景色の方がいびつなんだと信じることにして、やっぱりこれって「想像力が欠如した風景」なんじゃないかと思う。

これには「坪いくら」っていう考え方が結構影響していると思います。本当は外構や町並みなども含めての住宅なのに、坪いくらでは、広さとグレードが大事。外構その他はオプション、余計な出費。家の中は自分のもので大事だけど、それ以外は知らない。
それって逆に貧しい空間しか得られないのに。

傲慢?


「未来」を真正面から宣言した本
を読んで、今はみんなちょっと傲慢になりすぎてるのかなって思った。

いい時代を経験して、自分たちはなにもかも手に入れたと勘違いしてるんじゃないだろうか。
「未来」なんか想像しなくても自分たちは何もかも手に入れる権利があると勘違いしているんじゃないだろうか。
誰かが未来を持ってきてくれると勘違いしてるんじゃないだろうか。
失ったものだっていっぱいあるのに目をつぶってたほうが得策だと思ってるんじゃないだろうか。

説教くさいかもしれないけど、「想像もしない」未来なんてやってくるわけない。と思う。




生活の表出

町並みを豊かで親しみのあるものにするには、生活の表出なんてのも一つのテーマになったりする。

それって、わくわくだったり、おっ!だったり、いいなぁだったり、ほっ。だったり、あれっ?だったりと反応できる何か一つの表情がほんの少しあればそれでいいんじゃなかろうか。そこで見てる人とのちょっとした関係が生まれる表情。

所有権の主張しか表情がないのはやっぱり嫌。




色気や愛着について

img_0670.JPG
縁があって屋久島の住宅を計画しています。

個人的にお手伝いをさせて頂くので現場監理がほとんどできません(離島&今はサラリーマンですので・・・)
その分、設計段階でどこまで検討し、どこまで図面化できるかが非常に重要になります。

今、平面が少しずつまとまりつつあるのですが、ここからどうやって飛躍するか。そこが問題。

色気・愛嬌・親しみやすさ・・・何といっても良いでしょうが、そういったある種性格のようなものを建物が獲得できるかどうか。それが、良い建築になれるかどうかの分かれ目だと最近強く思うようになりました。(それはデザインの強度と密接に関っていると思います。)
その色気のようなものが建物を単なる箱ではないものにし、ひいてはその建物に対する愛着・思い入れになり、その雰囲気が建物の佇まいとなり、潤いのある街並みをつくります。

では、どうすればそういった性格を獲得できるか。

何か一つ突出する欲求があり、そのためにそのほかの部分を引き算してでもその欲求を満たしたい、というような衝動を内包したもの。その結果、いびつなバランスとでも言うようなものを獲得したものはその可能性があるように思います。

しかし、そういったケースはまれで、むしろそういった欲求を持たないのが大半ではないでしょうか。(そういう欲求が必ず必要だとは思いません)
そうではない場合はどうやって獲得するか。

全体をまとめあげる一つのアイデアが浮かべば、それが獲得のきっかけにもなるでしょうし、光や素材の扱いを含めた各々の要素を全体を見ながら注意深くデザインしていくことでも獲得できるように思います。

さて、今回の計画。
派手ではありませんが獲得のための種を平面の中に仕込んであります。
決められたコストの範囲でそれをどうやって成長させるか。
(今回は現場監理ができないという制約もあります。)
断面や素材の扱い等いくつかのぼんやりとしたアイデアは浮かんでいますがそれをまとめあげるには検討の時間が必要。

じっくり取り組もうと思います。




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




Podcast『週刊ミヤダイ』

宮台真司の言説に触れるのは久しぶりだったけれども、以前とほんの少し印象が違った。

対象から少し距離をとって、クールな視点で的確に分析をするのは変わっていないけれども、そのクールさの質が変わって見えた。
以前は情動や実存については突き放している印象があったので理論ではすごく納得してもなんとなく受け入れがたい気分が残ったのだが、今回は戦略を変えたのかだいぶ受け入れ難さは消えていた。(ラジオだからっていうのもあるだろうけど)

彼の論調は”なぜ○○なのか?””それは○○だから””○○する必要がある。”というように簡単に図式化が出来るぐらいまで徹底して整理されているので非常に説得力がある。

そんなに単純化できるわけがない、という気持ちもないわけではないが原因と処方箋が示されているのなら、一度受け入れてみるのは何もしないのよりはずっといい。
単純化して消化しやすいようにすることがデザインや政治の機能の一つだろうから、彼の言説は『宮台真司のデザインした思考(行動)のためのツール』だとも捉えられる。
だとすれば、デザイナーのつくった椅子でくつろぐように、彼の作った道具で生活の豊かさを加えたっていい。

印象に残ったのは日本人の持つ『幸せのイメージ』が世界的に見ても概して貧しいということとそれに対する自覚がないということ。
ここ数十年の間に生活の知恵や文化といったものを切り捨ててきた結果、与えられる幸せしかイメージできなくなってしまったのではないか。
そのことが政治や街並みの貧しさにもつながっているように思う。
それは人事ではなく、そのような『幸せのイメージ』の中では僕らの仕事の存在自体が否定されかねない。

宮台氏は『生活世界の充実』をキーワードにあげているが、そのためには個々がそれに対して意識的である必要がある。

今までの都市計画のように誰かが全体を考えまず形をつくると言うのではなく、一人ひとりの中の『幸せのイメージ』が豊かになっていく中で、それら一人ひとりの選択したものの総体としてまちが形づくられている、という方向でないと有効ではないのではないか。

そういう意味では、原氏の言う『欲望のエデュケーション』が重要で、それが実践できる人の存在は貴重だと思う。




B085 『建築空間の魅力 私の体験』

建築空間の魅力 私の体験 芦原 義信 (1980/01)
彰国社


事務所の人が古本屋に出そうとしていたのでもらってきた。

著者の東大退官講演などを収録。
僕がまだ小学校に上がる前の本だが、街並みなどに対する危機感なんかは今と同じ。
現実は進歩なしという感じ。

これぐらいの世代の方の建築論は素直で理解しやすいものが多いような気がするし、実際の設計のプロセスと直結した理論が多いので参考になることが多い。

今の建築論はその辺の方法論が前提としてあった上で、微細な感覚の襞のようなものをすくい上げるようなのが多いので今から建築を学び始める人は取っ掛かりが難しい気がする。

僕も恥ずかしながらその前提の理論をすっとばしてることが多い。『街並みの美学』でも読んでみようかなんて思ったりしている。




B082 『元気が育つ家づくり―建築家×探訪家×住み手』

仙田 満、渡辺 篤史 他 (2005/02)
岩波書店


建築についていろいろな議論があるけれども根本にはこういう思いがあるはずだ(と願いたい)。

ことさらに元気にならなくてもいいとは思うけれども、われわれには後世に受け継いでいく環境を創る(守る)義務がある。
しかし日本では自分のことばかりを考えていて、環境に対する意識が不足しているように思う。
というか、「自分さえよければ」という考えはますます加速していきそうな気がする。

文化は、そこに住む人の以上でも以下でもないと言われますが、あの時よくぞ創ってくれたこの環境、と後世の人々に言わせてみたいですね。・・・・それには、私たち庶民が、きっかけはどうあれ、建造物や街並み、環境に興味をいだき、やがて「見巧者」になることです。(渡辺篤志)

多くの人は身の周りの物や建物、道路・景観といった環境が生活を破壊することもあれば人間をつくることもあるということを考えたこともないのではないだろうか。
せめて義務教育の間にでも、自分たちがどのような環境をつくっていくのか、その環境がどのように人の幸福や豊かさに関っているのか、という見方があることぐらいは伝えて欲しいと思う。
「経済」という軸以外にも同じように扱うべきさまざまな軸がある、というのがあたり前と感じられるようになって欲しいものです(そんなことを言うのは「負け組」だとか言われるのでしょうが)

仙田満は日本建築家協会会長であり、「子どもを元気にする環境づくり戦略・政策検討委員会」の委員長もしている。
ただ、「子供を元気にする」と言うのは多少違和感がある。子供なんてほっといたって無駄に元気なものだし、現代であってもそれは変わらないだろう。それを大人がさまざまな機会を奪うことによって元気でなくしている(又は大人がそう思い込んでいるだけ)ではないだろうか。
それを「子供を元気にする」というのは元気にしてやると言う大人のエゴのようなものを感じて違和感がある。NHKの「ようこそ先輩」を見ていてもゲストの先生が常識のタガを少し外してやるだけで子供たちがみるみる元の元気さを取り戻すというのはよくある光景だ。
そういえば元気は「元の気」と書く。なるほど。

渡辺篤志は建物探訪で800件以上見ているそうだけれども、それ以上にすごく勉強している。
建築が好きなのが分かるし、それゆえに現実の問題がクリアにみえて悔しいのだろうな。思いはすごく伝わってきた。建築をやっている人にもだけれども、一般の人にこそ読んでみてもらいたい。
建築を見る目を変えるきっかけとして。




B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井 昭蔵
彰国社(2003/12)

「装飾」というのもなかなか惹かれるテーマである。

アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』ではないが、なんとなく自分のなかで装飾をタブー視することが規範化されてしまっている気がする。

しかし、規範化には注意しなければいけないし、時々装飾的と思えるものに魅力を感じる自分の感覚との折り合いもつけなければいけない。

そもそも、装飾、装飾的とはどのようなものを指すのだろうか。
また、許される装飾と許されない装飾があるのだろうか。

この本でも内井は装飾と虚飾を分けている。
その指し示す内容には若干の揺らぎがあるように感じたが、本質的な部分には確固とした基準があるように思う。

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

その感覚は指宿の高崎正治の建物を訪れたときに強く感じた。
それはとても心地よい空間であった。

装飾=秩序と考えれば、モダニズムのいわゆる装飾を排除したものでも構成やプロポーションが素晴らしく、秩序を感じさせるものであれば「装飾的」といえるかもしれないし、カオス的な秩序の表現と言うのもあるだろう。

いわゆる装飾的であるかどうか、というのはたいした問題ではないのかもしれない。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。(結局、原点に戻ったということなのか?)

また、時にはあえて装飾のタブーを犯す勇気も必要なのかもしれない。

*******メモ*********

人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■「装飾」は合理や理性では割り切れず、感性、好みと言ったようなわけのわからないもの。
■装飾は精神性と肉体性の双方を兼ね備えるもの。
■近代建築のなじみにくさには壁のあり方に原因があるように思う。現代人の心を不安にしている原因は人間が「もの」から離れるところにある。
■水に対しては「いかに切るか」、光に対しては「いかに砕くか」
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。
■しかし、現代建築ではなかなかそうはできない。それは、あまりにも材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況ができているから。
■日本の自然は高温多湿、うっそうとした植物、勢いのある水と声が大きすぎる。そういうところから「単純明快なもの」引き算の美が求められるようになった。

■「わけのわかるもの」ばかりではなく「わけのわからないもの」も必要。
■生活空間には「記憶の襞」のようなものも必要。

■材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況を乗り越えるにはどうすればよいか。
■セルフビルド。流通。生産現場。

■装飾は環境の中に存在する。現在のような(街並み・情報など)ノイジーな環境ではモダニズム的な建物が分かりやすく支持を得るのかもしれない。
■そうではないあり方はないだろうか。環境に埋もれず、秩序を感じさせるようなもの。
引き算ではなく分割。分割でなく・・・