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B136 『これが建築なのだ―大竹康市番外地講座 』

OJ会 (編集)
TOTO出版 (1995/09)


前から読みたいなーと思ってたところ、本屋で出会ったので買ってしまいました。

象設計集団の中心的なメンバーだった大竹康市が1983年にサッカーの試合中に倒れ帰らぬ人となりましたが、それから10年以上が経った後に彼の言葉やスケッチをもとに考え方をまとめたものです。

名護市庁舎はいろいろな意味で奇跡のような(それでいてあたりまえの)建物だと思っていて是非見てみたいと思っているのですが、そこへ到る過程なんかも記されていてとても面白かったです。

目次

第1部「地域・建築・集団設計」
第2部 11の講座(穴
露地の素
環境構造線
精神を開放する
風の道
呼吸する外皮
地域に飛び込む
形姿の魔力
集団設計
我々に「切り札」はあるか
幻の風景)

特に、『地域』というものに真剣に向き合っていて、そこでの考え方は今でもとても参考になるものでした。
同じ象設計集団の富田玲子さんも参加されていたシンポジウムで
オノケンノート ≫ 鹿児島のかたち・地域のかたち

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

という感覚があったのですが、その先が少し見えたような気がします。

その中でも吉阪隆正の提唱していた『発見的方法』というものはもっと注目されても良いと思うのですが、それに実際に取り組む様子が垣間見えてすごく参考になりました。

その中で『新堀川イメージ・トレーニング|発見的方法の実践|課題大竹康市』というものがありました。(学生に出した課題でしょう)
それがこの『発見的方法』をイメージするのに良さそうなので、少し長いですが途中省略しながら引用します。

・我々をとりまく環境はマチやムラなどの集落にしろ、山林、田畑などの自然系にしろ人類の創造の集積である。
・モノをつくることはこれらの集積の中に仲間入りすることである。新たに仲間入りするのだから、当然におたがいに影響しあう。ある期間を経て、集積の中に埋没し、次の仲間を待つ。
・仲間入りするにあたって、現在あるモノの姿を見て、その環境がどのような経過を経て形成されてきたのか、また、どのような方向に進んでいこうとしているのかを読みとらねばならない。
・さらに一歩進んで望ましい未来を読みとりたい。これが建築家の役割である。
(略)

■第1段階の作業方法
最低10ヶ所のスケッチをする。(略)そのポイントは作業の第2段階の主旨を考えながら行うこと。

■第2段階の作業方法
新堀川沿いの風景の変遷を段階ごとにスケッチにまとめる。重要なことは歴史の授業ではない。現存するものを見て、イマジネーションを豊かにして描き出すことだ。(略)
今考えうる段階としては以下の通り。しかし全くこれを無視しても構わない。
A・人類以前の風景・人類が定着しだした頃の風景(勇気を持って描きぬく)
B・ある安定した、よき時代の新堀川沿いの風景。(土地の人々からのヒヤリングが必要かもしれない)(新堀川沿いだけでなく、市内のアチコチにヒントがあるかもしれない)
C・時の流れの中で、暮らしや生業の変化、建材の変化などで個人の手でゆっくりと変ってゆく。(造・改築の方法などに表れる。)この段階での変化をみきわめることは重要。
D・近代的な経済の渦の中で変化した現在。マンション、大型駐車場など。

■第3段階の作業方法
新堀川沿いの風景がこれからどう動いていくだろうか。
E・A~Dまでの動きから、こうなってゆくだろうと思う近い将来の姿(これはあまり望ましい姿ではないようである)
F・A~Eの作業を通して、自分で望ましい将来の風景を描く(幻の風景として)

■第4段階の作業方法
今、マンションの一戸分程度の土地を与えられた。
幻の風景に向けて、いま何をすべきか。

提出要項/A1ケント紙に第1~第4段階までまとめる。
(略)
第4段階はきわめて高度の作業である。
ギブアップしても減点としない。
むしろ、第2段階、Cを発見することが重要である。
すべてフリーハンド。彩色、コピー、貼り付けなど表現は一切自由。

と、こういうものです。
観察し、想像し、幻の風景を描き、それに向けて何をすべきかを考える。

また、この幻の風景は単なる現状認識の延長にはとどまらないようです。

このような発見的な方法によって新しく構築された風景を基盤にして創造へと飛躍してゆきます。それには、さらに想像力を豊かにしてゆくことです。四季や気象、太陽や宇宙の変化による鮮烈な断片のイメージをこの風景の上に刻み込みます。
過去や予測され得る将来をはるかに通り抜けて、その地がジャングルだった世界、氷で覆われてマンモスが走っていた世界、遠いSFの世界などのイメージをオーバーラップしても良いのです。(略)
このように現実の風景から出発し、次第に姿を変え、さらに時空やスケールを超えたイマジネーションのキレギレの断片を寄せ集めて構築した風景を「幻の風景」と名付けました。(略)
私達は建築の設計を通してこのような幻の風景を追いかけているのかもしれません。

今、こういう事を声高に言う人はなかなかいないんじゃないでしょうか。
恥を恐れず勇気を持って描きぬく、そういう強さを感じます。

建築の現場においてこういう発想が入り込む余地、というか余裕のようなものがますます忘れられていくように感じてしまいますが、まずは幻の風景を描くことから始めていく必要があるように思います。

ということで、よろしければ『かごしまのじゅうぶんのいち』の方にも何か書き込んでくださいな。(もしも、共感できるようでしたら宣伝もしてくださいな。)




B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




地主たちはどんな戦略をとるべきか?

『遺伝子レベルとのフラクタルな関係で地域経済というものを捉え』るところが面白かったので脊髄反射的にエントリー。
自然選択説[Wikipedia]等参照。この分野の本、読みたくなったなぁ。いろんな説に従って先の記事の地主がどういった選択をするか描くと面白いかも。というか誰かやってくれないかなー。)

「いや、個人レベルだけで考えればそうかもしれないけど、もう少し俯瞰して考えればこういう行動とったほうが合理的じゃないっすか」ということはあると思う。

それと、囚人のジレンマと決定的に違うことは 『彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。』という条件がないということ。

『二人とも懲役2年ですめばハッピーじゃん』という合意をとりあっての選択だってできると思うし、僕にはどう考えたってこの選択が一番合理的に思える。(この場合も裏切りの可能性は残るが、それなら契約を結べばいい。)

後はイマジネーションの問題。

ハッピースカウターの代わりになるビジョンや達成感を得る仕組みがあればいいし、それにはそれを理解するイマジネーションと共有するために可視化するイマジネーションが必要。

あと宮台的には コモンズ、どういうゲーム盤にしたいかというイマジネーションと合意。

まぁ、それを”描く能力”が一番不足してるのかもしれないけど。

こういう進化論みたいなのに詳しい人、最新の理論では地主はどう行動するのか教えてー。

(あと、まだよく読んでないけどこの辺にヒントがないかなぁ)




B126 『無有』

竹原 義二 (著), 絹巻 豊 (写真)

学芸出版社 (2007/03)
竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。

文章と図面と写真を行ったりきたりしながら頭の中で歩き廻ると、様々なシーンが浮かび上がりその奥行きの深さにどんどんと引き込まれる。

この歩き廻る作業を何度も繰り返せば相当な力がつくんじゃないだろうか。建築を学び始めた人には是非ともおすすめしたいし、何年か後に読み込む目が育ってから歩き廻ると全然違った新たな発見があると思う。

ところで、ズレやスキマ、余白といったものが光や素材や人の動きを通して、奥行きや豊かさに変わっていくのだけど、そういうものは無駄として捨てられてきたものでもある。安さと機能性を求めるだけではなかなか辿り着けないものだし、実物なしには説明のしにくいものでもある。

坪単価という指標だけで見れば決して安くないものも多いと思うけれど、それを説得して実際の空間に仕立て上げられるのがやっぱり実力なのだろうなぁ。

ちなみに、各章の見出しは以下のとおり。

序章建築の原点
1章手仕事の痕跡
2章素材の力
3章木の可能性
4章内へといざなう
5章ズレと間合い
6章つなぎの間
7章余白と廻遊
8章「101番目の家」へ

僕の中での別の永久保存版に通ずるものがあります。(日本建築というものの奥の深さには計り知れないものがある。)

あと、メモ代わりに2箇所ほど引用しておきます。

いわゆる一室空間は、人つながりの壁と天井、床で囲まれ、おおらかな空気をもつが、空間がその内側だけで完結しようとする。それが一室空間の弱さでもある。これまで述べてきた素材の力、区間の連続性や内と外の曖昧な関係といった試みは、一室空間というよりは、ひとつながりとなった空間の中で、様々な要素が様々な密度でずれ、その中で意識的に「間合い」をはかり、無数の関係性を結ぶために仕掛けられたものである。このような空間は、一室空間に比べて寸法は緊密になるが、心理的な奥行きや拡がりをもたらすのである。

こうして「間」を保ちながらつながっていくという微妙な関係が形成される。それは物理的には限られた空間に、いかに拡がりを与えられるかという工夫であり、極めて日本的な感覚である。住まいを分節し、その間を外部空間で結んでいった時、自由度のある住まいが住まい手の意識を鮮烈にし、想像力を掻き立てる。そして人が訪れるたびに異なる出会いが生まれることで、空間に対する奥行きも変化するのである。




私と空間と想像力

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自己と世界

「私のいる空間が私である」ノエル・アルノー

自己と世界との関係ははるか昔から人間にとって主要なテーマでありつづけました。

普段私たちはこういう事は考えることもなく私は私で世界は別にあるものと感じていると思います。しかし、音楽の世界に浸っているとき、大自然に包まれているときなど、何か自分の世界が広がり、世界と一体になったような感覚は誰でも感じたことがあると思います。僕にとってそのひとつが屋久島での体験でした。

領域の拡大

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

建築的な話をすると、家の中心に階段があるとします。その階段をのぼらなくても、階段は登ることを想像させその上の部分にまでイメージを広げます。また、快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げます。さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながっています。

鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれます。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。

「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。