1

ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ」カメアトリエ 亀崎 義仁

kenpeke06
先日のケンペケについて。
長期間テキストを書けてないのでリハビリも兼ねて簡単に。
(イベント後半、例のごとくダウン気味だったので、償いも兼ね・・・)

カメアトリエの亀崎さん(以後カメさん)はコラムを書いていたり、造形美確認検査センターという活動?をしていたりと、独特なセンスで書くことを続けられてますが、一見おちゃらけたような言葉の中に建築に対する誠実さと、建築を(専門家だけの)特別なものにしないという可能性を感じて、このイベントを楽しみにしていました。

デフレッペチーノ

デフレッペチーノとは、カメさんが考えるデフレ世代の可能性みたいなものと、イベントのタイトルを決めるときにたまたまスタバにいたことが、たまたま(ノリで)結びついて名付けられた言葉で、まだ特に定義はしていないよう。

「デフレマインドの脱却」という時にはデフレマインドは否定的に扱われています。
ですが、カメさんはそこに可能性、もしくは現実にある何かを見出そうとしているようで、このイベントを通じて参加者それぞれの「デフレッペチーノ」とは何か、が浮かび上がることが期待されました。

では、自分にとってのデフレッペチーノとは何か。

端的に言えば、僕にとってのそれは「生活」。もう少し言葉を足せば「能動的に生活を楽しむ態度」のようなものじゃないかという気がします。
それは棲み家という言葉や「Deliciousness / Encounters」など、このブログでさんざん考えてきたことに重なるし、それで共感と期待があったのかもしれません。

いわゆる高度経済成長期を経て、生活が消費でしかなくなってしまった後、その反動として芽生えたデフレ世代による積極的デフレマインド。
藤村さん風に言えば、デフレに対して単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、デフレを新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示する、批判的デフレ主義みたいな。

この時、単に受け入れてしまう、又は(デフレマインドの脱却というように)単に抵抗するのではない、新しい可能性に向かって逆手に取るような態度に「建築のデフレッペチーノ」の意味があるのかもしれません。
(個人的にはデフレマインド≒「能動的に生活を楽しむ態度」自体は、こっちがデフォルトで、「生活≒消費的」なものが一時的・イレギュラーなものだった、という気がするので、そのイレギュラーな事件とどう接続するか、がポイントになる気がします。)

トラストブロックの挑戦

カメさんは沖縄で培われたコンクリートブロックと木造トラスの小屋組を結びつけたトラストブロックを、わかりやすい家づくりとして進めています。

それは、独自のアンケートから導き出した、フルオーダーと建売・分譲の間のセミオーダーで、一定の規格のもとデフレに対応するローコストと、多くの人が求めるわかりやすさを兼ね備えた長屋状の住宅です。(詳しくは■YouTube参照)

質疑の時間でも出ましたが、ここで単純な疑問が浮かびます。

論理的に導き出されたように見えるセミオーダーの建築には、ホームページに謳われるような愛嬌は生まれるのか?造形美確認検査センターの活動に見られるような、曖昧で事後発生的な魅力へのカメさん自身の嗜好や建築の持つ責任とはどう結びつくのか?この住宅の未来にどんな風景を見ているのか?

そんなことを考えながら質疑の時間を過ごしていたのですが、セパ跡に手を入れるための仕掛けをしていたりと、事後の関与を誘発する工夫をしていたり、土地の使われ方にも「能動的に生活を楽しむ態度」への明確なイメージを持っているようでした。(スケルトン・インフィルの考え自体がそういう性質をもってますし)

乾久美子さんの「小さな風景からの学び」や「おいしい技術」で書いた「保留」の所が頭に浮かんだのですが、この建築は竣工した時点で完成するのではなく、いろいろな事件を発生させながら数十年後も豊かな風景・生活を生み出しながら変わり続けている。そんな光景が目に浮かぶ気がしました。

デフレの原理を受け入れてみることで生まれる豊かな光景。
そう考えると、トラストブロックの挑戦は「建築のデフレッペチーノ(批判的デフレ主義?)」の一つの可能性なのかもしれません。

カメさんは「施主に対する提案と、社会に対する提案を分けている」というようなことを言われたと思いますが、自分も何かチャレンジしてみたいと感じさせるイベントでした。

うーん、まだ文章書くようにうまく頭が動いてくれないなー。
ちぐはぐだけど、今日はこんなところで。

(ケンペケ05も調子がでないまま、なかなか書けずにいるので復習して近いうちに・・・)

20160827ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ 第一部」 カメアトリエ亀崎 義仁 – YouTube
20160827ケンペケ06「建築のデフレッペチーノ 第二部」 カメアトリエ亀崎 義仁 – YouTube




レビュー04「建築の素材」 403architecture [dajiba]辻琢磨

24
先日403architectureの辻さんを招いてのケンペケがあったので参加してきました。

自分なりに何か得るものがあったのでメモとして書いておきます。

メタとベタ、意識と行為

予習で意識していた二つの問い、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ04 予習

この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。

話の流れからこれらに関して直接的な答えが得られたわけではないのですが、この機会を通して強く感じたのは
(a)明確にそしてまっすぐに(旧来からある)概念的な建築やその歴史に対して向き合っている。
(b)辻さん自体が”働き”である。
の2点です。
この2つに対するバランス感覚と両者の濃密な関係性が辻さんのオリジナリティだと感じました。
これらは強引にメタとベタと位置づけられそうな気がしますが、明確に建築を志向していながら、そこから演繹的に計画を行うだけではなく、そこにある状況に対して応答するようなあり方が維持されているのが新鮮で、河本氏的に言えば抽象的で自由な意識と現実的で自在な行為およびそれらの応答関係のようなものが浮かび上がってきたように思います。

レクチャー形式の第一部ではメタ的な説明は最小限に抑えられながら、辻さんの活動が次々と紹介されたのですが、なかなか核心に触れられないと感じつつ、かえってそれによって働きとしての辻さんのあり方が浮かび上がってきたように感じました。
セッション形式の第二部では限られた時間ではあったものの、メタ的な視点に触れられながらメタとベタの関係性が多少なりとも浮かび上がったように思います。

メタとベタをどう関連付けるか

はじめは「建築をどのように捉えているのか」「流動的なネットワークに何をみているのか」といったメタの部分の考え方を知りたい、という気持ちが強かったのですが、途中から関心は「建築としての思考と働きとしてのあり方」をどうつなげているのか」という方向に関心が変わってきました。
自分の問題に引き寄せた時に、例えば働きとしてのあり方を進めようとした際、言い換えるとベタな行為に自分を埋め込んでいった時に、メタな思考というのはどう位置づけられて、どう設計に関わらせることができるだろう、というのがずっとモヤモヤとした疑問としてありました。埋没させればさせるほど密度は上がるかもしれないけれども、建築的な思考からは遠ざかるのではないか、ということを感じながらそれに対する明確なイメージを持てずにいました。(これは、予習での「「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。」という問いとも重なる気がします。)

第二部の終盤に出た「現場での瞬発力と議論はどういう関係か」というような質問とそれに対する応答が印象的だったのですが、403では「議論の積み上げ」と「現場等での応答」の2つが意識的に使い分けられているようです。
403の三人で可能性を排除していきながら、抽象のレベルで建築の強度を担保できるようなものが見つかるまで徹底的に議論を重ね、それを共有してから現場に出ることではじめて瞬発力がうまれる、というようなことが語られていました。
予習時に読んだ際には実感を伴って理解できなかった下記のテキスト

ちなみに、質疑でも答えさせていただいたが、私が考える建築のクオリティは、抽象的で計画的で演繹的な質と、具体的で現場主義的で帰納的な質との関係性によって決まる。その両者を関係付けさせる設計環境を用意することが何より重要である。それはほとんどそのまま、上記した言語と実体験の関係性と同義である。その環境を作る為の方法の一つが、言語や計画を生み出す場所(=設計事務所)と反応するべき現場(=プロジェクトサイト)を物理的に近づけるということであり、さらにその仕事のレイヤーに自らの生活のレイヤーを重ねることで一層両者の関係性は影響し合うだろうと私は考えている。しかしともかく私が彼らに伝えたかったのは、生活と設計と街と現場が一体となったような生き方についてである。(ARCH(K)INDY/博多/佐賀のこと : deline)

が、ようやく腑に落ちた感じがします。
メタとベタの話で言えば、あくまでもベタに振る舞いながら、そこで扱う素材の一つとしてメタを再配置することでメタをベタな働きの中に取りこんでいる、というように言えそうな気がします。そのように捉えることで、建築としての思考と働きとしてのあり方を連続したものにできないでしょうか。

僅かでもいいので新しい視点が発見できれば、と思いながら書いてみましたが、結局は引用したdelineの文章に全て含まれていた気がします。
しかし、自分にとってはそこが腑に落ちたのは結構大きいですし、それだけで今回のイベントに参加した意義がありました。

今の自分の課題は、
・メタ的な思考の精度を高めること
・働き的なあり方の密度をあげること
・両者を関係づける設計環境を用意すること
の3つかな。
いや、それ全部やん。




ケンペケ03「建築の領域」中田製作所

6/6に中田製作所のお二人を招いてのケンペケがあったので参加してきました。
今回はレクチャー1時間前から飲み始めてOKというプログラムで、なおかつ公式レビューは学生さんたちの担当だったので気楽な気持ちで飲みながら参加。
(体調不良もあったのですが、雰囲気が良くて飲み過ぎてしまい早々にダウン気味に。いろいろお聞きしたかったのにちょっともったいないことをした・・・)

公式レビューは近々学生さんたちからアップされると思います。なので、あまり被らないようにイベントの感想というよりは自分の興味の範囲で考えたことを簡単に書いておきたいと思います。(と書きながらめっちゃ長くなった・・・)

「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。そして、その視点から中田製作所、HandiHouse Projectの取り組みには以前から興味を持っていました。

このブログやフェイスブックで何度か書いているので重複する部分も多いですが再び整理してみようと思います。

ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

現代社会は分業化などによって、「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」が分断されている状況だと言っていいかと思います。住宅の多くは商品として与えられるものとして成立していて、そこからは「建てること(つくること)」の多くは剥ぎ取られている。また、その分断化には「所有すること」の意識が強くなったことも寄与していると思います。

先の引用のように、建てることと分断された住まうことは、住まうことの本質の一部しか生きられないのだとすれば、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるか、と言うのが命題になると思います。
ただ、私の場合はあくまでそこに住まう人にとっての本来的な「住まうこと」、言い換えればリアリティのようなものを取り戻したい、というのが根本にあります。ただ「建てること」を取り戻したい、のではなく「住まうこと」を取り戻したい。よって、そのために「建てること」を「住まうこと」の中に取り戻したい。という順序であるということには意識的である必要があると思っています。

では、どのようにすれば「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができるでしょうか。

これまで考えたり今回のイベントを通して考えた限りでは3つのアプローチが思い浮かびます。

1.直接的に「建てること(つくること)」を経験してもらう

一つは、お客さんを直接的に「建てること(つくること)」に巻き込むことによって「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す方法があるかと思います。中田製作所のアプローチはこれに近いかもしれません。
これはそのまんま建てることを経験するので効果は高いと思うし、その後の効果の持続も期待できるように思います。
原因となる分業化のタテの構造そのものを並列に転換するようなアプローチですが、建てることの中にいろいろな住む人と並列した存在が入り乱れるような状態が生まれ、それによって「所有すること」の意識も解きほぐれるような気もします。(たぶん、それによって違う展開が可能な気もしますがとりあえず置いておきます。)

2.「建てること(つくること)」の技術に光を当てる

住まう人が直接つくることに関わらない限り、この分断は乗り越えられないかと言うと、そうではないようにも思います。

たとえば建てる(つくる)行為を考えてみると、その多くが工業化された商品を買いそれを配置する、という行為になってしまっています。
しかし、本来職人のつくるという行為は、つかう人のつくるという行為を代弁するようなもので、そこではまだつかうこととつくることの間の連続性は保たれていたのだと思いますし、その連続性の中に職人の存在する意義があった(つかう人に「つくること」を届けることが出来た)のだと思うのです。

ですが、工業化された商品を配置するという行為だけではつかう人のつくるという行為を職人が代弁することは困難ですし、それではつかうこととつくることの連続性における職人の存在意義は失われてしまいます。職人が職人でいられなくなると言ってもいいかもしれません。

ここで、1のセルフリノベのようなことが職人の居場所を奪わないか、また技術をどう継承するか、といった疑問が浮かんできますが、私は必ずしも相反するものではないと思っています。
セルフリノベ自体は「つかうこと」と「つくること」の連続性とそこで生まれる喜びを人々の中に取り戻すことができる一つの方法だと思います。
だとすれば、セルフリノベのようなことによって先ほど書いたような職人の存在意義が浮かび上がってくる可能性があるように思いますし、対立ではなく同じ方向を向くことでお互いの価値を高め合うことができる気がします。
セルフリノベによって浮いた予算を職人の技術にまわすような共存の仕方もあるかもしれない。

ここで、どのような技術がつかう人のつくるという行為を代弁しうるか、というのはなかなか捉えにくいように思いますが、その技術に内在する手の跡や思考の跡、技術そのものの歴史などがおそらくつかう人のつくるという行為を代弁するのではという気がします。
そういう代弁しうる技術があるのだとすれば、そういう「建てること(つくること)」の技術に光を当てることが、「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことにつながるように思います。

3.「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く

もう一つは設計という行為に関わることです。(この場合設計という行為は図面を書く、ということに限らない)
先ほど職人の存在意義のようなことを書きましたが、これはおそらく設計者の存在意義に関わることです。

多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。 (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その2)

簡単に説明することは難しいので、引用元のページを読んで頂きたいのですが、例えば、『建築に内在する言葉(坂本一成)』で書いているような象徴に関わるような操作や、先の引用元の設計コンセプトなどによって「住まうこと(つかうこと)」と「建てること(つくること)」を貫く共通の概念のようなものを生み出すことによって、住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻すことができる可能性があるように思います。

設計という行為の中にもそういう可能性があると信じられることが大切で、設計者はそれが実現する一瞬のために皆もがき続けているように思いますし、その探求の中にこそ設計者の存在意義があるのでは、という気がしています。

つくりかたを試行錯誤する

とりあえずは、上記の3つが思い浮かびます。これらは新築とかリノベとかの別はなく、おそらくプロジェクトに応じて適切なバランスのようなものがあるように思いますし、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っていると思うのでそのあたりのバランスには敏感でありたいと思っています。

自分自身は新築住宅の設計の仕事が多いのですが、お客さんと一緒につくるようなこともしますし、予算が許せば色気のある技術を使いたいと思います。当然設計そのものが持つ力も信じて取り組みたいと思っています。そうしながら、最初に挙げた生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるかというテーマに応えられるようなつくりかたを、さらに試行錯誤して考えていきたいと思っています。

途中「設計はなるべくクオリティを高めたい、施工はなるべく簡略化して利益を出したい、その相反することをどう乗り越えるのか」というような感じの質問が出ました。それに対して「相反するものではないような気がする」というような応答があったのですが、自分のこれからにも関連しそうなので少し考えてみます。

私も、予算を抑えることが主な理由で一部自分で日曜大工的につくったり、お客さんと一緒に塗装をしたりしています。
最初はその作業をボランティアのように位置づけていたので「設計料は貰っているけれども、無料でそれ以外の仕事をするのはプロとしては好ましいことではないのではないか。なにより本職のプロに失礼ではないか」と悩む時期がありました。しかし、ある時に「名目としては設計監理料だけれども、これは「建築を建てることでお客さんが最終的に満足する」ということをサポートする行為に対する対価として頂いている」と位置づけることでその悩みは解消することが出来ました。その目的のために手を動かすのはおかしいことではないし、その対価も含まれていると考えれば納得できる。

考えてみれば、設計も利益を出そうとすればクオリティなど言わずになるべく考える時間を減らし簡単に済ませたほうが効率的なはずです。しかし、なぜ設計者の多くがそうではなくクオリティのために自分の時間を捧げるようなことをするかというと、やはりお客さんに一番近い位置にいるからで、お客さんの満足度を高めることが最終的には一番自らの利益につながると考えるからだと思います。また、なぜ施工が簡略化して利益を出したいと思うかといえばお客さんからの距離が遠くなってしまっていて利益を出す構造がそこにしかないからだと思います。(多くの公共工事の設計はお客さんの顔が見えないので効率を求めるような思考が強い気がします。また、お客さんの満足度をしっかり考える施工者が多いのも知っているので、意識の問題というより構造の問題かと思います。)

そうだとすると、中田製作所のように設計も施工もお客さんと横並びの状態に変えられた段階で先に上げた相反する構造は解消されるような気がします。皆がお客さんに近い場所で同じ方向を向くことができる。

自分のことに置き換えると、最近、つくりかたを変えていこうとする場合に、「お客さんの満足度を高める」ということを見失わずに、なおかつ利益を出すようなつくりかたをどうすれば実現できるのか、と考えることが多くなってきました。
今は設計監理料(という名目)の枠組みの中でできることを模索している段階ですが、もう少し大胆な方法もあるのでは、という気がしています。

時々ちょっとやり過ぎて自分の首を絞めたり、周りに負担をかけてしまうことがあるので何とか探り当てないといけないと思うところです。




ケンペケ02「建築の旅」光嶋裕介

kenpeke02

2月末にケンペケの2回目があり参加してきました。
今回のゲストは光嶋さん。

ケンペケとしてレビューを書いて蓄積していくということになったようで、今回のレビューにご指名頂きました。
(レビューアーは毎回変わるようです。)

感想等はケンペケホームページの方に書いていますのでご笑覧頂ければと思います。

レビュー02「建築の旅」光嶋裕介 | ケンペケカゴシマ

ブログで個人的に書きなぐることはありますが、こういう立ち位置で書くのは初めてなので結構大変でした。
ですが、いい経験でした。ブログもこれくらい読み返しながら書けばいいのでしょうが・・・。




ケンペケ01「建築のすすめ」山口陽登

kenpeke

12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。

ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。

アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html

SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。

SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou

食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
フェイスブックのイベントページより>

「環境」を面白がる

山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると

・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。

と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。

「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。

建築の不自由さ?

また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。

これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。

onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。

この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。

ケンペケに期待すること

鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。

こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。

とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。

そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。

とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。

なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。

最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。

あっ、レクチャーの動画貼っておきます。