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『Open Your Sense.』


文法的にあっているか自信はないが気に入っている


この言葉は自分に言い聞かせるつもりでロゴに入れた。

sense

━━ n. 感覚(器官) (the five ~s 五感); 感じ ((of)); 意識, 勘 ((of)); (one’s ~s) 正気; 分別 (a man of ~); 意味; 意義; 多数の意見, 世論 (the ~ of the meeting 会の意向).

━━ vt. 感じる, 気づく; 〔米〕 理解する; (機械が)探知する; 【コンピュータ】(情報を)読み取る.
sense-datum【心】感覚単位 ((対象が感覚に直接与える刺激)); 【哲】感覚所与.

三省堂提供「EXCEED 英和辞典」より

センス [sense]

物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。
「ユーモアの―」「―に欠ける」

三省堂提供「大辞林 第二版」より

「センス」ってなんだろうか。

僕は、上の引用にもあるように「感じ取る能力」だと思う。

「あの人はセンスがいい」というとき、その人はその通り感覚が研ぎ澄まされているのだ。

感覚は使わないと鈍る。

絶えず自分の中にわずかに起こる機微を感じ取るためのアンテナを張っていないといけない。

「センスがいい」人は絶えずその努力を怠っていない人だ。

この前うちの相方に人に対する接し方を注意された。
鈍りきった感覚を指摘された。
なんとなく自分でも分かっていただけに結構へこんだ。
僕は時々おかしくなる。

『Open Your Sense.』

感覚を開こう。

自分に言い聞かせているのだ。

考えるだけじゃなくて感じ取ること。

sensibleであること。

それはおそらく豊かな生活に最も必要なこと。

『茶色の朝』に怯えるだけではあまりに寂しいのでちょこっと考えてみた。




B020 『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』

壁の遊び人=左官・久住章の仕事 久住 章 (2004/12)
世織書房


カリスマ左官師と言われる著者であるが、
「本当に自由なおっちゃんやなぁ」
と言う印象を強く受けた。
「遊び人」というタイトルも伊達じゃない。

好奇心旺盛に、知識と知恵を動員し自らの手で試行錯誤しながら、職業や、国や常識やいろんなものを飛び越えて新しいことを吸収していく。
その姿は本当に自由だ。
職人というと「決められたことをきっちりこなす人」という印象があり、技術や伝統に縛られてそこから出ようと考える事も少ないように思うが、そんなことにはとらわれずに常に新しい可能性に目が開かれている。

一点に立ち止まらずに常に流れ続け、自由に見えるその姿をちょっと、ドゥルーズの思想に被せて見てしまう。

ただし、著者が経験を積み重ねるには、新たな技術を習得するまでの時間的・経済的な負荷を受容する、施主の懐の深さが必要であっただろう。

そこに時代の豊かさを感じずにはいられないが、著者の遊び人的気質と、トータルに物事を捉える親方的気質、先見性といったものがそういうチャンスを呼び寄せたように思う。

それはやっぱり才能でもある。
自分のやるべきことを見つける嗅覚と、オリジナリティーはナカタやイチロー並みで、

「左官界のイチロー」

と、呼びたいぐらいだ。

技術というのは頭で考えてする部分と、身体に覚えさせてする部分とがある。(中略)しかし逆に、今まで身体だけでやっていた技術を、頭でどう処理して変えていくか、それを考えようというのです。(中略)「この技術はこうやる」というのは時間が停止した状態なんです。(p.188)

今、頭と身体、感覚をすべてこんなにうまく使える人は珍しい。
仕事が「頭でする仕事」と「身体でする仕事」に分けられてしまったため、一人の人間の中から引きはがされてしまったように思う。

僕も「頭」にどうしても偏りがちになる。
本当は身体を動かしたり、「試行錯誤」を繰り返したりすることがとても好きなのだが、そこからは遠のきがちになる。
どうしたら、「建築」にこういう仕事の仕方を引き寄せられるだろうか。
それは、僕が建築を続ける上で重要な問題だ。

時には藤森照信や象設計集団にあこがれたりしてしまうのである。

だいたいが楽天的な人間なので、あまり後ろ向きには考えないんです。根っから、楽しんでやってやろう、というせいかくなので、苦労を背負い込まないんです。だから、苦労に苦労を重ねてこんな成果が生まれた、という感じはない。むしろ、こんなに楽しんでこんな成果が生まれた、という感じです。(p.195)

そう考えたら、「決まり」というのはないのだと思えてくる。「何でもあり」だと思うのです。左官だからこういうことだけやれればいい、などということは全然ないんです。楽しくて面白くて、自由でいられる、それが僕にとっては最高なんです。(p.196)

正しいか正しくないか、とやりだすと、どんどん世界が狭くなるんです。広がらない。そういうのは僕の望む人生ではないんです。(p.200)

こういうところだけみると、今の若い世代の(一部の人が持つ)自由さや可能性のようなものを感じる。
若いなー。
若者よりずっと若い気がする。

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偽物の氾濫

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偽物の氾濫

昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。

例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。

自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。

大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。

偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。




感じる機会

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感じる機会

いつからか、人は目に見えるもの、はっきりと証明できるもの意外は信用しなくなってきたように思います。

人間の感じる力が退化していくのではないかと危惧することはないでしょうか?それは、単なるノスタルジーであるかもしれませんが、何かを失っていくように感じます。

分かりやすいこと、便利なことは、ある意味で快適なことではありますが、それは与えられることが多いゆえ、じっくり考えたり感じたりする機会を奪ってしまいます。

「旅行が雑誌やテレビで見たものの単なる確認作業になり、写真をとることでその確認の証明にしている。そして、そこでの生の体験や発見を見失っている。」というようなことが言われますが、それも利便性などと引き換えに感じる機会を失っている例ではないでしょうか。

光や色、音、匂い、感触などを感じることによって得られるものはたくさんあります。音や匂いがある記憶を呼び覚ます、という経験は誰にでもあると思いますが、そのような機会を失いつつあるように思います。

そのほかにも、動物の本能に驚かされるように、人間にもさまざまな感じる力があると思います。僕を含め、その力を無駄にして生活していることが多いのではないでしょうか。それはたぶんもったいないことのような気がします。