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おおくちたからばこ保育園で考えたこと。

おおくちたからばこ保育園は、伊佐市にある既存倉庫の一角を企業主導型保育園として改装したものです。

この時に考えたことを、保育園等の計画で大切にしたいことと合わせてメモしておきます。

生まれて最初に多くの時間を過ごす場所

0~2才児の限られた期間を過ごす場所ですが、生まれて最初に多くの時間を過ごすこの場所が豊かな経験の場となることが望ましいと考え計画しました。

豊かな場であるべき保育園ですが、実際は単調なスケールで濃淡のない箱型のスペースが、まるで小さな学校のようにつくられることも多いように思います。この園では、それに対してどういうものをつくることができるか、を考えました。

多様なスケールを用意すること。

子どもたちが生まれてきたこの世界は、広大で多様な場所です。
その広大で多様な世界に、単に放り出されるでもなく、また、世界を小さく切り取って限定してしまうでもなく、徐々に関係性を築いていけるような場とするには、一つの単調なスケールのではなく、例えば、建築物としての大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケールと入れ子状に多様なスケールが用意され、段階的に拡がってくるようなものが望ましいように思います。
そういう意味では、鉄骨造の大きな建物の一角ととして保育園があることは良かったと思いますし、園内もできるだけ多様なスケールの空間が存在するように配慮しました。
→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B206 『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』

子どもの育ちを支える濃淡のある空間を作ること。

関東学院大学子ども発達学科専任講師の久保健太氏は育ちの場には濃淡のある空間が必要だと説いています。

学校の教室のような均質な空間では、どこで遊びこめばいいのか、どこでくつろげばいいのか、それがよく分からない場所になってしまいます。
一方、濃淡のある空間では、いろいろなスペースがあり、一人になることも出来るし、ダイナミックに遊ぶことも出来ます。そこでは、場所と気分が一対一で対応しており、移ろう気分にしたがって、濃淡を行き来しながら自由に過ごすことができます。そして、そこに学びが潜んでいると言います。

多様なスケールと重なりますが、この園でも気分によって様々に過ごせるような場を用意しました。それによって、子どもたちは強制されることなく自分たちのペースでゆったりとした気分で過ごすことができるのではと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』

「子どもが育つ」状況に満たされた場をつくること。

保育の場での子ども感は『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』へと変化しています。
子どもを育てるというよりは、子どもが自ら育つ環境を用意するというように変わってきており、それは保育所保育指針でも『育所は、その目的を達成するために、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携の下に、子どもの状況や発達過程を踏まえ、保育所における環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。』と明記されています。

そのような子どもが自ら育つ環境をどうすればつくることができるか。
具体的な環境づくりは保育士さんに求められる部分が多いかと思いますが、建築はそのきっかけとなるように多様であり、かつ行動を強制してしまわないようなおおらかな場所であるべきだと考え計画を行いました。
保育が始まってからも、例えばふじようちえんのように、どんどん「子どもが育つ」状況に満たされた場として進化していって欲しいと思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B195 『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』
    ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B202 『平成29年告示 幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領 原本』

「小さな学校」ではなく「大きな家族」として考えること。

歴史的に保育施設は、日常的な生活では学べない抽象的な知識を学ぶ場、「小さな学校」として誕生し、計画的かつ合理的な教育実践の場としてつくられた学校空間―無機質で四角く、管理しやすい空間―と同様の保育空間が良しとされ、定着してきました。

しかし、もともと、日常的な生活の場での育ちの場であった大きな家族としての地域コミュニティは縮小し、子どもたちは日常の育ちの場を失いつつあります
そんな中、保育園は、小さな学校(抽象的な知識を学ぶ場)ではなく、大きな家族(日常の生活の中での育ちの場)へと役割を転換することが求められます。

この園でも、日常的で家庭的なスケールと有機的な素材と空間の扱いに配慮をしました。(家庭でも有機的な素材と空間は失われつつあり、なおさらその意義は大きくなってきていると思います。)
また、オーナーであるクライアントの地域コミュニティへの姿勢から、子どもたちが大きな家族(地域の多様な人々)の中で育つことができるような環境も期待できるように思います。

→参考 ■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B200 『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』


以上のように、子どもたちの豊かな育ちの場であって欲しいと考え計画を行いました。

今回、クライアントの理解と場所の特性(もともと倉庫の搬出入用のため入り口が高い位置があったため、内部の構成に変化を与えることに合理性があった)のおかげもあり、豊かな場作りに貢献できたのではと思います。また、今後もより豊かな場へと育っていって欲しいと思います。




世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




2才児にとっての”じりつ”とは何か

2才児にとっての”じりつ”とは何か。
そんなお題を頂いたので、ちょっと考えてみたいと思います。

じりつには自立と自律があります。
分析記述言語では自立とは構造に帰属され、自律とはシステムに帰属されるそうです。
では、乳児から幼児へと大きく変化する間にいる2才児にとって、獲得すべき自立・自律とはどういうことを言うのでしょうか。

自立について

自立とは構造に帰属される、すなわち何らかの状態のことを指します。
脳性麻痺を抱え車椅子生活を送る熊谷晋一郎氏は、自立とは何にも依存していない状態ではなく、依存先を分散し無自覚に依存できている状態のことだと言います。

他者から切り離されているのでは単なる孤立ですが、そうではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような関係性の中にこそ自立があるのです。
自立とは、他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言って良いように思います。

自律について

一方、自律とはシステムに帰属される、すなわち、どのようなはたらきの中にいるか、そのあるはたらきのことを指します。
外から与えられた要因を受動的に処理するような機械的なはたらきは他律であり、自律とは環境に能動的にはたらきかけることで動き続けるような生態学的なはたらきのことだと言えます。
受動ではなく能動性の中にこそ自律があるのです。

遊びと自立・自律

このように、自立し自律できるとは、環境に能動的にはたらきかけることで他者・環境と適切な関係を切り結ぶことができている状態のこと、と言えるように思います。

これは保育における「子ども観」「保育観」と大きく関わります。
『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成』では子ども観、保育観の変化を、子どもは環境から刺激を与えられて知識を吸収する受動的な存在ではなく、自ら環境を探索し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在であり、遊びは子ども自身がつくりだすもの。また、保育者は子どもに教えるのではなく、子ども自身が環境に働きかけ、自ら遊びをつくりだせるような環境を構成しなければならない、としています。
このことは国の指針「幼稚園教育要領」や「保育所保育指針」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」にも明確に位置づけられています。

これはまさしく、子どもが自立及び自律できることを援助することが保育に求められる、ということを指しているように思います。
そして、未就学児においてそれは日々の生活、特に遊びを通して獲得されるものであり、遊びと自立・自律は切り離すことができません。

自立と自律を保障する園の条件

では、そのためには何が必要でしょうか。
著者は同書で紹介された保育環境の共通項として、

 ・子どもが安心できる環境
 ・多様性を尊重できる環境
 ・子どもの活動が継続的に考えられていること
 ・試行錯誤ができること
 ・創造的でオープンエンドな活動

の5つを挙げ、さらに保育者の共通項として「子どもの力を信じていること」を挙げています。
園の設計において、これらの支えとなるような環境づくりを念頭に置く必要があり、それによって子どもの自立と自律が保障されるべきなのだと思います。

逆に言うと、これらが担保されていない状態や、子どもを受動的な存在と捉える子ども観や保育観が子どもの自立と自律の障害となるのかもしれません。

2才児にとって自立・自律とは何か

0~2才児は、仰向けから寝返り、ズリバイから4つばい、つかまり立ちから歩行へと移動能力を身につけ、環境との関わり合いの可能性が爆発的に増える時期です。
そんな可能性のかたまりのような時期を過ごす子どもたちに必要なのは、自ら能動的に遊んでいいんだという安心感・肯定感と、その先に達成と喜びを見つけた、という多くの経験ではないでしょうか。

そして、その安心感・肯定感と経験とが、3~5才の就学前の多感な時期を存分に遊び学ぶための礎になるように思います。




安西先生・・・・・園舎の設計が

ネタ古すぎですんません。

 園舎の設計がしたいです。

これまで、「お客様と未来の子供たちのために」をポリシーとして仕事をしてきました。

建築をつくるということは、子どもが育つ環境をつくることでもあります。

40代に突入し、子どもの環境をつくるということに対し、プロフェッショナルとしてより深く関わりたい、という思いが強くなってきました。

そういう思いでいろいろと考えているうちに、これまでこのブログで考えてきたことや、住宅等の仕事を通して培ってきたことが、学校施設のような管理のための園舎ではない、大きな家のような子どもの体験に寄り添う園舎、子どもたちが毎日の自分の成長にわくわくできるような園舎へと、そのままつながっていることに確信を持つようになってきました。
 
園長先生、きっと素敵な園舎を一緒につくりあげていけると思います。
一度、私に提案の機会を下さい。

なにとぞ、なにとぞよろしくお願い申し上げますっ m(_ _)m

園舎の設計に関わる記事をタグでまとめていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい↓↓↓
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:保育園・幼稚園・認定こども園・設計
(随時更新中)
 
 
 あっ、折り紙も折れますよー(^o^)
 園への折り紙巡回展なども受け付けております。

 ■オリケン│太田則宏折紙研究所

保育環境と出会う建築

ここからは余談です。

園舎とは関係なく、子どもの育つ環境と建築について考えていくうちに、大人の役割は子どもが人や物、歴史や文化等々、いろいろなものに多様に出会える豊かな環境(encounters)を用意することだと、考えるようになりました。

その考えを自分なりにまとめたものが、『Deliciousness / Encounters おいしい知覚 – 出会う建築』になります。

保育について学ぶうちに、この考え方が、最近の保育の分野での考え方とかなりの部分で重なっていることに、気づきました。

例えばこの論のベースとなった考えにアフォーダンスやオートポイエーシスがありますが、それは保育の環境構成の考え方に直結しています。

もしかしたら園舎の設計をするためにこれまでがあったのかも、なんて思います。

興味のある方はこちらもどうぞ。
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:アフォーダンス
オノケン【太田則宏建築事務所】タグ:オートポイエーシス
 
 
 
(この記事は先頭に固定表示しています。)




大空間のスケール/子どものスケール B206『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』(建築資料研究社)

建築設計資料
建築資料研究社 (2012/9/1)

接合金物を使ったKES工法による木造園舎21例(保育所15例、認定こども園3例、幼稚園2例、その他1例)を集めた資料集です。
保育所の例が多いのは、燃え代設計等による準耐火構造とすることによって木造の良さを活かしやすいからでしょう。(発行当時はまだ、認定こども園の実例が少なかったのかな)

大空間のスケール 子どものスケール

21例のプランをトレースしてみると、個人的に良いと思う事例とそうでない事例とは結構分かれる気がしました。

良いと思ったものは、プランや断面、構成要素の分節が上手く、大断面集成材による大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケール、と多様なスケールを感じられるものが多かったです。

KES構法は大空間や大開口がつくりやすい構法だと思いますが、それに引っ張られ、ただ大部屋を並べたような単純なプランであったり、スケール感が単調なものはあまり良いように感じませんでした。(小さな子どもが巨大な手掛かりの少ない空間に放り出されても、安心して遊びを展開し続けることは難しいでしょうし、逆に小さな空間だけでは活発な子どもの活動要求を満足させることは難しいでしょう。)

『11の子どもの家』では、久保健太氏が子供の育ちには自由に行き来できる濃淡のある空間が大切だと説いていますし、高山静子氏は『環境構成の理論と実践』で、環境には両義性(個と集団、静と動、緊張と弛緩、秩序と混沌、構造化と自由度、等々)があり、保育者は状況に応じたバランスを常に探す必要がある、と言っています。

そのために、スケール・場の多様性を、安全や使い勝手等を満たしながらどのように用意するか、というのは園舎設計の大きなテーマになるようにと思いますが、多様なスケールを展開するには木造は向いています。また、KES構法はそのスケールを木造としては比較的大きなものにまで拡げられる構法と言えるでしょう。それは園舎にとても向いている特質のように思います。

大人は大空間におおっ!となるかも知れませんし、一時的な利用であればそれで良いのかも知れません。しかし、園舎は子どもが日常的に過ごす場所です。子どもの日々の気持ちを受け止め、安心して遊び、挑戦できるような場であって欲しいと思いますが、そのために必要な事が少し見えてきたように思います。




子どもも保育者も自在であれるように B204『子どもと親が行きたくなる園 (あんしん子育てすこやか保育ライブラリー 3)』(寺田 信太郎 他)

寺田信太郎 (著),‎ 深野静子 (著),‎ 塩川寿平 (著),‎ 塩川寿一 (著),‎ 落合秀子 (著),‎ 山口学世 (著),‎ 佐々木正美 (監修)
すばる舎 (2010/10/14)

川和保育園、さくらんぼ保育園、大中里保育園/野中保育園、東大駒場地区保育所、大津保育園、それぞれの園長先生のお話。

子どもと親が行きたくなる園=子どもと親が育っていける園

園長先生の話の中で、共通しているように感じたのは、

・子どもの自発性、自ら遊び学ぶ力を信じ尊重していること。
・子どもの発達段階にあった保育、(特に自然の中での自由な)遊びを中心とした保育を大切にし、早期教育のような考え方には概ね否定的であること。
・信念を持ってそのための環境づくりを行っていること。
・保護者との関係を大切にし、子どもだけでなく、親と一緒に園も育っていくような関係を築いていること。

などです。
青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本がありますが、子どもが行きたくなる園、というのは、遊園地のようにいたれりつくせりで子どもの気を惹くような園ではなく、原っぱのように、自発的に関わることができ、そこで自由に遊びながら自ら学ぶ楽しさを実感できる園なのかもしれません。

長男と次男がお世話になり、こんどの4月から三男もお世話になる保育園(今は認定こども園)は、「見守る保育」を実践していますが、「教えてもらう」ことを期待している保護者の理解を得ることの難しさと大切さは、一保護者として強く感じました。

保護者は園・保育者の支援を受けるだけでなく、園の理念を出来る限り理解し、保育者を支援する側に立とうとすることが大切で、そのことが子どもが質の良い保育を受け成長することに繋がるはずだ、と考えているのですが、いろいろな考え方の人がいますからなかなか難しい面もあると思います。そこを乗り越えて良い関係を築きながら、保護者も子どもの育ちについて学び共に育っていけるような園が、親が行きたくなる園なのかもしれません。

父親の役割

余談ですが、子どもがお世話になった園では年に一日父親保育の日がありました。父親たちはチームを組んで、その日に向けて準備をし、本格的なお化け屋敷や音楽ライブ、その他さまざまな形で、遊びの場を作りながら一日子どもたちを預かるのですが、むしろ父親自身が本気で遊ぶ感じです。
日常の主体的な遊びによる学びとは少し異なるかも知れませんが、非日常として父親が本気で遊ぶ姿を見るのも良い経験だと思いますし、父親が園と関わる良い機会になったと思います。
母親と父親の関わる割合が同程度になれば、園と保護者との関わり方もだいぶ変わってくるように思いますし、父親として関わることの意味や役割もあるように思いました。

出会いに意識的であることと自在であること

川和保育園の園長先生が20数年前に出会った文章を引用し、それについて書いていたことが印象的でした。

―ともすると、私達は、大切な意味と価値を内包する出来事に気付かず、あるいは気付いても深く考えないで放っていることが多くあります。現実の保育の場には、こうした偶然のもたらす予測しがたい出来事がいくらでも生じます。その時、教師が自分の(考えや保育案の)絶対性や権威性を思わず、自分の善意への信念などに固執せず、高い価値を内包すると思われる偶然に鋭く気付いて、その意味を測り、保育過程の中に「必然」として取り入れるという、敏感でしなやかな感性の持ち主であったなら、この幼い年齢においても、人生の、あるいは、人間性の本質的なものに触れるような深い教育さえ可能と思います。―(『幼児の教育』日本幼稚園協会)

この文章が素晴らしいのは、たまたま出会ったものを「偶然」としてそのままにするのではなく、その素晴らしさに気づき、その意味を考えて「必然」とするところまで突き詰めていくことの大切さを問いているからです。
保育者は出会うものに無自覚であってはならない。出会いの意味を考えて、自分たちの保育にどう活かしていくかということについて、常に考える事の大切さを、僕はこの文章から学びました。(川和保育園園長 寺田信太郎)

保育者は出会いを捕らえ、その意味と価値に意識的でなければならない。ここには、私が建築において出会いを重要視していることとの共通点が見えます。
また、元の引用文では常に経験を開き、自在であることの大切さも読み取れます。これはオートポイエーシスの第一人者である河本英夫が常々言っていることで、私も設計者として自在でありたいと思っています。
ここにも、保育と設計の共通点が見えますが、それは、両者がともに、人間が生きる環境の原点に迫ることを求めるからかもしれません。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。(佐々木正人)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』)

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。(河本英夫)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』)




保育環境を包み込む建築空間はどうあるべきか B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』(高山 静子)

高山 静子 (著)
小学館 (2017/5/17)

環境構成をよりわかりやすくまとめた一冊

『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』と同じ著者による環境構成の本です。

『環境構成の理論と実践』が環境構成の理論を体系的にまとめることを試みたものだとすると、本著はその理論を豊富な事例・写真をもとにビジュアル的にも整理して、より読みやすく多くの人に伝わりやすいように再編されたもの、と言えるかもしれません。
保育関係の本は一冊のノートに簡潔にまとめて、いつでも読み返せるようにしようと思っているのですが、ここまで密度が高いとそのまま机の脇に置いておいた方が良いかも知れません。付箋を付けるのも途中でやめて、使い勝手を良くするためにインデックスを貼ることに作業を切り替えました。

子どもを『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』と捉え直すことからスタートするのは、まさしくアフォーダンスの話です。
保育関係者には是非とも一読をお薦めしたい本ですが、もしかしたらアフォーダンスに興味がある方にとっても、その実践のイメージを掴むためには良書かも知れません。

保育環境を包み込む建築空間

さて、分野に限らず、本を読む時に常に頭にあるのは、”建築空間はどうあるべきか?”という問いです。

この本には保育環境の一つとして建築空間を構成するための直接的ヒントに溢れていますが、それは主に保育者の視点からのもので、あえて言えば(心地よさや美しさといったことも含めた)機能的要求としての要件として捉えられるものだと言えます。
ですが設計者としては、ただそれに応えるだけではまだ不十分で、さらに建築の設計者の視点から見た、子ども・保育者・保護者その他関係者やまちや社会にとって”建築空間はどうあるべきか?”に応える必要があるように思います。(とは言え、著者は例えば「秩序と混沌のバランス」「空間の構造化と自由度のバランス」といった、設計者が持つような視点にまで言及しています。)

環境構成の技術は、個々の子どもの遊び・学びを支えることを第一義として行われるものだと思いますが、建築はそれをより大きな視点から、子どもや保育者を包み込むような存在であるべきもののように思います。
そのような場であればこそ、環境構成の技術がより自在に発揮され、子どもや保育者が安心して活き活きと遊び学ぶことができると思うのです。
最後は言葉ではなく、その空間に包まれた時に単純に「あっ、ここで遊びたい。」と思えるような、そして、そこでさまざまなものに出会えるような、実際の建築物として応える必要があると思うのです。

例えるなら、園長先生が、保育の知識と環境構成の技術に優れているだけ、では園長先生足り得ず、やっぱりそこに何かしら人間としての魅力が見えて初めて、園長先生が園長先生となり、その園がその園となるようなものです。
建築空間も、保育の知識と環境構成の技術に応えているだけ、では建築足り得ず、そこが建築的・空間的魅力で溢れて初めて、その園がその園となるような建築足り得るのだと思うのです。

そのために、建築のプロとして、経験と知識、想像力と設計技術を総動員する必要があると思いますし、それらを日々磨き続ける必要があると思います。




「環境を通して」保育を行う B202『平成29年告示 幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領 原本』(内閣府 他)

内閣府 (著),‎ 文部科学省 (著),‎ 文科省= (著),‎ 厚生労働省 (著),‎ 厚労省= (著)
チャイルド本社 (2017/6/1)

この辺の指針は初めて読みました。
もっと、ぺらっとした内容かと思っていたのですが、乳幼児の保育・教育に関する考え方が(ある種の熱を帯びて)想像以上に凝縮されている印象を受けました。

例えば

イ 保育所は、その目的を達成するために、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携の下に、子どもの状況や発達過程を踏まえ、保育所における環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。(保育所保育指針 総則より)

とあるように、「専門性を有する職員」が、「環境を通して」養護及び教育を一体的に行うことをその特性であると明確に記述しています。

保育所保育指針は1965年(昭和40年)に制定され、その後何度か改訂されてきたようですが、「環境を通して」と言った視点が初めから獲得されていたのか、それともこれまでの歴史の中で徐々に獲得されてきたものなのか、その辺の変遷に興味が湧きました。機会を見て調べてみようかと思います。

また、幼稚園と保育園と認定こども園、それぞれの指針・要領は内容が重なる部分も多く、共通化への意識が垣間見れますが、認定こども園の制度に伴って、指針・要領を一本化した上でそれぞれの特色のみ補足した方がわかりやすくなったのでは思いました。
それができないところに日本の縦割り制度の突き抜けられなさがあるのかもしれません。




環境構成技術の集大成 B201 『ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」』(川和保育園)

川和保育園 (編集),‎ 寺田 信太郎 宮原 洋一
新評論 (2014/10/20)

重層的な遊具構成の園庭で有名な川和保育園を紹介した本です。
遊具を中心とした園庭での生活の紹介、子どもたちのつぶやきの紹介、園長先生の考え方の紹介、の3章からなっていますが、ダイナミックな園での暮らしぶりがよく伝わってくる本でした。

環境構成技術の集大成

この園庭はかなり高いところがあったり、異年齢が混じっている中で夢中で遊んでいたりと、一見、危険で特別な園庭を使いこなしている特殊な例のように見えがちです。

しかし、それは見方を変えると、長年の試行錯誤による積み重ねをベースとした環境構成という専門技術によって支えられているもの、と捉えることができます。
そうすると、この園庭は保育の基本的な理念と技術の先に辿り着くべくして辿り着いた環境構成技術の集大成とでも言えるようなもののように思えます。

いくら無鉄砲な子どもでも、こうしたことに挑戦するときには慎重になるものである。子どもを信じて挑戦させるということは、観念的なことではなく、まさにこのような環境設定による具体的な問題だと思う。(強調引用者・以後共通)

こんなところにも、園庭の基本原理である「環境を設定するが、あとは子どもの自主性に任せる」という考え方が生きている。

ここが、本当に大事なところである。つまり、何としても回したいという思いである。この思いこそ、意志の力の根源である。そして、この思いは、それぞれの発達年齢による生活グループに所属しながらも、0歳時から年長児までが一緒に暮らす園庭環境が生み出していると言っても過言ではない。このダイナミズムこそ、大いに着目したいところである。

それらのでこぼこも含めて、園庭の隅々までの絵が私の頭のなかには入っている。無意識にやっているところはひとつもない。だから、見学に来た人に、「どうして、あそこは出っ張ったままにしているんですか?」と聞かれれば、その理由をすべて答えることができる。自分たちでつくるということは、すべてにおいて、どうすればより楽しく遊べるか、危険を回避するためにはどういう配慮が必要か、といったことを細部に至るまで考えるということである。

いろいろなルートが確保されている立体構成。
何かに挑戦した先に新たな楽しみがあるという構成的工夫。
何かに挑戦するには、それに見合う能力が身についてなければ挑戦にまで至れないという構成的工夫。
小さい頃から異年齢児とともに過ごすことで、自然と身につく、意欲や、配慮、怖れや危険を回避するふるまいなど。
見守りという技術を身につけた保育者。

などなど、どれも環境構成の技術として考えられるものです。
ものとしての環境だけでなく、保育者はもちろん、園児それぞれが園としての文化の一員として環境構成の中で大きな役割を果たしていることも重要なポイントでしょう。

もし、この園庭に、新しい園児、新しい保育者、新しい保護者が突然やってきて同じように活動を始めたとしたら、いきなり上手くは周らないだろうし、怪我も起きるかもしれないな、と思います。

しかし、逆に言えば、「子どもたちのためにどんな環境が必要か」「そのためにはどうすればいいか」を考え共有することが出来さえすれば、できるところから少しづつはじめ、園庭を園の文化とともに一つひとつ積み重ねていくことで、川和保育園のような園庭にもたどり着き得るのだと思います。

一度、そういう場作りに挑戦してみたいものです。




空間と生活の中で学ぶことの大切さ B200『11の子どもの家: 象の保育園・幼稚園・こども園』(象設計集団)

象設計集団 (編集)
新評論 (2016/12/22)

僕は象設計集団の建物がわりと、いや、かなりスキです。

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。 前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。 やっぱり豊かである。 これが建築なんだなぁとつくづく思う。(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』)

その人間臭さというか言葉にならないほどの豊かさにくらくらします

そう言えば、笠原小学校では「まちの保育園」と同じことを35年ほども前に建築として成立させています。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。 宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』)

 
 
そんな象のこんな本が出てるなんて知らなかったので、とっても楽しみにしていました。

さて、象の保育施設に対する思いとこの本の構成は「はじめに」の以下の文章によく表れているように思います。

なかでも保育園・幼稚園・こども園は、就学前の子どもたちが毎日、昼間の大半の時間をすごす場所であって、保育のあり方と同じくらい、建物と庭のあり方、街とのつながり方が子どもに及ぼす影響ははかりしれません
子どもが大人になって思い返す時に、この場所の思い出が、なつかしい心温まる風景になっていってほしいものです。
本書は、私たちが保育者とともにどんな思いで設計に取り組んでいるのか、そして出来上がった「家」の中で、子どもたちはどういう暮らしをしているのかを紹介しています。
さらに、保育の実践と研究にたずさわる専門家から、空間が保育に果たす大切さについて語って頂いています。(p.002-003)

11の子どもの家

象は保育施設のことをおおきな「家」と呼んでいるのですが、この本ではそんな「11のこどもの家」が紹介されています。

設計事例は内容を理解しプランを頭に入れるため、また、後でざっと見返すことができるように、一つの事例を一枚のノートにまとめるようにしています。

そうしていくと、北は北海道から、南は屋久島まで、気候や敷地条件、園の思い等、さまざまな条件に対しそれぞれの形で応えていることがよく分かります。
特に、庭との関係性を親密なものにしたり、園舎をまちや村のように捉えるところに象の特徴があるように思います。
また、木造建築のスケール感を取り入れるために、保育室を全て1階に配置し木造としているものが多かったですが、敷地が限られていて耐火構造にする必要がある場合、園庭との関係性とともに、木造の親密さをどう取り入れるかは、敷地他条件に合わせてその都度考える必要がありそうです。

(って、屋久島にもあったんですね。身近なところにありながら知らなかった・・・。機会を見てちょっと見てみたいです。)

この本の終盤では4人の専門家が「保育と空間」について語っているのですが、どれも密度が濃く興味深いものでした。

それぞれ印象に残った部分をまとめてみます。

「小さな学校」から「大きな家族」へ

宮城学院女子大学教育学科教授の磯部裕子氏は、保育施設の歴史的背景を辿りながら、日常生活(暮らし)から学ぶ保育空間の大切さについて語ります。

明治初期、家族はいわゆる大家族で、そうした家族と地域コミュニテイによる暮らしの中に子どもたちも生きていました。その暮らしの中には、緩やかで無意識な「教育」があり、子どもたちはそこで生きることの知恵を身につけていきました。
そんな中、幼稚園は、日常的な生活では学べない抽象的な知識を学ぶ場、「小さな学校」として誕生し、機能しました
そして保育施設は、計画的かつ合理的な教育実践の場としてつくられた学校空間―無機質で四角く、管理しやすい空間―と同様の保育空間が良しとされ、定着されることになります。

一方、現在、家族は大家族から核家族となり地域コミュニティの中で孤立化しています。地域の中の日常で当たり前に行われていた、ゆるやかで無意識な教育は失われてしまい、その機能を保育施設が担うことを期待されるようになってきました。しかし、依然として保育施設は「小さな学校」としての合理的空間のまま提供され続けています
そこで著者は

学校の「乳幼児版」を提供し続けることを見直し、子供時代に本当に「相応しい生活」を取り戻していくことが必要なのではないかと思います。そのヒントとなるのが、かつて日本のどこにでもあった地域コミュニティや大家族が為しえていた「教育」です。決して、時間を巻き戻してかつての生活に戻るべきだというのではありません。むしろ、そのような社会に立ち戻ることは、もはやありえない時代であるからこそ、生きること、暮らすこと、遊ぶことにこだわった子どもが育つ場―それは、学校の乳幼児版としての「小さな学校」ではなく、かつての地域と大家族の機能を内包した「大きな家族」―を”意図的に”構成する必要があるのではないかと思います。

彼らの日常から分断された教授空間としての「保育施設」ではなく、生活そのものの子どもの「居場所」へ、子ども自身が本当の意味で「生きる力」を学ぶ場としての居場所づくりを急ぐ必要があります。
無機質で管理的な空間としての「小さな学校」から、心地よい暮らしの場としての「大きな家族」へ、そこで本物の「知」を得るための豊かな学びの場としての保育の環境への転換が求められているのです。

と提言します。

何もしないで過ごすことを選べることの大切さ

和光保育園園長の鈴木まひろ氏は子どもが自主的であれる場について語ります。

子どもが目を輝かせるのは、保育者主導の活動ではなく、自分で仲間を選び、場所を選んで、自分がやりたいことで遊んでいる時間です。さらに、遊びの間の何もしていない時間が貴重であって、子どもが姿を隠せる場所、籠れる場所も必要です。
著者は

いつでも元気ではなくて、子どもだって、何もしたくない日もあるんです。子どもの状況を読みとって対応していくことが保育者には求められています。そういうことを考えると、建物がいかに重要か、建てる前に考えておかなくてはならないことがたくさんあります。

生活しながら学ぶことはたくさんあります。便利なものよりもひと手間あることのほうが学びも豊かになり、身に付きます。生活者の一人として、子どもの出番が生まれるような手仕事のローテク文化を、いかに生活の場に残せるかです。

というように述べます。

自由な遊びと挑戦の場としての園庭

川和保育園園長の寺田信太郎氏は、生きる力を育てる園庭について語ります。

園庭では多少の怪我も含めて、こどもたちの自由な遊びと挑戦を尊重し、見守る保育を実践しています。そこで子どもたちは人として生きる力、社会で生きていくための力を学びます。
(川和保育園に関しては『ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」』で改めて取り上げたいと思います。)

子どもの育ちを支える濃淡のある空間

関東学院大学子ども発達学科専任講師の久保健太氏は育ちの場と濃淡のある空間について語ります。

著者が訪れた美空野保育園では、子どもたちが自由に遊んでいながら、ゆったりとした時間が流れ、保育者に強要された落ち着きのフリをした押さえ込みではない、確かな落ち着きがあった。そして、その秘密は空間が持つ「濃淡」にあるのでは、と語ります。

濃淡のある空間と均質な空間で考えたとき、学校の教室のような均質な空間では、どこで遊びこめばいいのか、どこでくつろげばいいのか、それがよく分かりません。
一方、濃淡のある空間では、いろいろなスペースがあり、一人になることも出来るし、ダイナミックに遊ぶことも出来ます。そこでは、場所と機能が一対一で対応するのではなく、場所と気分が一対一で対応しています。そのような空間では、営みとともに移ろう気分にしたがって、濃淡を行き来しながら自由に過ごすことができ、そこに学びが潜んでいると言います。
また、そうして気分に応じて濃淡を行き来することは、他人の自由を尊重し合うということの学びにつながります。
そして、空間を自ら意味づけできることの大切さについて語ります。

自分で意味づけるからこそ、その場所の意味が、自分にとっても重要な意味を持ちます。肝心なのは、こうした意味付けを一人ではなく共同で行うという点です。つまり、自分で意味づけるのではなく、”自分たちで”意味づけるのです。

濃淡のある空間は、自分たちで空間を意味づけていくことを可能にします。だからこそ、落ち着いた暮らしをもたらすだけでなく、自由を尊重し合い、学びを尊重し合うことができるわけです。こうして濃淡のある空間は、人の育ちを支えています。

ここでの空間の濃淡という言葉は塚本由晴氏が言った「空間の勾配」というものとも関係づけられるように思います。以前読んだときにはあまり理解できていなかったですが、今なら人と空間をより関係づけて理解できそうな気がします。

屋久島で受けたカルチャーショック

4人の専門家は共通して、子どもが日々の暮らしの中で、自由に遊ぶことによって得られる学びについて語られていたように思います。

こんな時、屋久島に移住した時のカルチャーショックのようなものを思い出します。
僕は、中学一年の秋まで奈良県の五條市というところで過ごし、その後屋久島に移住したのですが、屋久島の子どもたちは、学校の掃除や遊び一つをとっても、自発的というか当たり前にというか、自分で考え行動しているように見え、それが妙に大人びて見えました。一方自分は、大人と子供を分け、半ば反発的に自分を子どもの側に位置づけていたのが、まさに子供っぽく感じて、そこに思春期特有の劣等感に近いものを感じたことを思い出すのです。

奈良にいた時もそれなりに田舎で、自然の中で育ったように思うのですが、島の子どもたちは、自分で鰻を獲ってさばいたり自然の中で遊び、家や地域の中で仕事を手伝ったりする機会も多く、自然と「大人」と同じように育ったのだと思いますが、それまでの自分はやはり「子ども」として育ったのだと思います。(僕も、その後父の始めた農業を手伝ったりすることで、さまざまな事が学べたように思いますし、今まで、その経験に何度も助けられたように思います。)

こんな経験もあって「生活の中で学ぶこと、それが失われつつあること」に特に関心をもったり、象の建築が好きだったりするのかも知れません。

[ 追伸 ]
読書記録200冊目達成しました!




保育の現場で「どうしてそうするのか」の原則を共有するために B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』(高山静子)

高山静子 (著)
エイデル研究所; B5版 (2014/5/30)

環境構成という専門技術

この本では、さまざまな園の異なる実践に共通した原則を説明することを試みました。原則は、実践の骨組みとなる理論です。原則ですから、理想の園や理想の環境を想定して、それに近づくことを求めるものではありません。人が太い背骨を持つことでより自由な動きができるように、それぞれの保育者が、環境構成の原則を持つことによって、より自由で柔軟な実践ができればと願っています。

保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設での保育に関する理論を何かしら知っておきたい、ということで手に取ったのですが、めちゃめちゃ参考になりました。

例えば、学童期以降の子どもは、机に座り教科書を使って抽象的な概念を学ぶ、ということができます。
しかし、乳幼児はまだそれができないので、自ら直接環境に働きかけ、体験を繰り返すことで、さまざまなものを学んでいきます
直接教えるのではなく「環境を通して」教育を行うのが原則で、保育者はそのために、子ども自らが学べる環境を構成していく、というのが幼児教育の一番の特徴・独自性のようで、とても腑に落ちました。

そのために、保育者には、高い専門性に基づいた広く深い知識と環境構成の技術が求められるのですが、それは「園と家庭や地域とのバランス、安全と挑戦などのさまざまな矛盾の中でのバランスを踏まえた上で、その時々の個々の子どもの状態に合わせた環境の構成・更新を繰り返す」という非常に高度なものです。

そのような実践のための理論を体系的にまとめたのが本書ですが、保育に求められることの専門性と理論の大枠がイメージできたというのは大きな収穫でした。
また、僕はこれまで、子どもが育つ上での建築をどうつくればいいか、というのを一番のテーマとして考え続けていて、「「おいしい知覚 – 出会う建築」」というところに辿り着きました。
そこで辿り着いた考え方と、保育の分野での考え方と重なる部分が多いように思ったのですが、それがあまりにもぴったり重なるのにびっくりしました。(もともとの問題意識の設定からすると当たり前といえば当たり前なのかも知れませんが、もう、保育施設を設計するためにこれまでがあったんじゃないか、くらいに感じます。)

理論の必要性と展開

では、そのような理論をなぜ知っておきたい、と思ったのか。

例えば、保育のための空間を設計するという場面を考えた時に、個人的な体験や好みで決められることも多いような印象があります。それがスタートでも良いと思うのですが、保育の現場では特に「どうしてそうするのか。そうしたのか。」が説明できた方が良いと思いますし、そのために「太い背骨」となるような理論があることは非常に有効だと思うのです。

「どうしてそうするのか。そうしたのか。」ということは、建物の設計や建設の段階では、多くの関係者が同じ方向を見て良いものをつくっていくために必要なものです。
また、建物ができた後の実際の保育の現場でも、保育者や保護者等の関係者が、同じ方向を見て良い保育を実践していくために必要なものだと思います。そして、それが子どもたちのよい体験へとつながります。

園の目指すもの・思想といった大きな枠・物語は園長先生等トップが描くことが多いと思いますが、保育者や設計者がそれをプロフェショナルとして実践のレベルでさまざまな要素に落とし込んでいくには、専門的な理論の枠組みを掴んでおくことは非常に大切です
その点でこの本に書かれているものは、まさに!という内容でした。

この本で学んだ背骨としての理論を実践として展開できるように、さまざまな事例や理論の研究を進められたらと思います。
同じ著者の実例よりの本も買っているのでとても楽しみです。)

建築に求められるもの

ところで、環境構成は状況に応じて臨機応変に行われるべきものです。そんな中、建築空間には何が求められるでしょうか。

園が子どもも興奮させ一時的に楽しませる場所であれば、できるだけにぎやかな飾り付けが良いでしょう。しかし園は、子どもの教育とケアの場です。そこでは、レジャーランドやショッピングセンターの遊び場とは一線を画した環境が求められます。子どもたちが、イメージを膨らませて遊んだり、何かの活動に集中するためには、むしろ派手な飾りがない落ち着いた環境が望ましいと考えられます。

著者は、基本的には子どもが個々の活動に集中できるように一歩引いた存在であるべきという前提です。
例えば、空間を構成する技術として「子どもの自己活動を充足させることが出来る空間」「安心しくつろいだ気持ちになれる空間」「子どもが主体的に生活できる空間」「個が確保される空間」「恒常的な空間」「変化のある空間」など挙げ、それらのバランスをとりながら空間を構成する、と書いています。

その他、さまざまな事が環境構成の技術・理論としてまとめられていますが、保育者のための理論という意味合いが大きいので、重点は個々の場面での環境構成という短いタイムスパンに区切ったものが多かったように思います。

それに対して、建築は、子どもにとっては建築は在園中の長い期間接するものですし、個々の場面だけではなく建築全体としても子どもの環境になりうるものです。また、それは街からみると、もっと大きなスパンで存在するものですし、風景としての要素も小さくはありません。

ですので、個々の発達段階の空間構成に寄与できる空間をつくるとともに、建築全体としても園の思想を表していること、まちの風景であること、子どもにとっての原風景となれるような建築体験ができるものであること、などが建築には求められるのではないでしょうか

特に子どもにとっては、住宅を除いて初めての長期的な建築体験の場になることが多いと思います。建築でしか出来ないような体験、出会いを作り出すことも設計者の大きな役割だと思いますし、そのための術を磨いていきたいですし、それは住宅も同じだと思います。




発達はエキサイティングで面白い B197-198『発達がわかれば子どもが見える―0歳から就学までの目からウロコの保育実践』(乳幼児保育研究会)『0歳~6歳子どもの発達と保育の本 』(河原紀子)

乳幼児保育研究会 (著)
ぎょうせい (2009/3/7)

河原紀子 (監修)
学研プラス (2011/3/15)

保育期間の子どもは目まぐるしく成長していき、その発達段階に合わせて、必要な支援や環境に要求されるものが変わってきます。
保育園、幼稚園、認定こども園などの保育環境を設計する際にはそれに対する配慮と想像力が必要だと思い、読みやすいものをまずはざっくり読んでみることに。

上の本は、発達段階の区分が細かくテキスト量が多かったり、観察ポイントの開設やコラムが充実していたりするので、発達の理解や疑問の解消に向いていそうです。
下の本は、イラストが多くて読みやすかったり、発達表がついているので、ざっと理解したり、設計の際近くに置いてイメージを膨らませるのに向いていそうです。

また、実際に自分の子どもの発達と照らし合わせながら遊ぶヒントにもなりそうです。

発達保障理論と新たなアフォーダンス形式の獲得

ところで、「発達」という言葉に初めて意識的に出会ったのがいつかと言うと、バリアフリーと福祉施設について調べていた時に見つけた「発達保障理論」という言葉が最初だったように思います。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』)

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

引用元のページで、いくつか引用として抜き出しているのですが、発想が建築的で面白いのです。(この方の書いた本がないか、と思い探していますが見つかっていません。)

この発達保障理論は、言い換えると、何かを与えられるだけでなく、いつでも主体的に何かと出会い、関係を切り結べる(それによって発達できる)ことを保障しよう、ということなんじゃないかと思います。
これは、障害者福祉施設の現場の視点によるものだったと思いますが、同様のことを保育の現場でも「子どもが自ら出会い、育つことを保障しよう」というように言えるのではないでしょうか。

また、アフォーダンスの視点はリードによって発達という視点にまで拡張されています。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)
人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

ここでは、アフォーダンスが発見される相互行為が、
・[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的・対面的フレームの中での二項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為
 ↓
・[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・<認識>の共有
 ↓
・[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>
 ↓
・[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>
と発達していく過程が描かれています。

これも、どんどんと出会いの窓が拡張されていく過程として保育の現場に重ね合わせることが出来るでしょうし、保育園を「促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場」として捉えているところも面白いですね。

さらに、次の本の目次を一部抜き出すと、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B184 『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』

第I部 発達と身体システム
第1章 発達――身体と環境の動的交差として 丸山 慎(駒沢女子大学)
第2章 運動発達と生態幾何学 山コア寛恵(立教大学)
第3章 ゴットリーブ――発達システム論 青山 慶(東京大学)

と、あるように、生態学的(アフォーダンス的)視点で発達を捉えています。もしかしたら生態幾何学的な視点で発達段階に合わせた設計をする、ということも考えられるのかもしれません。
また、要因と結果を中心に捉えられがちな「発達」をアフォーダンスの視点は動的で能動的な行為そのものへと引き戻してくれます。子どもの発達は、今目の前の行為の中にあるのです。

今回は分かりやすい2冊を選んで読んだけれども、事程左様に発達はエキサイティングで面白いものなんじゃないかという気がするのです。

(よく知らないまま季刊「発達」を数冊買ってみたので、どんな感じかちょっと楽しみ。)




子どもを中心とした2つの矢印 B196『まちの保育園を知っていますか』(松本 理寿輝)

松本 理寿輝 (著)
小学館 (2017/3/23)

子どもたちに多様な出会いの機会を

僕の大学の卒論は『コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察』というもので、コミュニティというものを現代社会の中での有効性という視点から考えてみたい、という思いで書いたものでした。
下のリンク先にその卒論の冒頭部分を抜き出しているのですが、次の文がその時の思いを端的に表しています。

「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 人と人との関係)

この時の思いは一貫して自分の中にあり続けていて、コミュニケーションの必要性を人を含めた環境全てにまで拡げて考えてきたのが『出会う建築』でした。
その「出会い」が「子どもの育ち」に必要不可欠なものだとすれば、子どもたちの多様な出会いの機会を担保してあげることが大人の役割だと思うのです。

また、社会学者の宮台真司は次のような事を言っています。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要 ■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。 ■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B045 『「脱社会化」と少年犯罪』)

現代社会を生き抜くためにも、コミュニケーションの試行錯誤・多元的モデルとの接触によってタフな「自己信頼」を醸成する、ということが必要であり、ここでもやはり「子どもたちの多様な出会いの機会を担保する」ということが大きなテーマです。

まちの保育園

さて、本著ですが、前半は著者がどのようにしてまちの保育にたどり着いたか、その経緯が語られます。
著者はただでさえ若い女性と過ごす時間が大半となっている保育環境にふれ、『人格形成機である0~6歳にどのような出会いを持つかが大切であるということを考えれば、もう少し多様な出会いを持てるといいな』と思うようになります。

また、レッジョ・エミリア市の文化(大人たちが皆当たり前のこととして『子どもたちが力を発揮できるために、今ベストといえる環境を自分たちで考え続け、つくり続けていく』文化)に触れ感銘を受けます。

そこから『子どもを中心にして、「子どもが育つ理想の環境」「大人も含めた理想的な社会や市民のありかた」を対話し続けていくことで、日本で拓いていくオリジナルな「まちの保育」をつくっていこう』と考えた著者は、その理念を実現すべくまちの保育園を開設しました。

「まちの保育」は『子どもの育ち・学びにまちの「資源」を活かす→まちが保育園になる』『保育園がまちづくりの拠点として、地域が豊かにつながり合う→保育園がまちの頼れる存在になる』という子どもを中心とした2つの矢印がお互いに向き合っているような関係で成り立っているようです。

レッジョ・エミリアでは、まち→こどもの矢印が強く見えるのですが、その前に日本ではまず一度閉じかけたコミュニティを拓くことが必要で、そこに子どもの持つ「存在感」「社会的役割」の意義が生まれます子どもを中心に置くことで「まちが子どもを育てる」と同時に「子どもがまちを育てる」ような好循環が生まれるのです。さらに「子どもの環境を/まちを・社会を」どうやって良くしていくかという「問い」が中心にあることで、まちが動き続けることが重要だと言います(結果主義ではなくプロセス主義)。

こんな風に「まちの保育園」は子どもとまちを絶えず動かし続ける「はたらきそのもの」のような存在であり、それが働き続けることで、子どもだけではなくまちも(「育てられる」のではなく)「育つ」のかもしれません。
そこに「はたらき」の存在を見出すことが著者の言う「プロセス主義」なのだと思いますし、そこではオートポイエーシスに関連して河本英夫が言うように経験を拓いていくような態度が重要なのだと思います。

まずは対話のテーブルにつこう

「大人たちが楽しそうに生活し、自分たちの信じられることをやっている社会」、それこそが、子どもにとっての理想的な環境なのではないかと思います。
(中略)
「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくりと同じこと」なのです。

この本はこんなふうに締められるのですが、ここで騎射場のきさき市を主催する須部さんが”のきさき市のその先に子どもたちを見ている”というようなことをラジオでチラッと言ったのが思い浮かびました。あー、そこまで見ているんだな―。

これまでは「良い設計の仕事をしていたら、それが認められてやがて良い仕事が来る」ということで良かったのかも知れませんが、保育園一つをとっても、ただ建築物だけをみているだけではいろいろなことが捉えられなくなっている。そういう時代なんだと思います。まちがうごく、というような「はたらき」に身を置くことでしか見えないことや達成できないことがあり、建築もそれとは無縁ではいられないのかも知れません。

著者は「問い」や「対話」に教育や社会の本質を見出し、「まずは対話のテーブルにつこう」と言います。

僕も独立前後はいろいろなところに顔を出し、いろいろなことを考えるようにしていましたが、仕事が安定し忙しくなるにつれて「クライアントの期待に応えることを最優先しなければならない」と言い訳をしながらどこかに顔を出すことを制限するようになってきていたように思います。
しかし、一歩引いて大きな目線で見るならば、「対話」と「はたらき」に身を置くことはどこかで仕事(を通じて貢献したいこと)につながるような可能性を持っているのかも知れません。須部さんのラジオでの一言がきっかけでそんなことを考えるようになりました。

「まずは対話のテーブルにつこう」
もう一度そこから初めてみるのも良いのかもしれません
。(とは言ってもチビが保育園に入るまではなかなか厳しいわけなのですが。)

(追記)
今、保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設について集中的に学ぼうとしているのですが、「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくり」というのは「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な建築づくり」とも言い換えられると思います。
子どもの事を考えた建築は大人にも良いだろうし、大人がそれぞれ真剣に楽しんで向かい合った建築が積み重なることで子どもが育つに相応しい風景が生まれるのではないでしょうか。

ここで学んだことは住宅やその他の建築にもきっと活かせるはずです。




「子どもが育つ」状況に満たされた場 B195『ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること』(加藤 積一)

加藤 積一 (著)
小学館 (2016/7/22)

コラボレーションの理想形

ふじようちえんは、佐藤可士和と手塚建築研究所がコラボレーションし、日本建築学会賞を受賞した建築として有名です。

この本は、そんなコラボレーションのもう一人の主役、園長の加藤積一さんから見た「ふじようちえんのひみつ」のお話。

その園長先生がこのコラボレーションについて次のように語っています。

可士和さんはその話を聞いて、「園長先生。僕はその子どもの育つ状況をデザインしましょう」と言いました。
状況をデザインする。
なんていい言葉でしょう。その状況を手塚さんが建物として形にしていきます。真ん中に「子どもの育ち」があって、「学びをデザインしたい」が「状況をデザインしよう」になり、「建物としてのデザイン」となっていったのです。そしてこの三極のスパイラルがいまでも動き続けているのです。

それは、三者が自分の役割を果たしながらコミュニケーションを重ね合い、同じ目標である「子どもの育ち」のデザインへと向かっていくという、理想的なコラボレーションの形のように思います。

どんな建築も例えば施主と設計者、施工者といった関係者によるコラボレーションです。
それがこんな風に理想的な形で建築に着地できたら最高ですね。

「子どもが育つ」状況に満たされた場

下の画像は内容を掴むためにノートにまとめたものですが、上は本書の「子どもが育つ状況説明図」を写したもの、下は園で実践されているアイデアを箇条書きで抜き出したものです。

上の図には「◯◯で育つ」という状況が建物内に限らず敷地いっぱいにみっちりと書き込まれていますし、下に抜き出したアイデアも60に達しました。

内容は、「一日中歩き廻れ、互いの様子が見え、屋根の上をぐるぐる走り回れる楕円形のプラン」や「力を入れないと最後まで閉まらない引戸」と言ったハード面から、「畑作り」や「ふじようちえん検定」といったソフト面まで幅広く、それらのアイデアは全て「子どもが育つ」状況をつくる、という一点へとつながるように考えられたものです。

こんな風に、ふじようちえんは「子どもが育つ」状況に満たされているのですが、その根底には子どもの観察と科学的な分析によってつくられたモンテッソーリ教育があるようです。

モンテッソーリとアフォーダンス、出会う建築

それでは、モンテッソーリ教育とはなんでしょう。
保護者などに聞かれたとき、まず私はごくかいつまんで、「それぞれの子どもの中にある、自ら育とうとする力を十分に発揮させてあげる教育です。」と答えています。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」
これが、マリア・モンテッソーリの得た結論でした。

モンテッソーリはこの教育を行う上で「環境」が重要な鍵になると考えます。子どもは大人が教えるから育つのではなく、環境と交流することによって育つのです。

「子どもは自らを成長発達させる力を持って生まれてくる」ことを前提に、「大人(親や先生)」は、その要求を汲み取り、自由を保障し、子どもたちの自発的な活動を援助する存在に徹しなければならない。

これらのモンテッソーリ教育に関する言葉は、僕がこれまで建築について考えてきたことに驚くほど似ています

僕は「何が建築にとって大切か」をずっと考え続けてきました。それを、アフォーダンスやオートポイエーシスと言った理論をベースに『おいしい知覚 – 出会う建築』としてまとめた事があります。

簡単に言うと、人を含めた動物は環境を探索することによって、環境との新しい関係を切り結ぶ可能性(アフォーダンス)を見つけ出し、それによって成長・発達していく存在であるし、そこに喜びもある。また、環境としての建築は多様な可能性(アフォーダンス)と出会えるものであり、そこで可能となる出会いの多様さや深さが建築の意味と価値と言える。というようなことです。
要は、その建築にどんな出会いの可能性が含まれているかが大切だ、ということです。
(かなり読み難いかもしれませんが、興味のある方は『おいしい知覚 – 出会う建築』を読んでみて下さい。)

人間が育ち、生活していくためには、そういう出会いの可能性を豊かに持つ環境が大切だと思うのですが、それは「子どもが育つ」状況に満たされることが大切、ということと重なります。

また、アフォーダンスの理論では、人は何かの刺激に対して反応して生きているのではなく、能動的に環境を探索することによって、そこから意味や価値を発見・抽出し、それを利用することによって生きている、というように機械論的受動性から生態学的能動性へと転換を図るのですが、それは先生に教えられるのではなく、子どもが自らを成長させる、というモンテッソーリの基本的な考えとよく似ています。

そういう視点で見ると、ふじようちえんは敷地も含めて「子どもが育つ」ために必要な出会いの可能性に満ちた建築、まさに「出会う建築」だと言えるのではないでしょうか。

これまでずっと『おいしい知覚 – 出会う建築』について考え続けてたのですが、保育園や幼稚園、認定こども園といった子どものための建築ほど「出会う建築」が求められている建物はないように思います。
これから、いくつかの読書録を通じて、子どものための場が、どのように「子どもが育つ」ために必要な出会いを生み出してきたか、またはどのようにして生み出せばよいか、を研究していきたいと思います。




新しい制度と希望 B194『図解入門業界研究 最新保育サービス業界の動向とカラクリがよ~くわかる本[第3版] 』(大嶽広展)

大嶽広展 (著)
4798050997

独立前の事務所では、幼稚園等の提案をしたりする機会もあったのでそれなりに勉強していましたが、制度の移り変わりが早い業界、もう一度いろいろ勉強し直してみようということで、保育園・幼稚園・認定こども園などに関連する本を30冊近く購入してみました。

その中で、まずは全体の動向を見てみようということでベタな一冊から。
特に2015年にスタートした「子供・子育て支援新制度」を起点とした変化について、全体をざっくりと掴むには良書だったと思います。

保育園や幼稚園が認定こども園へと移行していく様子や、多様な形態の保育サービスで保育環境を底上げしていこうという主旨がよく分かりました。

身近なところでは、ずっと気になっている保育園があるのですが、その保育園は企業主導型保育事業制度を利用していて、その仕組みと可能性がようやく分かったように思います。(この園、保育園のあり方としても、子どもの環境としても夢に溢れていてすごく素敵です。)

話は少しそれますが、昨日、「鹿児島市子どもの貧困対策講演会」があり、託児可ということもあって行ってみました。
統計的な資料を使いながら貧困世帯の子どもたちの現状が語られたのですが、子どもの権利をどう社会として守っていくかという問題は、私たちが普段感じている以上に大きな問題だと感じました。
そこには、私たちの意識の問題が一番根っこにあることは間違いないですし、その結果でもある制度の問題がやはり大きいのかもしれません。

先の保育園のように、新しい制度が生まれ、それが素晴らしいかたちで活かされているのを見ると、大きな希望を感じるとともにいろいろなことの動向を知ること、変えていくことも大切だと改めて思わされました。




TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』



NHK教育福祉ネットワーク2月21日(火) 20:00~20:29
シリーズ“こころ”を育てる第2回“あそび”を生みだす学校~建築家町山一郎さん~

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。

前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。
やっぱり豊かである。
これが建築なんだなぁとつくづく思う。

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

豊かさがそこにいる子供達の顔に現れている。

■小学校は日本全国均等に配置されていて、馴染みのある建物であり、地域のコミュニティの核となりうる。
■子育てにおいて、核家族という中で分断された形で子供が育てられている。日常的にも子供どうしが群れをなして遊ぶという機会がどんどん少なくなってきている。それは問題ではないか。
■親が専属で育てるのがいいという意見もあるが、子供をいろんな親が面倒をみて育て、子供が群れをなしてその中で育っていく。そういういろんなことがあわさって子供は育つ。
『子育ての共同化、地域化』が求められている。

それは宮台の言う『異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間』である。

宮代小学校では、全部で6つの門をつくり地域の人がどこからでも入ってこれるよう工夫していたが、いくつかの事件の後、文部科学省の指導があり、やむなく正門以外は閉じられてしまったそうだ。

安易に子供を隔離することによって守ること。それは子供達からコミュニケーションのチャンスを奪い、『隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在』として育ててしまわないだろうか。

最終的に建物がまちに開かれていて、そこに地域の人が参画することによって、地域の目によって子供も守られ、子供がいることで地域の人の集まる拠点となる。
そういう相互関係によって安全も守られ地域の核となることが一番だが、ときどきバランスが崩れることもある。
しかし、そういうのを乗り越えてより良いものができればよい。

と町山は言うが、町山の懐の深さと言うか、もっと長いスパンでものを見る視点に感心した。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。

宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。

20年以上も前から、そういう視点をもっているというのは素晴らしいが、逆に言うとそれを受け入れる余地がまちの側にもあったということだろう。
(この学校では子供達が裸足で駆け回るが、それは学校側からの提案だったそうだ)

翻って、先日鹿児島県の建物の仕上げの仕様の説明を受けたが、県は学校の仕上げ材の標準仕様というのをつくっていた。
プロポーザルなんかでも、その仕様どおりの材料を明記すれば評価が上がるそうだ。
コストや最低限の仕様については一定の効果があるだろうが、いまどき”標準化”を、それも教育の現場においてうたっているのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

そういう思想からは、笠原小学校のような学校は決して生まれはしないし、そこには町山のような長い時間を見据えた視点はない。

僕の個人的な意見だけれども、子供の教育以上に税金をかける必要のあるものなどあるだろうか。
他にコスト意識をもつべきことはいくらでもあるだろうに。

28日(火)13:20から再放送があるみたいなんで、興味のある方は是非。
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