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一歩の差

最近、更新が滞りがちなのでMEMOカテゴリーに逃げてみます。

独り言が多くなるかもしれません。

では。


たとえばその建築がキャラクターなり愛嬌なり色気なりを持てるか持てないかの一歩の差はどこから生まれるんだろう。

東京の学生時代に先生(後の勤め先の所長でもある)にちょっと手直ししてもらっただけでずいぶん飛躍したんだけども、何でだろう。そういう飛躍が出来てるだろうか。

いろいろあるだろうけど、例えばある要素や要望や機能がどうなりたがっているのか、どういう風に成長したり他の要素とくっついたりしたがっているのかを的確に読み取り育ててあげること。子供を褒めて育てるように。

もしかしたら生物のモデルが参考になるかもしれないと思っているけど、オートポイエーシスの本は何度も挫折してそのまま。




コスプレ

cospla.jpg
整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B077 『住宅70年代・狂い咲き』

篠原 一男他
エクスナレッジ (2006/02)

70年代、「野武士」達の時代。
個性のある作品が集められているというのもあろうが、この時代の住宅にはエネルギーがある。
建物が「人格(?)」のようなものを獲得しているようにも見える。

あまりに饒舌で押し付けがましいのは嫌われるかもしれないが、そればかりが人格ではない。
藤本壮介が篠原一男の「上原通りの住宅」を『地球のような場所』と評しているが、これも地球のように包容力のある人格を獲得しているという言い方もできるだろう。

マーケテイングを学んでいる友人にアカウントプランニングという手法では企業に人格のようなものを設定する、というようなことを教えてもらった。
何か通ずるものがあるように思う。

あまりに固定的な人格ではつまらないが、コルの建築のように複雑で、篠原一男のように懐の深い人格ができれば良いな。




B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永 譲、中村 好文 他
TOTO出版(2002/01)

2001年に安藤研がギャラ間で行ったコルビュジェの全住宅模型展に合わせて開かれた講座の記録。
(偶然にも僕はちょうどこのころ無理がたたって入院中で、病室でサヴォア邸やガルシュの家なんかの1/100模型をつくっていた…)

富永譲・中村好文・鈴木恂・八束はじめ・伊東豊雄がコルビュジェについて語るのだが、久しぶりのコルビュジェはとても新鮮で面白かった。
うーん、惚れなおす。

最初の方に出てくる写真や言葉を見るだけでため息が出てくる。

コルビュジェは戦略としてキザで大袈裟な物言いをしたという捉え方をしていた。
しかし、そういう側面はあるとしても、奥の部分にはやっぱり人間への愛情で満ちあふれているのだ。

そうでないと、こうも語りかけては来ない。

前にもコルについて書いたけれども、コル自信もかかえる小ざかしさや雑念を超えた大きな純粋さに心を打たれる。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

そういえば、日経アーキテクチュアの創刊30周年記念特集の対談(2006.4-10号)でも新しい世代の「抜けている感覚」の是非や身体性というものが語られている。
それは「知覚的」か「実存的」かという問題だろうが、僕なんかの世代の多くはそれらに引き裂かれているのではないだろうか。
「知覚」への憧れと「実存」への欲求。
その間にあるのはおそらく一見自由に見えて実はシステムに絡めとられてしまう不自由な社会であり、そこから抜け出そうとすることが僕らを引き裂く。

もっと若い世代だとその今いる地点から「知覚」や「実存」への距離はどんどんと拡がっているように思える。(特に「実存」への距離)
また、その距離に比例するように「知覚」への憧れと「実存」への欲求は深まり、さらに分裂する。

実存的建築家に学生なんかが再び惹かれはじめているのも分かる気がする。

それらを全く異なるもののまま同居させるコルの複雑性。
これこそがコルビュジェの魅力の秘密かもしれない。

あと、この本の伊東さんの話は相変わらず魅力的だったが、他にも鈴木恂の「屋上庭園とピロティ」を「(コルビュジェの例の)手と足」として捉えるところも面白かった。
建築を身体の延長として捉えるような感じ、擬人化やキャラクターを持つことへの興味はもしかしたらコルビュジェの影響かもしれないな。




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「中村好文・心地よい家はこうして生まれる」』


>>番組HP(NHK総合)

「どんな家が欲しいのか、依頼者にはわからない」
「主人公は『家』」
「悪条件にこそ突破口あり」

依頼者もまだ知らない要望を掘り出す。
そこにこそ設計者が依頼者と関わる意味がある。

『家』を主人公に持ってくることで、依頼者の、そして設計者の凝り固まったイメージを抜け出せるのだろう。

家が単なる欲望の結果だけでは息が詰まる。

家は単なる所有物であるのではなく、時には大きくつつみこむ父親や母親のような、時には共に楽しみを分かち合う兄弟や友達のような、互いに関係を築ける相手でなければつまらない。

『家』を主人公にすることで、ようやく家が関係を築けるような相手になれるのかもしれない。

「楽しまなければ心地よいものは生み出せない」

どんな状況においても楽しめる自分を維持し続ける才能こそが、建築家にとって最も必要なものではないだろうか。
[MEDIA]




展覧会など



今日はお目当てがあったので久しぶりにまちに出ました。

列車に揺られる気分を味わおうと思って谷山から汽車に乗ったのですが、快速列車に乗ってしまって失敗。
鈍行列車の雰囲気は中央駅から鹿児島駅までの一駅だけでした。
(ちなみに、鹿児島には市電が走っているので、市電を「電車」、JRの方を「汽車」と呼び分けるようですが、まだ僕は使いこなせてません)



ドルフィンポートでパンを買って海際の公園にレジャーシートを敷いて食べました。
昼寝をしたりとまったりと。
ドルフィンポートは出来てそんなにたっていないのに、土曜日の割には人が少なめでした。(少し曇り空と言うのもありますが。)
錦江湾に向かうのを強調するためあえて、まちに背を向ける構成は理解できますが、もう少しまちに向かって開いて、つながりを考えた方が良かったのではと個人的には思います。



その後、お目当ての展覧会に。
鹿児島出身の5人のイラストレーター&デザイナーが、戦後60年間の出来事を60枚のポスターで表現します。

出展している大寺さんのHPをときどき見ているのですが、そこで紹介されていて気になってたので観に来ました。



途中の階段にあったポスター。自画像でしょうか。



会場風景。5人それぞれの個性が見えてとても楽しい展覧会です。
90年代のできごとなどは、すごく懐かしい気がしたのですが、そんなに昔のことではないのですね。

展覧会のあと強く印象に残ったのはテロなどの悲惨な出来事が多かったです。
この60年間でもポスターの出来事から、だんだんとゆるさや隙間というものがなくなっていっていくように感じました。(単に昔のことにはノスタルジーを感じるだけかもしれませんが。)
感じ方は人それぞれ。
展覧会は明日(3/12)までですので、時間のある方は自分なりの60年を感じてみてください。
(会場は天文館タカプラ6階です)



その後、たまたま三越でも版画家の山本容子の展覧会をしていたのをみつけたので観に行きました。
山本容子は「誰でもピカソ」以外ではじっくり観たことがなかったのですが、ちょっとまいりました。
アナログのもつ奥行きの深さをまざまざと見せられた感じです。
描かれた一つ一つのキャラクターが、それぞれ独自の時間の流れをもっていて、その間の余白にもそれらをつなぐ空気や時間が流れている感じ。
独特の空気感や時間の流れに惹きこまれる。
作業風景のVTRもあったけれど、作品と作家の身体とが直につながっている。
いやー、まいった。
(こちらも13日までです。入場料500円の割には展覧会のボリュームもあり。)

イラストや版画の作品は、私たちパパラギの世界にも、ゆったりとした時間や、自然を感じる心や、笑顔やその他さまざまな豊かなものがあることを気付かせてくれます。(また、全く逆のことも示してくれますが)
建築もそういうものでありたいです。

今日は、途中で寄った本屋でずっと探していた本も見つかったし、充実の一日でした。
(身重の妻は大変そうだったけど、楽しかったようです)




メモ書き

一度、すべてを取り払う。そして、そこに意志を刻み込む。

視線の動き>断片によるモンタージュアフォーダンス連続する空間の中に空間の流れを図示する地図

あるべきものがない「虚」<→幾何学身体的感覚を研ぎ澄ます。 中庭スキマ大地を堰き止めつつ流れさせる。 超越性-中枢大衆性-公共性領域性-存在論流動性と領域性実存の形式 身体性拡張同調領域擬人化キャラクター テクスチャー・カオス・フラクタル・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 収縮と発散・フュージョン・突き抜け・合流




W002 『都城市民会館』

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□所在地:宮崎県都城市
□設計:菊竹清訓建築設計事務所
□用途:市民会館
□竣工年:1966年

[gmaps:31.721021650841944/131.05908393859863/17/460/300]都城市民会館[/gmaps]

菊竹清訓のメタボリズムを体現するような作品。

これも、『今となってはどうかな』などと思っていたのだが、さすがに良かった。

早朝だったため内部は見れなかったが、その力強い外観には感銘を受けた。

宮崎駿のアニメに登場しそうな、生物とも要塞とも見える今にも動き出しそうな姿には愛着を覚える。

建物がキャラクターを持つと言うのは大切に思う。

その建物に感情移入できることで、自分の意識と建物の間に関係が生まれ、空間の感じ方に少なからぬ影響を与えると思うのである。

建物に生命を吹き込むと言えば大げさであるが、そんな大げさなことも大切ではないかと思い出しているこのごろである。

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追記(‘07.05.01)
再度訪れてみたけれどもやっぱり傑作。
ほぼ取り壊されることが決定しているようですが残念でなりません。2007.04.29の段階ではまだ外観は見れました。壊される前に是非一度訪れてみてください。(内部は休館になっています。)
新しく出来た施設はどこにでもあるような”いかにも施設”という建物。こうやって都市の中から記憶がなくなり、どことも区別のつかないフラットな都市になっていくのでしょう。
あー、やっぱり残念です。建築がいつも政治の道具ぐらいの扱いなのが悔しい・・・

追記(‘07.05.22)
まだ、存続の可能性は残っているようです!
ここに動向が載っていました。

追記(‘07.10.30)
解体予算可決から一転、大学施設として活用されていくことになりそうです!
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