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構成についてのメモ3

吉岡徳仁によるバーゼル ワールド2009のスワロフスキーブース

きれい、というのと同時に巨大な生物のようで少し怖いという感じがしました。

この動画を見た感じだと、一つの要素の動きに応じて隣接する要素の挙動が決まってくる構造のようですが、個々の要素の関係性によって全体があらわれる一つの例ではないでしょうか。




構成についてのメモ2

全体を感じさせる関係性を持ったモノのネットワークを仮に構成体と呼んでみる。(オートポイエーシス単体と呼んでみたいところだけどまだ良く分かっていないので)

自分とは全く別の存在として構成体がある、ということでも親近感のようなものを感じるだろうが、もし、自分もそのネットワークの一部、構成素であると感じられることが出来るとしたら、それは好ましいことかもしれない。

オートポイエーシスに近づくことが必要かどうかは別として、利用する人や自然環境、その他さまざまな要素を取り込み、それらに応じて現れ方・感じ方が変わるとすれば少しオートポイエーシスに近づけるのではないか。

また、何をどれだけネットワークに取り込めるかが空間の豊かさに関係するように思うのだが、如何に。




構成についてのメモ

建築やってる人だったら一度はリートフェルトのシュレーダー邸のような構成を突き詰めたものを作ってみたいと思ったことがあると思う(?)。

僕もテクニックとしてもっとうまくなりたいという欲求はある。

でも、誰か忘れてしまったけどどこかの設計事務所のHPに、「昔は構成に興味があったけれども、最近は関係性に興味が移ってきた」というようなことが書かれていて、「それも良く分かる。構成のための構成じゃつまんないな」と思ってしまって構成に対する態度を決めかねてるところがあった。

だけど、ちょっとまって。構成って関係性のことじゃないだろうか。

例えば、(厳密には物には厚さがあるけどそれは置いといて)ただの点・線・面・立体を、ちょっと関係性を持たせるような感じで配置するだけで生き生きとした何かが生まれる気がする。
(例えばこんな感じ)
const

僕らの周りの物は全て、何かしらの関係性の中に存在しているし、生物なんてのも関係性のシロモノだといえる。

このあたりは最近ちょっとかじりかけたオートポイエーシスに通じるところがあるように思うし、ただのモノの集まりじゃなくて、関係性を持ったモノのネットワークが全体を感じさせるところにもしかしたら親近感を抱くのかもしれない。

構成そのものを躊躇する必要はなさそうだ。(あえてそれを避けるという発見の仕方もあるでしょうが)

それに自然を拒絶するよりは共存する感覚に近い日本では、デ・ステイルなんかよりはるか昔から洗練された構成それだけで豊かな世界を描いてたんじゃなかろうか。




オートポイエーシスの応用可能性についてのメモ

機能主義からの脱却。
プログラム論→アクティビティ論の延長でとらえる。

オートポイエーシスの特徴や用語を建築的な視点で仮定しなおす。
自律的システム理論の各世代、第一世代「動的平衡システム」、第二世代「動的非平衡システム」、第三世代「オートポイエーシス・システム」の図式化や、建築手法・作品との対応を考える。(どれが正解というのではなく)

といった作業をすれば何か見えてこないだろうか。

さまざまな次元の閉鎖系システムが自律性を保ちながらも共存?しているところに可能性があるように思う。

そもそも生命システムから得たいのは、真実ではなくて関係性をどうやったら扱うことができるかといったヒントである。

オートポイエーシス・システムを例えば個々の人や、複数の人、アクティビティ、部屋やゾーニングや都市計画、また価値観や、機能、構成原理、といったものに置き換えたときにどんな展開が見えてくるのか。

さまざまな次元のいくつもの軸が豊かに関係性を結ぶような、そんなイメージは浮かび上がってこないだろうか。
それによって自然に身を任せるような心地よい自由なイメージは浮かび上がってこないだろうか。

昔考えたことを少しだけ前にすすめられないだろうか。




B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

山下 和也 (著)
近代文芸社 (2004/12)


著者の方からコメント頂いたので読んでみました。

読んでみた感想は、『やられたっ!』です。いい意味で。

本書は2部構成になっていて前半がオートポイエーシス・システムの定義や性質などの説明、後半が「生命」「意識」「社会」といった具体例を基にしたオートポイエーシスの世界の解説となっています。

しかし、本書を読み進めていっても前半では具体例が全く出てこず、著者は見慣れないシステムの定義の説明に終始しています。
具体例が出てこないのでイメージが沸かず、延々と説明をされても著者の一人相撲を観ているようです。
だんだんと腹が立ってきて、何度が読むのをやめようかと思いましたが、第1部の終盤にくるとようやく、その不親切さが著者の意図したことであったことが分かります。

ずっと読んできて気づかれたとおもいますが、ここまで、議論が抽象的になるのも省みず、オートポイエーシス・システムの具体例を全く挙げずに論じてきました。また、具体的なシステムを連想させる述語もできるだけ避けてきました。若干理解しにくくなるのを覚悟でこうした論述方法をとったのは、オートポイエーシスの意味を適切に理解していただくためです。具体例を挙げますと、どうしてもそのイメージにとらわれて、オートポイエーシスの本質が見えにくくなりますので。(p98)

それから後は、それまでの欲求不満もバネになって、なるほどー、の連続です。

オートポイエーシスは普段私たちが見慣れている世界の見方を根本から変えることを要求してくる感じなので、おそらくこういう並びでなければよく分からない印象のまま誤解をして終わっていたかもしれません。

まさに構成の勝利、という感じです。
今から読もうという方も、著者の意図されているように第2部を我慢して第1部から読むべきですし、意味が分からずともなんとか第1部を読み切って下さい。

まだ、ここで説明できるほど理解できているとも言いがたいのですが、何度か繰り返し読むことで理解は深まりそうな予感はあります。

そんな中、最初にオートポイエーシスの本質に触れられた気がしたのは「オーガニゼーション(有機構成)」に関する以下の記述。

この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。

簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)

いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか?

観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。

倉本さんのブログでも書かれている非線形の話や、伊東豊雄さんのスタンス、山本理顕さんの邑楽町役場庁舎との関連を見つけることも可能な気がするし、それとは少し違う話のようにも思う。

このへんはゆっくり考えてみたい。
建築そのものにはまだ還元できていないけれども、アフォーダンス理論では佐々木さんの著書等を通じてものの見方がぐっと拡がったのは確か。オートポイエーシスではどんな扉が開くだろうか。

ドゥルーズなんかとの関連なんかも興味があるなぁ。




B112 『ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成』

富永 譲
鹿島出版会(2003/06)

またまたコルビュジェ。
またまた溜息が出ます。
あ゛ーとかう゛ーとか言いながら読んでいたので妻はさぞかし気味が悪かっただろう。
象設計集団のときも同じように溜息が出たけど、あー豊かだなぁと感じるわけです。
コルビュジェ、吉阪隆正、象設計集団
という溜息の連鎖に、藤森照信が紹介する住宅を加えて、なぜそれらを見ると溜息が出るのかを考えてみると、そこには関わった人の顔が見える気がします。

鹿児島市などの地方都市で特に顕著だと思うのですが、街を歩きながら建物を見ても、そこに見えるのはメーカーやディベロッパーの顔だったり、工場のラインや収支計算書の数字だけしか見えてこない、つまりはその奥に”金”しか見えてこない建物ばかりになりつつあります。
それに関わっている人間の顔が見えてこないのですね。
こんな建物だけで埋め尽くされた街で子供が育つと考えただけでぞっとします。

だけど、先に挙げた溜息建築には使う人の生き生きとした顔だけでなく、設計者がアイデアを思いついたときの少年のように喜ぶ顔まで思い浮かびます。
そんな生き生きとした建物があふれる街のほうが楽しそうだと思いませんか?

あとがきで著者が

具体的な物のキラメキに出会えるような批評、読み込んでいくと、すぐに新たな設計の筆をとりたくなるような研究。本書がそんな類のものになっているかどうかは分からない。

と書いているけど、そんな心配は無用。コルビュジェの作品そのものにそんな建築少年の心を呼び戻す力がある。
ある意味、そんな建築少年、建築オジサンを生み出しているという意味ではコルビュジェは罪な人ですが。

本書を読んで浮かび上がってくるのは、多様な軸、多様な要素、多様な欲求・・・多様なものを重ね合わせ、関連付け、秩序付ける力とそこから飛び出そうとする力が均衡するコルビュジェの建築であり、そこには一つの視点からでは捉えきれない奥行き・多様性がある。
それは、コルビュジェ自身の持つ奥行き・多様性であるし、それがそのまま建築に表れているから、そこにコルビュジェの魅力を感じ取り僕は思春期の少年のように溜息が出てしまうのだ。
あー、こんなにもわくわくしたんだろうなぁ、と。