1

B146 『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』

宮台 真司(著)
世界文化社 (2008/11/11)

昔ほど突き放した感じがしなくなってきた著者が14歳(から)という年齢に対してどういう風に書くのか興味があったのと、もしかしたら『チャート式宮台真司』的な読み方もできるのかなと思い早速読んでみました。

【 目次 】
● まえがき これからの社会を生きる君に

1. 【自分】と【他人】 …「みんな仲よし」じゃ生きられない
2. 【社会】と【ルール】 …「決まりごと」ってなんであるんだ?
3. 【こころ】と【からだ】 …「恋愛」と「性」について考えよう
4. 【理想】と【現実】 …君が将来就く「仕事」と「生活」について
5. 【本物】と【ニセ物】 …「本物」と「ニセ物」を見わける力をつける
6. 【生】と【死】 …「死」ってどういうこと?「生きる」って?
7. 【自由】への挑戦 …本当の「自由」は手に入るか?
8. BOOK&MOVIEガイド …SF作品を「社会学」する
●あとがき いま【世界】にたたずんでいるかもしれない君に

途中、やっぱり突き放すのねと思いながらも、読み進めていくうちにちゃんと理解できるようになっています。

納得するかどうかは人それぞれかもしれません。でも、この本は宮台真司はちょっと苦手って言う人でも比較的受け入れやすいように懐深く書かれているように思いますし、社会学者・宮台真司ではなく宮台真司・個人として語りかけてくるような書き方なので自分との距離を計りながら一個人の意見として読めると思います。

<社会>や<世界>から考えてみる、という考え方があることを知ること

少なくとも僕は、子供の頃にこういうことを大人から言われたことはありませんし(本を全く読まなかった、っていうこともあるけど)、<社会>や<世界>、<歴史>との関わり方をきちんと意識して考えたこともありません。

それでも、思春期を過ごす中で自然と<社会>や<世界>との距離を計りながら育つことができたように思いますが、それは時代や環境に恵まれていた、という面が大きかったように思います。

しかし、今の子供たちは「<社会>や<世界>との距離感をはかる」ことがずっと難しくなっているように思います。

・この本でも書かれているように<共通の前提>が通用しなくなってしまったので、各々が判断・選択せざるを得ない。
・しかし、いろいろな情報・結論が簡単に手に入ってしまうために、また、いろいろな種類の人と接する機会が減っているために、「考える」チャンス・「試行錯誤」のチャンスを逃しやすい。

というような状況の中で<社会>や<世界>から考える、という考え方があることに気付かずに<私>という狭い視界の中をさまようことは苦しいことだと思います。

僕は最終的には<私>に還らざるを得ないと思いますし、『すべてがデザイン』という姿勢が今の社会では生きやすいんじゃないかなと思うのですが、<社会>や<世界>を一度通してから<私>を考えた方が楽だったり『デザイン』しやすかったりすることも多いように思います。

そのためにも、『<社会>や<世界>から考えてみる、という考え方があることを知ること』も必要だと思います。

「試行錯誤」「承認」「尊厳」の循環と「感染」

「試行錯誤」「承認」「尊厳」の循環のメカニズムのところはすごく重要だと思いました。
この循環を理解することによって、他者や社会というものが理解しやすくなると思いますし、それは社会に生きるものにとって基本的な事柄のような気がします。

また、親としても「承認」の意味と役割をじっくり考えてみることは、子供の「試行錯誤」と「尊厳」を支える上で有益でしょうし、(自分の親がそうであるように)子供にとって少しでもよいので「感染」できるような対象でありたいと思いました。

あまり詳しくは書きませんので、詳しくは本書を読んで下さいまし。

その他考えたこと

個人的には「卓越主義的リベラリズム」と「エリートが尊敬される社会」というところはどうなんだろう、と思いました。

個々がある程度の「選ぶ能力」を身につけなければ、誰がより良いルールを作ってくれる人なのか判断がつかないし、そこが今でも一番のネックのような気がします。任せるべき人が分かれば任せますよ、と。
また、エリートが尊敬される社会になるためには、エリートに代わる言葉が必要な気がします。
「エリート」と言う言葉には期待されている意味合いとはあまりにもギャップのあるイメージがつきすぎている気がしますし、もし、そのギャップが埋まるぐらいに大衆の意識が変るとすれば、その時には選ぶ能力も身についているんじゃないかと。

この部分を読んだ僕の感想としては、卓越した専門家が必要なのは当然だとしても、その人を選べるような、一定の判断力を備えた人が多く育つことの方が重要じゃないだろうかという気がします。
インターネットを通して、そうした「判断力を備えているであろう人」の意見に接する機会は増えていますが、もっと身近なコミュニティの中、例えば友達だったり、職場の人だったり、行きつけの散髪屋やもちろんたこ焼きやだったりの、顔を知っていて信頼できる範囲の中で10人に1人が高い意識を持ち、その中の何人かが一定の「選ぶ能力」を持った人になれば、波及効果でかなりの効果が得られるように思います。
(これについては「どこか」に書こうかな。。)

その、身近な人が必ずしも正確な判断を下すとは限りませんが、そういうばらつきも含めて良いのではないかと。そんな事を考えました。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




B110 『M2:ナショナリズムの作法』

宮台 真司 (著), 宮崎 哲弥 (著)
インフォバーン (2007/3/1)


こちらも本が好き!より。
honsumiさんの書評に『これだけ読者を置き去りにする対談も珍しい。』と書かれていたが、読んでみてなるほど、と感じた。

宮台真司の著作は何冊も読んでいるし、Podcastも聴いた。だけれど、今まで触れた宮台と本著では宮台らの向いている方向が少し違う。本著にはこれまで僕が触れたものに見られた、”一般の読者に対して説明すると言う意識”がほとんど見られないのだ。
専門的な内容に対して読者が予備知識をもっている前提で、それこそ読者お構い無しでどんどんすっ飛ばしていく。

それでもめげずについていくと、読んでいるその瞬間はなんとなく分かったような気にはなる。しかし、1時間もたてばもうどういう論の展開だったか思い出せないことが多い。

これは、これまでもそうだが宮台の言説は、”○○は○○だから○○でその対処は○○である”と言うように、論理的な流れが明確で、まるで数学の証明問題の解説を読んでいるような感じがする。
きっと、あらゆる命題や反論に対してそういう流れを用意しているのだと思う。

しかし、一度読んだだけではその流れが頭に入らない。
受験生時代に化学反応の流れ(ベンゼン環がどうのと言うやつ)を1枚に自分でまとめたのがすごく有効だった覚えがある。同じようにノートにフローチャート式にまとめてみれば頭に入るだろうと思うが、なかなかそんな時間は取れない。ましてや一般の人がそんな労力をかけるはずがない。

そこで提案。

受験参考書のノウハウを取り入れた『チャート式宮台真司2007』とか『M2の使い方社会学は暗記だ!』というような感じの要点のみを簡潔にまとめた参考書を、彼らのいろんな著作を横断・対応させるような形で誰か作ってくれないだろうか。
あくまで補助的な書物ということで内容が絞られていれば絞られているほど良い。
一般の需要があるかはともかく僕は手元に置いておきたいし、こういうものがあれば、もしかしたら多くの人が読みっぱなしで終わることも減るかも知れない。

反復復習は”お勉強”の基本であるし、ある程度基本の流れが頭に入ってこそ応用ができるというものだ。(もしかしたらそういう本がすでに出てるかもしれないが)

なぜ(対談が)続いたのか。理由は明白だ。宮崎氏も私(宮台)も<社会>に関心を示さなかったからだ。<社会>に関心を抱かない二人が<社会>について話すのは気楽だ。全ての対立を単なるゲームとして再帰的に観察してやり過ごせるからだ。・・(中略)・・でも、不真面目というのではない。むしろこうした再帰的態度がラディカルな(徹底した)思考を可能にした。・・(中略)・・<社会>に関心のない二人が・・(中略)・・いつの間にか<社会>について思考しなければいけない場に押し出された。<社会>に多大な関心を抱く物が大勢いる中での二人の共通の道程は何かを意味していよう。

時に突き放したような冷たい印象を受ける二人だが、それは徹底した思考をするために必要なポジションなのだろう。
また彼らの論は普段の感覚ではちょっと戸惑うような選択を促すことも多い。しかし、それに感情的に反発せずに一度冷静に考えてみる価値はきっとある。それで、なるほど自分が安直だったと納得させられることも多いのだ。

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

最近宮台は欧州的な生き方を参照することが多いような気がする。日本も、自分たちはどのような未来を目指し、どのような選択をしていくのかというのを個々が真剣に考えなければいけない時が来ているのではないだろうか。
(日本人は”とりあえず自分たちにはおいしいところを”というだけで、何かを”選択する”という思考も苦手ではないだろうか)
誰かが社会を変えてくれるのを待つしかない、自分たちは考えても無駄だ、というのをそろそろ卒業しないといい加減やばい。
そういう意味で、それぞれの仕事や生活のスタイル、また例えばNPOの活動などで別の在り方を模索し実際にそれを描こうとしている人たちがいるが、その先にはかなり開かれた可能性があるのではないだろうか、という気がしている。




B098 『電車の中で化粧する女たち―コスメフリークという「オタク」』

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/社会・政治


”本が好き!”プロジェクト書評第1弾。
つまらない本だったらどうしようかと思っていたが、そんな不安もなんのその、期待以上に面白い本だった。

僕自身は、最近の自己主張の強い化粧はなんだかなぁ、と思うぐらいで化粧にはさして興味も知識もなかったのだが、それが逆に本著の内容が新鮮に感じられて良かったのかもしれない。

文章も読みやすいし、「叶姉妹」「藤原美智子」「君島十和子」「中村うさぎ」と特徴のある個人を中心にした章立てもよかった。

化粧がガングロ・コギャルを皮切りに「大人の身だしなみ」から「ウチらのはやりモン」に、またスーパーモデルの登場によって「生来の美」から「獲得される美」へと変わり<叶姉妹>、”化粧は人格”とのカリスマ(教祖)の呼びかけで美人道という宗教になり<藤原美智子>、化粧そのものが自己目的化し膨大な語彙と文法、文体のある「読み」「書き」「語る」ことのできる趣味・道楽となって人々を虜にし<君島十和子>、「意味」から自由になるため、現実の世界から虚構の世界へと逃れるための手段となる<中村うさぎ>。

ダイナミックに話が展開するのには、読み進めるたびになるほど!と推理小説の謎を一つ一つを解いていくような喜びがあった。
終盤、コスメフリークが東浩紀の動物化するオタクと合流するあたりは、ようやく犯人にたどり着いた!という感じだ。

その謎解きの詳細は是非本著で味わっていただきたい。

さて、意味から自由になりポストモダンの世界を生き抜く達人であるコスメフリークとオタクたち。

その先に見えるものは何か、というのがこのブログの最初からのひとつの課題であったのだが最近は少し当初と感じ方が変わってきたように思う。
以前はその突き抜けた先にある可能性というものにある種の期待を抱いていたのだけれども、このごろはその態度は自己防衛的な一時的避難でしかなく、長いスパンで考えた場合やっぱりその先には何もないのではないかという気がしている。

自己防衛を進めていくのではなく、自己防衛をしなくては生きられない現状をずらさなくてはどうしようもないのではないか。(宮台真司の方向がこんな感じで変わった気がします
コスメフリークとオタクたち、両者には逆に自由に縛られている不自由さのようなものを感じてしまうのは、彼らに対する嫉妬からだけだろうか?

動物化の行き着く先は自由をエサに飼いならされ搾取される「自由管理社会」のような気がする。




Podcast『週刊ミヤダイ』

宮台真司の言説に触れるのは久しぶりだったけれども、以前とほんの少し印象が違った。

対象から少し距離をとって、クールな視点で的確に分析をするのは変わっていないけれども、そのクールさの質が変わって見えた。
以前は情動や実存については突き放している印象があったので理論ではすごく納得してもなんとなく受け入れがたい気分が残ったのだが、今回は戦略を変えたのかだいぶ受け入れ難さは消えていた。(ラジオだからっていうのもあるだろうけど)

彼の論調は”なぜ○○なのか?””それは○○だから””○○する必要がある。”というように簡単に図式化が出来るぐらいまで徹底して整理されているので非常に説得力がある。

そんなに単純化できるわけがない、という気持ちもないわけではないが原因と処方箋が示されているのなら、一度受け入れてみるのは何もしないのよりはずっといい。
単純化して消化しやすいようにすることがデザインや政治の機能の一つだろうから、彼の言説は『宮台真司のデザインした思考(行動)のためのツール』だとも捉えられる。
だとすれば、デザイナーのつくった椅子でくつろぐように、彼の作った道具で生活の豊かさを加えたっていい。

印象に残ったのは日本人の持つ『幸せのイメージ』が世界的に見ても概して貧しいということとそれに対する自覚がないということ。
ここ数十年の間に生活の知恵や文化といったものを切り捨ててきた結果、与えられる幸せしかイメージできなくなってしまったのではないか。
そのことが政治や街並みの貧しさにもつながっているように思う。
それは人事ではなく、そのような『幸せのイメージ』の中では僕らの仕事の存在自体が否定されかねない。

宮台氏は『生活世界の充実』をキーワードにあげているが、そのためには個々がそれに対して意識的である必要がある。

今までの都市計画のように誰かが全体を考えまず形をつくると言うのではなく、一人ひとりの中の『幸せのイメージ』が豊かになっていく中で、それら一人ひとりの選択したものの総体としてまちが形づくられている、という方向でないと有効ではないのではないか。

そういう意味では、原氏の言う『欲望のエデュケーション』が重要で、それが実践できる人の存在は貴重だと思う。




B071 『私たちが住みたい都市』

山本 理顕
平凡社(2006/02/02)

工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは

伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」

と大変興味深いメンバー。

しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。

建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。

宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。

建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)

宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。

というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。

それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。

そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕

それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。

システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。

システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。

もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。




B045 『「脱社会化」と少年犯罪』

「脱社会化」と少年犯罪 宮台 真司、藤井 誠二 他 (2001/07)
創出版


何度か書いたことがあるが、1997年の酒木薔薇の事件はあまりにショッキングで僕個人にとっても大きな出来事だった。

自分達はどのような社会を目差してきたのか、これから目差していくのかを根底から問い直されていると感じた。

それから、ときどき宮台の本は読んでいるが、ひとつ前に読んだ本で「『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることのナンセンスさ」というのが頭に浮かんだので本棚から読みやすそうなのを引っ張り出してきた。

100ページ程度のコンパクトな本で内容もかなり凝縮されているのでさっと読むにはちょうど良い。(ちょっと古いが。)

さて、なぜ『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることがナンセンスなのか。

それは、人は「理由があるから人を殺さない」のではないからである。
殺さない理由があるから殺さないというのであれば、理由がなければ人を殺すのかということになる。

僕なりに要約すると、

■人をなぜ殺さないかというと”理由やルールに納得するから殺さない”のではなくて、”殺せないように育つから”である。

■他者とのコミュニケーションの中で自己形成を遂げた人間は、人を殺すことができない。殺せないように育つのである。

■なぜ殺してはいけないのかと言う疑問が出てくる時点で、その社会には重大な欠点がある。

■人を殺せないように育ちあがる生育環境、あるいは社会的プログラムに故障が生じているのだ。

”人を殺せないように育つ”ことの出来ない環境ができてしまっていて、そういう環境をつくったり黙認しているのはまさしく私たちなのである。
私たちは自分達のできる範囲で良いから、その現実と向き合わなければいけないと思うのだ。

「最近のこどもたちは…」「恐い世の中になった。」と他人事のように言って終わりにするのはあまりに無責任だと思う。
そういう小さな無責任・無関心の積み重ねの結果がまさに『人を殺せないように育つことの出来ない環境』なのだ。

そういう環境を変えるためにどうすれば良いか。
答えは簡単には出ないかもしれない。
しかし、個々がその問題から目を背けずに向き合うことが唯一最大の方法である。

そして、それこそが僕が今のところ建築に関わっている一番の理由であり、(おこがましいけれど)このブログのメッセージでもある。

『人をなぜ殺してはいけないのですか?』
この問いは、あまりに哀しい。

*****メモ******

■少年犯罪や凶悪犯罪の数自体は40年ほど前と比べても5分の1程度に激減しており、犯罪の増大・凶悪化という印象はメディアによるところが大きい。
■メディアでは、動機の不可解さ、不透明さに関心が集まっている。
■マスコミの動機や病名の探索は的が外れてきている。
■動機が必要なのは敷居が高い場合で、敷居そのものが低くなってしまっては動機は必要なくなる。
■病気ではなく普通の人でも世界の捉え方が変わり、敷居が低くなってしまえば犯行に及ぶ。病名を付けたがるのは、犯人は”特別な”人として、自分から切り離して安心したいから。
■だから、動機探索する暇があれば、なぜ敷居が低くなったのか、「脱社会的」な存在が増えたかを問うべき。
■「脱社会的」な存在・・・コミュニケーションによって尊厳を維持することを放棄する。社会やコミュニケーションの外に出てしまえば楽に生きられる。モノと人の区別がなくなる。

■人を殺せないように育つことのできない環境になった理由・・・「コンビニ化・情報化」「日本的学校化」
■「コンビニ化・情報化」・・・他者との社会的な交流をせずとも生活が送れるようになった。しかし、これには高度な利便性があり、いまや不可欠となっているので後戻りはできない。
■「日本的学校化」・・・昔は多様な場所で多様な価値観があり、尊厳を維持する方法が多元的に用意されていたが、家や地域が学校的価値で一元化されてしまっているために、学校的価値から外れると自尊心不足になる。
■そのため80年ごろから「第四空間化」が進行する。すなわち、家、地域、学校以外の空間(ストリートや仮想空間など)に流出することで尊厳を回復しようとする。
■それはある程度成功するが、そういう空間に流出できない「良い子」が居場所がなくなり、アダルトチルドレンや引きこもりを出現させたり「脱社会化」=社会の外・コミュニケーションの外に居場所をもとめる存在を生み出す。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要
■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。
■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」

大学の卒論で考えたことだが、コミュニケーションを糧に育つ環境が必要なのだ。

都市化・利便化は、そういうコミュニケーションの煩わしさから抜け出したいと言う欲求によるものである。
それを、もとに戻すことは難しい。

しかし、昔はいろんなタイプの人が好き嫌い含めて自分の周りにいたものだ。
いろいろな年齢・職業・タイプの人と関わる機会がたくさんあった。
嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。嫌なおじさんと関わることも子供にとっては違う価値観に触れるチャンスなのだ。

『嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。』なんてことが、平和ボケ・利便性ボケした日本で受け入れられるとは思わないが。
(だからこそ、問題を意識してもらってボケから醒めてもらわないといけないと思う。)




屋上の魔力

あるきっかけがあり「屋上」と「自由」について考えてみたくなった。
ミーハーだけど、僕の「自由」に関する考えは宮台真司の影響が大きいようだ。


学生のころ神戸の殺人事件があり、建築について悶々としていた時期に、友人に進められて『世紀末の作法』を読んだ。

そこにあった『「屋上」という居場所』という文章で僕は初めて「建築」と「機能」や「自由」の関係を考えたのだ。

(思えば「酒鬼薔薇」と宮台を知らなければ問題意識を持つこともなく、今頃はのんきにそして優雅に暮らしていただろうに・・・・(kazutoよオアイコかいな?))

『世紀末の作法』は手元にないので検索してみると、こんな学生コンペが引っ掛かった。(最近、あまり念入りに雑誌を見ないので知らなかった・・・)

コンペのテーマ、まさしく宮台真司の文章だ。

原文も宮台のブログに載っていたので読んでみたが、『世紀末の作法』の『「屋上」という居場所』の趣旨もほぼこういうことだったと記憶している。

このブログで今考えていることを見てみると、10年ほど前に読んだこの本の影響の大きさにびっくりした。

「自由」の感じ方にまで影響をうけている。

■教室にいれば学ぶ人。廊下にいれば通行する人。校庭にいれば運動する人。どこも機能が指定され、そこにいるだけで機能を担わせられる。屋上は違った。そこは機能の空白。どこでもない場所。どこでもない場所で、何でもない人になって、解放される──。
■しかし、やがて人々は、どこでもない場所に、何でもない人が集まること自体を、不安がるようになった。集合住宅の屋上はロックされ、学校の屋上はバスケットコートになったりプールになったりと、機能化された。かくして最後のどこでもない場所が消去された。
■空間の機能的意味が明確になると、人は一方で自由になり、他方で不自由になる。近代化へと向けた動きは、不自由のマイナスより、自由のプラスを評価する価値を一般化した。さて、いったん近代化を遂げた人々が、いつまでも同じ価値観に拘束される必要があるか。
■イエやウチが「住宅」になったとき、人は、一方で自由になり、他方で不自由になった。何が不自由になったのかを記憶する人々が、社会からどんどん退場していく。だからこそ、いま「溶解する境界・あいまいな場所」なのだ。私たちの歴史意識が問われている──。
MIYADAI.com Blog より

青木淳の著書などにも似たような視点が見られるように、自由や便利さを求めるゆえの「不自由さ」窮屈さを感じることは今の時代ではありふれた(しかし、自覚するにはなかなか至らない)感覚なのかもしれない。

それにしても、屋上はどうしてそこまで「自由さ」(に近い特別の感覚)を感じさせるのだろうか。

単に「脱機能化」された場所というだけ以上のものを僕は感じてしまう。(そこがビアガーデンやイベントスペースであっても、僕にとっては特別な場所なのだ。)

ちょっと自分の経験と感覚を思い出してみよう。

10数年前とつい最近、屋上について特別に感じたことがある。

ひとつは高校時代。
寮生活だったのだが、先輩後輩の関係が厳しく1年生は寮の中では掃除やなんやでほとんど自由がなかった。
その寮の中で屋上だけが唯一先輩も足を入れない1年生の自由に使ってよい場所だったのだ。
授業が終わってからから夕食の準備までのほんの数時間を屋上で過ごすのがほとんど唯一気を抜ける時間だった。
(ただ、僕は部活をしていたのでこの時間をあまり堪能はできなかった。今となってはもったいなかった)

屋上はその下にある先輩たちの目の光る窮屈な環境とはまさしく別世界の小さな自由の輝く場所であった。

「屋上に先輩は足を入れない」というルールがどういう形で出来たのかは分からないが、厳しい生活を送る1年生のための場所に屋上が選ばれたのは面白い。

もうひとつはこの前、相方と式場を探していたとき。

あるホテルに説明を聞きに行ったとき(そこのホテルは公共の公園を一時借りて式を行うことの出来るホテルだった。)そこの屋上でも式を行うことが出来るということで、写真を見せてもらったのだがそれが漠然と期待していたイメージにぴったりきたのだ。

その屋上は夏の間はビアガーデンになっていたそうで、特別綺麗な建物でもおしゃれな空間でもない。ただ、桜島へのビューは絶景。
なんてことのない空間なのだが、びびっと来た。
なぜなのだろう。

それまではなんとなく漠然としたイメージのかけらのようなものはあったのだが、なんとなく結婚式場というもの自体になんとなく窮屈さを感じしっくりこないと思っていた。

そもそも結婚式場というもの自体が「機能」と「空間」の癒着した最たるものだ。
最近流行のレストランウェディングという別用途からの「転用」程度ではその関係は切れるものではない。
それに、なんとなく商業主義にのせられているような気がしてシャクでもある。(僕は自分の葬式は商業的な葬祭場ではして欲しくないと思っている。居酒屋で十分。)

それでも、「屋上」の挙式風景の写真を見た瞬間、「機能」や「商業主義」から開放された場所のような気がした。
漠然としたイメージがぱちっとはまった。
恐るべき「屋上」の魔力。

(「公園」でのウエディングでさえも、そういう風に感じなかったのだが、今の公園は都市に飼いならされているからだろうか・・・)

相方も似たように感じていたのにもびっくりなのだが。(繰り返しますが、なんてことのない「普通の屋上」なのだ)

さて、何ゆえ屋上がこれほどまでに別世界たり得るのだろうか。

屋根のスラブは建物と大空を切り分ける。
そして、屋上はどちらかと言えば大空に属する。

それゆえに、屋上はちょっと機能を付け加えたぐらいでは空間が完全に機能化されない、飼いならされない。
どうしても中途半端な感じが残ってしまう。

屋上の下の「せっせと機能している建物に小さく収まった空間」をあざ笑うかのような感じが良いのだ。
だから、都市の中にあればあるほど屋上とその下の空間の対比が生まれ、屋上はより屋上となる。

つまり、建物にも自然にも入れてもらえない「こうもり」のような中途半端な位置付けが屋上を屋上たらしめているのではないだろうか。
これを「計画」によって生み出すのは困難だ。

屋上で式をするということは天候によってはその下の「機能化された空間」に移らざるを得ないというリスクを負うわけだが、管理され尽くせないところも屋上の屋上たるゆえんであるならそれも受け入れねばならない・・・。

って、屋上になんとなく特別なものを感じるのは僕だけだろうか?