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under’s high

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少し前にMBCのどんかごで、たまたま見かけて気になっていたフリーペーパー『under’s high』
ひょんなきっかけから再び意識にのぼったのでもらってきました。

ちょうど打ち合わせ先の近くのTSUTAYAにあるようなので帰りに探してみるとなかなか見つからない。
本を買うわけでもなく、ただフリーペーパーをもらうだけなので忙しそうなレジの人にもなかなか聞けず、しばらくうろうろ探してもやっぱり見つからない。
もう品切れなのかなぁ、と思いつつレジがすいた時に意を決してレジのお姉さんに「すみません、フリーペーパーの・・」と言い掛けた瞬間、目の前のカウンターの上に見つかりました。

ちっちゃー。

ハンディサイズとは知らず、見逃してました。「すみませんフリーペーパーの・・・・これもらっても良いですか。」ときょどりながらごまかしてしまいました・・・。

さて、それは良いとして今回の特集はランドスケープ。

最近、建築はモニュメントではなくランドスケープに向かおうとしているように思います。

それは、建築の焦点が人間のアクティビティや関係性に向いてきたからで、まちを歩いているときにさまざまな活動や関係が立ち現れてくるような楽しさに目覚めたからのように思う。

単体の建築の中でもランドスケープ的な視点が注目されているのですが、そうでなくても個々の建築(外溝なんかも含めて)が豊かになればまちは活気付くと思います。

翻って、自分達の周りを見渡してみると、人の思いの見えない(人々の息遣いや関係性の豊かさも見えない)建物が増えつつあるように思いますがいかがでしょうか。

今の生活の多くはさまざまな関係性を無視することで成立している側面が強いですが、それによってつまらなくなっていることも多いと思います。

関係性を捨てるのが都市化の原動力だったかも知れないけれど、それに反するのではなく、関係性をデザインによって楽しさに結びつけることができれば、まちはきっと面白くなるだろうと思います。(SA・KURA・JIMAプロジェクトなんかそういう意味でもほんと面白かった)

そうそう、ちょっと恥ずかしい思いもしたハンディサイズですが、個人的にはこのちっちゃい感がけっこう好み。

模型も今は1:100でつくっているけど。同じ密度で1:200でつくりたいな、とか思ってしまいました。

とにかく、鹿児島を考える熱いフリーペーパーですので一度てにとってみてください。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。