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B167 『自然な建築』

隈 研吾 (著)
岩波書店 (2008/11/20)

図書館でなんとなく手にとった本なのですがこのタイミングで出会えて良かったなと思えました。
僕の不勉強もありますが、隈さんの印象が少し変わったように思います。何というか隈さんの身体性に初めて触れられた気がしました。(テーマのせいもあってこれまでのキレてる印象が少し和らいだ分、僕的には”届いた”本でした)

今まで全く意識したことなかったけど、技術に対する意識という点で隈さんと藤森さんって似ている所があるかもしれません。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B117 『藤森流 自然素材の使い方』

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

こういう風にして引き寄せられる何かに対してすごく興味があるのですが、もっと外に飛び出して足と手を動かさないといけないなという反省と共に、ほんの少しずつでも前に進んで行きたいと勇気をもらえました。

P.S
いっちーに隈さんの出演しているこの本を話題にしたラジオを教えて頂きました。
ラジオ版学問ノススメSpecial Edition隈研吾(建築家)[2009/02/01放送]




B154 『構造デザイン講義 』

内藤 廣 (著)
王国社 (2008/08)

東大の土木学科への講義をまとめたもの。

内藤氏の建築や言葉には大切な根っこの部分に対する深い哲学が詰まっていて、いつもちょっと待てよと立ち止まらせてくれます。

まずは備忘録も兼ね気になったところをいくつか抜き出してみます。(原文のままではなくはしょったり強調したりしています。)

デザインとは翻訳すること
・一つ目は「技術の翻訳」技術が生み出す価値を一般の人が理解できるようにすることによって、技術は初めて社会に対して開かれたモノになる。
・二つ目は「場所の翻訳」構築物が存在する場所の持っている特性を理解し、誰にでも分かるような姿形としてデザインに活かす。その場所に存在する必然性。
・三つ目は「時間の翻訳」その場所に流れている時間を理解し、想像する感性が必要。歴史について学び、敬意を払い、その上でそれを受け継ぎ、未来に対して提言する。

スチールとコンクリートは人間の思考が持つ根源的な二つの性質が内在している対照的な素材。
スチールは父性的。整合性を欠くことを嫌い、「意志的」。構築的であるが故に禁止事項も多くストイック。
コンクリートは母性的。受容的、受動的で、人間の様々な要求を受け入れてくれる。
・また、コンクリートは「時を刻む素材」。コンクリートは化学材料であり、鋳物のように流し込んでつくられる材料であり、不純物であり、不均質であり、そして大地を呼吸し、エイジングしていく材料

本当のエンジニアとは何か
コンクリートを打設しようとしている時に小雨が降ってきた場合、その人の経験と見識でその現場をとめるかどうかの判断ができる人。
要領よくできることではなく、予想外のことが起きた時に適切な判断ができる、経験と見識と倫理が備わった人間が本当のエンジニア。

「木」があまりにわれわれの文化の基層を形成しているために、たとえ問題があるにせよ許してしまう心理がわれわれの中にある。これが「木」に対して思考停止を招いている。設計の中に何かを求めようとする人は、自らと社会の中にあるこの思考停止と意識的に戦わなければならない

構造計画全般にも言えるが、特に木造の場合は「部分の系と全体の系をどれだけ往復できるか」が重要になってくる。

これからは経済性も考えながら構築物に「リダンダンシー」をどうしたら持たせられるかが課題になる。

情け容赦ない非情な技術というものを人間の感情やモラルにどう繋げられるか、これがデザイン。技術を繋ぎ合わせて新しいビジョンを打ち出し、いかに人間生活や人間社会に対して構築するか、つまり文化として租借し得るか。

新しい構造、それは建築的な価値とは無関係。本当の意味での建築的な価値とは、「技術と芸術が結び合ったその時代の精神の現れ」

本著の中でも自分の頭で考え、感じることの大切さについて再三書かれています。

オノケンノート ≫ B020 『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』

今、頭と身体、感覚をすべてこんなにうまく使える人は珍しい。 仕事が「頭でする仕事」と「身体でする仕事」に分けられてしまったため、一人の人間の中から引きはがされてしまったように思う。 (中略) どうしたら、「建築」にこういう仕事の仕方を引き寄せられるだろうか。 それは、僕が建築を続ける上で重要な問題だ。

今はパソコンがあれば机上の上で何でもできてしまうような錯覚に陥りがちですが、モノの振る舞いを身体的に理解することは危険を察知するという意味でも、空間の質を決定するという意味でもとても大切です。
おそらく内藤氏の空間が独特の空気感、時間の流れやモノの存在を感じさせる空気感を獲得できているのはこういう感覚に対する誠実さのためだと思いますし、それは僕の中のちょっとしたコンプレックスでもあります。

オノケンノート ≫ 技術

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。
(中略) 専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。

モノを身体的に理解し、技術の問題から建築を引き寄せること。

そのために具体的に何ができるか。真剣に考えていかないと。




ジェラシー

テレビでチラッと見かけてずっと気になっていたこの集団

残念ながらアートマーケットには行くことができず面識もないのですが、やられたっていう感じのポジションです。

前に書いた技術の問題
オノケンノート ≫ B117 『藤森流 自然素材の使い方』

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

技術を身近なところにひきよせることに成功している(チャレンジしている)ように見えるし、僕自身がまだ全然できていないところをいい感じでやっているのでちょっとしたジェラシーです。

僕も手を動かすのは好きな方ですがまだまだですね。(集団っていうのもいいし。)




模型の精度


ようやく一つ目の模型が出来上がりそうです。


模型は作っているうちにだんだん精度もスピードも上がってくるのですが、精度が上がればそれでいいというものでもない気がします。

あまりカチっと作ってしまうと表情が硬くなりすぎてしまうのですが、実際にホンモノを作る際は今の工業製品の組み合わせによる作り方だとその硬い表情の方が容易で、表情を崩す方が手間もコストもかかります。

模型を作るときの手仕事によるムラのようなものを実際に作るとなると藤森さんのように技術に踏み込む方法か、ムラそのものを抽象的に捕らえなおして工業製品の高精度でそれを再現する方法(伊藤さん、藤本さんがそうでしょうか)があるように思います。

模型のムラからも発見できることがあるのですが、1/100模型だと、実際に模型を見て感じる精度と写真にしたときに感じる精度が違うのは困ったものです。

一番厄介なのをやっつけたので、明日からは『metabo-baby』の模型にはいってばんばんつくるぞー。




B144 『虫眼とアニ眼』

養老 孟司 (著), 宮崎 駿 (著)
新潮社 (2008/1/29)


マティックさんのところで紹介されていて面白そうだったので即買いしました。
2002年に出版されていたものの文庫版のようです。
これが460円で手に入るのですからありがたや。

宮崎駿が

養老さんとは、ぶつかりようがありません。相違はあるにはありますが、それはそれでよかろうという範囲でしかありません。

と書いているように、内容についてはこれまで読んだ養老孟司の本からそれほどはみ出るものはなかったのですが、巻頭の宮崎駿によるスケッチだけでも十分にもとがとれました。

この夢の町、かなりの部分で共感できたのですが『建増禁止、景観変更禁止』というのはちょっと反対。
それじゃ、マチが死んでしまいそうだし、誰かが考えたものから変えちゃいけないって言うんじゃテーマパークと変りません。

文字通り”脳化社会”を”絵に描いた”ようなマチになってしまうような気がしますがどうでしょう。

関連していうと、(体験していないので実際は違う可能性もありますが)荒川修作の作品が机上の理論を越えられてない印象をうけるのは技術の問題に踏み込めてないからのような気がします。そういう意味では藤森照信のほうが技術から何かを引き込んでいます

いろいろと制約があるなかで、実際に身体性のようなものを引き寄せるのは容易じゃありません。ではそういう制約の中でどうしたらよいかというのは難しいけれども面白い問題ではあります。

それはそうと、こういう保育園だれかつくらせてくれないかなぁ。




B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

Amazonで購入
書評/国内純文学


『本が好き!』経由でこの記事を読んでどうしても読みたくなってしまいました。

図書館にも著者のものはたくさんあったのですが、あえて1985年初版の本書を書評にしているところに興味があったので取り寄せて読むことに。(AmazonではなくOPSIAのHPで取り寄せ買いに行きました。)

いろいろと心に残るエピソードが載っているのですが、その中に、『ヨーロッパに負けないホルンを作ろうとして99.99%同質な真鍮を作ってホルンを作ったがよい音が得られなかった。研究した結果その差は99.99%の真鍮にあるのではなくて残りの0.01%の不純物にあることが分かった』、というものがありました。

塩やブランデーの味の違いも0.何パーセントかの不純物にあるそう。

そのエピソードを話してくれたという機械メーカーの社長さんはこう続けます。

「今の世の中はね、99.9パーセントばかりに眼がいってしまっている。ほんとうのモノづくりというのは、実は残りの0.1パーセントをどう作るかにあるんだということに気がついていないんですねぇ」 (p.40)

あぁ、こういうことなんだろうなと思いました。

パレートの法則ではないけれども、”豊かさの99%は1%の制御できない部分に含まれている”とか言ってみたくなります。(99%というのは大げさかもしれませんが)

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。

それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

その99%に目を向ける方が分かりやすく簡単なのは分かります。しかし、あまりにも皆がそちらの方ばかり向きすぎではないでしょうか。

”1%の何かが決定的にたりないもの”ばかりに囲まれた生活環境ってやっぱり何か哀しくはないでしょうか。

(僕はこればっかり書いてるけど)そうやって、リアリティーが身の周りから失われていってハリボテ化していくのは僕は嫌ですね。

30%は面倒なことが残るけど、決定的な1%は失われていない、っていう方を 選びたいし、実はその30%が決定的な1%をより活き活きとさせることだってあるのです。

寿司ロボットの出現で、安価な寿司が気軽に食べられるようになったと喜んでばかりはいけない。あれは、寿司のようなもの、寿司もどきにすぎない。こわいのは、寿司のようなものばかり食べさせられているうちに、人間は本当の寿司の味を忘れて、のようなものを寿司だと思い込む、ということにある。(p.188)

こんな風に、20年以上も前から危惧されてたことではありますが。

偶然にもunder’s highの『職人』っていうテーマとシンクロした本書、個人的に興味のある部分をクローズアップしましたが、働くってどういうこと、っていうのをとても考えさせられる本です。(あえて引用等はしませんので自分で読んで感じてみてください。)

かえる文庫の『高校生に読ませたい本』にぴったりだと思うのですが、こういう感じをいいなぁ、と感じる感受性が今の高校生の中にもまだ生きてるのでしょうか。

おじさんとしては『昔話じゃん。』で済まされないか、 ちょっと不安。。。




Region NO.09

鹿児島にはもう一冊、質の高い文化的フリーペーパーがあります。

それは、友人も企画に係わっている渕上印刷のRegion

昨日垂水に打ち合わせに行ったときに 市役所の待合に置いてあったのでもらってきました。

そういえば特集は『焼酎遺産』。かごしま探検の会の東川さんが取材を受けたと言ってました。

帰りのフェリーで読んでみると、いくつかの文章が心に残る。

まずは冒頭の岡田氏のエッセイ『「どうだ」より「どうぞ」の美学』より

在来の素材は、確かに水や雨や風を「どうだ」と遮ってはくれない。(中略)しかし、そのぶん人の気持も優しく受け止めてくれる。(中略)ただ私は、「どうだ」とそびえる二百メートルを越すガラス張りのビルより、二百年を経て「どうぞ」とたたずむお堂に心が和むだけだ。(中略)
柱のはしばし、梁のすみずみ、甕の肌のきめのひとつひとつに、そこにただよう菌や気や人々の思いが息づいている。容れるものと容れられるものが相通じる。

まさしく僕が大切にしたいと思っていること。『容れるものと容れられるものが相通じる。』状態なんて本当に理想です。いや、ほんと最後の一文はそのまま僕の理想として掲げてもいいぐらい。
次に東川さんの文章

遺産というものは、単なる遺物または過去の物ではなく、現在の社会といつかの時代とを「文化」や「物語」で結びつける関係性の象徴だ、と私は思う。つまりこれまでとこれからの両方を伝えるものであり、また遺産のある地域の表情を伝える役割を担うものであるとも考えている。

いまのものづくりの多くに決定的に欠けているのはこういう時代を超えた視点と関係性をつむぐ想像力だと思う。それにしても東川さんはこういう艶っ気のある文章も書けるのですね。さすが。(艶っ気のある全文はregion読んで下さい。)

最後に大石酒造の大石社長の言葉より。

焼酎造りにおいて、常に一定の味を保つことは確かに重要かもしれません。しかし、自然の材料を使っている以上、たとえば芋の状態によって去年と今年では当然味は変わるわけです。そのゆらぎの幅を許容することで、古い技術や設備が受け継がれていくのではないかと思います。

伝統に真正面から向かい合っている人だけあって言葉に重みがあります。このことは全く建物についても言えます。『ゆらぎの幅を許容する』ゆとりの精神、これを持てるかどうかでうまい焼酎を毎日飲めるかどうか(建物についても同じ)が決まってくるように思います。
しかし、実際はこのゆらぎを全く認めないような世の中になってきているようで怖い。(関係する視点でイトイさんが管理について語ってます。「前回」の文から読むと面白いですよ。)

(引用中の強調はオノケン)




B117 『藤森流 自然素材の使い方』

藤森 照信 (著), 大嶋 信道 (著), 柴田 真秀 (著), 内田 祥士 (著), 入江 雅昭 (著)

彰国社 (2005/09)

技術とは何だろうか。と考えさせられる。
藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。
だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。
それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

藤森さんは自分のことを建築家というよりは職人だと位置づけているようだ。
専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。
今の建築は気を抜けばすぐにカタログから選んだ工業製品の寄せ集めになってしまう。(その原因に技術に対する恐れが多分にあると思う)
工業製品を一つの素材と捉えて、そこに命を吹き込むこともできるだろうが、それを意識的に行うのは相当な腕がなければ難しい。

なんというか藤森さんにはコルビュジェと似た匂いを感じる。(きっと本人も自覚していると思う。)
コルビュジェが庭園を語りながら、建築が植物に飲み込まれるのを恐れて植物から距離をとった、というような分析があったが、 なんとなくそれに対するリベンジのような感覚じゃないだろうか。だけど、藤森さんのやってることはかなりギリギリのところだと思う。
自然と人工の関係を扱うには藤森さんのような濃さとバランス感覚がないと、あっという間に胡散臭いエセ自然になってしまう。
藤森さんの建物でさえ、そのまま屋久島なんかに持っていったら自然に飲み込まれて胡散臭いシロモノになってしまうのではないか。藤森VS屋久島是非対決を見てみたい




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。