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開かれているということ B301『生きていること』(ティム インゴルド)

ティム インゴルド (著), 柳澤 田実 柴田 崇, 野中 哲士, 佐古 仁志, 原島 大輔, 青山 慶 (翻訳)
左右社 (2021/11/5)

コーヒーイノベートでのbooks selvaさんとのコラボ企画にて購入したもの。

インゴルドはこの時はまだ読んだことがなく、ちょうど読みたいと思っていたところだった。
パラパラとめくってみたところ、インゴルドがギブソンの生態学をベースとしているのがすぐに分かった。
この時は、自分がこれまで読んでこなかった分野のものを買おうと思っていたので、少し自分の関心に近すぎるかもしれないと迷いながらの、一種の賭けとしての購入だった。

結果的には、本書はまさにこの時探していたもので、賭けに勝ったと言って良いかもしれない。

この時の関心は、デカルト的二元論に対比する形でのアニミズムを、ぼんやりとしたスピリチュアル的な言葉ではなく、存在論や認識論として説明できるような言葉を探していたのだ。

ここからは、本書を読んで私なりに掴めたであろうことを書いておきたい。(スケッチは本書の押絵を参考に、自分の解釈も交えて書いたもの。)

ネットワークからメッシュワークへ

本書を読んだ印象では、インゴルドは線の思想家である。

この線は本書のタイトルである「生きていること」のメタファーであるが、これまで私が考えてきたことの中では、オートポイエーシス的な”はたらき”、という考え方が近い。

A. 生命はオートポイエーシスな視点から「ぐるぐるとサイクルをまわしながらはたらき続け、そのはたらきによって自分と自分以外の境界を作り出すシステム」と捉えられると思う。左の図では、円環をなすはたらきによって、生物の境界が生まれている。

B. しかし、Aでは境界が明確なため、内と外という構造的な印象が強すぎるかもしれない。それよりは、はたらきの周りに要素が絡み合って、一時的にはたらきがまとまりを生み出しているというイメージの方が適切だろう。オートポイエーシスはシステムであって、構造ではないし、内側を他者が通り抜けながらその時時に構造が生成し続けるイメージはトポロジー的にも良さそうだ。

私は有機体(動物や人間)を、環境に取り囲まれる境界づけられた存在者としてではなく、流動空間における境界のない線の絡み合いであると結論付けたい。(p.163)

C. ここで、線の思想家であるインゴルドは、この円環を”開く”。開かれた線は、オートポイエーシス的なはたらきがより鮮明になり、そこにはもはや、明確な境界はなく、生命は世界の中に泳ぎだしている。しかし、その遊泳は決して孤独な旅ではない。それどころか、他の線と密接に絡み合いながら、躍動感に満ちた世界をなす存在となる

D. このいくつもの線が絡みあった世界がメッシュワークである。ここでは、生命は、境界に囲われた”対象”ではなく、はたらきとしての線そのものである。

E. 一方、メッシュワーク的な世界観と比較されている、ネットワーク的な世界観では、線は点と点を結ぶもの、すなわち関係性・構造を示すものであり、はたらきを示すものではない。ここでは、結ばれる点はそれぞれ独立した”対象”、境界に囲われた存在として描かれる。本書には、アリ(ANT:Actor-Network-Theory を想起させる)とスパイダー(網:インゴルド自身を想起させる)の寓話が載っているけれども、アクターネットワーク理論オブジェクト指向存在論に感じた、静止した印象はアクターやオブジェクトが境界づけられた”対象”として捉えられていることによるものなのかもしれない。(といっても、この印象には誤解が含まれているであろうことも承知している)

メッシュワークとアニミズム

このメッシュワークの世界観においては、”開かれている”ことが決定的に重要である。

先程、円環のイメージが開かれて流れる線になったように、”開かれている”ということは、対象化されていない、すなわち境界によって世界から分離されていない、ということだ。

一般的に、動物は意識を持たず、本能によって生きているとされる。一方、人間はデカルトが身体と精神を分けたように、意識をもち、世界を捉えることができるようになったとされる。
これは、人間が世界および自らを対象化することで世界から分離したといえる。このことによって、人間は世界をはたらきのメッシュワークとしてではなく、構造としてのネットワークとして捉えることになった。
人間は世界を対象化し、眺めることで”開いた”ようにみえて、逆に境界に閉じこもるようになってしまったが、動物は世界から分離されていない、すなわち”開かれた”まま、世界を生きている

ここでなにも、人間が動物に劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、ネットワーク的な世界観(この世界観を持っている期間は、人類の長い歴史の中では一瞬のことである。)では見落としてしまうこと、感じられないことがたくさんあり、そのような静止した世界観に生きるのは単純にもったいないような気がするのだ。

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

ここで、本書を購入する当初の関心であったアニミズムについて考えてみよう。

アニミズム的な世界観では、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物がまるで生きているように語られることがある。私たちは、このことを未開文明の無理解だと切り捨てがちであるし、このイメージが私自身、アニミズムという言葉を使うことをためらわせもする。
しかし、本当にただの無理解だと切り捨てて良いものだろうか。もしくは、私たちには理解できないものなのだろうか。

インゴルドはアニミズムに対する捉え方は二つの誤解を招いているという。

第一に、私たちがアニミズムという考え方で扱っているのは世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件である。(p.168)

つまり、アニミズムとは世界の構造を理解する方法ではなく、世界に生きるための方法である
ここに、根本的な食い違いがある。デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。しかし、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。むしろ、ここには世界の構造について知ることだけに腐心し、世界のなかで生きる方法を置き忘れてしまった私たちにとって大切な何かがある。(と、書くとスピリチュアルな印象を持たれるかもしれないと、ためらってしまうけれども、おそらくこれは、客観的なファクトである。)

第二の要点は、むしろアニマシーとは、人のようなものであれ物のようなものであれ、あらゆる種類の存在が連続的かつ相互的に違いを存在せしめる関係の全体からなる、ダイナミックで変化する力のある潜在性であるというものである。要するに、生活世界のアニマシーは魂をサブスタンスに注入した結果でも、エージェンシーを物質性(materiality)に注入した結果でもなく、むしろ存在論的にそれらの差異化に先立つものである。(p.168)

ここで再び先程の、D.メッシュワークのイメージを見ていただきたい。
この中の1本の線が私が生きているというはたらきである。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中をそれらに応答しながら通り過ぎることである。世界をなすそれらの線は、時には自己という境界の中と思っている領域を影響し合いながら通り抜けさえする。

この時、これらの線は生命であるとは限らないし、その必要もない。むしろ、アニミストがそうするように、すべてを生きているように捉えた方がイメージしやすいかもしれない。

本書では、〇〇している、というような表現が何度も現れる。
風が風している。雷が雷している。石が石している、大地が大地しているなど、その存在そのものとはたらきに注目し、名刺を自動詞のように捉えることで、これまでの存在論的な捉え方を反転させる。(よくよく考えると、これはアニミストのやり方とあまり変わらない。)

このように、生物、無生物を問わず、それらさまざまなはたらきが、線として複雑に絡み合いながら、世界(メッシュ)をなしているのがメッシュワークであり、それらは私の線の流れと不可分な存在として相互浸透している。
(これについては後で少しだけ触れるけれども、さらに、知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる。)

このイメージを頭に描けた時、これまで学んできた生態学やシステム論、その他もろもろと、事務所移転してからここ一年での経験が、一挙に結びついて確信のようなものに変わった気がする。
もはやアニミズムという言葉を使わなくても良さそうだけれど、アニミズムは、現代人にとって、分断の思想をつながりの思想へ、知るための方法を生きるための方法へ、静を動へと反転するヒントなのだ。(もちろん、アニミストの解像度や知恵には遠く及ばないだろうが。)

また、この確信のようなものは、建築のイメージにもを何らかの確信を与えてくれそうな気がしている。

土と風 ~陸を海する

建築そのものが、境界もしくは対象としてではなく、一本の線としてメッシュワークの中を生きる。そんな、生きていることとつながっているような建築のイメージが湧く。
それは、建築を、本書の意味で”開いていく”ことにならないだろか。つまり、建築を世界の中のはたらきに溶け込ませていくのである。

それをうまく実現できるかどうかは置いておいて、そのイメージにはこれまでにはなかったような手応えを感じるけれども、この手応えはおそらく、机上の蓄積からだけでは決して得られなかったように思う。
ここ1年、生活に変化を与えてみた実感として(それこそ、世界のなかで生きる方法として)、直接的に感じたものが支えになっているのは間違いない。

その中でも、最近少しだけ触れることができた、大地の再生のアプローチの影響は大きいかもしれない。

大地の再生や、建築でも最近話題になっている土中環境。どちらも、地上、上空、地下、それらの領域をまたいで、そこに本来備わっていた、水や空気、生物などによる循環を再生しようとする実践である。
この実践に触れて感じられたのは、さまざまなものが相互に影響を与えあいながら生きている(成立している、と言っても良いけれども、ここはアニミズム的な意味で生きている、と言ってみる)という、自然の壮大かつ緻密で不可思議なシステムである。
それは、私がこれまで感じとれていなかったものだけれども、いざ触れてみると、想像を遥かに超えたつながりがあることが少しづつ見えてきた。

ここ最近、単体の生命のイメージは少し掴めてきたところだ。次は、それらの壮大なつながりを大局的なイメージとして手繰り寄せるような概念がないだろうか、と生命科学や物理学などの分野で探していたのだけど、たまたま読んだインゴルドのメッシュワークのイメージは求めていたものにかなり近かった。

といっても、大地の再生や土中環境がみている風と土の関係が、最初からしっくり来ていたわけではない。
そもそも、風にしても土にしても、それを見るための目を持ち合わせていなかったし、風は地上の話で、土は地下の話と切り分けて考えることから抜け出せず、それらの間の関係にはどちらかというと半信半疑だったのだ。

ここで、本書に戻る。

本書では、大地と天空についての考察にかなりのページが割かれている。
それは、私がそうであるように、それらに対する見る目を多くの人が失っているからかもしれない。

F. 多くの人にとって、大地は自分たちを支える、固まった台のようなもの、単なる固形物で、天空は私たちの上部を覆う空虚なもの、というイメージだろう。そこでは、人は大地や天空と切り分けられた存在であり、大地や天空は、その”対象”としての存在を支える背景でしかない。

ここでインゴルドは”陸を海する”ことを提案する。
陸上で生活する私たちは、例えば陸から海を見た時に、陸の視点から海を理解しようとする(海を陸する)。
では、逆に海の視点から陸を理解しようとする(陸を海する)と何が起こるだろうか。

G. この視点によって、大地は単なる個体としての台ではなく、そこにはたくさんの生命があり、水や空気が循環し、不断の運動と変化の中にある、たくさんの線として世界を形づくっていることが見えてくる。同様に、天空は単なる空虚ではなく、風が吹き、鳥が飛び、さまざまな音が満ちている世界の一部であるとともに、大地と天空とはたくさんの線によって結びついている。(ここで空気や水、土などは、メッシュワークの線の流れを保証する、地の部分、メディウムでもある。)

このようなイメージのもとに世界を眺める時、今まで静止していた世界がとたんに動き出すように感じるけれども、大地の再生などで感じるのはまさしくこの感覚なのだ。

これまで、大地の再生や土中環境といった時に、なぜそれをやるのか、ということに明確に答えられる言葉を持っていなかった。
土中環境とかって、流行っているからやっているのだろ、と言われると返答に困っていたかもしれない。

では、今ならなんと答えられるだろうか。
これらの実践は、風が風するため、土が土するためであり、静止していた世界を再び動き出させるために行うのだ
それは、世界(メッシュ)を形づくっているいくつもの線を感じ取れるものに変え、私たちの生を再び動き出させることでもある

建築することが、ささやかであってもそれらの再始動に関わることができたとしたら、そこに住む人の住まうことがより満たされたものになると思うのである。

物語と技術

最後に余談というかメモとして。

先に、「知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる」と書いたけれども、これはどういうことだろうか。

インゴルドは知識や技術、物語といったものは、複製物として人から人に伝達されるようなものではないという。
人は、世界の中に線として編み込まれた知識や技術、物語に出会うことで、それらを実践的なプロセスを通じてその都度、再産出するのである。
(これは、ギブソンの理論を人間を取り巻く社会的な環境へと拡張したリードの理論に近いし、私が以前書いた『出会う建築』の考え方にも近い。)

このことは、技術の伝承の問題や教育の問題とも関わりがありそうだ。

技術が失われることは、複製物としての知識や道具が失われるというよりも、それを獲得するための一回性の形成の機会が失われる、ということだろう。それどころか、形成の体験そのものの機会が失われているともいえる。
『出会う建築』に関連付けて言えば、その出会いと形成そのものに喜びがあり、その機会を生み出すことも一つのテーマとなりうると思うのだ。




生命、循環とエントロピー B294『エントロピーから読み解く生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命』(佐藤 直樹)

佐藤 直樹 (著)
裳華房 (2012/5/20)

循環をエントロピーの視点から捉えたかったのと、生物の循環に対するシステムに大きなヒントがあるはずと考えていたため、本屋で関連がありそうな本を探して見つけたもの。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。 しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。 本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。 その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。 そんなことに今、可能性を感じつつある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

ここでも、日本のこれまでの伝承形式の限界を感じる。(知恵や技術が伝承される際、その意味や目的が、様式に埋め込まれた形で背後に隠れてしまうため、様式が変化すると意味や目的も同時に極端な形で失われてしまう) この2冊はその意味や目的を再度問い直すものであり、多くの共感者(特に若い人たち。今では建築の学生でも土中環境と言う言葉を使う人が増えているように思う。)を生んでいるのは、心の何処かで違和感を感じて納得できる知恵を求めている人が多いからかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 水と空気の流れを取り戻すために何ができるか B280『「大地の再生」実践マニュアル: 空気と水の浸透循環を回復する』(矢野 智徳))

循環のイメージをよりクリアにしたい、とのことで本書を読み始めたけれども、前半はエントロピーという言葉はほとんど出てこず、生物学的な基本的な構造の説明が主だったため、門外漢の私にはなかなか入り込めなかった。
これは買う本を間違えたかな、と少し思いつつも読み進めると、後半、前半で読んだことが一気につながって、最後には大きなヒントが得られたように思う。もしかしたら、これまで生命をオートポイエーシスシステムとして捉えていた中で、足りていなかったもう一つの重要なパーツを埋めることができたかもしれない。

めぐり、めぐむ わきあがる生命とオートポイエーシス

本書のサブタイトルは「めぐり、めぐむ わきあがる生命」である。
「めぐる」とは、さまざまなものが循環するサイクルを、「めぐむ」とはそれらの多様なサイクルが互いに関係しあい、何かを渡しあっていること(共役)を、そして「わきあがる」とはそれらのめぐりめぐむ多数のサイクルが、全体としてもう一つ上の階層のサイクルとしてめぐりはじめることを示している。

本書では、分子レベルから、細胞や生物個体、生態系や地球環境など、さまざまなスケールのサイクルを示す図が多数取り上げられている。

例えば

▲光合成を行う植物と、呼吸を行う動物の間の循環がイメージできる図。
植物の光合成では、太陽からエネルギーを得ることで二酸化炭素を糖(炭水化物)に変える。そのための還元剤は水が酸化し酸素を生じさせるもう一つのサイクルによって機能する。
一方、動物の呼吸では、糖が酸化し、二酸化炭素へと変わる。そのための還元剤は酸素が水へと還元されるもう一つのサイクルによって機能し、その際にATPにエネルギーが蓄えられ、動物の様々な活動に使われる。
二酸化炭素と糖、水と酸素の2つの循環が、太陽からのエネルギーを形を変えて受け渡す。



▲炭素と窒素なども循環している。窒素固定を行える生物は根粒菌やシアノバクテリアなどに限られ、窒素固定のシステムは地球の生命の歴史の中でただ一度しか発生しなかったのではと言われているそう。


▲太陽から始まる地球のエネルギー収支はおなじみ。

本書はこれらの、めぐり、めぐむ、わきあがるサイクルから生命とは何かに迫ろうとするのだが、これらは、はたらきが駆動しつづけることで境界をつくりだすオートポイエーシス・システムと、それらのカップリングにより、より上の階層のオートポイエーシス・システムが駆動すること、と考えられるな、と思いながら読んでいた。(本書ではオートポイエーシスについては触れられていない)

しかし、本題はここからで、そのイメージに足りていなかったパーツが埋められることになる。

不均一性と生命

生命をオートポイエーシス・システム、もしくははたらきと捉えることで、生命の独自性をイメージすることができるようになる。
自走するはたらきを内にもつことそのものが生命を生命たらしめているのである。

しかし、それがなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということは、欠けたパーツとしてイメージを持てておらず、そういうものだと思うしかなかった。

そこで不均一性、エントロピーが登場する。

不均一性とは、エントロピー差のことで、秩序だっていることである。
秩序は一見、均一性を持ちそうなイメージがあるけれどもそうではない。世界は必ず、不均一な状態から均一な状態へと移行しようとするが、それに抗って、不均一な状態を維持すること、いわば不自然な状態を維持することが秩序である。
そして、秩序は不均一な状態から均一な状態へと移行する能力を持っている。エントロピーが小さく、エクセルギーを持つ、とも言い換えることができる。

ここで、結論を言うと、生命とは、エントロピー増大の法則に抗って、不均一性を維持するシステムなのだ。そして、この抗う力はやはり太陽から得ている

生命は、一つは、光合成によってエントロピーを減少させることで、システムを駆動する力(エクセルギー)を得ていること、もう一つは、その駆動力の一部をつかって、システム自体の構造を生み出す力を生み出すこと(遺伝子情報の複製・利用・変異)、の2つによって、オートポイエーシス・システムの自走を可能にしたものであるといえる。
(本書では、情報そのものが不均一性である、と書いているが、そこは明確には理解できなかった。おそらくここが重要なポイントだと思うので今後の課題にしたい)

光合成によって生じた不均一性は、めぐりめぐむサイクルの中で他のサイクルをめぐり、そして上の階層のサイクルへとめぐりめぐむ。その循環が、分子レベルから個体、さらには生態系へとめぐっていく。それらはいずれも、常に均一へと至ろうとする世界の中で、それに抗い不均一な状態を生み出そうとする営みである。(そういう意味では、生命ほど不自然なものはないかもしれないし、その不自然さが生命に何か不思議な力を感じさせるのだろう。)

さらに、生命の進化もこの不均一性を生み出す営みの中で説明される
秩序を持った遺伝情報は、秩序を失い、多数の変異多様性へと向かう。その大量の多様性の中から選択されたものが新たな種へと固定する際に、情報のエントロピーは減少する(秩序が生まれる・不均一性が増す)。
進化とは、一見多様性が増し、エントロピーが拡大するように思えるが、全体を見ると、生命が不均一な状態を生み出そうとする営みの一つとすることができる

また、著者が、エントロピー差もしくはエクセルギーのことを「不均一性」と呼ぶことには意図があるように思われる。
エントロピーもしくはエクセルギーと言った場合、何かしら機械論的・直線的に全てが決まる印象があるけれども、(これも物理的には説明ができると思うが)世界には確率論的な揺らぎがあり、階層的なシステムは複雑系としての単純化できない何かがある。その何か不思議さのようなものに対するニュアンスを、生命に対する敬意も含めて「不均一性」という言葉に込めているのではないだろうか。

いずれにせよ、生命がなぜ、駆動し、自走し続けるのか、ということに新たなイメージを得られたことは大きな収穫だった。結局のところ、地球というシステムはすべて太陽からの恵みを循環させることによって成り立っていて、それに対する敬意はやはり失くしてはならないのだろう。そして、そのイメージをクリアにするためにエントロピーという概念は有効に違いない。

余談 資本主義について

本書では、生命の原理に迫ることにとどまらず、最後は、そこから「不均一性の哲学」と呼べるものを描き出そうとしている。(それはまだ体系的なところまでは行っていないが、それを素描することが本書の本当の目的だろう)

その中で、一部、経済格差についても触れられている。

本来、放っておけば、お金はみんなに均等に分配されそうなものだが、こうしたエントロピー的な均一化する力に対して、経済を活性化しようとする力は富を不均一化し、大きな富をもつ者を少数生み出す。これは「温度」が高いことに相当する。これでわかるのは、経済が活発で好景気のときには、全員が豊かになるのではなく、貧富の格差が拡大するのである。(p.194)

こうしてみると、格差を拡大しようとする資本主義は、エントロピー増大の法則に抗い不均一性を維持しようとする生命の本性に従うものなのかもしれない。

資本主義が、どこかで循環を可能とする持続可能性を獲得するものなのか、それともがん細胞のように循環の原理を無視した一種のバグだったとなるのかは分からないが、生命とエントロピーの視点の中に位置づけられたことは一つ視点を上げられたかも知れない。自分がどう向き合うかは別にして、繁栄も破滅もおそらく地球の営みの中の一つに過ぎないのだろう。

著者の言う「不均一性の哲学」とも呼べる視点を獲得することには大きな可能性を感じるので、引き続き関心を持っていたいと思う。(エントロピー経済学に関するものも一度は読んでみよう)


一生のうちに一度は、こういうものを結晶化させたものをつくりたいけれども、そればかりは機会を待つしかないな・・・




不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄)

下西 風澄 (著)
文藝春秋 (2022/12/14)

前から気になっていた本書をようやく読むことが出来た。

心という発明と苦悩

そこで本書は「心とは一つの発明だったのだ(one of the invensions)」という立場を取ってみようと思う。(p.18)

本書では、多くの人にとって自明な存在であると捉えられている心・意識が発明されたもの、つまり自明な存在ではなかったという立場の元、その創造と更新の壮大な歴史が描かれていく。
まずは、西洋編を中心としてその大枠を(メモとして)自分なりに簡単にまとめておきたい。


はるか昔、ホメロスの時代では心は風のようなもので、必ずしも自分だけのものではなく、世界は「神-心-自然」が混然一体となった海のようなものであった。

しかし、ソクラテス(BC469/470-BC399)が統一体としての制御する心を発明した。
心は肉体の主人であり、世界を対象化し照らす光となった。
ここに哲学が誕生するとともに、心は矛盾を抱え、対象化された世界は無限の暗黒と化した。
現代にまで続く心・意識の不安との格闘の歴史はここから始まったのかもしれない。

時代は変わり、科学と合理性が様々なものの根拠となった近代において、心のフォーマットを書き換える必要が生まれた。
デカルト(1596-1650)が精神と身体を分割し、世界が私を基礎付けるのではなく、私から世界を基礎づけようと試み、心をあらゆるものの主人たらしめようとした。
パスカル(1623-1662)は無限に拡がる宇宙・世界と神の間の不安に耐えられず、狂気に陥った。神は姿を消す際に「労働する心」と「消費する心」の二人の落し子を残し、その間を行き場なく彷徨う心を生み出した。
そして、カント(1724-1804)は心を人間にア・プリオリに実装された空虚な形式・システムとして捉えた。
無限な世界を照らすことを諦めるのと引き換えに、心を情報処理の機械とみなし、現代に至る脳やAIのモデルの原型を生み出した。

私たちはもはや、心を通さずに世界を感じることができなくなった。

一方、フッサール(1859-1938)が現象学として世界を主体以外の身体・他者・環境との関係性に開き始める。
ハイデガー(1889-1976)はフッサールの意識の特性を、ささやかな事物たちのネットワークに参加するふるまい・行為として読み替え、意識と世界の循環へと歩み始める。

心と生命との出会い

ここまでは、ソクラテスによって生まれた心・精神と世界との分離による不安の歴史であるが、心は、さまざまに揺れながら、本書における一つの到達点へと至る。
ここからは、自分なりの解釈も含めつつ書いてみたい。
(本書は、現代に至る精神の歴史を辿るもので、そこに何かしら結論めいた重心があることは以外だった。
 むろん、それも歴史の揺れの一つの地点でしかない、一つの描き方にすぎない、ということが前提として共有されてのことだと思うが。)

心を空虚な情報処理システムとして捉える方法は、現代の神経科学やAIの発展ともつながり、私たちに明確なイメージを与えた。
しかし、この私の心はなぜ存在するのか、なぜ私なのか、という「主観性の幽霊」はかえって理解できないものになってしまった。

その幽霊を救い出したのが、ヴァレラ(1946-2001)及びメルロ・ポンティ(1908-1961)である。
彼らが、意識や認知がどこから立ち上がってきたのかの原点に立ち返ることで、心は生命(システム)と出会うことになる。

そこには、存在に対する問いそのものの位相を書き換えるような転換があった。
それを、自立・自律という言葉で考えてみたい。
オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-二十一 距離感―自立と自律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。 分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。 では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。

構造としての自立、システムとしての自律の2つを考えた時、「主観性としての幽霊」は、この心はどこに存在するのか、という、自立/構造に対する問いであったように思う。
それをヴァレラは、心はどのように存在するのか、という、自律/システムに対する問いに書き換えた。
ここに大きな転換があったように思う。

私は、オートポイエーシスを「はたらき」に対する理論である、と捉えているけれども、はたらきに対するこの「感じ」を掴むのは、実は世界を構造として捉える意識が染み付いてしまっている私たちには簡単なことではない。

オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。 『簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100) 』 いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

これを掴むには上記の本を、掴めないのを我慢しながら読んでみるとよいと思うが、ここではとりあえず、「はたらき」の発見・発明がヴァレラにあった、と想像してみてほしいし、さらに言えば、その発見は想像しているよりもダイナミックなものだとイメージしてほしい。

ここにおいて、フッサールやハイデガーが準備した世界とのつながりが、生命そのもののはたらきとリンクし、こころは世界(身体・他者・環境)と溶け合いその都度立ち上がるものとして躍動しだす。

世界と切り離されることで「不安」の源であった心を、ヴァレラとメルロ・ポンティは、世界とのつながりの最中に生まれ躍動するもの/生命へと書き換えたのだ。
(そして、私が20数年間、オートポイエーシスやアフォーダンスに関心を抱き続けてきた理由もここにあるだろう。)

先に書いたように、本書に何かしら重心があったことも、それが(今となっては古典的に捉えられかねない)ヴァレラにあったことも、とても意外であったが、現代的な課題がここに潜んでいる。

身体性と技術の不在という問題

メルロ・ポンティはパスカルが宇宙と意識の間の欲望と不安に引き裂かれ、狂気に陥った原因を身体性の不在にみた。
これは、身体性と世界とつながる技術の不在化が突き進む現代的課題と言えるかもしれない。最近のこのブログの言葉でいうと、我々は解像度を高める遊びの欠落によって、世界とつながる技術と身体を身に着けられないまま大人になってしまうのではないか。ヴァレラが救い出した躍動する生命としての心が再び幽霊に囚われてしまうのではないか、という疑問・課題である。

それは、本書の日本編で浮かび上がる視点でもある。

西洋哲学の最果てにあったその心の有様、それはもしかすると東洋の日本における最初にあった心の模様と親しいものではないか。心の歴史はもしかすると、どこかぐるりと円環を描くように時間と空間を超えて、何度も繰り返すのではないだろうか。(p.303)

日本編の冒頭にある上記の文は、日本編で中心的に扱われるであろうと予想し、かつ期待していたものであった。
しかし、むしろ本書から浮かび上がるのは分断の苦悩の方であった。

人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することが出来たのだ。(p.314)

心がはじめから与えられたものではなく、むしろ反復する学習プロセスそのものであるとするならば、心とはその振る舞いを実践するためのある種のテクノロジー(技術/技法)そのものでさえあるのだ。(p.336)

しかし、江戸末期から明治にかけて生じた近代化の運動は、心から自然を切り離し、心と世界が一体化して響き合っていた魔術的な世界を物質的で均質な対象へと解体していくプロセスであった。(中略)日本では、鳥の声、花の声、波の声が聞こえなくなった時、自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた。(p.346)

最近、地方に片足をつっこみ行き来する中で感じたのは、やはり身体性と技術の不在である。(これは自分自身もそうである。)
その実感をもとに仮説をたててみる。

日本人が世界と一体化するような世界観を獲得できたのは、言葉と振る舞いの型、心の学習プロセスが膨大な時間をかけて形成されてきたからであり、それが生活の中で強く根付いて来たからではないだろうか。前者に関しては、日本に限らず古くはどこでもそうであったろうと思うが、後者に関しては自然への信頼などもあって、日本においては比較的強い傾向としてあるのではないか。

しかし、そのことは前者が失われた時に逆に大きな負債になりうる気がしている。

環境に存在する学習プロセスが変化したとしても、そこへの信頼が厚く、自分で考える習慣が薄れているため、疑問を持たないまま突き進んでしまう。そういう傾向が強いのではないか。そう感じることが多い。
「自然は沈黙し、新たなる自律的な心を創造する必要が生じた」けれども、心を書き換えようとした一部の人は漱石のように分断の苦悩を背負い込むことになってしまった。(先の話を当てはめると、自律的な心、よりは自立的な心、だろうか。)

これに対し真っ先に考えられるのは、さらなる、新たな心のあり方を想像する、ということになると思うが、ここまでの流れを前提にすると、違う道筋が見えてこないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。

日本の世界とつながる資質は、現代では、分断の苦悩もしくは無自覚な邁進を生むと仮定した場合、それを短所として隠そうとするのではなく、長所として取り戻し伸ばそうとする道筋。
そういうものがありえないだろうか。

二拠点居住をはじめた意味を後追いで日々考えているけれども、自分はそういう可能性の方に加担したいと思っているのではないか。本書を読んでそんな気がした。
(アフォーダンスについてもいろいろ書きたいことがあるけれども、長くなりすぎたので割愛)

拡散と集中

本書がこれまで辿ってきた精神の歴史は、心の《拡散》と《集中》の歴史であると言いたい。(p.442)

さて、本書の終章は「拡散と集中」である。これは、奇しくも私が学生の頃に建築・空間について考え始めたときにぶつかった問題であり、その後ずっとそれについて考えざるを得なくなった問題である。(私の場合は収束と発散)
オノケン│太田則宏建築事務所 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。

統一化した心というメタファーが、心のコストを抱えきれないほど大きなものにしてしまい、拡散と集中の間を揺れ続けることになったが、ヴァレラとメルロ・ポンティはそれを行為の循環の中にほぐしていった。

彼らの到達点がこの問題を乗り越えられたのか、というのは分からないけれども、不安の解消よりは、生命の躍動の方に賭けてみてもいいのではないか。もしかしたら、その躍動の中には拡散も集中も含みこまれるのではないか。そんな気がしている。

余談

余談になるが、本書がこういうことを書いているらしい、と知った時、最初に頭に浮かんだのは、日本のオートポイエーシスの第一人者である河本英夫であった。
このブログでも何度か取り上げている動画で、氏が本書の構想によく似たものを書きたいと言っていて、密かに心待ちにしていた。

つまりね。鳥の羽見ててあれ体温調整にも今も微弱では使われてるんだけど、何かが出現してきてそこから全然別のもの
に変わっていって自分の前史というものが、組み込まれて再組織化されて別の形になっていく。
そうすると通常意識と呼んでいるもの。
通常意識と呼んでいるものも、相当に大きな形成段階を経て別のもののところに来たのではないか。という可能性がある。
そうするといわゆる意識の起源史。これもうちょっと道具の作成からやらなきゃいけないんだけど、つまりこんな風に考えるわけ。
意識を通じて世界をどのように知ってきたかではなくて、その世界の知り方が意識そのもののあり方、経験のあり方をどのように変容させてきたかの歴史がある。
その歴史を書いたものはまだ世界中に一人もいないし、多分一番最初にかけるのは村上先生だと思ってるけれども村上先生は書いてくださらないのでしょうがない、僕が死ぬ前に必ず書く。
つまりね。
違うんですよ世界をどう解釈し世界をどう知ろうとしたかという現代的な、どのようにして知るかというところ投げかけて、意識のあり方を再編成しちゃってるの。
そうではなくて、経験の仕組みってはもっと違う仕組みで成立してたものがどんどんどんどん変わってきて。
そうするとなぜ哲学者がここに並ぶのかっていうと、哲学者が相当に大きなその方向づけを与えてしまったってことなんです。
で、気づかないほど再編成、意識や経験というものを再編するようなそういう方向づけを与えてしまったってのはどうも実情らしいんですよ(02:04:30あたりを文字起こし。聞き取りを間違ってる可能性あり)

著者と河本氏に関連があるのかな、と思ったけれどもよく分からなかった。偶然、本書が似たテーマを選び、ヴァレラにフォーカスしてたとしたら、面白い。




現場の物語と施主自身の物語への想像力を保ち続ける B232『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』(稲垣諭)

稲垣諭(著)
青土社 (2018/7/23)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928-)&ヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。 氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也))

という経緯で買ってみたもの。
本書は哲学的視点を通して、臨床の現場の可能性を語るようなものであったが、内容や文体はかなり『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本英夫)に近いように感じた。(と、調べてみると、著者と河本英夫はいくつも共著を書いている。)

そういう点では新鮮さはなかったのだけど、『損傷したシステムは~』を補完しあうものと捉えると面白く読めた。(河本英夫やオートポイエーシスに馴染みのない方にとっては、新鮮に感じられるものだと思う。もしくは、意図することを掴みにくいか。)

本書では「哲学を臨床解剖する」として「働き」「個体」「体験」「意識」「身体」が、「臨床の経験を哲学する」として「操作」「ナラティブ」「プロセス」「技」「臨床空間」が章立てられている。

その中で、比較的新鮮に感じた「ナラティブ」の章について記しておきたい。

設計は臨床に似ている?

神経系を巻き込んだ人間の複雑な動作や認知機能の再形成には、解剖的、生理的、神経的要因だけではなく、年齢、性別、性格、職業、社会環境、家族構成と行った多くの変数のネットワークが介在してしまう。そのため、リハビリの臨床における治療の取り組みは自ずと、多数の仮設因子を考慮した上での「調整課題」もしくは「調整プロセス」とならざるをえないのである。調整課題とは、線形関数のような一意的対応で解が出るような問いではなく、多因子、あるいは他システムの連動関係を見極め、効果的なポイントに介入し、調整することで、そのつどの最適解を見出すような実践的、継続的アプローチである。(p.154)

建築士はときどき医者に例えられることがある。施主の思いや悩みを聞き、それに対してこうすれば良くなるというような回答を提出する。というように。

病気には何か明確な原因があり、科学的な因果関係を特定し、それを取り除くことで治療を行う、というのが医療行為の一般的なイメージだと思うけれども、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであると言う。なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方だ。

しかし、目の前の患者の個別的な状況に対応せざるを得ないようなリハビリの臨床のような現場では、EBMの確率が難しく、個別の問題にどう対応するかという課題がある。

ここで、医療のタイプに対応した建築士の3つのタイプを想定してみると、

(A)旧来の医療タイプ:明確な課題を設定し、それに対して分かりやすい解答を与えるような設計を行うタイプ。旧来の建築家像。
(B)EBMタイプ:データを用いて、統計的な判断により設計を行うタイプ。今後AIの進展により盛んになる?
(C)臨床タイプ:できるだけ多様な因子を取り込んだ上で調整的・継続的に設計をすすめるタイプ。このブログで考えてきた建築家像。

という感じだろうか。

明確にどれかに当てはまる人もいるかも知れないけれども、実際は状況に応じてこれらを組み合わせながら設計を行っているのが一般的かもしれない。
その中で、(C)のようなタイプの設計は臨床に似ている、と言えるように思うし、ここではその可能性を考えてきた。

それに関連して、『第7章「ナラティブ」-物語は経験をどう変容させるか?』について書いてみたい。

ここでは、物語を河本英夫が書いているような複合システムのサイクル(ハイパーサイクル)の間で駆動する媒介変数のように捉えているように思うが、2つの方向での遂行的物語について語られているようだ。

語りかけとしての遂行的物語

ここでの物語はその意味でも、単に教訓や寓話として読み聞かされるようなものではなく、経験と行為を再組織化するきっかけとしての「遂行的物語」とでも呼ぶべきものとなる。医療従事者として、「患者の経験に寄り添うこと」、「患者の経験を動かすこと」、「患者の経験に巻き込まれること」といった全てが、物語を媒介しつつ、治療プロセスに非線形的に関与する。そこには、表出される言動の背後で作動している、「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」といった多くの非意識的な変数が関連している。(p.160)

例えば、外科手術の前に、術後の痛みの状況や対応などについてのメッセージを伝えた人と、伝えなかった人とでは、前者のほうが術後に使用する鎮痛剤の量が半分に減ったそうだ。

これはいわゆるプラシーボ効果のようなものだと思うが、そこでは「生体システム」に加えて「心的システム」や「社会システム」といった複数のシステムが先のメッセージの物語をきっかけとして何らかのカップリングが起きたと想定される。

例えば、施主に満足してもらうことを一つのゴールだとした場合、施主の希望を叶えるために分かりやすい解答を与えるというのは、一つの方法であると思う。しかし、実際には、そういった対応をしたにも関わらず、最終的に満足してもらえない、ということもありうるのがこの仕事(どんな仕事も)の難しいところかもしれない。

引用分のようなコミュニケーションにおける「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」だけでなく、他の些細な希望の見逃しや誤解・説明不足、職人さんの挨拶や、現場の整理整頓・養生の方法、さまざまなことが一つの物語となって積み重なっていく。その結果、全く同じ建築をつくったとしても、喜んでもらえることもあれば、不満を与えてしまうといった両極端な状況のどちらもが起こりうる

なので、全てのことを完ぺきにこなすことは簡単ではないけれども、現場の方には、とにかく最後は施主の方を見て仕事をして欲しい、とお願いしている。

その時、その現場の空気をつくる物語(それは与えるだけではなく、ともに作り上げていくものとしての物語)がある、ということを強く意識してその物語を組立てていくというのは大切なことかもしれない。

自己語りとしての遂行的物語

システムの連動を貫くように体験される物語が、遂行的物語である。それは、当人が意識的、意図的であることとは関係なく、併存する複数のシステムへと新しい変数を提供し、間接影響を与えることが条件となる。それは同時に、その意味的文脈とは独立に当人の体験世界の変化につながるものである必要がある。病の経験を、遂行的物語として実行することは、それを体験するものが、みずからを別様な経験へと開いていくきっかけを手にすることを意味する。ナラティブ・アプローチにおける語りとその物語は、患者が語ることを他者が傾聴し、新たな物語として語り直すというプロセスを何度も潜り抜けさせる中で、当人の経験に新しい変数を出現させ、体験世界の再組織化へと届かせようとするものである。(p.163)

本書においての遂行的物語としては、こちらのナラティブ・アプローチが本筋かもしれない。

住宅系のイベントなどで、「私たちとともに 新しい生活のカタチを みつけませんか」というキャッチコピーを使うことがある。

例えば家を建てるとしても、ただ家を建てるという経験だけが残るのではなく、施主自身の新しい体験の扉が開いていくことへとつながるような仕事がしたいと思っている。
家を建てたという実感だけではなく、日々の気持ちの持ちようや張り合い、家族や社会との関係性や自然の感じ方など、さまざまなことが新しく感じられるようなものをつくることに、この仕事の意味があるように思う。

そのためには、こちらが語り、与えるだけではなく、施主自身が関わることによって、その語りや物語が変わってくるようなあり方を考え整えていくことが大切なのではないだろうか。

そういった2つの物語に対する想像力を日々保ち続けないといけないな。




世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

河本 英夫 (著)
新曜社 (2014/3/7)

だいぶ前に本屋で見かけてぱらぱらっとめくってみたことがあったが、ページ数も金額もそこそこだったのもあり、その時は「読むべきタイミングが来たら購入しよう」と思い保留にしていた本。

だけど、最近少し読み応えのあるものを読みたくなったので丁度よいタイミングかと思い購入してみた。

認識の知から、実践の知へ

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか? 観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』)

オートポイエーシスのシステムを実感として掴むには、上記の『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方(山下 和也)』が最適だと思うけれども、そこではオートポイエーシスシステムは観察も予測もコントロールもできない、とあり、それを個別の実践に結びつけるのはなかなか難しい。(正確にはオートポイエーシスとの付き合い方が描かれているが、この時はそこまで理解が及んでいなかった。)

しかし、著者(河本氏)はあくまで実践的な知としてオートポイエーシスを扱うことにこだわりその可能性を探る。その姿勢は他の著書講演でもたびたび語られているものだが、今回はさらに具体的に踏み込みその輪郭を描き出そうとしている。

ここでの、実践的な知へと踏み込むために採用された記述の仕方は、山下氏がブログで本著について指摘するように、オートポイエーシスシステムそのものを描き出すというよりは、そこに関わる人の行為を起点として体験や構造を描き出そうとするようなもので、オートポイエーシスそのものを理解するにはけっこう「わかりにくい」文章になっていると思う。

では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。それはおそらく本書自体がその答えとなっている

オートポイエーシスの第五領域と感触

カップリングは、それぞれ独立の作動を行うものが、相互に決定関係のない媒介変数を提供しあっている作動様式である。ところが現実のシステムの作動では、一方が顕在化し、他方が潜在化するかたちでの作動のほうがよりうまく作動が形成される領域が広範にある。(中略)システムの定式化から見て、構成素の設定が新たなかたちをとるので、このタイプのシステムを「第五領域」と呼んでおくことにしたい。(p.23)

氏はオートポイエーシスシステムを直接制御しようとするのではなく、この複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)の連動の仕組みに触れることで実践へとつなげる。

このとき、仕組みに触れるために耳を傾けているのが、「感触」である。
感触は未だ量化されていないような度合い・強度であり、行為とともにある
また、感触は認知能力の一つ(触覚性感覚)でありながら知ることよりも、むしろ行為に関連する

本書ではこの「感触」に加え「気づき」「踏み出し」を基調として考察が進められるが、その際、関連の深い領域として取り上げられているのが「触覚性感覚」「発達」「記憶」「動作」「能力の形成」の5つである。(それらは、それぞれ一つの章を与えられている。最初は順次論が進んでいくものと思い込んでいたけれども、それぞれ独自の領域として並列に描かれているようだ。)

ここでイメージされるのは、次のようなサイクルである。

まずある場面で、何らかの行為を選択し「踏み出す」。ここで経験が起動するが、その踏み出しは経験の可動域を拡げるようなもの、また行為持続可能性の予期を感じさせるものが候補となる。
「踏み出す」ことによって、行為とともに何らかの「感触」が起こる。これは「踏み出す」ことによって初めて得られるものである。
この「感触」は連動する顕在システムや潜在システムとの媒介変数となり、複合システムの中を揺れ動く。そしてその中で次の行為の起動を調整するような「気づき」を得る
その「気づき」は次の「踏み出し」の選択のための手がかりとなる

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける

このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。

臨床の実践と括弧入れ

それでは、臨床の現場では、どのような介入の仕方が可能か。
例えば発達障害などのリハビリ治療の場面では、目指されるのは能力の形成である。
これに関して少し長めになるが凝縮された部分を引用してみる。(ここで第一のプログラムとは、設計図がありそれをもとに家を建てるような目的合理的なもので、対して第二のプログラムは設計図はなく相互の関係性だけで家を建ててしまうようなシステム的・形成運動的なものである。)

 発達障害の治療では、観察者から見て、定常発達から外れた能力や機能の分析が行われる。そしてそうした能力や機能を付け足すように治療的介入が行われるのが一般的である。ただし、中枢神経の障害では、神経系は付け足しプログラムのような生成プロセスを経ることはないので、欠けている能力を付け足すような仕方は、まったく筋違いである。ただし治療である以上、治療目標を持たなければならない。
このような場合、直接能力を形成させようとしてもうまくいかない。この治療の目標の設定は、第一のプログラムに相当する。ところが第一のプログラムに沿うように治療設定したのでは、形成プロセスを誘導することはできない。そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。
 観察から導かれた発達の図式は、システムそのもの、個体そのものの行為を通じて実行されたことではない。それは結果として到達された事態を、時系列に配置したに過ぎない。だがそれは、現実の自己形成に疎遠な外的図式として、括弧入れされ、別の回路で形成されるべき「目安」として必要とされるのである。発達の図式は、観察者から見たとき、図式で示され、配置されてしまう否応のなさとして、治療設定の手がかりになるのである。実際に、治療目標が第一のプログラムに従って設定された場合でも、個々の能力形成のプロセスは、一つ一つ本人の行為的な選択肢が獲得される曲面をつなぐようにしてしかなされようがない。(p.137-138)

こうした括弧入れを本書では「システム的還元」と呼んでいるが、実際の世界では認識的な第一のプログラムがベースとなっていることがほとんどのため、形成プロセスのようなものを有効に作動させようと思えば、この「括弧入れ」が重要なスキルになってくるように思う。

では、「形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てる」とはどういうことだろう。先の感触の話とはどうつながるだろうか。

対象の形成プロセスに直接介入することはできない。とすると、できるのは、リハビリ治療に関わる複合システムの中の一つのシステムとして、「感触」「気づき」「踏み出し」を駆使しながら継続的に自らサイクルを廻し続けることだろう。うまく行けば、その結果として「目標」がおのずと達成される

その介入イメージを描くとすれば下図のような感じだろうか。

そうなると、本書のタイトルは『損傷したシステムをいかに創発・再生させるか』でも良さそうに思うが、創発・再生するのはやはりそのシステム自らである、ということなのだろう。

感触を受け取る

他に興味深いポイントは無数にあったのだが、この本を読むという行為を通じて自分の中で何か掴めそうだ、という感触を得たものをまとめるとこんな感じだと思う。

さて、「では、なぜこのように一見まどろっこしく見える描き方をするのか。」
おそらく、同じ内容をシステム的に記述することは可能だと思うしもっとクリアでシャープに描くことは可能だったように思う。しかし、それでは切り捨てられてしまう何かの感触があるような気がする。つまり、著者はこの本を読むという行為を通じて、経験に付随する理解し得ないような感触のようなものを受け取ってもらいたかったのではないだろうか
実際のところ、上にまとめたものよりも、他の無数の興味深いポイントの方から、理解しきれていないけれども自らの経験につながりそうな感触をたくさん得ている気がする、

要約してしまいたいという誘惑は、一般的にこれらが経験としては受け取ることはできず、意味としてしか取れないことに由来している。だがこれらを意味として理解したのでは、いっさいの経験の動きを追跡することなく、外から配置するだけになる。(p.386)

散文的に描けば、なにか別のことを描いてしまい、論理的に語ったのでは傍らを通り過ぎてしまうような経験がある。このときそれじたいで詩的であることは、言語の生にとって一種の運命である。(p.392)

人間の場合、論理的に一般化したり、特殊化したりするが、いずれもことがらの固有性からはずれてしまう。(p.393)

システム的な経験は、どのような哲学的な配置やシステムの機構での説明があたえられたとしても、まさにそれを括弧入れすることによって、一歩踏み出すことが必要となる。(中略)このとき哲学の図式やシステムの機構にしたがって、それに合わせて踏み出しが行われるのではない。そのときあらかじめ目標とされたことがあるにしても、それが結果として到達されるように踏み出すのである。だがそのときまさに結果として目標が達成されるだけではない。目標に到達するとはどのようなことなのかの理解をも手にしている。その理解は、目標に到達するには多くの回路があること。そのことはプロセスの継続の予期を含んで、行為的な選択を通じて実行されること。まさにそのことによって到達された目標は、つねに次のステップとなることである(p.395-396)

本書から得た感触はできることなら自分のサイクルの中に取りれて、新たな局面へと踏み出したいところだが、それを描こうとすればまだまだ長くなりそうなので、別に改めて取り組んでみたいと思う。

今、書こうと思っているのは、

・なぜ、このような本を読み、ブログを書くのか。
・学習と教育について。

そして、

実際の設計の場面で、どのような感触と選択の可能性が存在するか自らの経験の可動域を拡げていくにはどうすれば良いか。本書を参考にしながら、自分の経験をもとに描き出すとどうなるか。

である。どんな内容になるか全く想像できていないし、どれくらい時間がかかるかも分からないけれどもやって見る価値はあると思う。




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。




あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める B208『飽きる力』(河本 英夫)

河本英夫(著)
日本放送出版協会 (2010/10/7)

たまたま空き時間が出来たので図書館に寄った時に、河本英夫の本でも読んでみようと思って手にとったもの。
キャッチーなタイトルに相応しく、すっと読める本でした。
おそらくオートポイエーシスに馴染みがなくても読める本だと思います。(もしかしたら河本氏の独特のテンションに馴染んでたほうがストレートに入ってくるかもですが。)

子どもの「飽きる力」

乳幼児がどんどん新しいことを覚えていくことの中に「飽きること」があります
何かができるようになるまでは、それを遊びとして何度も何度も試行錯誤を繰り返しますが、それができるようになると、それには飽きて、次の関心・発達段階へと進みます。そうなると、それまで悪戦苦闘していたことが当たり前にできるようになっています。

子どもが今何を獲得しようとしているかを的確に読み取り、より良く取り組めるような環境を作ることが、保育における環境構成の技術でしたが、(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』)そこには子どもの飽きる力を信じることも含まれているのかも知れません。

しかし、子どもの持つ天性の飽きる力は、コストが掛かりすぎるので、大人になるにつれて弱まり経験・選択肢の幅は小さくなっていくようです。
もし、小さな経験の幅では越えられないような壁にぶつかった時にどうすればよいか。

あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決める

飽きるとは、選択のための隙間を開くこと。
飽きるとは、異なる努力のモードに気づくこと。
飽きるとは、経験の速度を遅らせること。
(内容紹介より)

河本氏の著作や動画などを見ていると「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てきて、あまりピンときていなかったのですが、この本で少し掴めた気がします。

実際、設計においても飽きる力を発揮すべき場面は無数にあります。
むしろ、あらゆる場面で飽きる力を発揮できるかどうかが設計の密度を決めると言っても良いかも知れません。(実際は限られた時間の中で効率性とのバランスが求められる。)
ちゃんと飽きるためには諦めない粘り強さや隙間を楽しむ余裕、そのための環境が必要だと思いますが、もしかしたらその方が効率的だったりするかも知れませんね。

飽きるということは、自分自身に隙間を開いて、その状態をしばらく維持することです。その状態を所在ないと感じる人もいるかも知れません。所在なさにしばらく佇むことが、飽きることの重要な点の一つです。

あっ、同じ日にマルヤのジュンク堂で


『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』
河本英夫(著)
新曜社 (2014/3/7)


を見つけました。
パラパラとめくってみましたが、こちらは『飽きる力』とは対象的に、まるでキャッチーさの無いタイトルですが、読みごたえのありそうな本でした。
積読も溜まってるし、ボリュームも金額もそれなりなので、この本は何かに飽きた時にとっときましょう。(『公共空間・・・』もまだ序章・・・)




四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

河本 英夫 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014/5/23)

前回の記事で紹介した動画の音源をスマホに落として繰り返し聴いたのだが、まだ上手く飲み込めないでいた。
その動画の中で「理解・応用しようとしても本人の経験は一歩も前に進まない。経験を開かないとダメ」というようなことが言われていて、それがどういうことなのか自分なりに掴んでおきたかった。
また、動画の内容を文字起こししたものが欲しいと思っていたところ、どうもそういう内容の本がありそうだということで買ってみた。

オートポイエーシスの経験 少年のモード

あとがきに

オートポイエーシスの入門版を、オートポイエーシスに関連するキータームをほとんど用いないでやってみている。そこではオートポイエーシスの構想を知るのではなく、オートポイエーシスという経験を感じ取ってもらうための数々の工夫を組み込んだつもりである。

とあるように、第一章から第三章までは寺田寅彦・マティス・坂口安吾といった具体的な人物を取り上げ、経験を開くというようなことがどのように実現されているかが示される。
ここまでほとんどオートポイエーシスという語は現れず、ようやく終章でオートポイエーシスについて語られる。この終章はかなりの部分が動画の後半と重なっており、まさしく期待していたような内容だった。

しかし、やはり終章は論のまとめのような感じなのでどうしても理解・応用のサイクルに落ち込みそうになる。
その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章の方が自らの経験を開くための「原型」として作用しそうな予感が持てた。なのでそこで感じたことを書き留めておきたい。

さて、はじめにの部分で「少年老い易く学成り難し・・・・」を引用し、「少年」とは時間区分ではなく経験のモードだと捉える。
少年の時期が過ぎ去ってしまうから学成り難しではなく、少年のような柔軟な経験のモードがまたたくまに老いてしまうので学成り難しなのである。

その柔軟な少年の経験モードを維持し続けられたとして取り上げられたのが先の三人であるが、私もあと一月を待たずして40代に突入する。この時期に来て「少年老いやすく」ということを急に強く感じるようになった。
少年だと思っていたモードがなんだか急激に老いてきているのでないか。
やっぱり瑞々しい気持ちで仕事でも何でもやり続けたい。そういう分かれ目という意味でわりと重要な一年な気がしているので何とかヒントだけでも掴んでおきたい。

まずは、寺田寅彦、マティス、坂口安吾、それぞれの章について簡単に(現時点で感じた範囲で)まとめておきたい。

不思議さのさなかを生きる 寺田寅彦

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。
寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。

焦点化しない注意を活用するには、どうすればよいのか。意識に力を込めず、感覚を目一杯開いて、感じられるものを宙吊りにしたり謎のまま維持してみる。「何が起きているのだろうか」という感触を維持するのである。

アナロジーは、なにか類似したものを手掛かりに思考していくやり方であり、最終的なものを求めず、また行く先が決まっているものでもない。言語的に見れば、比喩能力に近い。(中略)アナロジーはそうした経験の試行錯誤の場所なのである。

寺田寅彦の科学的思考は、現象を原理に帰着して分かったことにするのではなく、むしろ隣接するアナロジーをずらしながら考察するようなものであった。またそのことを活用して、多くの現象を見る眼を形成したのである。

像的思考とは、直接現象を思い浮かべるような経験の仕方であり、像の連鎖で物事を考察するような経験の仕方である。語を学び、概念を学ぶと、どうしても意味や内容で、語を理解してしまいたい誘惑にかられ、またそれで分かったように考えてしまう。ところが像的思考は、くっきりと像になるものをベースに考えていくのである。

こうした態度の中から生まれたのがまさにオートポイエーシスであり、アフォーダンスだと思うし、ホンマタカシのブレッソン-ニューカラーの議論も頭に浮かんだ。(ニューカラーは問いを宙吊りにし開かれている感じがする)

また、建築の分野ですぐに頭に浮かんだのは谷尻誠の「初めて考えるときのように」と藤本壮介のちょうど今開催されている個展である。

「最近僕が見つけたやり方は、“名前をなくす”ことです。たとえば“コップ“は液体を入れて飲むことに使う道具ですが、それ以上のものではありません。でもその名前を取ってしまえば、花瓶やペン立てに使おうとか、金魚を飼おうとか、積み上げて建物を作っちゃおうとか、自由な発想が出てくる。すると結構いろんな使い方が想像できて面白いんですよ。レールが引かれている今の世の中ではすべてのものに名前が付いていて、それが使い方を規定しています。だから、いったん名前を外して『これって何をするものだろう?』と向き合うことにしたんです」(初めて考えるときのように | 谷尻誠 | TheFutureTimes)

「こっちですよ、と指し示されているものからどうやって逸脱するか。それを一生懸命に考えています。たとえば『カフェを作ってください』と注文されると、途端に“カフェ”という名前が僕を支配するんですよ。カフェは普段から知っている場所だし、ある程度のものは誰でも作れちゃうんですよね」

「名前がないと何をやっているかわからないし、どこへ行ったらいいかもわからないから、本当はすごく難しいんですよ。逆に、新しく名前を付けると『それになる』という面白さもあります。家ができあがってポストをどうしようかとなったときに、ただのワイン箱に『POST』と書いて置けば、きっと郵便物が入るはず。名前には、物事を変換できる強さもあるんです。“取ること”と“付けること”、どっちにも面白さはあるんじゃないでしょうか」

言葉をとることによって問いを宙吊りにし、言葉を付けることによってアナロジーをずらしながら新しい経験のモードへと導いていく。それは、直感的に編み出した少年を維持するための方法とも言えるだろう。

こうして批評してくれるのはありがたい。一方で、この展覧会は、あるいは、建築というものの総体は、このような分析的な記述では、重要な部分がするすると抜け落ちてしまうということに気付かされ、反語的に、建築の本質をあぶり出してくれた形だ。これも言語かされたゆえに見えてくるもの(Sou Fujimoto Twitter 11:29 – 2015年4月28日)

この展覧会を見たわけではないが、挙がってくる情報を見る限り、アナロジー・原型的直感の種となるようなものが大量に羅列されているようである。おそらくそこには寺田寅彦のような少年のモードを維持するための留保への意志が強く現れている。

これに対し、

藤本さんが何か発表するととりあえず何か書いて、「言葉にするとこぼれ落ちるものを追い求めたい」と返されて、というサイクルを10年くらい続けており、もはやパターンw 藤本さんの創作には役に立たなそうだけど、藤本さんの奔放さに惑わされそうになっている人(=自分)にはたぶん役に立つw(Ryuji Fujimura Twitter 13:12 – 2015年4月28日)

というような返しもあったが、そこには方法論に対するスタンスの違いがあるのかもしれない。
藤本氏はおそらく個人的な創造という行為に関わる経験のモードを直接的に方法論として提示しているように思う。それは、あくまで経験のモードの提示であって、安易にかたちだけを真似をしようとすれば個人の経験が開かれるどころか帰って狭い領域に閉じ込められる危険性をもつように思う。
一方、藤村氏は直接的に経験のモードを提示したり、強調することはしないが、具体的なプロセスを記述し、それをなぞることによって間接的に新しい経験のモードが開かれるような方法論となっているように思う。経験のモードを方法論に埋め込むことによって、真似による再現可能性が目指されているのかもしれない。このプロセスによって経験のモードが開かれる度合いはおそらく経験する側の感度や意識による部分が大きいように思われるが、そこに意識的になれずに小さな振り幅にとまり誤解を受ける、といった危険性もあるように思う。

両者は

方法論という言葉、難しいですよね。いまだにニュアンスつかめません。近くに方法論を語る友人が居て、彼は自分が考えやすくするためのものだ、というようなことを言います。僕は他人が実践できるものだと言います。平行線です。笑@onokennote(山口陽登 Twitter10:01 – 2015年4月28日)

とコメントいただいたようなスタンスの違いによるもので経験のモードを開くという一点では同じ方向を向いているように思う。ただし、藤村氏が後でつぶやいていたように、そのスタンスに意識的であるかどうかは重要な点であろう。

例えば、藤本さんが「立原道造」なら自分はやはり「丹下健三」を目指そうと考える。そんなことどうでもいい、という人もいるけれど、創作の方向に自覚的になると成果物の精度も変わって来るし、さらには依頼される仕事も変わって来る。創作の方向が曖昧だと、作るものも曖昧になる気がする。(Ryuji Fujimura Twitter 13:44 – 2015年4月28日)

身の丈を一歩超え続ける アンリ・マティス

マティスの画法は、つねに方法の一歩先にどのようにして届かせるかにある。そしてそのことが新たな快の感覚を生じさせるように、色の配置を組み立てていくことを課題にしている。(中略)経験の境界を拡げていく作業は、境界をぐるぐる回りながら、気がついた時には境界そのものが変容し、拡張しているということに近い。マティスは、繰り返しこうした課題に踏み込んだのである。

ここでは「想起 再組織化」「佇む」「快 装飾」「強度」「存在の現実性」「経験の拡張」といったものがキーワードになるように思われる。

個人的には創作の現場として具体的にイメージがしやすく最も入り込みやすい章であった。引用しておきたいヶ所は膨大になるがなるべく絞って引用しておきたい。

反復は、反復のさなかで過去を想起することであり、想起する経験の中で、過去を何度も再組織化することである。想起は、単なる呼び出しではなく、そのつど再組織化が働く。

そのため自分自身で新たな局面や新たな経験の仕方が見つかるまで、その場で「佇む」ことが必要となる。そしてそこから一歩踏み出せるまでの「こだわり」も必要となる。「こだわる」ことは、もちろん固執することではない。

つまり「影響」というのは、不適切なカテゴリーなのである。むしろ学んだものを、みずからの制作へと組織化し、そこに固有のプロセスが出現するように経験が進んでいくのだから、そうした自己組織化のプロセスこそ問われるべきものとなる。

身体そのものも、まさに存在することの喜びにあふれている。(中略)この喜びが見る者にとっての快につながるように作画することができる。こうした喜びにあふれた顔を描こうとすると、細かな技術による丁寧さが、むしろ邪魔になってしまう。あることの自然性に向かい、このおのずと自然性であることの喜びに到達するためには、落とすことのできるものはすべて徹底的に落としていくことが必要であり、さらには在ることの「強さ」に向かうことが必要である。(中略)こうした効果を、マティスは「装飾」と呼んだ。装飾とは、こうした存在の喜びにふさわしい色と色の配置を見出すことである。

こうした経験の形成される場所を見出してしまうと、絵画はもはや鑑賞の対象でもなければ、立場や観点の問題でもなく、技法の現実化という方法の問題でもない。経験の形成の場所という課題を見出したことによって、彼らはともかく前に進み続けたのである。このとき、作家はすでに少年であり続けることの条件を手にしたのである。

こうした場面での感性の品格にかかわるような解があるに違いない。マティスの作り出そうとした快は、この感性の品格に届かせるようなものだったのである。

触覚から出現する事象を、視覚的な場所に写し取ることこそ、マティスが終生企てたことであり、すでにして終わりのない少年を生きることになった。

一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されるだけであれば、作品の現実は貧困になる。

キュビズムの圧倒的な広がりのなかで、マティスの行った選択が何であるかが今日少しずつはっきりしてきている。作品を作ることがかたちのヴァリエーションではなく、つねに一つの発見であるような、色とかたちの釣り合いを求め、幾何学的な比率と色彩の比率が釣り合う地点を、色の側から求め続けたのである。

飽きは、おのずと出現する選択のための積極的なチャンスである。ここでは無理に別のやり方に変えても、ただちに頭打ちになる。というのもその場合には、観点や視点で別のことをやろうとしているからである。このときいまだ経験が動いていない。次の回路が見えてくるまで、しばらくは宙吊りにされた時間や時期を過ごさなければならない。

何か刺激的で面白いと感じられたとき、それは多くの人にとってたんに刺激的である。そこから更に進めて、何か固有の経験の拡張がなければ、実はまだ何も見ていないことになる。

制作プロセスと作られた作品は、異なる次元にあり、二重の現実として成立している。制作行為で考えると、制作する行為と作品の間で、埋めることの出来ないギャップを含みながら、作品は固有の現実性として成立することになる。ここに制作行為での創発(出現)がある。ある意味で、作品は制作プロセスの副産物であり、このプロセスから手が届かなくなった時に、作品は出現する。あるいはある構想やアイディアを抱いた時、それを直接制作しようとするのではなく、ひとときそれらを括弧入れして、まったく別様のプロセスを進んでみる。そのプロセスの副産物が、当初の構想やアイディアの現実のかたちであるように、プロセスを進んでみるのである。

マティスが行ったのは、そのつどプロセスで経験が拡張するように進むことであった。そのプロセスの副産物が、出来上がった絵画である。ところがこうした制作プロセスのうち、変形のプロセスは、極めて特殊なものであることが分かる。つまり方法的制御のもとで、行く先はほぼ決まっており、作品が完結するのはテクニカルな改変の終了である。

多くの場合、課題を変形して、ただちに対応できるものにして、用済みにしてしまう。つまりさっさと終わったことにしてしまうのである。しかしこうした課題をペンディングにしたままにしておくと、何か最初に受け取ったこととはまったく別様のものが見えてくることがある。

マティスは一貫して、どのような技法に対しても、そこに含まれる可能性を拡張していけばさらにどのような経験の拡張が可能になるかを考えていた。

ピカソは、由来が不明になるほど変形をかけて、変形のプロセスが停止する場所を探すことの名人芸に達している。これに対して、マティスはそれぞれの技法に含まれる可能性を、最大限に発揮できる場所にまで進めていく名人芸に達している。その意味でピカソは終生子供であり、マティスは何度もみずからをリセットする少年であり続けたのである。

こうして挙げてみて、これらは二つに分けれられるように思った。
「快 装飾」「強度」「存在の現実性」などの部分はマティスが目指したもので直接経験のモードに関わらないもの、「想起 再組織化」「佇む」「経験の拡張」などの部分は少年の経験モードに直接関わるものである。
そして、この両者において非常に勇気づけられた。

前者は、個人的に建築を考える上で共感する部分が多く、それらはこのブログでしつこく何度も書こうとしてきたことと重なる。そういう意味では自分は少年であり続けるための条件を手にしているのかもしれない。それはとても幸運なことのように思う。

後者では、今まさに40を迎えようとする、若干の飽きと迷いの中にある自分に一つのあり方を示してもらえたような気がする。今の状態を決して悲観的に捉える必要はなく、次の回路が見えてくるチャンスとして捉えればよい。固執することなく経験のモードを開きながらこだわり佇んでよいのだと勇気がもらえた。重要なのは経験を拡張していくための構えのようなものであろう。

また、建築に関して思い浮かんだのはコルビュジェであった。
コルビュジェは方法に関していろいろと言ったり、古いものを見て(今的に言うと)つぶやいたりしている。しかし、そこでは常に経験の拡張のようなものが目指されていて、まさに「身の丈を一歩超え続ける」少年のようであったように思われる。

成熟しないシステム 坂口安吾

坂口安吾は、人間の自然性をある種の「どうしようもなさ」に置いた。そこから救われようとするのでもなく、またその状態を変えようとするのでもない。達観することも、宿命や運命に委ねることも、余分なことだと感じられるような場所がある。そこには引き受けたり、引き受けなかったりするような選択性が、一切効かない「どうしようもなさ」がある。それは生きていることの別名であるような、生の局面にかかわっている。(中略)そしてこの「どうしようもなさ」に見いだされる美観から日本文化の特質を取り出した。安吾はおよそ本人に面白いと感じられるものは、何でも実行したのである。

ここでは安吾の作品の資質として「無きに如かざる精神の逆転」「人為を限りなく超えた、さらに一歩先」「成熟もなく老いることもない」「あっけらかんとした情感」といったものを挙げている。
しかし、この章は創作そのものというより安吾の生き方そのものようなものを浮かび上がらせており、まだうまくつかめないでいる。

ところが成熟とは無縁で、熟練することが一つの後退であるかのように、経験の履歴を進み続ける者がいる。まるで老いることが他人ごとであるかのように、もはや老いることができなくなってしまった一生を当初より進み続ける者がいる。見かけ上は停止や堂々巡りに思える。だがそれでも延々と進み続けるのである。これは異なる経験の仕方であり、別様に経験の蓄積を生きることである。たんにその都度不連続に作品を作り続けるのではない。不連続に作品を作り続けても、対象の種類が拡がるだけで、いわば様々な領域で食いつぶしを行っているようなものである。
だがそれにもかかわらずなお前に進み続ける者がいる。(中略)それらを総称して「一生、束の間の少年」と呼んでおく。

坂口安吾は、多くの領域で延々と書き続けた作家である。だが作品の技術が向上している様子はない。場合によっては、下手になっていると感じられる場面もある。しかし安吾自身は、上達することをどこか嘘だと感じている。

作為の意匠や工夫をどこかよそよそしく感じ、そうしたものとは別様に出現する現実が、紛れも無い本物だと感じられる場所である。個々の意味の深さではなく、ある種の直接経験の強さが出現する場所こそが、こうした「ふるさと」になぞらえられる経験の局面である。それは安吾の経験の出現する場所であり、生きていることがそれとして別様になりようもない場所である。そしてそこでは意匠の美ではなく、経験の強さこそが問われる。ここでは、美とは一種の経験の強さの度合いのことである。

強さの度合いを感じ分けながら、そこに出現する自己を生きている存在が、安吾の「束の間の少年」である。

それは感性を拡張しようと目指すことではない。むしろおのずと拡張になるように、経験のモードを変えていくことである。

安吾の美観は「どこか違う」ということを感じ取る感性にあるように思われる。それは成熟に向かうことを拒むことによって経験の強度を維持しようとする意志のようにも思われた。

普通は生きていく上で、いろいろな余分な考えが浮かび、その誘惑によって行動してしまうことが多いように思う。個人的にも、例えば作ったものを同業者に良く思われたいと言ったその手の誘惑は多いし、それによる不自由さのようなことを考えることも多い。
そういった局面において「どこか違う」ということを感じ取る感性を発揮し経験の強度を維持できるかが分かれ目にもなるのだろうし、それは建築としても現れてくるものだと思う。

これに関して思い浮かんだのは内藤廣の有名になる前のエピソードであり、自分の感性を信じる強さのようなものであるが、この章に関してはもっと自己と感度良く向き合わなければ見えてこない部分も多いのかもしれない。

方法論について

今、私たちの世界に対する認識の方法はこれまでの歴史の中で形成されてきたものであり、可能性の一つとしてたまたまこうなった、という類のものだと思う。それが私たちのものの見方、経験の仕方を相当に狭めていることは間違いないだろう。
なぜ私がオートポイエーシスやアフォーダンスといったことに可能性を感じるかというと、通常世界を認識しているのとは少し違う(違う歴史を経ていればあたり前であったかもしれない)別の見方を垣間見せてくれるからで、それによって多少なりとも自由に振る舞えるようになると思えるからだ。(たとえば西欧文化にどっぷり浸かった人が東洋の文化にはじめて触れた時に感じる可能性と自由のようなものだろうか。)

その振る舞い方というのはおそらく設計の場面においても根幹の部分で強く影響があるように思う。
それに関連して、何か方法論のようなものを持ちたいとこのブログでも何度も書いている。

方法論とは何なのだろうか。
うまくつかめないでいるし、そのスタンスもいろいろなものがあるように思う。
その中で、自分にとっての方法論とはおそらくそれを世に問うといっただいそれたものではなく、自らの経験を前に進めより良い建築を生み出せるもの、といった範囲にあるものではないかと思う。

それは、世に問うことを否定しているのではなく、自分というシステムを起動し有効に働かせることのできる半径がおよそこれくらいという感覚からくるものである。その辺りの規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまうのではという感覚がある。

その上で、方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。
むしろ、そういう具体性を際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。という気がしていてこの本を手にした。

例えば、方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えてみる。

要望を聞き条件を整理し形を探る。それは当たり前のことだけどその中から具体性が浮かび上がってくるように思うし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。
だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

そう考えると少し気持ちが楽になった。
今取り組んでいることに、当たり前に取り組んでいく。それは、当たり前のことを単に繰り返すのとは違い、少年のように試行錯誤を繰り返すことで経験が前に進んでいくようなものであるはずだ。

「四十にして惑わず」とある。これを河本氏的に解釈するとすれば、四十になって成熟の域に達し迷わなくなる、ということではないだろう。三十代までの紆余曲折を経て、取り組むべき課題に確信を持ったことで堂々と少年のモードに再び戻る準備ができたと言うことではないだろうか。そのための実践の場もこのころにはある程度準備ができているだろう。

自分も確信を持って四十の少年モードに突入していければと思う。

終章 オートポイエーシス少年

最後に終章で気になったところをいくつか抜き出してメモとして残しておく。

ドゥルーズの哲学とオートポイエーシスに共通の課題は、世界の現実的な多様性を出現させ、その多様性の出現が各人の経験の固有性の出現に連動するような仕組みを考案することである。

実際には、プロセスと産物を区分しておいた方が経験を拡げていくためにははるかに重要である。たとえば芸術的制作を行うさいには、プロセスの継続の副産物として作品が生み出されるのであって、作品に向かってそれを作ろうとした、という事態はほとんどの場合成立していない。

このおのずとシステムになるという感触がオートポイエーシスの構想にとってはとても大切なところである。

こうした自在さは、配慮や熟慮とはあまり関係がなく、ましてや視点や観点を切り替えることとはまったく関係がない。必要なのは経験の弾力であり、経験の動きである。このときこうした経験の弾力を備えた現実の姿を、具体的個物で表そうとすると、それが「少年」となる。少年は、発達の一段階ではなく、ある経験のモードの「原型」なのである。

どうしても踏み出せない場合には、こうした作業の手本となるものが存在している。だがそれを読んでしまうと言葉の迫力と現実感に圧倒されて、自分で前に進むことなどできなくなる。(中略)これらを真似ようとすると、間違いなく二番煎じ以下になる。そのため一度忘れて、その後それを思い起こすようにして、自分自身の言葉を作り出していく。想起とは、過去からの選択的な創作である。

ここに必要とされるのが経験の弾力である。というのもあらかじめ方法的にどうするのかが決まっているわけではなく、経験にとって最も有効な仕方を試行錯誤して探しださなければならないからである。

理解したから応用できると思って、やってみると何ひとつ前に進んでいない、ということが起きるのである。こうして気がつけば、理解から応用に進んでしまっている場合は、一度理解したものをすべて捨てたほうが良い。捨てることは、積極的な試みであり、捨てたものが再度経験の中から出現してきたとき、想起されたものはすでに選択され内化している。それがみずからオートポイエーシスを内面化することである。

持続的に息長く仕事をできている場合にも、多くのモードがある。それを真似て同じようなやり方をしても、二番煎じ以下になるが、それは作り出された表現のかたちを真似ようとするからである。むしろある経験の動かし方の特徴を取り出せれば、それを活用できる場面で選択することはできる。




新しい経験を開くー意識の自由さよりも行為としての自在さを B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』

河本 英夫 (著)
東京書籍 (2002/7/1)

十年以上も前の本であるが気になったので読んでみた。
オートポイエーシスの第一人者である著者と様々な分野の第一人者との対談集であるが、まずは著者の知識の広さと深さに驚かされる。(対談中、著者が対談者にかわって他分野の詳細に対する解説や意見を長々とする場面が何度もある。)

一部前記事と重複するけど、とりあえず断片的なメモをもとに感じたことをいくつか書いておきたい。

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか
その不自由さの中からあえて自由さを突き抜けるという建築の可能性ももちろんあるだろう。
しかし、設計を行為だと捉え、そこでの自在さを獲得する自在な建築といったものの方にこそ可能性は開かれている気もする。

例えば僕がアフォーダンスやオートポイエーシスのようなものをなぜ読むのか。
何か方法論のようなものを身につけたいという気持ちがあったのは確かだが、それよりもむしろこのような(自由であるか自在であるか、世界をどのように捉えそれに応えるかと言った)態度のようなもののイメージを獲得する方が重要かもしれない、とだんだん思うようになってきた。

オートポイエーシスもさんざん道具・理論として扱われることが多かったが、著者はそれを否定する。

一般理論というのは、しょせんは一種の知的遊びに終わってしまう場合が多い。そうではなく、オートポイエーシスがある新しい認識の世界を開くのではないかということに私は期待しているんです。(中略)記述のための道具として使おうというのは、これを道具として使って、何かを主張したい場合です。主張することが問題なのではなく、経験を動かしていって何かを新たに作り出すことが問われている。だから第三世代システム論ではなく、第三世代システムと言い続けている。そのためのオートポイエーシスが何をやっているかというと、結局、ある種の経験の層をもう一度つかみあげてみようということです。そして、それが行為に関わっています。そこが論ではなく、行為なのです。

他にも「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てくるが、これができるようになるのはなかなか大変そうである。
藤村さんの方法論を自分なりに取り入れようとして、なかなかうまく設計に結びつかないのは、方法論に囚われすぎて、経験を開く、というようなことができていないからではないか。方法論を否定しているわけではなく、むしろ現状と方法論がマッチしていないため方法に入り込んで経験を開くというところまで行けてないからではないだろうか。
なんだか、怪しい話のようになりそうだけれども、もう少し経験を開くというような「状態」に意識を持って行って、そのために補助的に方法論を見つけていく、というような流れがいい気がする。

また、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたり

対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
もしかしたら経験を開く「状態」のイメージに時間軸・速度のようなものを加えたほうが良いかもしれない。

展覧会の関連企画での対談があり、その中での鋭い考察が印象に残った。

作品の経験においても同様のことが言えます。意味の方法的な分析の中に解消され得ない作品には、その経験の中に必ず「剰余」の部分が出てきます。その「剰余」というのは、作品に触れている時にずっと動いてしまっている身体や近くの記憶として残っていきます。つかりテクニカルな工夫・操作だけが表面に表れている場合には、既存の意味の枠を延長しているだけですので、そのプラスアルファの「剰余」がない。しかもこの剰余を意味の延長上に意味的な分からなさとして作り出すと、途端に見え透いてしまう。この剰余を作り出すには、身体の動きを活用するのが有効です。内化してしまっている身体の動きを同時に使うと、意味の延長からの想起とか逸脱とは全く違う、作品の経験に触れることができます。

この辺の領域をふんだんに活用したのがゴッホでした。かれは通常の人間の色彩感覚を超えた人です。ゴッホの黄は非常に収まりが悪い。ゴッホの絵を五分くらい見ていただくと分かりますが、どうもこの黄を見るために目の神経を形成しているところがあります。こういう絵によって形成運動が起こってしまうのです。すると、気づくと気づかないにかかわらず確実に強い記憶になります。(中略)つまり、作品に触れることがその経験を形成するところにかかわってしまっている。

大した経験が何一つないのに、テクニカルに人と違うものを作ろうとすれば、すべて意図は見え透きます。したがって、やはり経験が形成される回路を何とかして自分で踏み出してみるということが重要だろうと思います。そこの踏み込み方と、その継続の仕方を機構として表しているのがオートポイエーシスという構想です。この構想は前に進みながら、同時に自分自身を作り上げていくというところを機構化しているわけです。

佐々木正人氏がアート等を語るのも面白かったが、これらの言葉もすごい。前に書いた「既知の中の未知」とも重なりそうな気がする。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

おそらく新しい経験を開くというようなことと共に新しい空間が生まれるのであろう

あと、著者について調べていて下の動画を見つけた。
音源をスマホに入れて移動中に何度か聞いたけど、かなりぶっ飛んでいて面白い。意味は少ししか分からないけど。

1:57:40あたりから経験を開くというような話が出てきます。




ぽこぽこシステム_建築メタver

前の記事でもリンクを貼った”ぽこぽこシステム”は例えば”建築文化”のようなことにも当てはめられそうに思います。

  • 産出物を”建築文化”のようなものを持った何かに絞る。建築的ぽこぽこ。何でも良い。
  • 建築的ぽこぽこが発生・産出している働きを建築的ぽこぽこシステムとする。(こう書くと箱物が量産されてる感じがしますが、産出しているのは”建築文化”のようなものを持った何かです)
  • 産出には変形と破壊も含まれる。
  • 産出物のうち次の建築的ぽこぽこシステムに参与するものを構成素とする。

とすると、オートポイエーシス・システム的に捉えられそうです。

例えば建築文化が浸透している場所では建築的ぽこぽこシステムが活発に機能していると言えそうですし、その逆も言えそうです。

建築的ぽこぽこシステムが活発に機能している状態では建築に対する意識の高い人達が多くなるはずなので、建築家の仕事・役割も増えそうですし、建築の質を高めることにつながるかも知れません。それなら次にどうすればシステムを活性化させられるだろうか、と考えるのは自然の流れのような気がします。

”建築的ぽこ”にどのようなものがありうるかは思いついた範囲でざーっと書いてみます。

  • 良い建物をつくる
  • 建物を利用する人が感動する
  • 口コミで建築の評判が広まる
  • まちなかの建物や景色をみて建築を感じる
  • ウェブ上で建物を紹介する
  • 展覧会を開く・参加する
  • 雑誌やテレビ等で紹介される
  • twitterで建築のことをつぶやく
  • メディアを見て建物を見に行く
  • 設計プロセスに参加してもらう
  • 講演会やワークショップを開く・参加する
  • 学校で”建築”を教える
  • 小説に建築を感じる
  • 絵に建築を感じる
  • 音楽に建築を感じる
  • 昔の生活に建築を感じる
  • 現在の生活に建築を感じる/li>
  • 未来の生活に建築を感じる
  • 建築史を描く
  • 建築マップをつくる
  • まちなかで普通の人が建築や景色について語り合う
  • 古き良き建物を大切に使う
  • 古き良き建物が壊されてしまう



建築的ぽこぽこシステムの根底には”良いものをつくる”というのがあるのは間違いないですし、ほとんどの方はそれに対して真剣に取り組まれているのだと思います。
しかし、建築的ぽこぽこシステムを維持・活性化するためにはどう働きかければいいかという視点で考えると、”良いものをつくる”ことの他にもできることがあるように思いますし、システムのコードを書き換えるような斬新なアイデアがでないとも限りません。

当然、徹底的に”良いものをつくる”ことにのみにこだわるのも有効だと思いますし、批評家やメディア関係者に任せるべきだというものも多いかもしれません。それに僕自身が何らかの策をもっている訳ではないです。
だけども、こういう枠組みをとりあえず提示することで、例えばuwagakiさんが視点を拡げて下さったように思わぬ展開が生まれるかも知れません。

ということで今日はここまで。
なんか当たり前のことを書いただけで何かが明確に浮かび上がった感覚がないので、後で思いついたら追加記事を書くかもです。
(ベタ・メタ・ネタ的に書いたほうが分かりやすかったかなー。本当は「ぽこぽこシステム_建築ベタver」の方をちゃんと考えたい・・・。)




B162 『オートポイエーシス論入門 』

山下 和也 (著)
ミネルヴァ書房 (2009/12)

今考えてることと直接的に関係があると思い、オートポイエーシス論をちゃんと理解しようと思い読み始めました。
『使えるオートポイエーシス論』を目指しているだけあって難解なオートポイエーシス論がみごとに整理されています。これで10年前に買って何度も挫折している河本氏の『オートポイエーシス―第三世代システム』がすっと読めそうです。
ただし、整理されていると言っても感覚的なコツをつかまないとなかなか理解が難しいのでオートポイエーシスを掴みたい方は先に 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』を読まれることをおすすめします。

ぽこぽこシステム論

ちょうどこの本を読み始めたときにマルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談があり、どういう見方でイベントに臨むかを考えているときに「ぽこぽこシステム論」というのを思いつきました。

オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
もう少し読み進めていくと、オートポイエーシスの社会システム論で言うところの構成素はコミュ二ーケーションである、というのを置き換えたに過ぎないと分かったのですが、考えた結果がオートポイエーシス論と重なったのは嬉しかったです。(その後@rectuwarkyさんが面白い論を展開して下さっています。)

オノケンノートとリノベ研

リノベシンポ鹿児島の後、なんの確信もないままかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)というサイトを立ち上げたのですが、ここに来てようやくサイトの立ち位置のようなものが見えてきたように思います。

オノケンノートとリノベ研、2つのサイトの立ち位置の違いを書いてみると、オノケンノートはあくまで僕個人の建築に対する考え方などを書いているサイトですが、リノベ研は建築分野の内外を問わず、いろいろな方の”産出物”、作品であったりテキストであったり姿勢であったり、が織り成す場、個々の活動をメタで見て考える場になればと思っています。(この論で言うところの1階言及システムもしくはn階言及システムにあたると思います)

リノベと関係ないようですが、今思えばリノベシンポ鹿児島で感じたもやもやは、具体的なリノベに関してではなくおそらく、個々の活動の繋がりの場や仕組みについてだったのだと思えるので方向性としては間違っていないように思います。(そもそも個人でリノベを考えるならサイトを立ち上げる必要はなかったはず)

なので、オノケンノートには自分が建築と向き合うときにどう考えるかという、どちらかというと自分に向けて書きます。
対して、リノベ研に書くことは当然自分の思考の整理と言う意味合いもありますが、どちらかというと個々の活動のメタな部分、例えば”リノベ研というシステム”に対して”ぽこぽこ”を期待して投げるような気持ちで書きます。社会外部へと言っても良いかも知れません。
(※社会と行った途端に対象がぼやけてしまいますのでとりあえずは外部へとしときます)

どちらも内部・外部両方に向けて書いてる部分はありますがウェイトとしてはそんな感じです。

オノケンノート的オートポイエーシス論

オートポイエーシス論はリノベ研的には社会システムとしての動きを記述・理解するのに助けになりそうに思うのですが、オノケンノート的にはどういう意味があるでしょうか。
もともとオートポイエーシスは個人的に(オノケンノート的に)追っていたものですが、

onokennote: オートポイエーシスにもう一つ期待しているのは設計プロセスについて。理論化まではしないと思うけどなんとなくのイメージはある。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: 超線形のような感じでパラメーターを扱うけれど、設計プロセスのなかでパラメーター自体が生まれたり消えたり変化しながら全体の構造自体が動的に推移していくことで複雑性を得るようなイメージ。ただし超線形のような共有可能性は失われる。 Dot のやり方に近いかも。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: と言っても設計論のようなものを実際の設計に活かす機会は今までつくれてない。それが出来るかできないか、必要か必要でないかも今後の課題ではある。 [07/06 13:42[org]]


というように書いているように設計プロセスについてヒントがありそうな気がします。
設計行為は施主や敷地や社会や経済や図面や模型や・・・、諸々とのコミュニケーションであり、継続的なコミュニケーションの中で例えば図面や実際の建物や関係者の満足感などを産出する一連の流れと考えられると思います。それは小さな社会システムとしてオートポイエーシス的に十分記述・分析できる可能性があると思うのです。
これは、個人の中でも言えると思いますし、dot architectsのような超並列?的な設計作業にも言えそうです。

それに、どんなものづくりであっても、さまざまなレベルで言えることだと思うので、リノベ研で考えたことがこちらにフィードバックもできるんじゃないかと思います。

またオートポイエーシスの環境、相互浸透、撹乱、コード、構造的ドリフト、構造的カップリング、言及システム、共鳴と言った概念を自分の目の前のことに置き換えることでその構造が見えてきて計画・対処できる可能性があるかもしれません。

そうでなくても、産出物のメタの部分でシステムが作動しているイメージを描けることは見方を拡げてくれそうです。




構成についてのメモ2

全体を感じさせる関係性を持ったモノのネットワークを仮に構成体と呼んでみる。(オートポイエーシス単体と呼んでみたいところだけどまだ良く分かっていないので)

自分とは全く別の存在として構成体がある、ということでも親近感のようなものを感じるだろうが、もし、自分もそのネットワークの一部、構成素であると感じられることが出来るとしたら、それは好ましいことかもしれない。

オートポイエーシスに近づくことが必要かどうかは別として、利用する人や自然環境、その他さまざまな要素を取り込み、それらに応じて現れ方・感じ方が変わるとすれば少しオートポイエーシスに近づけるのではないか。

また、何をどれだけネットワークに取り込めるかが空間の豊かさに関係するように思うのだが、如何に。




オートポイエーシスの応用可能性についてのメモ

機能主義からの脱却。
プログラム論→アクティビティ論の延長でとらえる。

オートポイエーシスの特徴や用語を建築的な視点で仮定しなおす。
自律的システム理論の各世代、第一世代「動的平衡システム」、第二世代「動的非平衡システム」、第三世代「オートポイエーシス・システム」の図式化や、建築手法・作品との対応を考える。(どれが正解というのではなく)

といった作業をすれば何か見えてこないだろうか。

さまざまな次元の閉鎖系システムが自律性を保ちながらも共存?しているところに可能性があるように思う。

そもそも生命システムから得たいのは、真実ではなくて関係性をどうやったら扱うことができるかといったヒントである。

オートポイエーシス・システムを例えば個々の人や、複数の人、アクティビティ、部屋やゾーニングや都市計画、また価値観や、機能、構成原理、といったものに置き換えたときにどんな展開が見えてくるのか。

さまざまな次元のいくつもの軸が豊かに関係性を結ぶような、そんなイメージは浮かび上がってこないだろうか。
それによって自然に身を任せるような心地よい自由なイメージは浮かび上がってこないだろうか。

昔考えたことを少しだけ前にすすめられないだろうか。




B147 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』

山下 和也 (著)
近代文芸社 (2004/12)


著者の方からコメント頂いたので読んでみました。

読んでみた感想は、『やられたっ!』です。いい意味で。

本書は2部構成になっていて前半がオートポイエーシス・システムの定義や性質などの説明、後半が「生命」「意識」「社会」といった具体例を基にしたオートポイエーシスの世界の解説となっています。

しかし、本書を読み進めていっても前半では具体例が全く出てこず、著者は見慣れないシステムの定義の説明に終始しています。
具体例が出てこないのでイメージが沸かず、延々と説明をされても著者の一人相撲を観ているようです。
だんだんと腹が立ってきて、何度が読むのをやめようかと思いましたが、第1部の終盤にくるとようやく、その不親切さが著者の意図したことであったことが分かります。

ずっと読んできて気づかれたとおもいますが、ここまで、議論が抽象的になるのも省みず、オートポイエーシス・システムの具体例を全く挙げずに論じてきました。また、具体的なシステムを連想させる述語もできるだけ避けてきました。若干理解しにくくなるのを覚悟でこうした論述方法をとったのは、オートポイエーシスの意味を適切に理解していただくためです。具体例を挙げますと、どうしてもそのイメージにとらわれて、オートポイエーシスの本質が見えにくくなりますので。(p98)

それから後は、それまでの欲求不満もバネになって、なるほどー、の連続です。

オートポイエーシスは普段私たちが見慣れている世界の見方を根本から変えることを要求してくる感じなので、おそらくこういう並びでなければよく分からない印象のまま誤解をして終わっていたかもしれません。

まさに構成の勝利、という感じです。
今から読もうという方も、著者の意図されているように第2部を我慢して第1部から読むべきですし、意味が分からずともなんとか第1部を読み切って下さい。

まだ、ここで説明できるほど理解できているとも言いがたいのですが、何度か繰り返し読むことで理解は深まりそうな予感はあります。

そんな中、最初にオートポイエーシスの本質に触れられた気がしたのは「オーガニゼーション(有機構成)」に関する以下の記述。

この言葉も一般的な意味とは異なって使われているので、注意が必要です。ここでは出来上がった組織ではなく、プロセスそのものの動的な連関関係を意味します。つまり、産出物のではなく、産出する働きそのもののネットワークがオーガニゼーションなのです。(p16)

物ではなく働きそのものを対象とするところにキモがありそうです。

簡単に言えば、オートポイエーシスとは、ある物の類ではなく、あり方そのものの類なのです。(p100)

いったんこういう見方をしてしまうと、なぜそれまでそういう視点がなかったのか不思議な感じがします。そうかと思えば、今まで身体に染み込んでしまった見方が戻ってきてオートポイエーシス的な感覚を掴むのに苦労したりもするのですが。

ところで、この理論によって建築に対する視点に変化を与えることができるでしょうか?

観察・予測・コントロールができないといっているものをどうつなげていってよいものか。というより、それ自体にどうやって価値を見出すか。

倉本さんのブログでも書かれている非線形の話や、伊東豊雄さんのスタンス、山本理顕さんの邑楽町役場庁舎との関連を見つけることも可能な気がするし、それとは少し違う話のようにも思う。

このへんはゆっくり考えてみたい。
建築そのものにはまだ還元できていないけれども、アフォーダンス理論では佐々木さんの著書等を通じてものの見方がぐっと拡がったのは確か。オートポイエーシスではどんな扉が開くだろうか。

ドゥルーズなんかとの関連なんかも興味があるなぁ。




自然のかけらを鳴らす


自由な秩序によって。また音楽のように流れるように。

そのための楽器をいくつかこのブログでも集めてきた。

古典的には黄金比から始まり、フラクタルまで。
オノケンノート ≫ B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。 “美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

アフォーダンスを皮切りにもっと流れるような「関係性へ」と移っていく。
オノケンノート ≫ B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。 それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。 (例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。
そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

ほかにも、佐々木氏の著作はヒントにあふれている。
オノケンノート ≫ B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』

自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。

オノケンノート ≫ B049 『レイアウトの法則-アートとアフォーダンス』

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。 幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。 建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

また、そのための具体的な道具として構造の可能性を追求することは必須に近いが個人的には踏み込めていない。

オノケンノート ≫ B058 『informal -インフォーマル-』

構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。

こういう流れは、つぎのような感覚の裏返しかもしれない。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

ある種の不自由さ、堅苦しさから、軽々と抜け出してみたい、というのが今の空気じゃないだろうか。

オノケンノート ≫ B019 『建築的思考のゆくえ』

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。 一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。 たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

『自由な秩序や関係性によって、音楽のように流れるように、軽々と抜け出してみたい』というのは今の時代や僕らの世代にある程度共通する欲求なんじゃないかと思うんだけども、ほんとのところみなさんどう感じているんでしょう。




DVD 『博士の愛した数式』

博士の愛した数式 寺尾聰、小川洋子 他 (2006/07/07)
角川エンタテインメント


週末にDVDを借りてきてよく観るのだけど、映画についてコメントするのはどうも苦手。
そんななか、これはちょっと感想を書いておきたい映画だった。

”数式を愛する”っていうのをテーマにどう描くのだろうかと、前から気になっていたのだけど思ってた以上に良く描かれていて、まったく嫌味なく数の神秘を感じさせてくれます。

数字という記号そのものは人間の使う道具の一つに過ぎないのかもしれないけど、その道具を通して見えるのは自然であり宇宙の仕組みである。
それは浅はかな人間の考えをはるかに超えて、寛容に全てを包み込むように存在している。
博士が包み込むような優しさを持っているのはそのためで、きっと数式を通してまっすぐに真理を見つめているのだ。

建築でも古代のオーダーからコルビュジェのモデュロールとその多くの歴史は数字に魅せられて来たと言ってもいい。
それによって、建築の中に自然の寛大さを得ようとしてきたのだと思う。

自然のエッセンスを獲得しているものに触れると、私たちの中のDNAに刻まれた自然のかけらが共鳴する。
自然のかけらを鳴らす技術を磨かないといけない、と改めて感じたのだが、そういうエッセンスを見事に表現した映画でした。

他にもオートポイエーシスやその他生物システム論などヒントになる気がする。アフォーダンスの佐々木正人氏は精力的にデザイン関連の本を書いている。面白そう。




B049 『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』

佐々木 正人
春秋社(2003/07)

日本のアフォーダンス第一人者の割と最近の著。

レイアウトと言う言葉からアフォーダンスを展開している。

アーティストとアーティストでない人の境界があるかは分からないが、著者は学者でありながらへたなアーティストよりもずっとアーティスティックな視点や言葉を手に入れている。

それはギブソンから学んだ『目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか』という方法を実践しているからであろう。

本著を読んで、レイアウトの真意やアフォーダンスを理解できたかどうかはかなり怪しいのだが、ぼんやりとイメージのようなものはつかめたかもしれない。

著者が言っているようにアフォーダンスは『ドアの取手に、握りやすいアフォーダンスがあるかどうか』ということよりもずっと奥行きのあるもの、と言うよりは底のないもののようだ。

様々な分野で、一つのある完結したものを追及し可能性を限定するような方向から、”関係性”へと開いていくこと、可能性を開放していく方向へとシフトつつあるように思う。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。

幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。

建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

*****メモ******

■知覚は不均質を求める。
■固さのレイアウト
■変化と不変
■モネの光の描写。包囲光。
■デッサン(輪郭)派(アングル):色彩(タッチ)派(ドラクロア)
アフォーダンスは色彩派に近い。完結しない。
アトリエワンの定着・観察『読む』『つくる』環境との応答・関係性
■相撲と無知行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。
■表現・意図は「無機」「有機の動き」=「外部と一つになりつつある無形のこと」
クラシックバレエ=「無機と有機の境界」
フォーサイス=「無機の動きと意図の消滅」動きが「生きて」いる。それは舞台と言う無機的な環境の中で、有機の動きを発見し続けるさま。
■肌理(キメ)と粒(ツブ)それがただそれであること(粒であること)と同時に肌理であること。
知覚は粒と肌理を感じ取る。
人工物には肌理も粒もない。自然にさらされ肌理・粒に近づく。物への愛着は粒への感じなのではないか。

レイアウトや肌理や粒の感じや有機ということは急速に身の周りから失われつつある。




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




B027 『知恵の樹』

管 啓次郎、H.マトゥラーナ 他 (1997/12)
筑摩書房


オートポイエーシスに興味があることと、友人の『映画を観たあとのような読後感』という奨めでだいぶ前に図書館でわざわざ閉架書庫から探してきてもらって少しづつ読み始めた。

しかし、いっこうに進まない。
同じところを何度読み返してもなかなか頭に入ってこない。
すっと読めたのは、浅田の序文だけ。
古い著書ということもあるだろうが、訳が僕と非常に相性が悪いのだ。

訳書にはたまにあるが、原文をそのまま日本語にしただけのような感じ。
こういう訳を見ると不親切さに腹が立ってきてしまう。英文読解のようにいちいち関係代名詞なんかを意識しないと意味がわからない。(建築基準法なんかの文もそうだが)

おまけに句読点やひらがな表記がやたらに多いうえに、3段組で忙しく目を上下しないといけなくて読みづらいったらありゃしない。

なんとかあきらめずに読みきろうと思ったけれども、これでは『映画を観たあとのような読後感』はとても味わえそうにない。

興味があるだけに、余計訳者に腹が立ってきてどうしようもないから、やめたやめた。
返却期限もとうにすぎてるんで、残念だがもう読むのはあきらめる・・・。

ということで、誰か(?)代わりにこの本の感想をコメント欄にでも詳しく書いてくれないだろうか(半分冗談)

追記
友人のコメントを見返すと(ちくま学芸文庫)とある。
文庫版が別に出ているようだ。
発行は1997年のようだから、もうちょっと読みやすくなっているのだろうか???

追記 2009/5

文庫版を買ってきて読んでみた。注記がうるさくて読みにくかったが、なんとか読了。

友人の言う『映画を観たあとのような読後感』というのが少し分かった気がする。

イメージを掴めば世界の違った見方を手に入れられそう。
イメージをつかむには山下 和也 著 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』はかなりの良書です。