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世界を眺め自分の自由を見つける。


自分の中に強さと自由を見つけること。
それを核にして<社会>や<世界>を眺めてみる。
また、<社会>や<世界>から自分の核を眺めてみる。
多分両者はフラットな関係。
全ては強さのために。全てはデザインのために。

オノケンノート » B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。 「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。 「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

オノケンノート » B148 『原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ』

前著は比較的分かりやすく誰にでも”利用”できる内容だったように思うが、今回は打って変わって私的な部分が表面に出てきたように思う。

おそらく青木淳が開いた建築的自由というものは、最後のところでは青木淳のものであって、自分にとっての自由は自分で作り出すほかない。

オノケンノート » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。

オノケンノート » B146 『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』

僕は最終的には<私>に還らざるを得ないと思いますし、『すべてがデザイン』という姿勢が今の社会では生きやすいんじゃないかなと思うのですが、<社会>や<世界>を一度通してから<私>を考えた方が楽だったり『デザイン』しやすかったりすることも多いように思います。




自然のかけらを鳴らす


自由な秩序によって。また音楽のように流れるように。

そのための楽器をいくつかこのブログでも集めてきた。

古典的には黄金比から始まり、フラクタルまで。
オノケンノート ≫ B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。 “美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

アフォーダンスを皮切りにもっと流れるような「関係性へ」と移っていく。
オノケンノート ≫ B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。 それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。 (例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。
そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

ほかにも、佐々木氏の著作はヒントにあふれている。
オノケンノート ≫ B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。

オノケンノート ≫ B049 『レイアウトの法則-アートとアフォーダンス』

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。 幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。 建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

また、そのための具体的な道具として構造の可能性を追求することは必須に近いが個人的には踏み込めていない。

オノケンノート ≫ B058 『informal -インフォーマル-』

構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。

こういう流れは、つぎのような感覚の裏返しかもしれない。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

ある種の不自由さ、堅苦しさから、軽々と抜け出してみたい、というのが今の空気じゃないだろうか。

オノケンノート ≫ B019 『建築的思考のゆくえ』

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。 一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。 たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

『自由な秩序や関係性によって、音楽のように流れるように、軽々と抜け出してみたい』というのは今の時代や僕らの世代にある程度共通する欲求なんじゃないかと思うんだけども、ほんとのところみなさんどう感じているんでしょう。




『手のひらの上にのる小さな宝物』である。


それだけでいいと言える何かを見つけ、狭さを豊かさへと転化すること。

オノケンノート ≫ B089 『space 狭小住宅:日本の解決法』

積極的な狭さ、なのであり”楽しめる”ことがキーなのだ。(中略)
そのときの”狭さ”をどうやって”楽しさ”へ転化するか。

オノケンノート ≫ Q&A

例え少し面積が小さくなっても、単に広いだけの安作りの家ではなく、まるで『手のひらの上にのる小さな宝物』のように大切に思える家ができるのであれば、それはすばらしいことだと考えます。

オノケンノート ≫ B078 『住宅読本』

がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要なものだけを積み込んで-生活の舟を軽やかにしたまえ。簡素な家庭、素朴な楽しみ、一人か二人の心の友、愛する者と愛してくれる者、一匹の猫、一匹の犬、一本か二本の愛用のパイプ、必要なだけの衣料と食料、それに必要より少し多めの酒があればそれでよいのだ。(『ボートの三人男』より)

必ずしも狭いのが良い、ということではありませんが、狭いという価値も広いという価値と並列に扱ったほうが可能性が広がると思います。

オノケンノート ≫ B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』

一つの軸では線的な「評価」しか出来なかったものが、2つの軸とすることによって面的になり、そのあらわすものは「評価」ではなく個々のポジション、「個性」となるように思う。

オノケンノート ≫ 価値観と軸テンプレート

例えば「家、住まうということを考える」ということは、「軸を発見する」ということではないだろうか。




隙間によって関係性を生み出す。



ぴったりではなく、すこし隙間を残すことで能動的に環境と関われる余地を残しておくこと。
それによって生まれた関係性が生活=豊かさとなる。

オノケンノート – 『原っぱ/洞窟/ランドスケープ~建築的自由について』

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。
洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。 何もなければいいというものでもないのである。

『決定ルール=自然環境』によって地形を生み出すという手法も有効そう。関係を受け止める強度を建築が持てる。

オノケンノート – 『棲み家』

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。
なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。
それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。




素材に対して誠実である。




視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。

オノケンノート – 偽物の氾濫

しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。

藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)

素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。

それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。

また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。

オノケンノート – モノの力

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




秩序を回復させる。




時には装飾のタブーも恐れず。

オノケンノート – B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。

■人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。

また、秩序は幾何学によらなければいけないというわけではない。

オノケンノート – B058 『informal -インフォーマル-』

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。

むしろこっちの方に突き抜ける可能性がある。

もう少し古典的というか基本的な言説としては
オノケンノート – B025 『建築意匠講義』

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

造型論を追い求めた倉田 康男も建築を次のように捉えている
オノケンノート – B040 『建築造型論ノート』

■自らの生きざまを見つめ続けること。そして目の前の畑を耕し続けること。いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。それが建築を学ぶことのすべてなのである。

倉田の造型論は造型論によって捉えようというよりは、むしろ捉えられない不可能性に対する確信から造型論を求めているように思う。

決して宇宙の秩序に到達できないという認識の謙虚さを持った上でそれでもなお秩序を求めること。




主客の分離、言語体系の網をこえる。



ちょっと悟ったつもりになってみる。
感じることを邪魔しているいろいろなものを取り払ってありのままに感じられる時間をつくること。
例えばモノそのものと向き合うこと。

オノケンノート – B026 『はじめての禅』

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。 あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

『私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。』

どんどん抽象的になってきますがこれ以上に抽象的になることはないんじゃないでしょうか。(ランダムに記事をよんでも抽象論ばかりというのはこれまでこのブログで抽象的なことしか書いてないってことかも・・・)




スケールの橋渡し役となる。


建築が生活とミクロやマクロなスケールをつなぐ橋渡し役となること。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。
そんな時、空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。
時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。
自然の雄大さに比べたら建築なんて無力だなぁと思ってしまうこともあるが、日々の生活のスケールとマクロな又はミクロなスケールの橋渡しの役を建築ができればステキだろうな。

(オノケンノート – スケール)

時にはフラクタルという楽器も使って。

”建築が橋渡し役”っていうのはいいかも。人と人との橋渡し、時間・歴史の橋渡しとか。




遊んで感じ、そして決定する。


考えることと平行して、楽しんで遊び感じること。

最後の決定では自分のセンサーを信じること。

藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』

物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。(藤森照信)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

オノケンノート – B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(倉方 俊輔)(オノケンノート – B074 『ザ・藤森照信』)

遊ぶ-感じる-決断というのは一繋がりのものかもしれない。




妖怪の居場所を思う。


はい、すみません。こなきじじぃのつもりです。はい。

マウスで書いてるんで許してくだせい。

妖怪の入り込む隙間、言い換えれば想像力を働かせる余地を残しておくこと。


オノケンノート – B056 『屋久島の民話第二集』

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。 景色ん中に想像の入る余地はなか。 そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。

オノケンノート – B061 『水木しげるの妖怪談義』

神は政治、妖怪は生活。。。妖怪は音。。。妖怪は雰囲気。。。妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

オノケンノート – W006 『杖立橋+Pホール』

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。 こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。




人を思い浮かべる


そこで、人がいきいきとしているのを思い浮かべる。

建築も一緒になっていきいきとしているか。関係性は紡げているか。
オノケンノート – TV『福祉ネットワーク“あそび”を生みだす学校』

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

象の建物とそこにいる人がいつもいきいきとしてるように見えるのはなんでだろうか。

方法論じゃなくって単なるまとめになってたり、絵がいいかげんだったりしますが構わず続けますです。




大切な1%を見つける。


決定的でかけがえのない大切な1%を見つけること。

そして、それを残りの99%と同等かそれ以上に愛しむこと。


オノケンノート – B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。 それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

『モモ』風に言えば”99%の豊かさと引き換えに大切な1%を奪っていく1%ドロボー。その奪われた1%はやがて気付かぬうちに心の<スキマ>となっていく。そして、その<スキマ>を埋めようとすればするほどさらに・・・・”というような感じ。

気にしなければ済むことかもしれないけど、建築なんてやってるような人は多分その1%を諦められきれないんだと思う。

”そこに現れた一人の建築家・・・・”なんて物語を夢想しているわけじゃないだろうけど、もしかしたらその1%を少しは守れるんじゃないかと信じたい人たちなんだろう。
(ああ、こんなスケッチ描いてて続くんだろうか・・・)




時間と場所をとりもどす


素材の持つ時間のオーダーを組み合わせ人間のための時間をつくる。

時間や場所を剥ぎ取ろうとする力に負けない強度を建築にもたせること。

そしてその強度を武器に世界とつながること。


オノケンノート – B097 『前川國男 現代との対話』

グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)

オノケンノート – 世界とのつながり

僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。




生活によって意識を超える


生活を見直すことでそこから意識を超えた豊かさを生み出す、とイメージしてみる。

ここでいう生活とは関係性をデザインすることである。(と言ってみる)

意識から飛び出したものとの関係性。そういうものがきちんと見えているか。


オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。

そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。




デザインのたね

もうそろそろ方法論に落とし込んでいこうかと。

少し前にランダムボタンをつくったので、ランダムにいくつか過去記事を読んでそこから抽出したのをたねとしてメモる。

新しい記事を書いた後のまとめでもOK。

基本フォーマットとしては、 簡易なタイトルと、動詞で終わる短い文。あと、関連タグ。場合によっては引用とリンク。

ここでスケッチ化してみようかな。(続くかな・・・)

明日からでもとりあえずやってみるか。

<追記>

方法論というよりは抽象論が続きますが構わずやります。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




言葉



かなり大雑把に言うと言葉には2種類あるように思う。

A.思考のための言葉
B.コミュニケーションのための言葉

この2つである。

A.思考のための言葉

「建築家の話す言葉は分かりにくい」と言われることがあるが、言葉が使われる場が思考の場である限り、分かりやすい必要なんて全くないと僕は思う。
おそらく、言葉を発しているほうでさえ、思考の流れのなかで何とか言葉を紡ぎ出しているのだろうから、その流れを断ち切ってまで分かりやすくする必要はない。
それをどう捉えるかは聞き手の自由である。

B.コミュニケーションのための言葉

目的が相手にこちらの考えを伝えることであれば、それは分かりやすい必要がある。

しかし、Aも自分とのコミュニケーションでもあるといえるし、Bも曖昧なものを相手に投げかけることもあろうから、やっぱりこの2つには分けられないようにも思う。ホントは何が言いたかったかというと、

「建築家の話す言葉は分かりにくい」というのは最もな話だがそれも必要なことで、営業的なあまりにもキャッチーな言葉ばかりが飛び交うのも、なんか違うのではないか。と

もっと言葉の持つ流動性や曖昧さ、奥行きといったものを大切にしたいなぁ。と

そんなことです。




コンセプト

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「コンセプト」

これも「デザイン」同様、芸術家気取りと思われやすい。

conceptを辞書で引くと「概念・観念・着想・考え」とあるが、この場合、「構想」を加えたほうが良いと思う。

「コンセプト」は意志の共有の為には欠かせない。
また、自ら意思決定を行う為の基準となる。
いわば補助線のようなものである。
デザインのうまくいっているものは、この補助線がうまく機能しているのである。
それは、ぱっと目に見えたり、うまく隠されていたりするが。

人はおそらくその補助線の存在を「無意識に」察知する能力を持っている。
頭で理解するのではなく、感じるのである。

そんな補助線はデザインに全く興味のない人にはどうでもいいかと言うと、僕はそうは思わない。

建築は環境のひとつである。
誰であっても、いやでも日常的に関わらざるを得ない。
知らないうちに感じとり、無意識に大きな影響を受けているに違いない。

おそらく、補助線による「意味の縮減」は美であり、快楽であろう。
興味があろうがなかろうが心地よいものは心地よいのだ。

だから、僕たちは「芸術家きどり」とののしられようが、補助線の存在とデザインに気をかけなければならないのである。




デザイン

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僕が考えるにデザインとは意志である。

意志を持たないというのも意志。

装飾や形態の操作は意志をかたちにする手段のひとつでしかない。

また、デザインとは発見であると思う。

それは、クライアントや自分自身の隠れた意志を発見することであり、日常や常識に埋もれた価値を発見することである。

そのために、人が何気なく通り過ぎてしまうことに、いちいち立ち止まりながらあーだこーだと考える。
または、人が考えたことやつくったものに目をやり、そこから何かを発見しようとする。

とにかく、デザインとは根気がいる日常なのである。




偽物の氾濫

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偽物の氾濫

昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。

例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。

自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。

大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。

偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。