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車輪の再発明とリアリティ B293『空想の補助線――幾何学、折り紙、ときどき宇宙』(前川淳)

前川淳 (著)
みすず書房 (2023/12/5)

珠玉の数理エッセイ集

著名な折紙作家であり、天文観測のエンジニアでもある著者によるエッセイ集。
折り紙と幾何学にまつわるすばらしいエッセイが詰まっていて、あと数篇未読のものがあるが読み終わるのがもったいない。

著者の引き出しは折り紙と天文学のみならず歴史や文学、絵画など幅広く好奇心に満ち、教養の深さを感じさせるが、それでいて謙虚で落ち着いた人柄を感じさせる文章。このような本を純粋に読み物として楽しむのは久しぶりかもしれない。

車輪の再発明とリアリティ

この本は昨年の12月に出版されたのだが、ちょうどそのころに「折り紙と幾何学」をテーマに日置市の「青少年のための科学の祭典」に出展することになったため、嬉々として購入した。

その科学の祭典は昨日無事出展完了し、その後出展メンバーで反省会をした時に、テンダーさんから「車輪の再発明」とリアリティというような話が出た。

「車輪の再発明」に関して、ちょうどこの本で読んだところだったので、その部分を抜き出してみる。

科学や技術に限らず、あらゆることが歴史の積み重ねの上にあるのは当たり前なのだが、時にそのことは忘れてしまう。ある意味では、忘れたほうがよいこともある。たとえば、ソフトウェアエンジニアリングの世界では、同じ機能を持つものはできる限り再利用することが効率的な開発の基本で、すでにあるものを一からつくりあげることは、「車輪の再発明」として揶揄される。既存のものは所与のものとして、第二の自然のように扱えばよいとされるのだ。しかし、すべての細部を一から理解する必要はないとしても、自分がどこに立っているのかを知ろうとすることは重要だ。(p.107)

今回、子どもたちとワークショップをしてみて、「自分がどこに立っているのかを知ろうとする」意識が薄く、ずっと答えを与えてくれるのを待っているような印象を受けることが何度かあった。
(それは、珍妙な格好をした大人を前にして縮こまっていただけかも知れず、私の力量による部分が多々あったかもしれない。今度このような機会があったら、ツカミのギャグ的なものを準備しておいた方がいいのかも。それはそれでハードルが高いけれども)

この辺の話をこれまで考えてきたアフォーダンスの文脈で考えてみる。

アフォーダンスは、「環境が動物に対して与える意味や価値である」と、環境が一方的に動物(人間)に情報を提供しているように誤解されがちだ。(特にデザイン的な文脈で)
しかし、実際には、アフォーダンスを獲得する前提として、まず、環境に対する働きかけとしての探索がある。また、環境の中から意味を見出すような嗅覚(技術)も必要だ。

<意味>と<価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化と技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード))

環境の中に何かしら「意味」の可能性を嗅ぎ分け、能動的に探索することで、何かの「価値」を得る。知覚はその運動性の中にあるのであり、静的で単独・受け身なものなのではない。
動物はそのサイクルを繰り返すことで命をつないでいくし、であるからこそ、その運動性の中に環境とつながっている、もしくは生きているというリアリティが宿る。(そこにある種の実感が宿るのは、生きていくために必要であるため生命の歴史の中で身につけたものだろう)

しかし、いつも「価値」あるいは答えだけを与えられ受動的にそれらを摂取するだけでは、そこにリアリティは宿り難い。何より、「意味」の可能性を嗅ぎ分けるための嗅覚も、探索するための目も、価値を得るための身体性も育たない。
そうなると、ますます受動的にならざるを得なくなる。知覚するには、もしくは世界とつながっているリアリティを得るには技術が必要なのだ。

子どもたちに、その「リアリティを掴みに行くぞ」という能動的な姿勢と技術の不足を強く感じたのだが、生きるために必要な基本的技術を持たせないまま大人にさせてしまってもよいものだろうか。

テンダーさんは、先程のソフトウェアエンジニアリングの文脈と同じような意味でライブラリーという言葉を使っていたけれども、あらゆるものがライブラリー化していく世界では「車輪の再発明」をしないでもよいエリア、すなわち探索の余地のないエリアが世界の多くを覆って生き、リアリティを得る機会が失われていく。

そのような世界では、あえて「車輪の再発明」のタブーを犯してでも世界をこじ開け、リアリティを掴み取るための技術を身につける機会を取り戻すことが必要なのではないか。私はテンダーさんの話をそのように解釈した。

それに対して、私は最近、「遊び」という言葉をキーワードにしている。
私は今のところ「遊び」を「ある特定の部分での解像度を高めて、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを高密度でまわすこと」と捉えているが、そのような遊びの機会と、その技術を身につけるための機会を大人が奪わないことに意識的であるべきではないだろうか。(その点で、今回の私のワークショップではお膳立てをしすぎた感が強く反省点が多い。)

おまけ

今回、「青少年のための科学の祭典」で本書から小ネタを拝借した部分を紹介する。(展示用にかなりデフォルメしているので、内容についての責は私にあります。)








触覚と倫理、周辺視とリアリティ B269『建築と触覚: 空間と五感をめぐる哲学』(ユハニ・パッラスマー)

ユハニ・パッラスマー (著), 百合田 香織 (翻訳)
草思社 (2022/12/13)

初版が1996年の著書の邦訳。

パッラスマーはa+u別冊で、学生の頃貪り読んだ「日本建築における光と影(1995.6)」とともに大きな影響の受けた「知覚の問題 建築の現象学(1994.7)」の著者の一人でもある。(めちゃ懐かしい)

視覚偏重の弊害とそれに対する触覚的要素の重要性はいまさら言うべくもないが、出版当時と比べても視覚の偏重っぷりは加速しているし、だからこそ視覚以外の体験的要素の重要性は増している。
また、それらは求められるようになってきてもいるだろう。

触覚と倫理

では、なぜ今本書か。

それに特別の理由がある訳ではないが、5感を持ってして世界と関わる経験を取り戻してみたい、というのが最近のテーマであるし、別に書いたようにそこには次世代に対する倫理的な責任があると思う。

そう、触覚を含め、体験に関してどう向き合うかははもはや倫理的な命題なのではないか。
最近そのように考え始めている。

それで、改めて、「つくることと」と「つかうこと」、「建てること」と「住まうこと」について改めて関連書籍を読んでみたいと思っているところである。(引用文では馴染みがあるけれども、引用元の原著をちゃんと読んだことがなかったので)

周辺視覚とリアリティ

また、本書の中で特に気になったのは、周辺視覚とリアリティの部分。

私はまた、私たちの住まう空間における内部性の経験だけでなく、この世界の「生きられた経験(体験)」における周辺的で焦点の絞られていない視覚の役割にも興味をかき立てられてきた。(中略)しかし、生きられた経験の本質は、意図していない触覚的なイメージと焦点の絞られていない周辺視覚にある。焦点の絞られた視覚は私たちを世界と対峙させるが、周辺視は生き生きとした世界で私たちを包み込む。(中略)しかし、建築のリアリティが根本的に依存しているのはどうやら周辺視のほうであって、その周辺視が建築のリアリティという主題を空間に包み込んでいるように思える。(p.21)

周辺視は私たちを空間に結びつけるが、焦点の絞られた視覚は私たちを空間の外へと押し出して単なる傍観者にしてしまうのだ。(p.22)

ここでも何度か書いている隈研吾のオノマトペの感覚は、触覚性と周辺視に関わっているのではないか、という気がしたし、リアリティに関する一つの手がかりを得られたような気がする。




近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)

能作 文徳 (著)
トゥーヴァージンズ (2021/2/10)

現代建築家コンセプト・シリーズの一つであるが、いわゆる建築家然とした作品集とは異なり、エッセイ集のような体裁である。
ここでは断片的な写真とともに、著者の現時点での思想が表明されているが、それに対して自分との距離のとり方が分からないかもしれないという気がして手を出せずにいた。

それが最近、著者の問いかけに対して興味が持てそうな予感がしたので、おそらく今が読むタイミングだろうと手にとってみた。

事物を追うものとリアリティ

前回の『ブルーノ・ラトゥールの取説』は、ある意味これを読むための下準備でもあったのだが、ラトゥールの自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定する思想に触れた上で、建築家は「Form Giver」(形を与えるもの)であることに先んじて「things Follower」(事物を追う者)であるべきであるという。
そこで目指されるのは「すでに確定された「原型」の建築ではなく、ありあわせのものをその都度集めた「雑種」の建築」であり、それは「ただの集積ではなく、物質やエネルギーの摂理に沿った精緻なデザインであるべきである」という。

それは、おそらくあらゆる事物の存在を認めた上で事物そのものにフォーカスし、解像度を高めて取り扱う態度のことであろうが、その先で建築の形は「事物連関の中から湧き上がり、事後的に結晶化されるべきである」とされる。

近代を手放そうとした先で、何が建築を建築たらしめることができるのか、というのが私の大きな関心の一つであるが、この、事後的に、結晶化されるべきである、という言葉に、著者の建築を追い求めようとする意志を感じる。(ただし、結晶化のイメージは固定的で完結するようなイメージではなく、生成の原理の中にあるものだろう。)

「Form Giver」である前に「things Follower」であれ、ということに近いことを、佐々木正人がリアリティーのデザインに関するところで言っているのを思い出した。

デザイナーは、道具の要素である「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。( 『アフォーダンス-新しい認知の理論』(p.105))

著者の言う、「雑種」の建築は、近代化の過程で事物そのものから失われてしまったリアリティを再発見しようとするものかもしれないが、そのような感性は急速に存在感を増しつつあるように思う。

近代化の還元主義がそういった事物のリアイティを覆い隠してしまうことによって成立していたのだとすると、いよいよそこから目をそらし続けることはできない時代に突入しつつある。

それに対して独自の思想とスタンスを築きつつある著者の動向には今後も注目していきたい。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展 ギャラリートーク


RAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展のギャラリートークがあったので行って来ました。

鹿児島大学准教授の井原慶一郎さんとイラストレーターの大寺聡さんのコラボレーション。
展開がまったく予測できなかっただけに楽しみにしていた展覧会です。

ギャラリートークでは展示されている作品の背景などを順に説明して下さって興味深い話を沢山聞くことが出来ました。

この展覧会のもとになった『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』は特定のメッセージを声高に主張するようなタイプの本ではなさそうです。研究の一成果の中からどういうメッセージをうけとるのかは個々が何を感じ考えるのかによるのかもしれません。(まだパラパラとしか読んでいないので誤解しているかもしれませんが)

そういう意味では特定のメッセージと言うよりはこの本をきっかけとした大寺さんの世界観が展示されているのだと思います。そこにコラボレーションの面白さがあると思うのですが、その世界に羨望の視線を送りながらも、職業柄かこの本で提示されている視点を僕の中でどう位置づけたらいいのかということに興味が向きます。

管理された視線?

ギャラリートークを聞きながら印象として浮かんだのが「移動性をもった仮想の視線」というものも管理された視線でしかないのではということ。
大寺さんのsale@departmentという作品の中、エスカレーターに乗っている人たちは主体性を剥ぎ取られた監獄の中の人のように見えました。

「パノラマ、ジオラマ、ショーウィンドウ、パサージュ、デパート、万国博覧会、パッケージツアー、映画、ショッピングモール、テレビ&ビデオ、ヴァーチャルリアリティ・・・」、どれも見る側と見られる側、見る空間と見られる空間がはっきりと区別でき、その視線はあらかた計画・管理されたものでしかありません。

パノプティコン(全展望監視システム)の断面が描かれた作品がありましたが、「移動性をもった仮想の視線」は見られる側に主体性を与えているようで、管理の仕方が実はより巧妙になっただけではないのかなと言う気がしました。
例えばショッピングモールにしてもそのミニチュア世界の完結した中で自由に振舞ってもらっている限り、客を管理することは容易になります。
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

後で井原さんに聞いてみたところもともとはフーコーがパノプティコンを引用して描いた主体と、ここでいう遊歩者は対立する概念だったようですが、パノプティコン的遊歩者というような概念も後に提示されているようでした(間違ってたらごめんなさい)。

想起するキーワード(備忘録として)

わけが分からないと思いますが、この展覧会の前後に浮かんだキーワードを備忘録として時系列で並べてみます

移動する仮想の視点-現実の再現
リアリティリアル-フィジカル
コルビュジェ建築的プロムナード写真→映像
アフォーダンス移動する視線環境とのインタラクティブな関係リアリティ
ミニチュア
ポストモダンシミュラークルアートデザインの役割
パノプティコン管理社会
受動性と能動性モチベーションの減退
スーパーフラットバリアフリーメンテナンスフリー○○フリー
歴史の消滅時間・記憶の消滅

なんとなく「ウィンドウ・ショッピング」的なるものに否定的な見方になってしまいそうですが、否定的な部分とそうでない部分も混ぜ合わせたようなイメージがもてればいいなと思います。

また、最近の伊東豊雄や青木淳の「動線体」、藤本壮介初め若手建築家などをみると、「見る側と見られる側、見る空間と見られる空間」のような単純な図式を溶解させることによって新しい主体性を得ようとしているように思いますが、これとうまくつながるのかどうか。

8月11日まで

展覧会は明日(本日)8月11日19時までです。まだの方は機会があれば是非。

ちなみに、大寺さんのヴィジュアルブック(写真左・500円)はかなりオススメです。

『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』はじっくり読んでいずれ感想書く予定です。




B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

Amazonで購入
書評/国内純文学


『本が好き!』経由でこの記事を読んでどうしても読みたくなってしまいました。

図書館にも著者のものはたくさんあったのですが、あえて1985年初版の本書を書評にしているところに興味があったので取り寄せて読むことに。(AmazonではなくOPSIAのHPで取り寄せ買いに行きました。)

いろいろと心に残るエピソードが載っているのですが、その中に、『ヨーロッパに負けないホルンを作ろうとして99.99%同質な真鍮を作ってホルンを作ったがよい音が得られなかった。研究した結果その差は99.99%の真鍮にあるのではなくて残りの0.01%の不純物にあることが分かった』、というものがありました。

塩やブランデーの味の違いも0.何パーセントかの不純物にあるそう。

そのエピソードを話してくれたという機械メーカーの社長さんはこう続けます。

「今の世の中はね、99.9パーセントばかりに眼がいってしまっている。ほんとうのモノづくりというのは、実は残りの0.1パーセントをどう作るかにあるんだということに気がついていないんですねぇ」 (p.40)

あぁ、こういうことなんだろうなと思いました。

パレートの法則ではないけれども、”豊かさの99%は1%の制御できない部分に含まれている”とか言ってみたくなります。(99%というのは大げさかもしれませんが)

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。

それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

その99%に目を向ける方が分かりやすく簡単なのは分かります。しかし、あまりにも皆がそちらの方ばかり向きすぎではないでしょうか。

”1%の何かが決定的にたりないもの”ばかりに囲まれた生活環境ってやっぱり何か哀しくはないでしょうか。

(僕はこればっかり書いてるけど)そうやって、リアリティーが身の周りから失われていってハリボテ化していくのは僕は嫌ですね。

30%は面倒なことが残るけど、決定的な1%は失われていない、っていう方を 選びたいし、実はその30%が決定的な1%をより活き活きとさせることだってあるのです。

寿司ロボットの出現で、安価な寿司が気軽に食べられるようになったと喜んでばかりはいけない。あれは、寿司のようなもの、寿司もどきにすぎない。こわいのは、寿司のようなものばかり食べさせられているうちに、人間は本当の寿司の味を忘れて、のようなものを寿司だと思い込む、ということにある。(p.188)

こんな風に、20年以上も前から危惧されてたことではありますが。

偶然にもunder’s highの『職人』っていうテーマとシンクロした本書、個人的に興味のある部分をクローズアップしましたが、働くってどういうこと、っていうのをとても考えさせられる本です。(あえて引用等はしませんので自分で読んで感じてみてください。)

かえる文庫の『高校生に読ませたい本』にぴったりだと思うのですが、こういう感じをいいなぁ、と感じる感受性が今の高校生の中にもまだ生きてるのでしょうか。

おじさんとしては『昔話じゃん。』で済まされないか、 ちょっと不安。。。




サツマティック報告会

に誘って頂いたので行ってきました。(ってM氏から誘いのメッセージが来たのは今朝。なんでそんなに急やねん!)

場所はM氏プロデュースのハワイアンなカフェ&レストラン『プルメリア』

[gmaps:31.59211440620821/130.5598685145378/17/460/300]Cafe de Plumeria[/gmaps]

ここのロコモコはほんとうまかったっす。(カレーもお勧めだそう)

それはそうと、いろいろな方がいて楽しい時間を過ごせました。

クリエイター系の人がほとんどだったのですが、皆さんいい仕事されてるのに腰が低くていい人ばかり。

近くに座ってお話させていただいたのは、ここでも何度か取り上げた『Region』を企画している渕上印刷の若松さん、写真家の川越さん、デザイナーの江夏さん

話しているうちに、住まうということの本質だとかリアリティだとかの話になって結構自分の気持ちに気付かされました。うーん、面白いなぁ。

地方ならではの独特のリアリティのあり方っていうのに可能性がある気がする。

楽しみにしてたNY展の映像はあまりじっくり見れなかったけど楽しかったからまぁいいか。(そのうちまた見せてもらおう)

ほんと 関係者でもないのに誘ってくれたM氏に感謝です。またよろしく!(乱文失礼)

(NY展に出展された方々と是非ゆっくり話したい、と思ってたのですが声をかけきれなかった相変わらずのヘタレです・・・。)




Satsumatic × Architecture

金曜日、ひさしぶりに友人と会って話をした。

この友人と合うと何かしら発見があったり問題がクリアになったりして、いつもいい刺激をもらう。

先日行われたの「サツマティック」というNY展の仕掛け人でもあるのだけど、話をしているうちに「Satsumatic」というのは自分にとっても結構重要なキーワードだと気がついた。

3月にあった「鹿児島のかたち・地域のかたち」というシンポジウムで見つかりかけた気がしたパズルのピースがこのキーワードでクリアになった気がする。

「Satsumatic」の意味するものそのものに目新しさがあるわけでもないのだけど、それを言葉にし発することで浮かび上がってくる何かがあるように思うし、『リアリティ』と『生活そのもの』を手元に引き寄せるためのテーマとなりうるのではないか、という気がしている。

だからといって具体的なイメージをもっているのではないんだけど・・・。

具体的な何か、とうより、長い時間を掛けて考えているうちに自分の中から 「Satsumatic」な何かが自然と立ち上がるようになればいい。(ああ、やっぱり自分でも考えていたことだ。やつは自分の事ばっかりしゃべっているようで、実はコーチング的なスキルがあるんじゃないか。)

先は随分と長い気もするけど(具体的なものと向き合いながら)じっくりやっていこう。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




TARA DESIGN EXHIBITION

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今日は久しぶりに街に出たので、黎明館でやっているタラデザイン専門学校の卒業展を覗いてきました。
僕はデザインの教育っていうのを受けたことがないので学生がどういうのをつくるか興味があったので。

20歳前後?ということもあるでしょうが、テーマは全体的に自分の内面やその近辺、もしくは空想の世界のどちらかが多くその中間的な部分、それらを繋ぐような部分は少ないのかなという印象を受けました。
リアリティを感じる部分がそのあたりに多いということでしょうか。

うーん、うまく言えませんがリアリティの行方が気になりました。僕もオジサンです。

だけど、若いっていいですね。彼らの中から内面だとか空想だとかを突き抜けてそれらの間を自由に飛び回るような人が出てくるかもしれません。

(印象だけで書いているので何を書いているのかさっぱりかもしれませんが)

今年は出来るだけ外に出向いていろいろなものを見ようかと思っています。




コスプレ

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整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。