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建築を遊ぶために B268『意味がない無意味』(千葉雅也)

千葉雅也 (著)
河出書房新社 (2018/10/26)

オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

また、本書とは別に、先の10+1で挙げられたいた、千葉氏の『意味がない無意味』は読んでみる価値がありそうだ。 オブジェクトが自立的であることの空間的意義あるいは存在としての意義が、身体と行為との関連から見えてきそうな予感がするし、ここ数年でぼんやりと掴みかけているイメージをクリアにしてくれそうな予感がする。

前回読んだ『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』に関連して購入したものだけれども、読み始めてから読み終わるまでだいぶ時間が経ってしまった。
読みはじめの頃は何かを掴みかけていたけれども、それがぼんやりとしか思い出せないので、書きながら思い出していきたい。

まず、下記の部分は撤回が必要かもしれない。
オノケン│太田則宏建築事務所 » 関係性と自立性の重なりに向けて B267『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』(グレアム ハーマン)

実際のところ、唯物論的な見方、経験論的なあるいは現象学的な見方、どれが正解であるか、ということにはあまり関心がなく、それぞれそういう見方もできるだろうと思う。自分にとって重要なのは、それによって世界の見え方をどのように変えてくれるか、あわよくば、建築に対するイメージを更新してくれるか、ということに尽きる。

『意味がない無意味』の「はじめに」で著者が書いているように、私にとっての著者の魅力は抽象的な概念と具体的なものの間を行き来することの大切さ・面白さを体現してくれているその姿勢にある。

世界をどのように捉えるかの存在論は抽象的な言葉遊びというよりは、どのような姿勢で世界に存在し、どのように思考し行為するか、という根本的なあり方そのものを問うていて、具体的なものとは切り離せないのではないか。というようなことを著者は感じさせてくれる。

そういう意味では、先の文章は抽象的な思考に対するイメージが先行しすぎていたかもしれない。

「意味がない無意味」に何を掴みかけていたか

さて、「意味がない無意味」は無限に多義的な「意味のある無意味」、ブラックホールのような穴に対して、穴を塞ぎ有限性を身にまとうための石である。(表現として的確ではない言葉があるかもしれないけれども、断定的には書いていきます。)
「意味がない無意味」、穴を塞ぐ石としての身体が、意味を有限化し行為を実現する。

その「意味がない無意味」に何を掴みかけていたのか。

今年の指針は「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」とし、山間の中古住宅を購入し、馬屋を改装し、事務所を移転したが、そのことと関係がありそうだ、と感じたのは間違いない。

遊ぶということは、ある部分での解像度を高めつつ、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを回していくことである。
それは、目の前の有限的で具体的なものとまさに遊ぶように向き合うことで、解像度を高めつつ染み出してくる有限性もしくは偶然性そのものを楽しむことであり、そこにはある種の快楽がある。
そして、それは無限の穴にハマルことなく世界と向き合うことを可能としてくれる。

自分の子供たちもそうだが、今は、そういう風に世界と向き合うことの経験が圧倒的に足りていない、と感じる。
あらゆるものがお膳立てされ、低解像度のまま生きていくことのできる世界で生かされ、唐突に世界へと放り出されても、穴に落ちずに生きるすべを知らずに、場合によっては一つの解釈xにしがみつくしかなくなる。

そういった生き方もありかもしれないけれども、そこでは想像力はむしろ穴へと続くものになり、おそらく生きていく足かせとなるだろうし、具体的なものとの接点を持たない想像力はおそらく世界を好転させず、世界の豊かさにふれる機会も貧しくする。

「意味がない無意味」の権利を認めること。
それは、今を生きる人の一つの作法となりうるように思うし、そうでなければ酷くつまらない世界、もしくは空気になってしまいそうだ。
(著者は、そういう空気に対して敏感で、かつ向き合うすべを開拓しているように思う)

「意味がない無意味」と「決定する勇気」

建築について。

自分は、関係性を開き、多様で多義的であることを受け入れるような建築を目指そうとしていると思っていたが、少しぼんやりしていたかもしれない。

関係性や多様なものに開くと行っても、無限に多義的なブラックホールに向かうのではなく、むしろ、いかにそれらを切り取り、有限化していくか、ということが重要だろう。

もちろん、ファルス的な単一のオブジェクトを目指しているのではないし、無限に関係性に溶けていくようなものを目指しているのでもない。

ここで『吉阪隆正とル・コルビュジエ』を読んだときの感覚を思い出す。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。
『彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。』
『吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。』
多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。 彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。 吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。 多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。

自分がコルや吉阪に惹かれるのは、こういう遊びを決定へとつなげる勇気に対してだと思うが、それが簡単ではないことも分かる。

<必然>や<使命>に還元せずに、建築を建築足らしめるには、おそらく本気で遊び、解像度と密度を高めていくこと以外にないし、失敗すれば単なる趣味の世界のおままごとに終わる。

自分はまだ本気では遊べていないし、解像度も決して高くはない。

果たして自分にできるだろうか・・・ もっと学び遊ぶしかないな。




全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
講談社 (2022/3/16)

デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

薄く重ね塗りするように

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

秩序と逸脱と解像度

おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
(特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

今後の目標

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

と、前から関心のあった、

『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。