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MEMO「建築(家)」「デザイン」

私が今建築をつくることの最大の意味は「精神の開放」です。平たく言えば、人びとが真にリラックスして自由に楽しめる建築をつくることです。(伊東豊雄)

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。(磯崎新)

いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起るのかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。(隈研吾)

「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」(ノルベルト・ボルツ)

(都市住宅における)建築家の役割は、プライバシーに対する意識の変化を考慮し、単に私的なものを隠蔽するのではなく、住宅に新しい外と内との関係性を成立させるための仕掛けを施すことによって、現代の都市に必要な機能を加えてやることであると思っている(竹原義二)




W006 『杖立橋+Pホール』

w06.jpg
□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:新井清一+シダ橋梁設計センター
□用途:遊歩橋+多目的ホール
□竣工年:1988年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
>>参考HP

[gmaps:33.18251309474914/131.03440761566162/16/460/300](comment)[/gmaps]

杖立の温泉街にある橋とホールの一体となった建築物である。

温泉街を歩いてみて、この町自体にとても興味をもった。

ヴェネチアとはまた違った感じだが、川と立体的な路地が楽しくてつい隅々まで歩いてみたくなる。

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。
こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。

さて、この橋はオブジェ的な扱いでデザインされているが、これが特段浮くわけでもなく町の風景としてなじんでいる。
それは、この町のパワーがあってこそであろう。

決して、どこにあっても「あり」のデザインだとは思えないが、ここでは成功しているのではないだろうか。

温泉街としてももう一度訪れたい場所である。

もっと、はちゃめちゃな町にになることを期待します。


△町のパワーを感じる


△橋より川下方向を見る
町の立体的な空間が興味をそそる




デザイン

k13.jpg

僕が考えるにデザインとは意志である。

意志を持たないというのも意志。

装飾や形態の操作は意志をかたちにする手段のひとつでしかない。

また、デザインとは発見であると思う。

それは、クライアントや自分自身の隠れた意志を発見することであり、日常や常識に埋もれた価値を発見することである。

そのために、人が何気なく通り過ぎてしまうことに、いちいち立ち止まりながらあーだこーだと考える。
または、人が考えたことやつくったものに目をやり、そこから何かを発見しようとする。

とにかく、デザインとは根気がいる日常なのである。




B016 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』

檜垣 立哉
日本放送出版協会(2002/10)

哲学とは何かいまという時代は、どのような時代なのだろうか。そして、いまという時代の中で何かを真剣に考え抜いたり、何かをしようとしてその行動の指針を探したりするときに、よりどころとなるもの、よりどころとすべきものとは、どのようなものだろうか。あるいは、よりどころがあると考えたり、よりどころを求めたりする発想そのものが間違っているのだろうか。ではそれならば、(よりどころがないことも含めて)そこで確かなものと、声を大きくしていえることとはなんなのだろうか。(p8)

この本はこういう書き出しで始まる。

デザインの「強度」というものを考えたくて、ドゥルーズに関する分かりやすい著書を探していたのだが、「解けない問いを生きる」という副題とこの書き出しに惹かれて図書館から借りてきた。

テーマが今の僕にあってたのと(というよりこの時代のテーマなのだろうが)、なんとなく、一般うけのしそうな副題や前書きが、僕にも理解できそうな雰囲気を出していた。
おそらく、著書は難解なこの哲学者を分かりやすく論じるために、かなりの部分をはしょって、意図的にある部分をクローズアップしているのだろう。
そのかいあってか、なんとなくドゥルーズの「卵」「流れ」「生成」ということで言いたいことがぼんやりとはイメージできたような気がする。
僕は、哲学研究者ではないので、ドゥルーズを正確に理解する必要があるわけではなく、そこから、何らかのものを見つけられればよい。

おそらく、最も重要なことは「中心」や「固有性」「私」または「システム」といったものに問いが回収されないということだろう。
「私」「他」という二元論的な設定そのものが西洋的な不自由な見方の気もするが。

個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いをになう実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものであるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも他者による正当化も、正義による開き直りもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。(p107)

流れの中でそれぞれの個体が問題を創造、デザインしながら「かたち」を連続的に生成していき、自ら流れとなっていくさまが、なんとなくではあるがイメージできた。

その流れをあくまで流れとして捉えある一点で固定してしまわない、そんな流動的な態度こそ大切であろう。

ある、決まった解答があらかじめ存在しそれを探そうとするのではなく、その流れの中で「問題を創造」しながら流れていく。
それは、全く異なるベクトルであり、そこには自ら物事を生み出していく主体的な自由がある。

それは、「意味」に回収されずに意味をデザインしていこうとするボルツの著作に共通する部分がある。

人間にはよりどころが必要かもしれない。
しかし、そのよりどころを「受動的に与えられるもの」「すでに存在するもの」として「探す」のではなく、能動的に自ら「生み出す」「編み出していく」というように、ベクトルを変換することにこそ「自由」の扉を開く鍵があると思う。

この本でクローズアップされていた、「流れ」や「生成」、個体やシステムの考え方は、「オートポイエーシス」に通ずる。
一度、河本英夫の本を読みかけて途中で断念していたが、余裕のあるときにでも再チャレンジしてみよう。

また、「強度」がドゥルーズの文脈の中でどう現れるのかは分からなかったが、一度『差異と反復』あたりに挑戦してみるか。痛快な「ぶった斬り」を期待して。




B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

青木 淳
王国社(2004/10)

ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(p14)

とし、『現在において「原っぱ」が失われつつある』ことを危惧する。

普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡して見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。(p16)

この本を通して述べられていることは、建築の持つ不自由さを自覚しそれと向き合うことである。

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。(p172)

形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。(p182)

これは、まさしく僕が感じていたことで、それをうまく言葉にしてもらったという感覚があった。

僕の場合、形式の外の存在を感じるのは『イマジネーション』の問題であり、それを感じることができるのが自由であると考えていた。

「動線体」「つないでいるもの」「つなげられるもの」

これらのキーワードで語られるのは、「つなげられるもの」に発生する近代的な「機能」による拘束であり、それからの開放の模索である。
われわれは簡単にそれらの「機能」から逃れられそうにない。

「つないでいるもの」にも「つなぐ」という機能が割り当てられていて、僕は道を歩いていて途方にくれそうになるような不自由さを感じることがある。
何か、歩かなければいけない、というように命じられている気分になるのだ。
ほとんどの空間がそのように機能によって自由を奪われている。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。
それは、僕たちがつくってきた空間に大きな責任があるのだ。

著者が『馬見原橋』を設計する際に「つないでいるもの」であると同時に「人が居られる場所」であること、という同時性に親近感をもつといっているが、それは「つないでいるもの」のもつ機能性からの開放を意図しているのだろう。

「ナカミ」「カタチ」「決定ルール」

僕が『コンセプト』のところで言い切れなかったことが書いてあり、なるほどと感じさせられた。

僕も「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤を感じることがあるし、これからもふとするとそういう葛藤に絡めとられると思う。

ここで重要なのは「決定ルール」を「ナカミ」「カタチ」と同列ではなく、それらの上位の概念として位置づけることであろう。

それによって、「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤から開放される。

はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきでないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。(p66)

この態度をとれる思想をもてるかどうかが重要である。

たいていの建築では、決定ルールが中途半端な適用になる。ある程度は形式的できかいてきだけど、またある程度は、人の心の反応を想定した経験的なものになる。こんな風にすると人はこんな感覚をもつだろう。こんな感覚をもたせたいからここはこうしよう、そんな意識が混入する。確かに人間は、歴史的にでき上がっているそうした意味の網目の世界に住んでいる。だけど、こういう作業が当然のように行われることによって、建築は人間の心をきっと不自由にする。
実際に、ぼくがある種の建築に感じるのは、それゆえのあざとさであり、お仕着せがましさだ。(p80)

僕は人気のリフォーム番組なんかを勉強になるかと思って何度も見ようと試みるが、いつも居心地が悪くなってすぐにチャンネルを変えたくなる。
テレビ番組の企画としての意図や安易な決めつけなんかがみえみえで、なんとなく押し付けがましい不自由さを感じてしまう。
かといって、僕が著者の言うような態度を貫けるかどうかは、まだ自信がないのだが。

ゲーリィの「グッゲンハイム美術館ビルバオ」について次のようなことを書いている。

これは最も恣意という言葉から遠い建築の達成であり、それがぼくたちに完璧な透明な感覚を与えているのだ。
ここでのゲーリィは、それまで誰もできなかったような、未来に属するまったく新しい実験を行い、しかもそれに成功しているように見える。行われた実験は、ナカミかカタチかという二項対立をこえてしまうような次元での、純粋で自律的な決定ルールの、オーバードライブである。(p76)

ややもすると、カタチに大きく振れ、恣意的でしかないと見られがちなゲーリィの建築に感じる自由さをうまく言い当てている。
こういう態度を貫けるゲーリィはやはりタフなのだろう。

住宅「O」についての「現象としての動線体」という解説も、僕の「自分の領域を拡大する」という感覚とかぶる部分が多くて興味深く読めた。「構成を表現を捨てること」については、複雑性を縮減することがデザインであるならば捨てなくてもいいんじゃないかと思うのだが、それについては今後じっくり考えてみよう。

いずれにせよ、意味を求めないクールな突き放したように見える視点など、これは「ポストモダン」の生き方に対する一つの姿勢の模索であるように思う。それは、言葉にするほど簡単ではなく、ゲーリィのようなタフさを要求される姿勢である。
しかし、その先に見える自由はきっと大きい。




B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
——————–
さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
——————–
オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B004  『意味に餓える社会』

ノルベルト ボルツ
東京大学出版会 (1998/12)

だいぶ前に買った本であるが、僕的にはヒットした本である。
がいまだ整理しきれない。

ここにはニーチェの「神の死」の後、ポストモダン社会をどう生きていくか、ということを考えるヒントがある。

著者は『意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ』と言い、われわれに意味を与えようとする様々なものの意味の意味を分析し、バッサバッサときっていく。

それはもう、ギター侍も真っ青なぐらい痛快に。

現代のような社会では複雑性と向き合うことを恐れ、思考をサボれば、分かりやすい意味の補助具にすがりつかざるをえなくなる。そして、その補助具に無意識に頼りすぎると自分の判断を失う。
その結果、ある種の「暴力」に知らずに加担するかもしれない。

見渡せば、そういった暴力はいたるところに見つけられる。

しかし、「意味」をクールに突き放すことには、自らの足場を不安定にし実存が崩れ落ちてしまうのではという恐怖がつきまとう。
いまだ僕は、「クールな視点の後の自由」と「実存的恐怖」の間を揺れ動いている。

もし、その恐怖を突き抜けることが出来たなら、もしくは突き抜ける必要がなかったなら、再度、この本について書いてみよう。
もし、この問題を解決できている人がいるなら、その秘訣・ヒントを教えてほしい。

以下、目次(一部は小見出しと部分抜粋も含む)
興味をそそる見出しが並ぶ。(時事ネタ多く古くなったものもある)
第7章、最後の小見出しは「すべてがデザイン」である!!

●●序論

・われわれの現実において、自明なものはもう何もない。自明性の喪失自体が、まったく自明になっているのだ。
・現代を生きるということは、価値のコルセットをつけて生きること、大きな理念や制度の型にはまって生きることではないのだ。人は自分が何であるかを自分で決めなければならない。意味はますます私的なことがらになっていく。

○意味の政治
・問われるのは実はひとつのことである。すなわち、きわめて複雑な、カオスと紙一重の世界と、どのようにかかわったらよいのか?複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対する憧れがいたるところで生まれる。そこで、人々はいまや、失われた意味を捜し求める。

○超自然としての自然
・環境問題が存在しないのではない。他の関連から切り離された環境問題「自体」が存在するのではなく、何らかのシステムが自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは、本来、それぞれのシステムが非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
・エコロジーは逆説的に、豊かな国々の豪華商品になってしまった。そうなると、環境問題に関する市民の感度は鈍ってくる。成長の限界についての感度の成長も限界に達した、とさえいうことができる。

○意味の意味

○意味論的カタストロフ
・これらは特定の概念が使えなくなったことを嘆いているにすぎない。まさにこの点で、またこのようにして、意味の問題が生ずるのである。どんな文化も、意味を仕立てるための一定の規則に基づいて成り立っている。だから、ある社会のこうした意味論的仕掛けが壊れてしまうと、意味の問題が生ずるのだ。したがって、意味の機器と渡渉するものは、何よりもまず、もはや昔ながらの概念をもってしては現代を満足に記述できないことを示唆するにすぎない。
・これに対して、多くの人々は、昔ながらの理論が役に立たなくなったことを、矛盾として世界に投影するという形で反応する。こうして「危機意識=批判的意識」が生まれるのだ。
われわれは単数集合名詞の檻に生きている。つまり、本来複数でしかありえない実態を一戸であるかのように見せる概念の折に生きている。「歴史」「現実」「人間」
・意味論的カタストロフに直面して、多くの人々は言葉を失う。開放をまったく欲しない人々も多い。だから、われわれの文化は、世界が見通しが利かないものになったことを紛らわすために人々に意味を提供し、言葉の補助具を用意するのだ。

○鍵になる概念
・われわれは明確な概念を必要とする。ただし、それが補助的な構成物に過ぎないことを忘れてはならない。そして、補助的な構成物なしにはやってゆけないということ自体が、この本のテーマなのだ。
・この本は、意味の問題を魔術から開放した上で、楽しげに「その日暮らしで行けばよい」と呼びかけるものではない。クールな実務家は、すでに幻滅に基づく世界像を持っているだけに、全然学習するつもりがない。「実務」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実に過ぎない。
・理論なしには、そしてヒエラルヒーなしには、いやでもやってゆけない。ヴィジョンを欲しながら同時にヒエラルヒ-を捨てることはできない。未来のブラックボックスを開くための鍵となる観念こそが、ヴィジョンの名に値するであろう。

●●第1章 扱いにくい灰色の基本問題・・・複雑性

○カオスとブラックボックス
・およそ自信のあるデザインならば、世界を開く構想のつもり、意味創出のつもりでなければなるまい。なぜなら、デザインとは、ブラックボックスの世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠となる。
・デザイナーは、単純化の名人だ。彼らは常に、複雑性の縮減を任務とする。
・デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術すなわち不透明な仕掛けに対する人間の不安を除かなければならない。

○三つの世界
・われわれ全員にとっての問題は、単純化することによってしか世界の複雑性に答えられないということにある。
・かどの複雑性は、まさに政治にとって、実務の優位という帰結をもたらす。
・哲学者でさえ、原理とか最終的根拠付けとか言うものは存在せず、われわれは常に「かのように」的な構成と取り組まねばならないこと、どんな理論の中心にも概念へと分解できないメタファーがあることを、ようやく理解しているようだ。
・そうした埋め合わせが必要だということは、環境に対し適切に対処するに足りる自己の複雑性を持たないということである。

○単に単純でないというだけのことではない
・刺激から守ってくれるものなしには、または刺激に無知でなければ、やってゆけない。何らかのフィルターが一定の情報を「ノイズ」として度外視することによって、複雑性が縮減される。

○人間本位主義と啓蒙主義
・「危機」という語は、高度の複雑性を単純化し、政治化するものである。はっきりいえば、危機は例外状態ではなく、現代に生きるわれわれのノーマルなあり方なのだ。
・「意味」とは、複雑性の自己記述に他ならない。だから、われわれの世界に意味がかけているわけではなく、われわれの属するさまざまのシステムそれぞれの価値が注目されていないというだけのことなのだ。
・ヒューマニズムもまた、複雑性の問題を覆い隠すものである。その友愛主義は人間を尺度として世界を測るものだが、それはとりもなおさず、生じたことの責任を人間に負わせるということだ。しかし、複雑性とは、人間のせいにできないということ、具体的な人間のせいだといえないことにほかならない。
道徳主義者が世論の動向を決めるのは、彼らがメディア受けするだけでなく、人間の心理を味方につけているからでもある。つまり、新しい思考というものは、それが緊急に必要なときに鍵って実現可能性を持たないのだ。ストレスに曝された者は昔ながらのやり方を頼りにする。複雑な観念を持ち出しても、たいていは空振りに終わってしまう。

○未来ないし統計
・統計が好まれるのは、構造を理解しなくとも数を比較するだけで複雑の諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
・人々は今日、経験を信頼しないでトレンドを探り当てようとする。経験の軽視とトレンド志向とは表裏一体を成すものであろう。

○時間の矢印の破片
○原理主義者たちと阻止者たち
・生活時間と世界時間がかけ離れるや否や、意味を求める問いが発せられるのである。
・イタリアの映画監督パゾリーニは、低開発にとどまることが阻止者(カテコン)としての力を持つと説いている。後進性こそがユートピアとされるのだ。これと全く同様なのが、世間でもてはやされている「ユックリズムの再発見」の、背後にある発想である。ユックリズムを再発見しさえすれば、もうついてゆけないという体験を解釈しなおして、救出のしるしとみなすことができる、とされるのだ。
・ちなみに、ここには、阻止者論(カテコンテイク)のマーケティングが持つ大きな力、遅れをとったことを逆手に取る一種の販売技術が潜んでいる。「万年筆は、テンポを落とすこと、時間の流れに錨をおろすことの表現です」
・阻止者論を見ても原理主義を見てもいえるのは、現在を自己確認的に肯定する態度がますますまれになったということである。
・いまや、新しいものは終わろうとしているのだろうか?実際、終わりの時を示唆するしるしは沢山ある。

●●第2章 意味社会

・つまり宗教は、何が起こるか分からない(不条理な)世界において儀式により意味を構成するわけだ。
・無論、生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティーの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な問題にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。

○近代性の落とし穴
・われわれの近代世界が提供できるのはただひとつ、「何のために」を説いたり目標を掲げたりしないでやっていく「機能的意味」だけである。われわれの社会は、高次の意味を問うことがないからこそ、抵抗なく機能するのであろう。そこから言えるのは、意味を問うのは逃げの姿勢だということだ。「意味が見つからないこと」を気に病むものにとっては、すべてが別様でもありうることが(つまるところ自分の自由が)悩みの種なのだ。

・だから、私が思うには、失われた意味を求めるのは近代性の落とし穴から逃れようとする試みに他ならない。

○救済の約束
・もう一度ヤンチュを引用しよう。「意味に対する欲求は、人間意識の進化における強力な自己触媒的要素にほかならない」。われわれは意味を求めることによって、さらに発展しようとする自分の意識を刺激するのである。

○世界の脱魔術化
・社会学的にそっけなく言えば、生存の意味とは何かという問いは、生存そのものの彼岸で現れる。そうした問いは、肉体労働と自然の強制から開放されていることを前提としているのだ。世界と格闘しているものは「救済」してもらうどころではなく、「やる」しかないのだ。
・学問史家の立場からすれば、意味の喪失が体験されるようになった理由は二つしかない。
*近代の知が準拠すべき基準の喪失*知の分業化、ブラックボックス化
近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する{つまりブラックボックス化}と言う条件の下でのみ、知の探求者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。
・人々は理解しないものを用いるために、それに従うのだ。つまり、理解に代えて了承に甘んずるしかないのだ。世界に沢山の知があればあるほど、私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。
・世界が科学的に・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。

○ナルシシズムの痛手
・人間を尺度として世界を測ることは、もはやできない。これを「擬人的」に表現するなら、世界は人間を見捨ててしまったのである。すでにニーチェが、そのことをはっきり見抜いていた。「われわれはこの場所、この目的、この意味のせいで存在するのだ、こんな状態になっているのだと言えるような、場所も目的も意味もありはしない。とりわけ、全体を裁くこと、測ること、比較すること、まして否認することなどできるわけがないし、誰にもできまい」。

○学者たちと尊師たち

○近代的であることのコスト
・われわれの近代社会の特徴を、社会学者は彼らのそっけない用語で、さまざまの機能システムの分離と呼んでいる。善と真と美、法と権力は、分解して互いに無関係なものになっており、それぞれが特殊な文化によって、すなわちプロフェッショナルたちによって扱われるものになっている。
・しかし、それらは互いにどんな関係に立つのだろう?全体はどこに、一体性はどこにあるのか?答えはない。ここにぽっかり空いた空隙が、意味を求める人々を吸い込むのだ。つまり、意味喪失感の背景として、各部分システムそれぞれの独自性、特殊領域、固有論理が分かれてきたということがある。そして、機能ごとの分離がすべて意味喪失として体験されたことは明らかであろう。
・すなわち、近代化とは常に、一体にかわって差異を、ということなのだ。
・かなりの人々によって、「意味の欠如」として体験されるものは、実は意味の地平が開かれていること、オプションが豊かなことに他ならない。逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまな形で過剰に提供されていることの結果である。何もかも、大きな意味があるとされるのだ!だから、「意味を見出せない」とは実のところ、「すべてが別様でもありうる状態を苦にする」ということ、つまり結局は「自分の自由を苦にする」、「不確定性(コンティンジエンシー)を苦にする」ということだ。

○押し売り的な救い手
○カタストロフの魅惑
○不幸せな「補助具をつけた神」
○(不)幸せのマネージメント
○独自の型
○重荷を下ろした意味概念
○意味を求める努力
○情報と神話
○意味の身代わり
○学問と政治の対話?
○エリートへの過大な要求
○政治化ではなく大衆化を

●●第3章ポストヒューマン・・・人間という尺度からの別れ
●●第4章批判的意識の大思想家たち
●●第5章それぞれのメディア世代
●●第6章メディアの世界
●●第7章文化・・・近代化の埋め合わせ
○深刻化をやめる
○あるがままの自分でいたい
○文化批判の文化
○重荷からの開放が重荷になる。



○すべてがデザイン