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B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




生活によって意識を超える


生活を見直すことでそこから意識を超えた豊かさを生み出す、とイメージしてみる。

ここでいう生活とは関係性をデザインすることである。(と言ってみる)

意識から飛び出したものとの関係性。そういうものがきちんと見えているか。


オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。

そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。




Satsumatic × Architecture

金曜日、ひさしぶりに友人と会って話をした。

この友人と合うと何かしら発見があったり問題がクリアになったりして、いつもいい刺激をもらう。

先日行われたの「サツマティック」というNY展の仕掛け人でもあるのだけど、話をしているうちに「Satsumatic」というのは自分にとっても結構重要なキーワードだと気がついた。

3月にあった「鹿児島のかたち・地域のかたち」というシンポジウムで見つかりかけた気がしたパズルのピースがこのキーワードでクリアになった気がする。

「Satsumatic」の意味するものそのものに目新しさがあるわけでもないのだけど、それを言葉にし発することで浮かび上がってくる何かがあるように思うし、『リアリティ』と『生活そのもの』を手元に引き寄せるためのテーマとなりうるのではないか、という気がしている。

だからといって具体的なイメージをもっているのではないんだけど・・・。

具体的な何か、とうより、長い時間を掛けて考えているうちに自分の中から 「Satsumatic」な何かが自然と立ち上がるようになればいい。(ああ、やっぱり自分でも考えていたことだ。やつは自分の事ばっかりしゃべっているようで、実はコーチング的なスキルがあるんじゃないか。)

先は随分と長い気もするけど(具体的なものと向き合いながら)じっくりやっていこう。




Region NO.09

鹿児島にはもう一冊、質の高い文化的フリーペーパーがあります。

それは、友人も企画に係わっている渕上印刷のRegion

昨日垂水に打ち合わせに行ったときに 市役所の待合に置いてあったのでもらってきました。

そういえば特集は『焼酎遺産』。かごしま探検の会の東川さんが取材を受けたと言ってました。

帰りのフェリーで読んでみると、いくつかの文章が心に残る。

まずは冒頭の岡田氏のエッセイ『「どうだ」より「どうぞ」の美学』より

在来の素材は、確かに水や雨や風を「どうだ」と遮ってはくれない。(中略)しかし、そのぶん人の気持も優しく受け止めてくれる。(中略)ただ私は、「どうだ」とそびえる二百メートルを越すガラス張りのビルより、二百年を経て「どうぞ」とたたずむお堂に心が和むだけだ。(中略)
柱のはしばし、梁のすみずみ、甕の肌のきめのひとつひとつに、そこにただよう菌や気や人々の思いが息づいている。容れるものと容れられるものが相通じる。

まさしく僕が大切にしたいと思っていること。『容れるものと容れられるものが相通じる。』状態なんて本当に理想です。いや、ほんと最後の一文はそのまま僕の理想として掲げてもいいぐらい。
次に東川さんの文章

遺産というものは、単なる遺物または過去の物ではなく、現在の社会といつかの時代とを「文化」や「物語」で結びつける関係性の象徴だ、と私は思う。つまりこれまでとこれからの両方を伝えるものであり、また遺産のある地域の表情を伝える役割を担うものであるとも考えている。

いまのものづくりの多くに決定的に欠けているのはこういう時代を超えた視点と関係性をつむぐ想像力だと思う。それにしても東川さんはこういう艶っ気のある文章も書けるのですね。さすが。(艶っ気のある全文はregion読んで下さい。)

最後に大石酒造の大石社長の言葉より。

焼酎造りにおいて、常に一定の味を保つことは確かに重要かもしれません。しかし、自然の材料を使っている以上、たとえば芋の状態によって去年と今年では当然味は変わるわけです。そのゆらぎの幅を許容することで、古い技術や設備が受け継がれていくのではないかと思います。

伝統に真正面から向かい合っている人だけあって言葉に重みがあります。このことは全く建物についても言えます。『ゆらぎの幅を許容する』ゆとりの精神、これを持てるかどうかでうまい焼酎を毎日飲めるかどうか(建物についても同じ)が決まってくるように思います。
しかし、実際はこのゆらぎを全く認めないような世の中になってきているようで怖い。(関係する視点でイトイさんが管理について語ってます。「前回」の文から読むと面白いですよ。)

(引用中の強調はオノケン)




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




地方はどこへ向かうのか。(草稿)

またまたですが、たこはんさんのエントリーを読んで。

この本は未読なので読んだらまた別にエントリーを書きますが、とりあえず今漠然と考えていることについて。

反論の余地のある未熟な考えであることは分かっていますが、(草稿)ってことでおおめにみて下さい。また、自分が実践できているわけではないので自戒の意味もこめて書きます。

たこはんさんの意見にだいたいにおいて共感するのですが、まだ僕の中で整理のついていないのは以下の部分。

前々から感じているのですが、地方というのはもう都会へ供給できる商品がないようなのです。グローバリズムっていうのには抗えないのです。

グローバリズムには一定の価値を強要し、同じステージに乗りなさい、という強制力や暴力性があると思うのですが、これと同じ方を向いているときっと上記引用の通りだと思う。

もともとグローバリズム自体が搾取する構造をもっているのだから、これに乗ってはやっぱり絶望的になる。

だからといってどうすれば良いかはよく分からないけれど、ベクトルを都市に向けるんじゃなくて今生活している地域そのものへ向けないといけないんじゃないだろうか。

そして、グローバリズムの価値観をずらして地域へと向くためにはグローバリズムに着せられている鎧を一つずつ脱いでいかないといけないように思う。

都市化とは外部への依存化を進める過程ともいえるけど、そこから自由になるにはそういった鎧(外部依存)を一つ一つ脱ぎ捨ててそれを生活への楽しみへと変えていき、それによって求心力を得るしかないのではないだろうか。(都市化の進んだ場所では鎧を脱ぎ捨てることはかなり困難でしょう。また、それが楽しみとなって求心力を得られるのが理想。そのためにイメージ化と実践が必要)

今一度、足元にある生活を見つめなおすこと。都会がどう転んでもできないことを楽しむこと。そして、幸せのイメージを育てていくこと。(幸せという言葉は使いにくいですががんばって使ってみた。)

そのためには『イチロー? 誰それ?』という強さ・感受性を育てることも重要になる。(ですが、知識による武装は必要です)

ただ、そういうイメージを育てていくことが難しいことは理解しています。

少し前にラジオで食育の話をしていて、『 今の大人世代にむしろ食育が必要だが飽食の時代で育ってきた大人を教育するのはかなり困難といわれている。だからこそ子供たち・次の世代の教育が重要になってくる。』というようなことを言っていました。

高度経済成長期 を経験してきた大人たちが、個人ならともかく地域としての価値観を変える(持つ)ことはかなり困難でしょう。

だからこそ、次の世代にイメージを引き継ぐことに目を向けなければいけないのだと思うのです。

そのためにはイメージを描き続けること。そして、少しでも実践していくこと。

それしかないのではないでしょうか。

キーワードは『生活』と『教育』。だと思います。

まぁ、あまっちょろい意見かもしれませんが、少しは楽しいイメージを描けなければ誰もついてこないのではないでしょうか。(それが難しいっちゅうねん!)

最後にm.mさんの記事から再度孫引き。

「自分の身体により近い足下にこそいろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。
今の社会は全員がよそのものでよそのことをやっているという感じがするんです。
私の理想は、人間が一日で歩ける半径40キロくらいの範囲で野菜や水など
必要なものが手に入り、その地域の中で暮らしが循環できることですね。
足下の衣食住のような小さな紡ぎあげこそが文化だと思うんです、
足下から生活をつくり上げる力がとても重要なんだと思います」(SOTOKOTO環境移動教室28よりSTARNETのオーナー馬場浩史さんの言葉)

雑誌の記事はまだ読んでいませんが、こういうことも関係があるでしょう。だって、僕たちが子供のころに”まちをどうしたいか”、とか生活そのものと直結するような教育を受けた記憶があんまり ないですもん。それとも、記憶がないだけで実際にはいろいろあったのかな。本当は小さいころからひとりひとりが真剣に考えていかないといけない問題だと思います。
(今日は早く寝るぞ)




B110 『M2:ナショナリズムの作法』

宮台 真司 (著), 宮崎 哲弥 (著)
インフォバーン (2007/3/1)


こちらも本が好き!より。
honsumiさんの書評に『これだけ読者を置き去りにする対談も珍しい。』と書かれていたが、読んでみてなるほど、と感じた。

宮台真司の著作は何冊も読んでいるし、Podcastも聴いた。だけれど、今まで触れた宮台と本著では宮台らの向いている方向が少し違う。本著にはこれまで僕が触れたものに見られた、”一般の読者に対して説明すると言う意識”がほとんど見られないのだ。
専門的な内容に対して読者が予備知識をもっている前提で、それこそ読者お構い無しでどんどんすっ飛ばしていく。

それでもめげずについていくと、読んでいるその瞬間はなんとなく分かったような気にはなる。しかし、1時間もたてばもうどういう論の展開だったか思い出せないことが多い。

これは、これまでもそうだが宮台の言説は、”○○は○○だから○○でその対処は○○である”と言うように、論理的な流れが明確で、まるで数学の証明問題の解説を読んでいるような感じがする。
きっと、あらゆる命題や反論に対してそういう流れを用意しているのだと思う。

しかし、一度読んだだけではその流れが頭に入らない。
受験生時代に化学反応の流れ(ベンゼン環がどうのと言うやつ)を1枚に自分でまとめたのがすごく有効だった覚えがある。同じようにノートにフローチャート式にまとめてみれば頭に入るだろうと思うが、なかなかそんな時間は取れない。ましてや一般の人がそんな労力をかけるはずがない。

そこで提案。

受験参考書のノウハウを取り入れた『チャート式宮台真司2007』とか『M2の使い方社会学は暗記だ!』というような感じの要点のみを簡潔にまとめた参考書を、彼らのいろんな著作を横断・対応させるような形で誰か作ってくれないだろうか。
あくまで補助的な書物ということで内容が絞られていれば絞られているほど良い。
一般の需要があるかはともかく僕は手元に置いておきたいし、こういうものがあれば、もしかしたら多くの人が読みっぱなしで終わることも減るかも知れない。

反復復習は”お勉強”の基本であるし、ある程度基本の流れが頭に入ってこそ応用ができるというものだ。(もしかしたらそういう本がすでに出てるかもしれないが)

なぜ(対談が)続いたのか。理由は明白だ。宮崎氏も私(宮台)も<社会>に関心を示さなかったからだ。<社会>に関心を抱かない二人が<社会>について話すのは気楽だ。全ての対立を単なるゲームとして再帰的に観察してやり過ごせるからだ。・・(中略)・・でも、不真面目というのではない。むしろこうした再帰的態度がラディカルな(徹底した)思考を可能にした。・・(中略)・・<社会>に関心のない二人が・・(中略)・・いつの間にか<社会>について思考しなければいけない場に押し出された。<社会>に多大な関心を抱く物が大勢いる中での二人の共通の道程は何かを意味していよう。

時に突き放したような冷たい印象を受ける二人だが、それは徹底した思考をするために必要なポジションなのだろう。
また彼らの論は普段の感覚ではちょっと戸惑うような選択を促すことも多い。しかし、それに感情的に反発せずに一度冷静に考えてみる価値はきっとある。それで、なるほど自分が安直だったと納得させられることも多いのだ。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

最近宮台は欧州的な生き方を参照することが多いような気がする。日本も、自分たちはどのような未来を目指し、どのような選択をしていくのかというのを個々が真剣に考えなければいけない時が来ているのではないだろうか。
(日本人は”とりあえず自分たちにはおいしいところを”というだけで、何かを”選択する”という思考も苦手ではないだろうか)
誰かが社会を変えてくれるのを待つしかない、自分たちは考えても無駄だ、というのをそろそろ卒業しないといい加減やばい。
そういう意味で、それぞれの仕事や生活のスタイル、また例えばNPOの活動などで別の在り方を模索し実際にそれを描こうとしている人たちがいるが、その先にはかなり開かれた可能性があるのではないだろうか、という気がしている。




鹿児島のかたち・地域のかたち

鹿児島、生活地域建築塾主催のシンポジウムがあったので行って来ました。

JIAの案内を見て知ったのですが講師はなんと象設計集団の富田玲子さん、U研出身の齊藤祐子さん(僕はU研と象とがごっちゃになっていましたが・・・)、そして進行が一つ前の記事で加世田で活動されていると書いた菊野憲一郎さんでした。びっくり。
また鹿児島サイドからは創建築計画研究所の溝口さん、かごしま探検の会の東川隆太郎さんが講演を行ったのですが、この東川さんという方が鹿児島のプロともよべる人で話がとてもおもしろく、そして熱い思いをもっていらっしゃる方でした。

東川さんは建築が専門ではないのですが、建築を含めた環境に対する視点や思いは設計者が反省を込めて見習わなければいけない、と強く感じました。

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

スライドでも笠原小学校などが紹介されましたが、吉阪隆正氏や象設計集団の建物、それから小松義夫さんの写真などをみると、自然と楽しくなってきますし、生命の力が湧いてくるような感じさえ受けます。
”これが建築なのだ”と思えます。
多くの人はこの楽しさを忘れてしまっているのではないでしょうか。
忘れているのならまだよいのですが、僕はこの楽しさを知らないというまま子供が育ち、それが世間の大半を占めてしまうということが非常に怖いのです。
現にそれはかなり現実のものになりつつあるように思います。

それをくいとめるには”楽しい、気持ちよい”こと、東川さんの言葉だと”なつかしい”と感じられること、これっていいでしょ、ってことをあきらめずに言い続ける以外にないのかもしれません。

今日の話は一般の人を含めたもっと沢山のひとに是非とも聞いてもらいたかったです。
みながこの”楽しさ・気持ちよさ”を知ったら街はずっといいものになるのにな。

懇親会では(最初お腹がすき過ぎて言葉が出なかったのですが)、齊藤さんや東川さんと楽しく話させて頂いてとても実りの多い時間でした。




足元

『自分の身体により近い足下にこそ いろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。』
m.mさんの記事より孫引き

さっき書いたものの続きですが、こういう活動の積み重ねが重要なんだと思います。




Podcast『週刊ミヤダイ』

宮台真司の言説に触れるのは久しぶりだったけれども、以前とほんの少し印象が違った。

対象から少し距離をとって、クールな視点で的確に分析をするのは変わっていないけれども、そのクールさの質が変わって見えた。
以前は情動や実存については突き放している印象があったので理論ではすごく納得してもなんとなく受け入れがたい気分が残ったのだが、今回は戦略を変えたのかだいぶ受け入れ難さは消えていた。(ラジオだからっていうのもあるだろうけど)

彼の論調は”なぜ○○なのか?””それは○○だから””○○する必要がある。”というように簡単に図式化が出来るぐらいまで徹底して整理されているので非常に説得力がある。

そんなに単純化できるわけがない、という気持ちもないわけではないが原因と処方箋が示されているのなら、一度受け入れてみるのは何もしないのよりはずっといい。
単純化して消化しやすいようにすることがデザインや政治の機能の一つだろうから、彼の言説は『宮台真司のデザインした思考(行動)のためのツール』だとも捉えられる。
だとすれば、デザイナーのつくった椅子でくつろぐように、彼の作った道具で生活の豊かさを加えたっていい。

印象に残ったのは日本人の持つ『幸せのイメージ』が世界的に見ても概して貧しいということとそれに対する自覚がないということ。
ここ数十年の間に生活の知恵や文化といったものを切り捨ててきた結果、与えられる幸せしかイメージできなくなってしまったのではないか。
そのことが政治や街並みの貧しさにもつながっているように思う。
それは人事ではなく、そのような『幸せのイメージ』の中では僕らの仕事の存在自体が否定されかねない。

宮台氏は『生活世界の充実』をキーワードにあげているが、そのためには個々がそれに対して意識的である必要がある。

今までの都市計画のように誰かが全体を考えまず形をつくると言うのではなく、一人ひとりの中の『幸せのイメージ』が豊かになっていく中で、それら一人ひとりの選択したものの総体としてまちが形づくられている、という方向でないと有効ではないのではないか。

そういう意味では、原氏の言う『欲望のエデュケーション』が重要で、それが実践できる人の存在は貴重だと思う。




B078 『住宅読本』

中村 好文
新潮社(2004/06/23)

またもや中村好文であるが、読みやすいのでつい。

1章から12章のタイトル
「風景」「ワンルーム」「居心地」「火」「遊び心」「台所&食卓」「子供」「手ざわり」「床の間」「家具」「住み継ぐ」「あかり」
それらは著者がとくに大切にしている事柄だろう。

あるポイントを押えて、それだけでいいと言えるかがどうかが良い住宅になるかどうかの分かれ目かもしれない。

著者がよく引用する『ボートの三人男』の中の簡素な暮らしを小舟に例える引用

がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要なものだけを積み込んで-生活の舟を軽やかにしたまえ。簡素な家庭、素朴な楽しみ、一人か二人の心の友、愛する者と愛してくれる者、一匹の猫、一匹の犬、一本か二本の愛用のパイプ、必要なだけの衣料と食料、それに必要より少し多めの酒があればそれでよいのだ。

さて、僕にとってこれだけでいいと言えるものはなんだろうか。




B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B050 『地球生活記 -世界ぐるりと家めぐり』

小松 義夫
福音館書店(1999/06)

メーカーさんにもらったカレンダーの写真があまりに魅力的だったので誰が撮ったのだろうと見てみると小松義夫と言う人の撮影だった。
調べていると面白そうな本も出している、ということで図書館で借りてきた。

先進国で暮らす人はそれ以外の人に比べて多くのことを知っていて、多くのものを手にしていると思っている。
しかし、それは本当だろうか。

この本に出てくる先進国とはいえない場所の、たくさんの家はとても斬新だし、壁に描かれた絵は生き生きとし今にも動き出しそうである。
先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

とにかくため息が出るほど豊かなのだ。
それに比べて私たちのつくるものはどうしてこうも貧しくみえるのだろうか。

私たちは謙虚さをすぐに見失う。
浅はかで薄っぺらな知識や、怠けることばかりする意識や、つまらないエゴや、その他もろもろのちっぽけなものを、過信しそれがすべてだと錯覚する。

それらは本当にちっぽけなものに過ぎないのに。

『宗教』という方向には行きたくないが、もっと大きなものを感じ謙虚さを失うべきではないように思う。
これらの家には謙虚さを感じるし、ちっぽけな意識を超えた豊かさを感じる。

佐々木正人の観察によるとフォーサイスの魅力は「有機の動き」すなわち意図を消滅させ外部と一体となるような動きにある。

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。
そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
(フォーサイスのようなものづくり?)

有機と無機の兼ね合い・せめぎあい、ここいら辺に何かありそうだ。




B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井 昭蔵
彰国社(2003/12)

「装飾」というのもなかなか惹かれるテーマである。

アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』ではないが、なんとなく自分のなかで装飾をタブー視することが規範化されてしまっている気がする。

しかし、規範化には注意しなければいけないし、時々装飾的と思えるものに魅力を感じる自分の感覚との折り合いもつけなければいけない。

そもそも、装飾、装飾的とはどのようなものを指すのだろうか。
また、許される装飾と許されない装飾があるのだろうか。

この本でも内井は装飾と虚飾を分けている。
その指し示す内容には若干の揺らぎがあるように感じたが、本質的な部分には確固とした基準があるように思う。

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

その感覚は指宿の高崎正治の建物を訪れたときに強く感じた。
それはとても心地よい空間であった。

装飾=秩序と考えれば、モダニズムのいわゆる装飾を排除したものでも構成やプロポーションが素晴らしく、秩序を感じさせるものであれば「装飾的」といえるかもしれないし、カオス的な秩序の表現と言うのもあるだろう。

いわゆる装飾的であるかどうか、というのはたいした問題ではないのかもしれない。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。(結局、原点に戻ったということなのか?)

また、時にはあえて装飾のタブーを犯す勇気も必要なのかもしれない。

*******メモ*********

人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■「装飾」は合理や理性では割り切れず、感性、好みと言ったようなわけのわからないもの。
■装飾は精神性と肉体性の双方を兼ね備えるもの。
■近代建築のなじみにくさには壁のあり方に原因があるように思う。現代人の心を不安にしている原因は人間が「もの」から離れるところにある。
■水に対しては「いかに切るか」、光に対しては「いかに砕くか」
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。
■しかし、現代建築ではなかなかそうはできない。それは、あまりにも材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況ができているから。
■日本の自然は高温多湿、うっそうとした植物、勢いのある水と声が大きすぎる。そういうところから「単純明快なもの」引き算の美が求められるようになった。

■「わけのわかるもの」ばかりではなく「わけのわからないもの」も必要。
■生活空間には「記憶の襞」のようなものも必要。

■材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況を乗り越えるにはどうすればよいか。
■セルフビルド。流通。生産現場。

■装飾は環境の中に存在する。現在のような(街並み・情報など)ノイジーな環境ではモダニズム的な建物が分かりやすく支持を得るのかもしれない。
■そうではないあり方はないだろうか。環境に埋もれず、秩序を感じさせるようなもの。
引き算ではなく分割。分割でなく・・・




B017 『LOVE ARCHITECTURE KIKI』

LOVE ARCHITECTURE KIKI (2004/10)
TOTO出版


ムサビの建築学科を卒業し、モデルである著者の建築探索エッセイ。
きれいで親しみのもてる写真ときどらない文章が心地よかった。

著者は僕とほぼ同世代だが、途中からモデル業に専念しているので、ちょうど素人とプロの間のような視点で、等身大という言葉が似合う文章(エッセイ)は逆に新鮮でいろいろなものを思い出させてくれる。

こんなふうに生活と建築が溶け合うのがあたりまえな社会になればステキだなぁ。