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B071 『私たちが住みたい都市』

山本 理顕
平凡社(2006/02/02)

工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは

伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」

と大変興味深いメンバー。

しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。

建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。

宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。

建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)

宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。

というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。

それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。

そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕

それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。

システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。

システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。

もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。




B064 『脱アイデンティティ』

上野 千鶴子 編
勁草書房(2005/12)

複数の人がアイデンティティについてさまざまな視点から論述している。
本著は『「アイデンティティ強迫」に憑かれた近代社会および近代社会理論へのレクイエムを意図して編まれた(上野)』そう。

しかし、個人的な実感としてはアイデンティティの概念はレクイエムを唄うまでもなくすでに失効しているようにも思う。
今では「アイデンティティ」という言葉にピンと来なくなっている。
もちろん個々の状況によって感じ方は様々だろうが、少なくとも僕にとっては「アイデンティティ」が自分にとって重要なテーマではなくなっている。

本著の中では、三浦展の論(『消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」』)はとっつきやすく、なるほど、と思わせるものであった。

面白く読めたと思えば、近いうちに読もうと思っている『下流社会』の著者だった。説得力がありマーケティングが専門なのも分かる。

三浦の論は前半はとっつきやすくなるほどと思わせる分、もはやありがちな視点であった。しかし、後半の論はちょっと考えさせられるものがあった。

最近の若者の中では「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」というのだ。

欲求の基本的な源泉は不足である。しかし、欲求の対象(食物)だけでなく欲求そのもの(どういうものを食べたいか)までが過剰に供給される社会では正常な欲求を維持することは難しくなる。

何を食べたいかまで、押し付けられていると、本当に自分が食べたいのか、『単なる刺激(広告)に対する反応(消費)』でしかないのか分からなくなる。

その結果

食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして、若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(これは他のさまざまな欲求に対しても言える)

また、現代の若者は「自分らしさ」をもとめるが、それは単に「楽であること」「マイペース」の同義語になりつつある。

自分の嗜好を表す言葉を聞くと、「個性的」「先進的」「人と違う」といった言葉はまず挙がってこない。むしろそそれらは嫌いな言葉ですらある。逆に好きな言葉は「さりげない」「目立ちすぎない」「シンプル」といった言葉である。
そう考えると、現代の若者の求める自分らしさ志向はずいぶん屈折している。それは1960年代から70年代の若者文化に求められたような、既存の体勢からの個人の解放、アイデンティティの確立としての自分らしさではないし、80年代における、消費を通じた自己表現としての自分らしさでもない。・・・(中略)・・・思えばそういう時代はある意味で幸福であった。

単に欲求をもつことや自分らしさを求めることでさえ、消費社会から自由になることが難しく、全てが絡めとられてしまう。
それを、敏感に感じ取り拒絶する若者は『欲求を欲求すること』さえ奪われているのではないだろうか。

これは他人事ではなく、残念ながら自分自身にも思い当たる節がある。

欲求というものに対してなんとなく胡散臭さを感じ少し距離をおこうとしてしまうところがあるのだ。
素直に欲求をもてない自分がいる。(これは昨日も妻に指摘された。)

ずっと、(ものをつくるということに対して)どこか一歩抜け出せない感じを持っていてその原因がこの距離にあることも自覚している。今見つけようとしているのはきっとそこから抜け出た感覚である。

この欲求にたいする姿勢はモノをつくるものにとっては決定的に重要な問題だろう。安易に姿勢を決めることは出来ない。

自分の中で整理がつかないまま、どこかから借りてきて”とりあえず”欲求を持っているふりはできるかもしれないし、ほとんどの人にとってはそれで良いのだろう。

だけれども、とりあえず借りた欲求からものがつくれるはずがない。つくれるものはやはり借り物だけで、それでは人の心に達することは出来ないように思う。

この悪い意味での優等生的な「一歩抜け出せなさ」は僕の中でのコンプレックスでもある。
ここに目をつむったままだと前に進めない気がする。

いつか必ず抜け出せるという感覚はあるのだが。

— メモ —
ここから抜け出すために、またこのような社会で生きるために必要なものは「欲求をもつための体力」のようなもの、言い換えると「野性」のようなものかもしれないな、と少し思った。
また、平野 啓一郎氏の提唱する分人のようなものがアイデンティティの新しいあり方になってきているのかもしれない。




B035 『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』

上野 千鶴子
平凡社(2002/11)

仮に、社会の中から用済みの概念を見つけ、解体することによって、その概念によって縛られている人を解放することが社会学の使命の一つだとしたら、著者は紛れもない社会学者だと思う。

それは彼女の著作名を挙げれば明らかだ。(『家父長制と資本制』『近代家族の成立と終焉』『ナショナリズムとジェンダー』『サヨナラ、学校化社会』など。ちなみに僕は今『脱アイデンティティ』と言う本を読み出したところ。)

著者との対談で山本理顕が

建築は意識の場としてしかつくられません。現実がどんなに変化しても、その変化に対応して建築ができるということはあり得ない。

といっているのが本当だとすれば、概念(意識の場)を解体、変化させようとする著者のような仕事は、建築の根源に関わるものだと思う。

実際、山本は社会学的な分析によって図式化したものを落とし込むことによって建築の可能性を開こうとしている。

この本では、主に「住宅」と「家族」に関する論文や対談が収録されているが「家族を超える」「ハコ」というタイトルが示すように「住宅=住むための器」「家族=愛の共同体」という規範を解体する試みととれる。

ところで「規範」とはなんだろうか。
なかなか扱いづらいものである。
社会をうまく運営しやすくするために必要とされたものが、同時に人びとを拘束することにもなる。
また、「規範」をなくすことが、新たな「規範」となってしまう危険もある。

建築をやっていると「脱nLDK」を考えているうちに、なぜ「脱nLDK」が必要なのか分からなくなってくることがある。
それこそ「規範」になっているからやるのでは本末転倒である。(今の若手にはさらに逆に「脱nLDKの規範」を解体しようとしているように思う)

(寝室+家族団らんの場)=nLDKというように、無批判に「規範」に従っていたのでは、モノと現実とが解離していても気付かなくなってしまう。ゼロからきちんと考えましょう、という程度に考えたほうがよさそうだ。

といっても、これは簡単なことではない。
それに対して山本理顕はうまく道筋をつくっている。
別にゆっくり考えてみたい。

*********メモ*********

■上野千鶴子の提言
1.住宅モデル・選択肢の多様化をせよ
2.モデルに個性はいらない。住み替えを前提とした汎用性のある標準モデルを作成せよ(選択肢を多数含むこと)
3.住宅の暮らしへの特化はもはや終わった。生産的なアクティビティの空間(ラボ)を含みこんで欲しい。
4.顧問の空間に育児・介護の機能を組み込むことが必要。住宅と言うユニットはもはやユニットとしては完結しない。
■地縁・血縁でなく選択縁という考え方。
■近代社会になって規範が見事に内面化された。それが規範の呪縛の強さとなっている。
■福祉は家族解体を前提とした思想。家族を超えたコモンが必要。
■コモンに何を依存するかが問題になる。凝集力。配列の根拠となる。
■住形態に関しては地域社会の問題・介護の問題・家族の問題・育児の問題等を考える必要がある。
■コモンとインディヴィデュアルとパブリックとの関係。
コモンが鍵。ファンクション。必ずしも隣接の必要はない。
■コモンと土間を絡められないか。土間の持つ両義性。
■鉄の扉で一つのユニットを外から隔離したと言う革命。
セル。プライバシー。「家族は愛の共同体」。
■家族だけでは機能不全。
■東雲の後日調査ではf-ルーム(多目的室)の木製建具を9割近くが閉め切っていたようだ。(日経アーキテクチャー2005-10-31)開くことはなかなか難しい。