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B130 『愛と哀しみのル・コルビュジェ』

aitokanasimi.jpg市川 智子 (著)

彰国社 (2007/09)


モチベーションをあげるにはコルに限る!っということで、今年の初めの気合入れに本屋で買ってきました。

aitokanasimi2.JPGあのコルビュジェに『おそよう』と言わせるあたり、著者のコルに対する並々ならぬ愛を感じます。
さて、この本から感じたこと。

(この本を買うきっかけにもなった)倉方さんの著作『吉阪隆正とル・コルビュジエ』のところで”多面的なものを引き受け決定する勇気と強さ”ということを書きましたが、まさにそれが『愛と哀しみ』だなぁと思いました。

決定するには建築や人間に対する愛が必要ですが、 決定してしまうことにはその愛の大きさに比例する哀しみがついてまわるんじゃないでしょうか。

そして、その愛と哀しみを引き受けるだけの勇気や強さを兼ね備えた人だけが価値のある決定を下すことができるし、それを体現したのがコルではないかと。

だから、著者がコルの言葉の表面だけが一人歩きしている「哀しみ」を語っているのもよく分かりますし、(著者を含め)多くの人に勇気や強さを分け与え続けているのもまた事実でしょう。

僕もまたコルに勇気を分けてもらいました。

(遅いですが)今年もがんばりましょー!

追伸
(この本を買うきっかけにもなった)と書きましたが、倉方さんのブログのコメント欄の著者のやり取りが興味深かったので読みたいなぁと思っていたところでした。




B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

倉方 俊輔

王国社 (2005/09)
都城のシンポジウムにも来られていた倉方さんの著書。

この時の倉方さんの発言が 理路整然としていて分かり易く、頭のいい人だなぁ、と思ったのと、コルと吉阪の両者は最近僕の中のキーマンとして再浮上してきていることもあって図書館で借りてきた。

コルビュジェという「個性」に出会い、吉阪隆正という「個性」が誕生する様子がよく分かる。

コルビュジェは多面的な要素を内包しつつもそれをうまく調整しながら 対外的に立ち回ってきたように思うが、吉阪はその多面性を引き継ぎつつそれを拡張し続けたように思う。それが、吉阪のつかみ所のなさと魅力になっているのだが、倉方さんの”つかみ所のなさに苦労しつつもその魅力をなんとか伝えたい”という思いが伝わってきた。

さて、吉阪はコルからなにを学び、私たちは彼らから何を学ぶべきだろうか。

まず、吉阪がコルから受け取った一番のものは「決定する勇気」であり、そこに吉阪は「惚れ込んだ」ようである。

彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。

吉阪の人生に一貫するのは、<あれかこれか>ではなく<あれもこれも>という姿勢である。ル・コルビュジェから学んだのは、その<あれ>や<これ>を、一つの<形>として示すという決断だった。

多面性を引き受けることはおそらく決定の困難さを引き受けることでもあるだろう。
しかし、コルは多面性を引き受けつつも魅力的な解釈を生み出し、決定していく強さを持っていた。
それこそがコルの一番の魅力であろうが、吉阪はそこに惚れ込みコルの持つ強さを引き継いだ。とすると、まさにその強さによってその後の「対照的なものを併存させる」ような思想を展開することが可能となったように思う。

また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。

吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(括弧内追記・強調引用者)

多様性や格差が言われる今の時代に多面性を引き受けずに単純な結論を出すことはおそらく不可能だと思う。(誰のための必然・結論か、という問題が必ず現れる)

そんな中にあっても、多面性を引き受けその中に意志を見出し決定する勇気は、今こそ必要であろう。

そういう勇気と決断力を持ち、形にしていく(イメージ化し実践する)能力があり、またそれを「あそび」へと 転化できるような才能が待たれているのかも知れない。




B117 『藤森流 自然素材の使い方』

藤森 照信 (著), 大嶋 信道 (著), 柴田 真秀 (著), 内田 祥士 (著), 入江 雅昭 (著)

彰国社 (2005/09)

技術とは何だろうか。と考えさせられる。
藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。
だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。
それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

藤森さんは自分のことを建築家というよりは職人だと位置づけているようだ。
専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。
今の建築は気を抜けばすぐにカタログから選んだ工業製品の寄せ集めになってしまう。(その原因に技術に対する恐れが多分にあると思う)
工業製品を一つの素材と捉えて、そこに命を吹き込むこともできるだろうが、それを意識的に行うのは相当な腕がなければ難しい。

なんというか藤森さんにはコルビュジェと似た匂いを感じる。(きっと本人も自覚していると思う。)
コルビュジェが庭園を語りながら、建築が植物に飲み込まれるのを恐れて植物から距離をとった、というような分析があったが、 なんとなくそれに対するリベンジのような感覚じゃないだろうか。だけど、藤森さんのやってることはかなりギリギリのところだと思う。
自然と人工の関係を扱うには藤森さんのような濃さとバランス感覚がないと、あっという間に胡散臭いエセ自然になってしまう。
藤森さんの建物でさえ、そのまま屋久島なんかに持っていったら自然に飲み込まれて胡散臭いシロモノになってしまうのではないか。藤森VS屋久島是非対決を見てみたい




B112 『ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成』

富永 譲
鹿島出版会(2003/06)

またまたコルビュジェ。
またまた溜息が出ます。
あ゛ーとかう゛ーとか言いながら読んでいたので妻はさぞかし気味が悪かっただろう。
象設計集団のときも同じように溜息が出たけど、あー豊かだなぁと感じるわけです。
コルビュジェ、吉阪隆正、象設計集団
という溜息の連鎖に、藤森照信が紹介する住宅を加えて、なぜそれらを見ると溜息が出るのかを考えてみると、そこには関わった人の顔が見える気がします。

鹿児島市などの地方都市で特に顕著だと思うのですが、街を歩きながら建物を見ても、そこに見えるのはメーカーやディベロッパーの顔だったり、工場のラインや収支計算書の数字だけしか見えてこない、つまりはその奥に”金”しか見えてこない建物ばかりになりつつあります。
それに関わっている人間の顔が見えてこないのですね。
こんな建物だけで埋め尽くされた街で子供が育つと考えただけでぞっとします。

だけど、先に挙げた溜息建築には使う人の生き生きとした顔だけでなく、設計者がアイデアを思いついたときの少年のように喜ぶ顔まで思い浮かびます。
そんな生き生きとした建物があふれる街のほうが楽しそうだと思いませんか?

あとがきで著者が

具体的な物のキラメキに出会えるような批評、読み込んでいくと、すぐに新たな設計の筆をとりたくなるような研究。本書がそんな類のものになっているかどうかは分からない。

と書いているけど、そんな心配は無用。コルビュジェの作品そのものにそんな建築少年の心を呼び戻す力がある。
ある意味、そんな建築少年、建築オジサンを生み出しているという意味ではコルビュジェは罪な人ですが。

本書を読んで浮かび上がってくるのは、多様な軸、多様な要素、多様な欲求・・・多様なものを重ね合わせ、関連付け、秩序付ける力とそこから飛び出そうとする力が均衡するコルビュジェの建築であり、そこには一つの視点からでは捉えきれない奥行き・多様性がある。
それは、コルビュジェ自身の持つ奥行き・多様性であるし、それがそのまま建築に表れているから、そこにコルビュジェの魅力を感じ取り僕は思春期の少年のように溜息が出てしまうのだ。
あー、こんなにもわくわくしたんだろうなぁ、と。




B095 『ル・コルビュジエのインド』

北田 英治 写真
彰国社(2005/06)

先日のシンポジウム「鹿児島のかたち・地域のかたち」で”1950年以降・インド以降のコルビュジェ”と言うのが話で出たので、そういえばそういう本があったなぁと図書館で借りてきた。

そのときに案出するベースになったのは、スケッチブックに見られるように、観察ですね。チャンディーガルを歩いたり、インドの風物を観察を描き留めながら、民族の普遍的な知恵がどこにあるのかを探っていく。でもそれにベタッと寄り添ったものをつくるのではなく、それを一度、建築と人間の関係に置き換えて、新しいものをつくる。そうやってタイプを変形、変容させてゆく能力が、後期の彼を支えていたのだろうなと思います。(富永譲)

シンポジウムで言われたのはまさにこういうことだったと思う。
今までなんとなく自分の中で何かが足りないと感じていたのだけれども、このシンポジウムで画竜点睛というか、空いたところのピースを見つけた感じがしたのだ。(全く感覚的なレベルでしかないが)

読書感想ももうすぐ100冊だ。なんやかんや言ってコルに帰ってきそうな気がしてきた。

コルと吉阪隆正の自然に対するアプローチを「海の人」「山の人」と対比している所や、インドでの仕事のアプローチをカーンとコルで「誰でも理解できるシンプルで厳格なルールをつくるか、あるいはアクシデントを全部受け入れるか」と対比しているところが面白かった。モデュロールが厳密な幾何図形を前提とせずとも美しさを担保したから、コルは形の自由と有機的な野生を獲得できた、という分析もあってなるほどと思ったのだが、全てを受け入れる懐の深さとそれを全体としてまとめあげる力量が、これほどおおらかな建築を可能にしたのだろう。




B070 『意中の建築 下巻』

意中の建築 下巻 中村 好文 (2005/09/21)
新潮社

中村好文・下巻。

やっぱり建築って素敵だと思う。

中村さんはあとがきに、学生から「建築家になるための才能や資質」を問われたときの答えとして次のように書いている。

「もし、僕みたいな市井の住宅建築家になるつもりならね…」と前置きをして、私がまず挙げるのは、
・計画性がないこと
・楽天的であること
のふたつです。もちろん、ほかにも「日常茶飯事を惰性から祝祭に変えられる才能」とか「清貧に耐えられるしなやかな精神」とかもっともらしいことも言いますが、なんにしても最初のふたつは備わっていた方がよいと思います。

うん、妻には申し訳ない(?)がこれらには自信ありだな。

それは、喜ぶべきことのはずだ。きっと。

建物見学で計画性がなくて楽天的といえば、僕もけっこう無茶をしたりしたことがある。
この本でも最初に出てくるサヴォア邸。
パリ郊外にあるコルビュジェの傑作ですが、学生の時に見に行きました。しかし、ここで漫画のようなことが起こりました。

今考えると馬鹿丸出しですが、若気の至りと思って軽く笑ってください。

行ってみると、サヴォア邸は改修工事中らしく見学不可になっていました。しかし、結構な高さの塀越しに中の様子を伺うと人の気配がありません。

はるばるフランスの田舎まで来たのです。

ちょっと、近づいて写真撮るぐらいならいいかな。という誘惑に駆られました。

下のGoogleEarthで見つけた画像で言うとちょうどAのあたりの塀を乗り越えて建物に近づこうとした時、Cのあたりから一匹の犬がひょこひょこ出てきました。

ges.jpg

何じゃ、と思ってとっさにBの位置の木の影に隠れると、その犬はふらふらと歩いてまたCのところに戻りました。

なんか、やばいかなぁと思っていると、今度は犬と一緒に太ったおじさんが一輪車のようなものと草すきフォークを持って出てきて庭掃除を始めてしまいました。

人がいたのかと後悔するも、どうすればよいか分からずただ隠れてじっと身を潜めていると、能天気そうな犬がひょこひょここっちへやってくるではありませんか。

そして、その犬となんとなく目が合ってしまったのですが、別に吠えるでもなくご機嫌であたりをふらふらと歩き回り、ある時突然、その犬は僕の隠れているちょうどその木の幹に片足挙げてショーベンを始めたのです。

なんとなくおちょくられてる気がしてきた時に、おじさんが一輪車を押して犬の方へ(つまり僕の方へ)近づいてきました。

こりゃだめだ。と思い、僕は意を決し、フランス語は分からないので『アイムソーリー』といいながら、敵意がないのを示すために両手を上に挙げて出て行きました。

すると、太ったおじさんは白い顔がみるみる赤くなってなにやらもごもご言い出しました。

そして、僕は文字通り「つまみ出され」ました。

と、これだけのことですが、そのショーベンシーンがあまりに漫画チックで記憶に焼きついています。

楽天的というよりは無謀な話でした。撃たれなくて良かった。

ちなみに、一緒に見学に行った同じ建築学科のクールなツレは僕が塀を登ろうとしたとき「俺は他人のふりをする。ちゅうか他人や」といってその辺をぶらぶら散歩し始めました。

そっちが正解。




B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永 譲、中村 好文 他
TOTO出版(2002/01)

2001年に安藤研がギャラ間で行ったコルビュジェの全住宅模型展に合わせて開かれた講座の記録。
(偶然にも僕はちょうどこのころ無理がたたって入院中で、病室でサヴォア邸やガルシュの家なんかの1/100模型をつくっていた…)

富永譲・中村好文・鈴木恂・八束はじめ・伊東豊雄がコルビュジェについて語るのだが、久しぶりのコルビュジェはとても新鮮で面白かった。
うーん、惚れなおす。

最初の方に出てくる写真や言葉を見るだけでため息が出てくる。

コルビュジェは戦略としてキザで大袈裟な物言いをしたという捉え方をしていた。
しかし、そういう側面はあるとしても、奥の部分にはやっぱり人間への愛情で満ちあふれているのだ。

そうでないと、こうも語りかけては来ない。

前にもコルについて書いたけれども、コル自信もかかえる小ざかしさや雑念を超えた大きな純粋さに心を打たれる。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

そういえば、日経アーキテクチュアの創刊30周年記念特集の対談(2006.4-10号)でも新しい世代の「抜けている感覚」の是非や身体性というものが語られている。
それは「知覚的」か「実存的」かという問題だろうが、僕なんかの世代の多くはそれらに引き裂かれているのではないだろうか。
「知覚」への憧れと「実存」への欲求。
その間にあるのはおそらく一見自由に見えて実はシステムに絡めとられてしまう不自由な社会であり、そこから抜け出そうとすることが僕らを引き裂く。

もっと若い世代だとその今いる地点から「知覚」や「実存」への距離はどんどんと拡がっているように思える。(特に「実存」への距離)
また、その距離に比例するように「知覚」への憧れと「実存」への欲求は深まり、さらに分裂する。

実存的建築家に学生なんかが再び惹かれはじめているのも分かる気がする。

それらを全く異なるもののまま同居させるコルの複雑性。
これこそがコルビュジェの魅力の秘密かもしれない。

あと、この本の伊東さんの話は相変わらず魅力的だったが、他にも鈴木恂の「屋上庭園とピロティ」を「(コルビュジェの例の)手と足」として捉えるところも面白かった。
建築を身体の延長として捉えるような感じ、擬人化やキャラクターを持つことへの興味はもしかしたらコルビュジェの影響かもしれないな。




B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

ジョフリー・H. ベイカー
鹿島出版会(1991/05)

タイトルの通り、コルビュジェの形態分析。
原著の初版は1984年であるからもう20年以上も前のものである。
僕は学生のときに買った。

分かりやすい魅力的なイラストで、構成の手法や形態のもつ力の流れなんかがよく読み取れる。
今見ても十分楽しい。

その楽しさは著者の力量もあるが、コルビュジェの建物のもつ魅力から来るものだろう。

近代建築の克服・批判という文脈のなかでコル批判がきかれることもあるが、やっぱりコルビュジェは魅力的。
しかし、近代建築が広まる過程でコルビュジェのもつ人間臭い部分は漂白されて都合の良い合理性だけが受け継がれている。

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

ビートルズを聴くとコルビュジェとダブるときが良くある。
ロックやモダニズムのほとんどのことを彼ら天才がやり尽くしてしまって、その後のものはすべて彼らのオルタナティブでしかないように思ってしまう。
そして、その本家のもつ強さを超えることはなかなか難しい。

モダニズムという枠の中にいる限り乗り越えることはほとんど不可能のようにも思えるし、「乗り越える必要があるか」、という問いも含め「どう乗り越えるか」というのを、建築の世界ではずっとやってきていまだに答えが見えていないように思う。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。
「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。
「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

僕も恐れ多くもコルビュジェを乗り越えようなんて思わない。(そんな才能もない。)
しかし、コルのように人間味を帯びたものをつくりたい、とは思う。

コルビュジェは誰よりも純粋で正直であったのではないだろうか。

それが、もっとも難しいことだと思うが、自分に正直になる以外には、やはりものはつくれない。

音楽でもビートルズを超えたかどうかが問題ではなく、その人の正直さが現れたときにはじめて人の心を打つのである。