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自分が追い求めてきた「新しい凡庸さ」とは何か B240『建築の難問――新しい凡庸さのために』(内藤廣)

内藤廣 (著)
みすず書房 (2021/7/20)

字も小さめだし、読了までしばらくかかる、と覚悟してたけど、スラスラと、出張期間中で読み切れた。
理論書というよりは個人的な覚悟の話(と受け取った)ので予想していたほど難しくはなかったけれども、考えを促してくれる良い本だった。

問いが難問であるために

本書は真壁智治が問いを投げかけ、それに著者が答える、という形式で進んでいくが、それらの問い自体は向き合い方によってはありふれた問いと言えなくもないし、単に言葉として答えるだけであればそれほど難しくはないのかもしれない。
ただ、自分の問題意識や実践とを結びつけた上で、これらの問いに”誠実に”答えようとすると、とたんに難しくなる。

これらの問いはややもすると、大きな力のようなものに流され思考停止に陥ってしまいがちになるところを、足を止めて、本当にそれで良いのかと問いかけるような力を持っている。
その問いに誠実に向き合おうとすれば「資本主義に染まる今の社会の中で、あなたには如何にして建築が可能か?」というような「難問」を突きつけられる。

反面、これらの問いは、誠実に向き合う覚悟がなければ、先に書いたようにありふれた問いとしてしか現れず、ありふれたどこかで聞いたようなことをつい答えてしまいそうなもので、実際、本書を読む前にこれらの問いを投げかけられれば、自分もありふれた答えを返していたかもしれない。

そういう意味では、実践とそれに結びついた思考を誠実に積み重ねてきた著者だからこそ、これらの問いが難問たり得ていると言えるし、まずはそこに敬意を払いたいと思う。

これまで、このブログでは、割と抽象的な話で終わってしまうことが多かったけれども、自分に対して適切な問いかけをし、それに対して具体的な実践によって答えていくことの重要性を改めて感じたし、自分のリソースをもっとそちらに割いていかなければと思った。

ここでは、本書全体が投げかける問いかけに対し、考えたことを書いておきたい。

モダニティや資本主義にどう向き合うか。新しいスタンダード

資本主義に対する姿勢は今、自分が建築を考える上で非常に重要な問題だと思う。
それは、いかにして建築に「つくること」を取り戻すか、ということのように思うが、前回書いたように、建築費が高騰する中で、(特に私が関わることの多いローコストな住宅では)「つくること」を得ることはさらに難しくなっているし、この先、それを成立させること自体が厳しくなるかもしれない、という危機感を持っている。

いや、逆に否応なく「生産プロセスやコストに介入」せざるを得ない状況に追い込まれるとすれば、「つくること」に向き合うチャンスとも言えなくはない。
贅肉を削ぎ落として、コストを抑えつつ「つくること」を内包しているような新しいスタンダードのようなものを考えていく必要がある。

建築を構築する意志だとすると、それをどうかたちに残すか。断熱の問題

限られた条件の中で「つくること」を取り戻すこと、と直接的に関連すると思うが、著者が書いている、上棟の瞬間に現れる構築する意志(「かた」、意志と希望の「か」、「素形」)を最終的な「かたち」にどうすれば残せるか、ということも非常に重要である。

その際、断熱もしくは省エネの問題をどう考えるかというのが一つのポイントになってくるように思う。
今後、断熱の問題を避けて通ることはできないが、断熱性能を高めるためには外周を隙間なくくるむ必要があり、それが構築する意志を隠してしまう。
このことが、建築家が断熱等の問題に消極的になりがちな理由だと思うけれども、今後ここをクリアすることは必須となるはずだ。(鹿児島はまだ制約としては緩いかもしれないけれども。)

くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。まだ、答えは分からないけれども、そのための方法を考えていく必要がある。

新しい凡庸さを追い求めるためには何をすればよいか

「新しい凡庸さ」とは何か。
凡庸さとは、その存在を、「他との差異」とは異なる方法で確かなにするもの、なのではないか。
あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。

ただし、凡庸さという言葉には少し警戒もしている。
個人的な嗜好の問題かもしれないけれども、いわゆる住宅作家の作品(作品そのものというよりは、作品のメディア上での扱われ方)に凡庸さの押しつけのようなものを感じることがある。
過剰な凡庸さ、もしくは非凡な凡庸さと言ってよいのか分からないけれども、行儀良さを迫られるような息苦しさを感じることがあるのだ。
(といっても、好きな作品も多いし、実際そこに住めば全く違うかもしれない、という気もするし、ちょっとした嫉妬のようなものかもしれない。)

もう少し、肩肘を張らずに、どこにでもありそうなものでありながら、存在の確かさも兼ね備えている。過剰になるすれすれの凡庸さ。
そんなあり方が、もしかしたら自分なりに求めている「新しい凡庸さ」なのかもしれない。

今はまだ全然できていないし、ぼんやりとしたイメージにすぎないけれども、例えば、外部・まち・都市とのつながり、自然とのつながり、世界とのつながり、そんなさまざまな「つながり」「出会い」を考えることが大切なような気がしている。
他とのつながりによって、逆説的に生まれてくる存在の確かさのようなもの。そういう「新しい凡庸さ」を追い求めていきたい。

自分はどんな仮説に生きてきたか

わたし自身は建築家として立とうと決意したその日から、その時立てた仮説を生きているにすぎません。建築は語るに足るものであるはずだ、愛するに足るものであるはずだ、という仮説です。(p.278)

誰でも、少なからずは、若い頃に立てた仮説を生きつづけているものなのかもしれません。

では、自分はどんな仮説に生きてきたんだろうか。

考えてみると、建築そのものが語るに足る、愛するに足るものかどうか、というのはあまり考えたことがないように思います。
それよりも、今の時代を生きる人、もしくは自分のつくる建築に関わった人が、この世界は生きるに足るものだ、と感じられるかどうか。
その、一つのきっかけ、気持ちの受け皿に建築はなりうるはずだ、というのが私の生きてきた仮説のように思います。

自分なりの「新しい凡庸さ」とは何か。
答えは、この仮説の先にあるのかもしれません。




B154 『構造デザイン講義 』

内藤 廣 (著)
王国社 (2008/08)

東大の土木学科への講義をまとめたもの。

内藤氏の建築や言葉には大切な根っこの部分に対する深い哲学が詰まっていて、いつもちょっと待てよと立ち止まらせてくれます。

まずは備忘録も兼ね気になったところをいくつか抜き出してみます。(原文のままではなくはしょったり強調したりしています。)

デザインとは翻訳すること
・一つ目は「技術の翻訳」技術が生み出す価値を一般の人が理解できるようにすることによって、技術は初めて社会に対して開かれたモノになる。
・二つ目は「場所の翻訳」構築物が存在する場所の持っている特性を理解し、誰にでも分かるような姿形としてデザインに活かす。その場所に存在する必然性。
・三つ目は「時間の翻訳」その場所に流れている時間を理解し、想像する感性が必要。歴史について学び、敬意を払い、その上でそれを受け継ぎ、未来に対して提言する。

スチールとコンクリートは人間の思考が持つ根源的な二つの性質が内在している対照的な素材。
スチールは父性的。整合性を欠くことを嫌い、「意志的」。構築的であるが故に禁止事項も多くストイック。
コンクリートは母性的。受容的、受動的で、人間の様々な要求を受け入れてくれる。
・また、コンクリートは「時を刻む素材」。コンクリートは化学材料であり、鋳物のように流し込んでつくられる材料であり、不純物であり、不均質であり、そして大地を呼吸し、エイジングしていく材料

本当のエンジニアとは何か
コンクリートを打設しようとしている時に小雨が降ってきた場合、その人の経験と見識でその現場をとめるかどうかの判断ができる人。
要領よくできることではなく、予想外のことが起きた時に適切な判断ができる、経験と見識と倫理が備わった人間が本当のエンジニア。

「木」があまりにわれわれの文化の基層を形成しているために、たとえ問題があるにせよ許してしまう心理がわれわれの中にある。これが「木」に対して思考停止を招いている。設計の中に何かを求めようとする人は、自らと社会の中にあるこの思考停止と意識的に戦わなければならない

構造計画全般にも言えるが、特に木造の場合は「部分の系と全体の系をどれだけ往復できるか」が重要になってくる。

これからは経済性も考えながら構築物に「リダンダンシー」をどうしたら持たせられるかが課題になる。

情け容赦ない非情な技術というものを人間の感情やモラルにどう繋げられるか、これがデザイン。技術を繋ぎ合わせて新しいビジョンを打ち出し、いかに人間生活や人間社会に対して構築するか、つまり文化として租借し得るか。

新しい構造、それは建築的な価値とは無関係。本当の意味での建築的な価値とは、「技術と芸術が結び合ったその時代の精神の現れ」

本著の中でも自分の頭で考え、感じることの大切さについて再三書かれています。

オノケンノート ≫ B020 『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』

今、頭と身体、感覚をすべてこんなにうまく使える人は珍しい。 仕事が「頭でする仕事」と「身体でする仕事」に分けられてしまったため、一人の人間の中から引きはがされてしまったように思う。 (中略) どうしたら、「建築」にこういう仕事の仕方を引き寄せられるだろうか。 それは、僕が建築を続ける上で重要な問題だ。

今はパソコンがあれば机上の上で何でもできてしまうような錯覚に陥りがちですが、モノの振る舞いを身体的に理解することは危険を察知するという意味でも、空間の質を決定するという意味でもとても大切です。
おそらく内藤氏の空間が独特の空気感、時間の流れやモノの存在を感じさせる空気感を獲得できているのはこういう感覚に対する誠実さのためだと思いますし、それは僕の中のちょっとしたコンプレックスでもあります。

オノケンノート ≫ 技術

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。
(中略) 専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。

モノを身体的に理解し、技術の問題から建築を引き寄せること。

そのために具体的に何ができるか。真剣に考えていかないと。




W013『うしぶか海彩館』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:内藤廣
□用途:水産観光センター
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
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内藤廣は今僕の日本で気になる建築家のベスト3に入る。
ようやく実作を観ることができた。

建築が声高に主張するわけではないが空間が生きている。
廻遊性があり自由度の高い空間が楽しい。

権力ではなく包容力。

軽快な屋根と吹きさらしの場と言う選択が心地よさを生み出している。

単なる市場ではないかと言われれば、そうかもしれない。

しかし、その潔さと、すんなりと気持ちの中におさまる感じはなかなか出せない。










B019 『建築的思考のゆくえ』

内藤 廣
王国社(2004/06)

『建築的思考のゆくえ』というタイトルに気負って読み始めたのだが、思っていたよりずっと読みやすく、すっ、っと入ってくる文章だった。

分かりやすく書いてあるのは、著者が最近大学の土木分野で教え始めているので、建築以外の分野や一般の読者を視野に入れているのと、等身大で思考をする著者の性格からであろう。

本のタイトルも建築的思考がほかの分野へと拡がっていった先の事を意味しているように思う。

まずは、気になった部分を引用してみる。

世の中には「伝わりやすいもの」と「伝わりにくいもの」がある。(中略)日本文化の、とりわけ日本建築の本質は、具合の悪いことにこの「伝わりにくい』ものの中にある。(p.61)

昨日より今日は進歩し、昨日より今日が経済的にも豊かになる、という幻想。際限なく無意識かされるこのプロセスを意識化すること、形にすること、その上で乗り越えること、がデザインに課せられた役割であることを再認識すべきだ。(p.77)

わたしなりの感想では、世の中で語られている職能も資格も教育も、本来的な意味での建築や文化とはなんの関係もないのではないかと思います。(中略)話は逆なのです。今ある現実をどのようにより良いものにできるか、どのようにすれば人間が尊厳をもって生きられる環境を創りだせるか、が唯一無二の問題なのです。(p.88)

建築は孤独だ。建築はその内部環境の性能を追うあまり、外界に対してその外皮を厚くし、何重にも囲いを巡らせてその殻を閉じてきた。(中略)建築の孤独は深まるばかりだ。建築が多くの人の希望となり得ないのは、この「閉じられた箱」を招来している仕組みにある。(p.123,125)

時間を呼び寄せるためには、形態的な斬新さや空間的な面白さを排除することから始めねばならないと考えている。空間的な面白さは饒舌で、時間の微かな囁きをかき消してしまうからだ。(中略)われわれにせいぜいできることは、現実に忠実であること、時間の微かな囁きが、騒がしい意匠や設計者の浅はかな思い入れでかき消されないようにすることだけだ。(p.166)

最後の引用に内藤の建築の本質が出ている。

内藤廣といえば大屋根の一見して単純でざっくりとした建築をイメージするが、内部には独特の時間が流れているような気がする。
実際にその空間を体験していないのが非常に残念なのだが、形態の面白さに頼らず空気感イッポンで勝負、という感じだ。

どの本かは忘れてしまったが、ある建築の本に人間の感じる時間の概念が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」(だったと思う・・・)と変わってきたというようなことが書いてあった。
本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだろう。

そして、そういう時間の流れは内藤の言う「人間が尊厳をもって生きられる環境」に深く関わるだろうし、建築にとっての重要な要素であるだろう。

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。
たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。
それはまだ、僕の中では可能性でしかないのだが。