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ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




色気や愛着について

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縁があって屋久島の住宅を計画しています。

個人的にお手伝いをさせて頂くので現場監理がほとんどできません(離島&今はサラリーマンですので・・・)
その分、設計段階でどこまで検討し、どこまで図面化できるかが非常に重要になります。

今、平面が少しずつまとまりつつあるのですが、ここからどうやって飛躍するか。そこが問題。

色気・愛嬌・親しみやすさ・・・何といっても良いでしょうが、そういったある種性格のようなものを建物が獲得できるかどうか。それが、良い建築になれるかどうかの分かれ目だと最近強く思うようになりました。(それはデザインの強度と密接に関っていると思います。)
その色気のようなものが建物を単なる箱ではないものにし、ひいてはその建物に対する愛着・思い入れになり、その雰囲気が建物の佇まいとなり、潤いのある街並みをつくります。

では、どうすればそういった性格を獲得できるか。

何か一つ突出する欲求があり、そのためにそのほかの部分を引き算してでもその欲求を満たしたい、というような衝動を内包したもの。その結果、いびつなバランスとでも言うようなものを獲得したものはその可能性があるように思います。

しかし、そういったケースはまれで、むしろそういった欲求を持たないのが大半ではないでしょうか。(そういう欲求が必ず必要だとは思いません)
そうではない場合はどうやって獲得するか。

全体をまとめあげる一つのアイデアが浮かべば、それが獲得のきっかけにもなるでしょうし、光や素材の扱いを含めた各々の要素を全体を見ながら注意深くデザインしていくことでも獲得できるように思います。

さて、今回の計画。
派手ではありませんが獲得のための種を平面の中に仕込んであります。
決められたコストの範囲でそれをどうやって成長させるか。
(今回は現場監理ができないという制約もあります。)
断面や素材の扱い等いくつかのぼんやりとしたアイデアは浮かんでいますがそれをまとめあげるには検討の時間が必要。

じっくり取り組もうと思います。




探すよりは作り出す

たこ阪さんの記事『「やりたいことを見つける」ってどうよ?』を読んで。
やっぱり、何かに向かって突っ走って、才能もあってやりとげる、って人はなかにはいると思う。
でも、その人にしたって「やりたいこと」を探して見つけた、というのとはちょっと違う気がする。
どこかにやりたい「こと」ってしうシロモノがあって、それを見つけだせば幸せになれるというのは、チルチルミチル的な幻想ではないだろうか。

僕は「こと」はあくまで手段であって、代替可能なものだと思う。
こういう風に生きたい、というような目的があれば、「こと」はそれに適したものを選べばいいのであって、目的に適うのであればなんだっていい。
それを「こと」を見つければ結果もセットになってついてくると逆から考えるとおかしくなる。どんな手段を手にしても目的がいい加減だと結果の出しようがない。

最初に書いた突っ走る人っていうのは、本能的に目的を掴んでいて、それが人よりも突出していて、たまたま近くにあることを手段にしてしまっただけではないだろうか。他のことが近くにあったって何らかの結果を出したはずだ。

僕の今がやりたいことかと聞かれるとそんな気もするが、他にやりたいことはいくらでもあるし、探して見つけた訳でもない。
たまたま関わり始めたのが今の仕事で、それを手段として今まで続けてきた、と言うだけの話である。(といってもいい加減にやってるわけでは全くありませんから!)
「探していたものと違う」と言って捨てるような機会はいくらでもあったし、今だっていつ捨てたっておかしくない。だけども、手段にしてやろうと思っている。

うまく言えないけれど、どこかにあるものを「探して見つける」、と言うよりは手段を「つくりだす」という感じ。

そういえば前にも似たことを考えたことがあった。
ポストモダンの時代、目的そのものも絶対的なものを探すよりは仮説であっても自らデザインして生み出す(ようは、なんだっていい!)というような態度の方がうまく生きていける気がします。(誤解されそうな表現だけど)

P.S やっぱり誤解を受けてそう・・・。僕は建築が好きだし出会えたことは幸運だったと思います。
ただ、どんなことでもそうだろうけど、そう思えるまでに、「こんなはずじゃなかった。他の仕事のほうがいいんじゃないか。」ということは一度や二度ならずあるはずです。(建築なんて結構いぢめられます)
その度に、それは建築と言う「こと」が違ったからという判断をして違う「こと」を探していたらきっといつまでたっても何も得られないままだったと思う。
何かをモノにするには継続する意志が必要、て言うようなことを書きたいだけでした・・・。




B115 『デザインの輪郭』

深澤 直人
TOTO出版(2005/11)

「01デザインの輪郭」から「40自分を決めない」までの小さなエッセイや言葉の断片、対談などを集めたものだけど、飾った言葉ではなく、鋭いセンサーで捉えた実感による生の言葉が並んでいて非常に身にしみる。

個人的には「15灰汁(アク)」のところに共感した、というか僕はこのあたりでうろうろしている。

アンジェロ・マンジャロッティみたいな人は、あくが出てしまう。それが個性かもしれない。ジャン・プルーヴェもそうですね。どうみたっておかしい。なのに、すごく魅力がある。だから悔しいです。
僕にはあくが出せない。洗練されすぎていると思います。・・・中略・・・でも、今はあまり迷いはないですね。僕はこれから自然に無理なく変わるだろう。無理なく変わっていくことが、僕に課せられたプロセスだろうと思っていますね。今までは、自分の目指したところに到達しようとして、いろいろ余計な筋肉を使い、余計な力を加えてきた。その力を抜くことによって、最後のバランスをとったというのがいまだと思います。

けっこうあくのあるものが好きだったりするけど、僕はまだ自分の中から自然に出てくるあくというものを持てていない。自分の奥底には存在していると信じ、早く顔を出して欲しいと願ってきた。だけど、それはちょっと筋肉の使い方を間違ってたのかなと思うと少し楽になった。
もしかしたら、少し力を抜いて自然体で建築に向き合ったときに、初めてじわぁーと自分の中からあくのようなものが滲み出てくるのかもしれないな。
(100冊書き終えて最近ようやくそんな風に思えるようになってきました。)

密度の濃い言葉が詰まっていて、なかなか選びにくいけどメモ代わりに気になったところを少し抜き出しておく。

・輪郭には、相互にさまざまな関係の力が加わっている。そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力を「選択圧」という。
・壁の表面の光が人間に何らかの圧力を加えているとも考えられる。
・「張り合い」という言葉があるように、生きるための目的、あるいは「生きがい」ともいわれるものがその人間に加わる力であって、それを押し返す力によってバランスされている状態が張りであり、それによって表に現れる力の徴憑が、張りを視覚化しているのではないかと思った。
・ものがアイデアを語ってはいけない。デザインとは概念を見せるものではなく、まず道具に徹することである。徹することで浮かび上がる共感のもとは、人々の日常の記憶の断片なのである。
・気づいた人はちょっと微笑み、気づかなかった人は行為が止まらず流れていくということでいい。
・誰でも得ようとすれば得られる感覚が失われているんです。これは普通のよさの感触を忘れてしまったからなんです。忘れたのは、感触なんです。あるいは、若者は特に、その感触を味わったことがないということかもしれない。
・自己が汚れなく謙虚に道具に徹するという意気、技能の卓越さをもって自己の存在を消す努力の跡、完璧を試みて達成できなかった悲哀のような思いの痕跡が消えてしまったのだ。
・ものをたくさんもっていることはかっこわるい。
・デザインは、常にそこにある状況をよくしているだけであって、歴史的に、時系列的にどんどんよくなっていると思ったら大間違いです。・・・人間は、他人のためにやっているという感情をもってやると、汚れてしまいますよ。
・でもこのだらだらは、アイデアを熟させるためには大切なんです。だらだらしているときに冷めてしまうアイデアだったらやってもしょうがないし。
・デザインを勉強しているときは、デザインとはこうあるべきだみたいなものが存在していて、そこに導かれていくものなのかと思っていたけど、そんなものは何もなくて、確固たる美なんてものはどこにもないと思ったときにポーンと抜けて、それからは無理なくアイデアがどんどん出るようになりました。
・誰かがつくり育ててきた豊かさがいいからといって、そちらに移り住んでしまうのは身勝手な気がした。日本という生まれ育った土地で、そこのために仕事をするということ。自らがその条件の下で豊かになっていくことを考えるべきだと思っていた。
・「これだけあればいい」という思いは、生きる上での強さを与えてくれる。「欲しい」という感情は自分を不安にさせる。




TARA DESIGN EXHIBITION

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今日は久しぶりに街に出たので、黎明館でやっているタラデザイン専門学校の卒業展を覗いてきました。
僕はデザインの教育っていうのを受けたことがないので学生がどういうのをつくるか興味があったので。

20歳前後?ということもあるでしょうが、テーマは全体的に自分の内面やその近辺、もしくは空想の世界のどちらかが多くその中間的な部分、それらを繋ぐような部分は少ないのかなという印象を受けました。
リアリティを感じる部分がそのあたりに多いということでしょうか。

うーん、うまく言えませんがリアリティの行方が気になりました。僕もオジサンです。

だけど、若いっていいですね。彼らの中から内面だとか空想だとかを突き抜けてそれらの間を自由に飛び回るような人が出てくるかもしれません。

(印象だけで書いているので何を書いているのかさっぱりかもしれませんが)

今年は出来るだけ外に出向いていろいろなものを見ようかと思っています。




B089 『space 狭小住宅:日本の解決法』

マイケル・フリーマン、境 紀子 他 (2005/02/11)
河出書房新社

アジアのデザインに詳しいロンドン在住の写真家が日本のコンパクトな住み方を紹介。

しかし、”狭さ”も楽しめるひとつの特色となりうる。

この本でも紹介されている9坪ハウスが典型的だが、積極的な狭さ、なのであり”楽しめる”ことがキーなのだ。

「どちらかというと、家が買い手を選別する」・・・・増沢の根本にあった価値観である、簡潔さと必要性に共感できる人たちだけを惹き付ける家づくりだ。土地がないから狭い場所で我慢をする消費者を対称にしているものではない。自分に必要なものだけを要約したら9坪のスペースで十分だと自分のライフスタイルを掴んでいる消費者に向けてのプロジェクトなのだ。

しかし、実際には狭い土地しか手に入れらないことも多いだろう。
そのときの”狭さ”をどうやって”楽しさ”へ転化するか。
そのためには、住み手が”楽しめる”ことが一番の条件だが、どうやってそれを引き出せるか。
そのために自分がどう楽しめるか。だ。




W017 『岩崎美術館・工芸館』


□所在地:鹿児島県指宿市
□設計:槇総合計画事務所
□用途:美術館・事務所
□竣工年:1978年/1987年
[gmaps:31.221825447555677/130.65432250499725/17/460/300](comment)[/gmaps]
今日は槇文彦設計の美術館を見に行ってきました。(鹿児島では霧島国際音楽ホール(みやまコンセール)も槇さんの設計ですね。)

内部の撮影は禁止ですが受付で頼み込んで撮影許可をもらいました。
階段を軸にしたシーン展開の中に美術品を配するのは(みたことはないが)スカルパのカステルヴェッキオ美術館を思いおこさせます。

工芸館に展示されているパプアニューギニアの神像はかなりの迫力。

う~ん大好き。これ以上にうったえる力を持ったものってそうはないと思う。すごいなぁ。

工芸館2階突き当たりの窓から魅力的な階段が見えていたのですが鍵がかかっていたので出られません。

窓越しに写真を撮ったりドアをガチャガチャしてるのが防犯カメラに映ってたようで、しばらくすると館長さん(?)がやってきました。
怒られるかと思ったのですが”見たそうにしてたのがカメラに映っていたのでやってきた”と言うことで、鍵を開けその階段から展望台まで登らせて頂きました。

その後も館内を一般の人が入れないところまで案内して下さいました。
(使い勝手についての話が多かったです。勉強になりましたが僕がクレームを受けているようで多少耳が痛いところでした。機能性とデザイン性、どちらも兼ねられればよいのですが・・・)

今は非公開になっている庭にも案内して頂いたのですが、そこで珍しいものを発見。
ついこの間読んだ本でみた「たのかんさぁ(田の神様)」がたくさん並んでいます。

宗教などが基になった石造を”公”の石造だとすれば、これは現場から興った”民間”の石造で、その成り立ちは全国的に見てもとても珍しいものだそうです。(たしか)
それがたくさん並んでいます。田が無くなり行き場を失った”たのかんさぁ”が集められたのでしょうか。

美術館に赤ちゃんを連れて行くのは不安もあったけれど割合良い子にしてくれたので助かりました。
詳しく案内していただけるとは思っていなかったし、最後に思わぬものが見れてなかなか良い日でありました。




B076 『建築依存症/Archiholic』

安部 良
ラトルズ(2006/04)

安部良と言う建築家のことはよく知らなかったがタイトルに魅かれて読んでみたらとても共感できる本であった。

設計者とモノとの距離がとても近い。
そして建物と人との距離も近い。

しかし、その距離を縮めるのはそう簡単な事ではない。

僕の建築のテーマも肉体と建築の関係だから、何かにとことん執着しなければつくれないことがよく分かっていた。

ガウディやスカルパに魅かれ石山研の出身であるのも頷ける。

今の建築はほとんどがカタログから選ばれた「製品」の組み合わせでしかなく、それぞれの「製品」の表情はマーケティングの結果としての外面のいい顔がほとんどである。
モノが人と腹を割って話そうなどとは考えてもいない。例えば、思いをこめられず、ただ貼られたビニールクロスにはモノとしての力は、ない。
そして死んだような表情のモノと人との距離は遠い。多くの人はその距離には無関心だ。

僕もなかなかモノと関わることはできていない。
モニターの中で上辺だけのものを描くことしかできていない。

もっとモノの近くにいきたい。そして、建築に、モノに命を吹き込みたい。

「生活者と会話のできる建築がつくりたい」と僕は文中で何度か繰り返している。もちろん建築が声を出してしゃべるわけは無い。でもただ建築を擬人化して、あたかも会話が成立するような親密な空間をつくりたいと言っているだけでは物足りない。例えば小さめのホールで弦楽四重奏の演奏を体験したときに身体中が響きに包み込まれて深く感情を揺さぶられることがある。バレリーナの肉体の躍動を間近で見て、頭の先からお尻まで、脊髄に電気が走るような感覚を覚えることがある。歌手の声が、それが誌のないハミングのようなものであっても、その抑揚と声色だけで心に直接的に届いて、せつなさや嬉しさを感じることがある。生身の人間によるパフォーマンスが体験者の感情に直接的に届くように、建築もパフォーマンスができると僕は思っているのだ。

あたりまえのことかもしれないが、最近デザインとは「関係」のことだと強く思うことが多い。




B075 『デザインのデザイン』

原 研哉
岩波書店(2003/10/22)

タイトルのとおり、デザイナーはまずデザインという概念をデザインすべきなのかもしれない。
著者は時間的にも空間的にも大きな視野で眺めた中でデザインを捉えている。

時代を前へ前へ進めることが必ずしも進歩ではない。僕らは未来と過去の狭間に立っている。創造的な物事の端緒は社会全体が見つめているその視線の先ではなくて、むしろ社会を背後から見通すような視線の延長に発見できるのではないか。・・・・両者を還流する発想のダイナミズムをクリエイティブと呼ぶのだろう。

この人の言葉は頭に映像が浮かぶようでとても分かりやすい。

中でも『欲望のエデュケーション』というところはとても共感できた。現代のマーケティングは人々の欲望を精密にスキャンする。それは「ゆるみ」や文化水準、品格といった対象の性質までをも拾い上げる。例えば、日本車は性能は優秀だが、「美意識が足りないとか哲学が不足している」といわれる。僕もそう思うし、なぜもっと色気のあるデザインをしないのか?というふうにも思う。
しかし、それはデザイナーの問題というよりは日本人の意識水準の問題なのである。日本人の車に対する美意識がヨーロッパのそれに比べると成熟していないのだ。また「市場の欲望の底に横たわっているこういう性質は簡単に改善できるものではない」

そして、拾い上げたものが製品化・消費されることで、さらに消費者の性質を強化する。

だからこそ『欲望のエデュケーション』が必要なのである。

本書でも日本の「nLDK」に代表されるような住宅事情を例に説明されているが、住宅(建築)に対する意識の低さはひどいものだ。
住宅メーカーや不動産屋などの供給サイドに立てば、意識が低く「nLDK」「駅から何分」などの記号で事が済むほうが扱いやすいし、供給側の資質もそれほど要求されずメーカーとしてのメリットもでる。
それで、せっせと広告を打ち、住宅を単なる記号として扱うことを教育すること(負の欲望のエデュケーション)でユーザーを手の届く範囲にとどめておこうとする。

だから日本で住宅に関するマーケティングでは記号ばかりが抽出されるし、それがさらに現状を強化していく。

その場では僕らの存在意義は記号の中に埋もれて消えてしまう。

マーケティングを行う上で市場は「畑」である。この畑が宝物だと僕は思う。畑の土壌を調べ生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴らしい収穫物を得られる畑になるように「土壌」を肥やしていくことがマーケティングのもう一つの方法であろう。

やっぱりこの人の言葉はイメージしやすい。

収穫をあせるのではなく、土づくりから収穫、それがまた土づくりにつながる、といったプロセスをイメージすべきだろう。

僕の専門領域はコミュニケーションであるが、その理想は力強いヴィジアルで人々の目を奪うことではなく、5感にしみ込むように浸透していくことだと考えるようになった。

建築についてもいえる。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画すると言う発想をそろそろやめた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのようなちからであり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。

ここで雅叙苑がとりあげられていた。一度ゆっくり泊まってみたいものだ。

デザインは技能ではなく物事の本質をつかむ感性と洞察力である。

デザイナーは本来コミュニケーションの問題を様々なメディアを通したデザインで治療する医師のようなものである。だから頭が痛いからといって「頭痛薬」を求めてくる患者に簡単にそれを渡してはいけない。・・・・「頭痛薬」を売ることに専念しているデザイナーは安価な頭痛薬が世間に流通すると慌てることになる。




B074 『ザ・藤森照信』

藤森照信
エクスナレッジ(2006/08)

藤森照信がなぜ一般の支持を得ているのか。

それは彼が「自ら楽しむ」ということを徹底しているからだろう。

最後の方に奥さんのインタビューが乗っているけれども、奥さんは結構苦労されたみたい。
大変な時期にも夫は「路上観察」や現場へ出たっきり。
藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

と、僕は思う。

その、ある種の強さが藤森さんを藤森さんにしたのだ。

本城直季のミニチュア風写真は建築本としては最初違和感があった。

だけど、子供が箱庭を作るのに熱中するように建物をつくる藤森さんの建物にはふさわしい気もしてきた。

都市の(人口の)嘘っぽさ」を露にする本城氏の写真でも耐えられるのはこれまた藤森さんのテクスチュアのある建物だからかもしれない。

さすがに歴史家&建築家ところどころにどきりとする表現がある。

(建築史家としての)この認識と建築家藤森のデザインの間の関係は考えないようにつとめている。物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。

同感。

(エコロジー主義者について)科学技術の時代20世紀の蓄積を軽く見るような、簡単に乗り越えられると考えるようなそういう方向には同意できない。言葉や理論では超えられても、現実では大禍を呼びかねない。マジメさだけが場の空気を支配し、笑いの乏しい世界は私の性に合わないのである。

人は、身体性への働きがあった時にはじめて空間のダイナミズムを感じる。代々木のプールのダイナミズムは、大屋根の端が地面近くまで降りてきていることで生まれた。

藤森建築は自然素材を好んで使う。でもその素材の味を生かすために、藤森はその露出度に寸止めをかける。・・・・・つまり、趣味の固まりがそのままでは嫌味にずれ込んでしまう。そこのところをぐいと意志の力で止めて、物に対する批評の角度を際立たせる(赤瀬川原平)

また、大学院生時代、全国の2000棟を超える近代建築の優品を”相撲を取るように”真剣に見てまわったという話が印象的だった。

そういえば、東京入院時代、暇なので一緒に入院しているおじいさんと空気砲を作ったりして遊んでたのだが、あるときテレビに藤森さんが出てきて、少しこの人に興味がある、と話をしたらそのおじいさんが藤森さんのおじさんにあたる人だったのでびっくりしたことがある。
子供のころは(悪いという意味ではなく)やんちゃだったそうだ。




B071 『私たちが住みたい都市』

山本 理顕
平凡社(2006/02/02)

工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは

伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」

と大変興味深いメンバー。

しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。

建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。

宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。

建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)

宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。

というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。

それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。

そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕

それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。

システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。

システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。

もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。




W014『牛深ハイヤ大橋』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:レンゾ・ピアノ+ピーター・ライス+岡部憲明+マエダ
□用途:臨港連絡橋
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
[gmaps:32.19214766079049/130.02719521522522/16/460/300](comment)[/gmaps]
海彩館の敷地を横断するかたちで橋がかかっている。

”最も簡潔な表現によって、一本の線として風景の中に橋を浮上させることで、自然の中に浸透させることを試みた”というようにそのシンプルなラインは美しかった。

人工と自然という対比の中で、力強さと繊細さ、傲慢さと謙虚さと言うものが一つの構築物の中で共存しているのは稀な存在であろう。

サイドに並ぶ防風パネルは内側に仕掛けられた照明によって内外に光の効果をもたらすような形をしており、夜のライトアップされた姿を念頭においてデザインされているようである。

しかし、牛深と長島(鹿児島)を結ぶフェリーは19時までしかなく、乗り損ねたら大変なのと体調を考えて残念ながら夜景はあきらめた。

夜の光のライン。見てみたかったなぁ。







B058 『informal -インフォーマル-』

金田 充弘、セシル バルモンド 他
TOTO出版(2005/04)

セシル・バルモンドはおそらく今世界で最も熱くそして哲学的な構造家。

コールハースやリベスキンドといった建築家とのプロジェクトのレポートのような形なのだが、セシルの思考の流れが読み取れるまったくエキサイティングな本。

前に東京で勤めていた事務所の先生が『建築の自由は構造の先にしかない』というようなことを言われていたのだが、最近その言葉が身にしみることが多い。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

そこで、そういう不自然さ・不自由さから抜け出そうと言う姿勢がセシルのいう”インフォーマル”なのだが本当に魅力的である。
構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。
そんな楽器を演奏できる人とコラボレーションできれば楽しいであろうが鹿児島にそういう人はいるのだろうか。(また、セッションにはこちらの力量も必要)

日本でも構造家とのコラボレーションは最近注目を集めているが、逆に一連の事件で不信感も募りつつある。
闇雲に規制を強化することで自由さを奪われることがないように祈るばかりだし、この機会に同じ構造を扱う人でもまったく世界の違う人がいることをもっと知らしめて欲しいものである。

a+u別冊、ほしいなぁ。

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。




B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

カール ボーヴィル (1997/12)
鹿島出版会


あまり聞かれなくなって久しい「プロポーション」という言葉に惹かれ出している。

そういう感覚による部分が多いような要素、議論や説明のしにくい個人の領域に行ってしまいそうなものとは、なんとなく距離をおきたいと思っていた。
しかし、人間の意識の部分でコントロールできるものなんてのは僅かにしかなく、もっと感覚を研ぎ澄ませて、それを信じたほうがはるかに可能性が拡がるような気がしてきている。
(数日前の養老孟司の番組でもそんな感じの主張をしていたが、時代の流れと言うか、振り子が逆に動き出しているのだろう)

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA

僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。
“美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

(そうすると、ミニマリズム的なものは静寂のなかにしずくの音が時折響くイメージか)

今さらフラクタルそのものが目的になっては暑苦しいが、楽器のひとつとして扱えるようになるのもいいだろう。
音楽のイメージを拡げるのに楽器があっても良いように、感覚を拡げるためのツールがあってもよい。

この本はフラクタルの基礎的な説明から、建築のデザインへの応用まで分かりやすく説明されているなかなかの良著だと思う。
フラクタル・リズムや凝集といったものはデザインにおける様々な次元での応用がきくだろう。
それは自然のかけらをスパイスとしてデザインに忍び込ませるような使い方もできると思う。

だんだん『楽器』の練習をしたくなってきた。

フラクタルについて

フラクタルの基礎的なこと
フラクタルギャラリー
■建築では渡辺豊和がフラクタルを応用・展開している。




B042 『デザイン言語-感覚と論理を結ぶ思考法-』

奥出 直人 (著, 編集), 後藤 武 (編集)
慶應義塾大学出版会 (2002/5/8)

慶應義塾大学のデザイン基礎教育の講義をまとめたもの。
取り上げられている講師陣は以下の通り多岐にわたる。

隈研吾塚本由晴三谷徹久保田晃弘佐々木正人Scott S.Fisher高谷史郎藤枝守茂木健一郎東浩紀永原康史原研哉港千尋

「デザイン言語」という言葉には、コミュニケーションツールとしてデザインを捉えることや、感覚(デザイン)と論理(言語)を統括するということが期待されている。
しかし、それはデザインの基本的な性質であって、あらためていうことでもない。
だからこそ、基礎教育のテーマとして選ばれたのであろう。

後藤武が「他者性に出会いながら自分をたえず作り直していくこと」をこの講義に期待しているように、各講師は「他者」としてあらわれる。

第一線で活躍している彼らはそれぞれの独自の視点からデザインの問題を発見している。
例えば「コンピューター=素材≠道具」「演奏する=聴くこと」「脳・感覚=数量化できない質感(クオリア)」というように発想を転換することによって大切なものを浮かび上がらせるのだ。
そこで浮かびあがるのは、近代的なデザインが軽視してきた『身体性』のようなものである。
(もともと、「考えること」と「つくること」はひとつの行為のうちにあったが、近代になってそれらが分離して「設計」「デザイン」という概念が生まれた)
そして、その浮かび上がらせ方、顕在化の方法というものがデザインなのかもしれない。

だが、その方法とは(共感ができるとしても)各々の身体性に基づくもので他人に教えてもらえるものではない。
自ら感覚と論理を駆使して”発見”する以外にないのである。(つまり”他者”としてしか接触できない)

それは、僕がこれまで書いてきた読書録の中でゆっくりと、そして明確に浮かび上がってきたものと一致する。

全くあたりまえのことなのだが、答えは自ら描き出す以外にないし、自らの個人的な感覚・身体性の裏づけなしには人の共感も呼ぶことはできないということだ。
(逆説的だが個人的であることが他人へのパスポートとなるのだ。)




B041 『建築のかたちと空間をデザインする』

フランシス・D.K. チン (1987/05)
彰国社


造型論ついでに学生のころに買った本を引っ張り出してきた。

日本では建築を工学部で教えているところが多い。
今はどうか分からないが、僕のいっていた大学でも、建設に関わる技術については若干学べた気がするが、建築の社会性やデザインの方法といったことは全く触れられなかった気がする。

そんな中で3回生ぐらいのときに買った本であり、よくまとまった良著であるが、「デザインの初心者向け(4年生大学でいえば1~2年生程度)」と書かれていたのにショックと焦りを感じたのを覚えている。

まさしく基本であり、建築に関わる人間にとっては必須の内容だと思う。
しかし、こういう素養を身につける機会のないまま設計という仕事に関わる人が多くいるのが現実である。

そうでなければ、単なる思い付きや慣習だけでつくられたような建物がまちに溢れているはずがない。

”建築の社会性やデザインの方法”なんてことを唯の一度も考えたことがなくても一級建築士になれるのが日本である。

倉田の苛立ちを鎮めることはなかなか難しそうである。

(僕も今一度基本に帰ろうと思う)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「佐藤可士和・売れるデザインの秘密」』


>>番組HP(NHK総合)

妻に面白そうな番組があると教えてもらって、『プロフェッショナル仕事の流儀』を見た。

ゲストはアートディレクターの佐藤可士和。

課題を見つけ、本質を炙り出し、それに対して解決策を与えていく。
デザインとは何かを非常にクリアーに示してくれている。

広告デザインは”売れる”という目標が非常にクリアーだ。
しかし、個々の課題がクリアーなものとは限らない。

本質に至るまでにはとてつもない思考の積み重ねがあるに違いない。

真っ直ぐに向き合えている姿がとても羨ましく映った。

建築における目標とは一言で言うとなんだろうか。

それをクリアーにしてみせる、それこそがデザインに求められるものだろう。

そうしてクリアーにしたものは、果たして建築的な時間の流れに耐えうるのか?

また、広告におけるデザインの仕事としての位置付けや価値は分かりやすい。

商業施設なら分かるが、それ以外で建築にはデザインが必要であり、対価を払う価値があると大きな声で言うことはできるのだろうか?

自分が価値があると思っているだけではプロとは言えない。

逆に言えばデザインによって何を与え、対価を得るのか。

その部分をクリアーに表現する必要がある。

プロフェッショナルとは

やっぱりハードルが高いことを超えられる人がプロじゃないですか。だから、普通の人が出来ないことをやるのが、プロだから、と思うんですけど。自分がいいと思うものが一番実は難しくて、すごいハードルが高いので、それをどうクリアしようかなと。佐藤

[MEDIA]




B024 『モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド』

モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド 内井 昭蔵 (2000/07)
INAX出版


60年代に活躍した日本の建築家を論文及び内井昭蔵との対談形式で紹介。
対談の最後は毎回、後進への一言で締められ示唆に富む。

登場する建築家は

丹下健三 Kenzo Tange
吉村順三 Junzo Yoshimura
芦原義信 Yoshinobu Ashihara
池田武邦 Takekuni Ikeda
大高正人 Masato Otaka
清家清 Kiyoshi Seike
大谷幸夫 Sachio Otani
高橋?一 Teiichi Takahashi
菊竹清訓 Kiyonori Kikutake
内田祥哉 Yoshitika Utida
鬼頭梓 Azusa Kito
槇文彦 Humihiko Maki
林昌二 Shoji Hayashi
黒川記章 Kisho Kurokawa
磯崎新 Arata Isozaki

長谷川堯の序説、この時代の舞台を「演出家=前川國男」「劇作家=浜口隆一」「俳優=丹下健三」とみる部分も面白かった。
建築評論家が脚本を描けた時代だ。

日本におけるこの時代を把握するにはとても良い本だと思う。建築を学び始めの人にもお勧め。

って、このブログは本の紹介が目的ではない。
僕自身の思考の記録である。
だから、うまくまとまらないと思うが感じたことを書いておこう。

この時代の作品や言説に触れてみると、ものすごいパワーを感じる。
今の建築は設計者の考え、『頭の中』が見えるようなものが多いように感じるが、この時代のものには当然考えも見えるが、設計者の『人間そのもの』が見えるものが多いように感じる。
人と建築が分離していない。
(黒川記章や磯崎新の世代あたりから『頭』の方になってきた気がするが。)

その違いはどこから来るのか。
今の建築はこの時代から前に進んでいるのだろうか。
今、どこへ向かうべきなのか。

60年代は、モダニズム、日本、機能、モニュメンタリティ、大衆性・・といった課題やキーワードがはっきりと見えやすかった時代ということもあるだろう。
前の世代に物申すという姿勢もはっきりしているし、前に進むという意志と自信とに溢れている。

しかし、今の時代だって課題は山積み、物申すことだってたくさんあるはずで、みなそれに向かって奮闘している。

なのに、この時代の建築に学生時代に感じたような「希望」を感じるのはなぜなのだ。

建築、社会がまだ純粋だったからか。
そもそも、何を乗り越えようとしているのだろうか。
モダン、ポストモダン。
モダン、ポストモダン。
モダンは幻想か。
なにが、どこからポストなのか。

この本自体の射程が「モダニズム」や「年代」といった大きすぎるものというのもあり、踏み込むと容易に答えの出せない抽象的な問いにどうしても迷い込んでしまう。

おそらく僕にとっては必要なのは『希望』のイメージである。

『問題意識』と『希望』どちらも大切だと思うが、今焦点が『問題意識』に向きすぎている。

しかし、『希望』を描くことこそデザインではないだろうか。

描きにくいからこそ取り組むべきものなのではないか。
それこそがデザイナーの仕事ではないか。

頭ではなく人間の中から湧き出るようなもの。
それを描きたい。

(実は学生のころからずっと望んでいることで、ずっと果たしえてない。
なかなか難しい。
それは、やっぱり人間そのものでぶつからなければ描けないのだ。)

このころの作品や言説にもっと触れてみたくなった。