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リノベーションと棲み家

このごろ、家の近くの住宅が数件立て続けに解体されました。
そのうちひとつはRCの集合住宅として工事が始まっています。
写真の家は内部の壁と天井及び瓦がきれいに撤去され、窓から覗くがらんどうがとても心地よさそうに見えたので、もしかしたらどこか設計事務所が入ってリノベーションされるのかな、と思っていたらあえなく解体されてしまいました。単なる解体の分別だったようです。

リノベーションスクール以降、リノベーションについていろいろと考えたり勉強したりしています。(サイドバーにリノベの項目を増やしたり。)
空き家を見ると、ここにどうやって棲み着こうかと考えたり、どんな人が入ればぴったり来るだろうかと考えたり、明らかに見え方が変わりました。
それは、動物が環境を読み取って巣にしようというのに似ているし、いろんな昆虫がさまざまな環境に棲み着いているのを観察することにも似ています。

ずっと、棲み家という言葉を一つのテーマにしているのですが、そういう点ではリノベーションという方法は「棲み家度」をかなり高く出来る可能性を秘めていて、「地形」的要素をある程度担保されているように思います。
これは既存部分の持っている懐の深さや、既存部分と新規部分の関係の築き方にもよりそうですが、

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。 そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

この【自立的関係性】と【プロセス性】という(地形)の特質を新旧それぞれのレイヤーを意識しながらどこまで高められるか、という所にポイントがありそうです。

そんなことを考えながら、せっかく顕になった(地形)が重機によって壊されていくのを見るのは、自分たちの棲み家を重機で破壊されていくのを指を加えて眺めるしかない動物のようだなー、と思ったり、僕らにはそれを止める知恵、技術と論理を持つことができる、と思ったり。

虹はどちらにかかってるんだろう。




なぜ「棲み家」なのか (展覧会タイトルについて)

なぜ「棲み家」なのか

「住宅」や「家」ではなく「棲み家」。この言葉からどんな事をイメージしますか?
学生の頃にこの言葉に何か魅力のようなものを感じてからその正体をずっと探しています。

この言葉には「意志」のようなものを感じます。
それは「そこに住む」ということに対する意志であり、「環境と関わっていこう」という能動的な意志です。
それは、もしかしたら子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるものかもしれません。
このワクワクを少し大げさに「生きる実感」と呼んでみます。
そういった「実感」はおそらく受身では得られないもので、能動的に環境(自分の身の周りのすべてを指しています)と関わっていく姿勢の中から生まれてくるものだと思います。
また、日常的に環境と関わっていくことが「生活」なのだろうと思います。

「住宅」や「家」はあくまで住人の意識の中で完結してしまっている感じがしますが、「棲み家」という言葉には「隙間」を感じます。
それは、意志の入り込む隙間であり、「環境と関っていける余地」です。
20世紀は合理的・機能的にその隙間・余地を埋めることに躍起になってきましたが、意志や関わりあいの余地のないものは息苦しく「実感」や「生活」を伴いにくいように思います。
僕は建築がそこにいる人と関わりあえる余地を持った独立した存在であって欲しいと思っていますが、「棲み家」という言葉のなかにはそういった可能性、「意志」や「生きる実感」、「生活」の入り込む余地を感じるのです。

今回の展示はそんな風に「棲み家」ってなんだろうと考えながらつくった28点の住宅模型たちです。
実際に手にとったり、模型の中を覗き込んだりしながら、あなたならではの「棲み家」について考えてみて下さい。




「地形のような建築」考【メモ】

今までブログに書いてきたなかで棲み家考の流れから『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』を経て、地形のような建築というのが僕の中で一つのキーワードになっています。

では、仮に「地形のような建築をつくりたい」と言った時どういう論を展開できるのか。取りこぼすものまたは建築になるキモは何かというような事をメモ的に考えてみます。

(地形)の特質とは何か

ここで「地形のような建築」と言うときの地形を括弧付きで(地形)と書くことにして、(地形)の特質は何かを考えてみます。

オノケンノート » 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。

(私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。
この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。

また、敷地と言うものも地形かといえば十分に地形です。
ですが、一般的な造成された敷地に対して(地形)をあまり感じません。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれています。

ですが、平らに造成されてしまった敷地では、すくなくともあるスケールに於いてはそのプロセスが一度リセットされた少数の意思による短期間の結果のみが残ります。

リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。

そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。

以上の二つを(地形)の自立的関係性・プロセス的重層性と仮に呼ぶことにします。(しっくり来てないのでいいのが思いついたら書き換えます)

地形と(地形)

また、一つの地形である敷地に対して(地形)をつくりたいと言うのはどういう事でしょうか。

例えば(地形)の特質を備えた敷地に対してはわざわざ(地形)としての建築を建てる必要はないような気もします。(それはまだよく分かりません)

ですが、敷地・建物・モノその他私たちのまわりの環境から(地形)の特質は薄くなってきているのが現実としてあり、それに対する欲求は無意識のうちに高まってきているのではないか、という気がしています。

そんななかで地形ではなく(地形)を求めることに建築としての可能性があるのではないかと思います。

地形のような建築とは

これはゆっくり考えていきたいですが、(地形)の特質、自立的関係性とプロセス的重層性を備えたものと言えそうです。(特質についてはもっと考える余地あり)

必ずしも形状として地形のようである必要はなく、概念的なレベルで(地形)的であってもいいし、形状から離れた方がもしかしたら面白い発見があるかもしれません。

また、地形ではなくあくまで建築であるためのキモはどこにあるかも考えて行きたいです。
おそらく地形ではなく(地形)の特質をもった”建築”になるボーダーのようなものがあるはずです。

地形のような建築をつくるには

では地形のような建築をつくるにはどうすればいいか。

まず、地形のような建築と言ったときにいくつか頭に浮かんだものを上げてみます。

(A)伊東豊雄氏・藤本壮介氏等の一連の作品
(B)青木淳氏の決定ルール
(C)藤村龍至氏の超線形設計プロセス論やアルゴリズム
(D)マルヤガーデンズの試み

(地形)への憧れはこれらの方の影響が大きいので当たり前ですが、伊東氏・藤本氏・青木氏らの作品は自立的関係性が非常に高いように思いますし、藤村氏の手法はプロセスを圧縮し、恣意性を排除していくように思うのでプロセス的重層性も自立的関係性も高く(地形)を生み出すための手法ではないかという気もします。
また、人の活動と建築の関係を見た場合、ガーデンとしてのあり方を担保しているのは場の自立的関係性だと思いますし、活動という要素は未来に向けてプロセス的重層性が開かれているとも言えそうです。

では、他にどのような手法が考えられるか、についてはおいおい考えていきます。
アフォーダンスやオートポイエーシスのイメージといった自然のかけらとして集めてきたものがヒントになりそうな気がしますが、狙いを定めて建築に落とし込めるまでもう少し掘り下げる必要があります。

「地形のような建築」がとりこぼすもの

おそらく「地形のような建築」と言った場合とりこぼしそうなもの、というのが出てきそうです。

そういうものをすくい上げることで(地形)の特質を備えつつより飛躍するためのヒントが見つかるかもしれません。

そもそも、生活の場が(地形)であるべきなのか、と言うところからじっくり考えてみないといけません。
これについてもおいおい考えていきます。

以上、twitterのブログ版的な感じで、とりあえずをメモ的に書いてみました。

今後もう少し考えて見たいと思います。何かヒントがあれば教えて下さい。




サツマティック報告会

に誘って頂いたので行ってきました。(ってM氏から誘いのメッセージが来たのは今朝。なんでそんなに急やねん!)

場所はM氏プロデュースのハワイアンなカフェ&レストラン『プルメリア』

[gmaps:31.59211440620821/130.5598685145378/17/460/300]Cafe de Plumeria[/gmaps]

ここのロコモコはほんとうまかったっす。(カレーもお勧めだそう)

それはそうと、いろいろな方がいて楽しい時間を過ごせました。

クリエイター系の人がほとんどだったのですが、皆さんいい仕事されてるのに腰が低くていい人ばかり。

近くに座ってお話させていただいたのは、ここでも何度か取り上げた『Region』を企画している渕上印刷の若松さん、写真家の川越さん、デザイナーの江夏さん

話しているうちに、住まうということの本質だとかリアリティだとかの話になって結構自分の気持ちに気付かされました。うーん、面白いなぁ。

地方ならではの独特のリアリティのあり方っていうのに可能性がある気がする。

楽しみにしてたNY展の映像はあまりじっくり見れなかったけど楽しかったからまぁいいか。(そのうちまた見せてもらおう)

ほんと 関係者でもないのに誘ってくれたM氏に感謝です。またよろしく!(乱文失礼)

(NY展に出展された方々と是非ゆっくり話したい、と思ってたのですが声をかけきれなかった相変わらずのヘタレです・・・。)




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。