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子どもを中心とした2つの矢印 B196『まちの保育園を知っていますか』(松本 理寿輝)

松本 理寿輝 (著)
小学館 (2017/3/23)

子どもたちに多様な出会いの機会を

僕の大学の卒論は『コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察』というもので、コミュニティというものを現代社会の中での有効性という視点から考えてみたい、という思いで書いたものでした。
下のリンク先にその卒論の冒頭部分を抜き出しているのですが、次の文がその時の思いを端的に表しています。

「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 人と人との関係)

この時の思いは一貫して自分の中にあり続けていて、コミュニケーションの必要性を人を含めた環境全てにまで拡げて考えてきたのが『出会う建築』でした。
その「出会い」が「子どもの育ち」に必要不可欠なものだとすれば、子どもたちの多様な出会いの機会を担保してあげることが大人の役割だと思うのです。

また、社会学者の宮台真司は次のような事を言っています。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要 ■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。 ■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B045 『「脱社会化」と少年犯罪』)

現代社会を生き抜くためにも、コミュニケーションの試行錯誤・多元的モデルとの接触によってタフな「自己信頼」を醸成する、ということが必要であり、ここでもやはり「子どもたちの多様な出会いの機会を担保する」ということが大きなテーマです。

まちの保育園

さて、本著ですが、前半は著者がどのようにしてまちの保育にたどり着いたか、その経緯が語られます。
著者はただでさえ若い女性と過ごす時間が大半となっている保育環境にふれ、『人格形成機である0~6歳にどのような出会いを持つかが大切であるということを考えれば、もう少し多様な出会いを持てるといいな』と思うようになります。

また、レッジョ・エミリア市の文化(大人たちが皆当たり前のこととして『子どもたちが力を発揮できるために、今ベストといえる環境を自分たちで考え続け、つくり続けていく』文化)に触れ感銘を受けます。

そこから『子どもを中心にして、「子どもが育つ理想の環境」「大人も含めた理想的な社会や市民のありかた」を対話し続けていくことで、日本で拓いていくオリジナルな「まちの保育」をつくっていこう』と考えた著者は、その理念を実現すべくまちの保育園を開設しました。

「まちの保育」は『子どもの育ち・学びにまちの「資源」を活かす→まちが保育園になる』『保育園がまちづくりの拠点として、地域が豊かにつながり合う→保育園がまちの頼れる存在になる』という子どもを中心とした2つの矢印がお互いに向き合っているような関係で成り立っているようです。

レッジョ・エミリアでは、まち→こどもの矢印が強く見えるのですが、その前に日本ではまず一度閉じかけたコミュニティを拓くことが必要で、そこに子どもの持つ「存在感」「社会的役割」の意義が生まれます子どもを中心に置くことで「まちが子どもを育てる」と同時に「子どもがまちを育てる」ような好循環が生まれるのです。さらに「子どもの環境を/まちを・社会を」どうやって良くしていくかという「問い」が中心にあることで、まちが動き続けることが重要だと言います(結果主義ではなくプロセス主義)。

こんな風に「まちの保育園」は子どもとまちを絶えず動かし続ける「はたらきそのもの」のような存在であり、それが働き続けることで、子どもだけではなくまちも(「育てられる」のではなく)「育つ」のかもしれません。
そこに「はたらき」の存在を見出すことが著者の言う「プロセス主義」なのだと思いますし、そこではオートポイエーシスに関連して河本英夫が言うように経験を拓いていくような態度が重要なのだと思います。

まずは対話のテーブルにつこう

「大人たちが楽しそうに生活し、自分たちの信じられることをやっている社会」、それこそが、子どもにとっての理想的な環境なのではないかと思います。
(中略)
「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくりと同じこと」なのです。

この本はこんなふうに締められるのですが、ここで騎射場のきさき市を主催する須部さんが”のきさき市のその先に子どもたちを見ている”というようなことをラジオでチラッと言ったのが思い浮かびました。あー、そこまで見ているんだな―。

これまでは「良い設計の仕事をしていたら、それが認められてやがて良い仕事が来る」ということで良かったのかも知れませんが、保育園一つをとっても、ただ建築物だけをみているだけではいろいろなことが捉えられなくなっている。そういう時代なんだと思います。まちがうごく、というような「はたらき」に身を置くことでしか見えないことや達成できないことがあり、建築もそれとは無縁ではいられないのかも知れません。

著者は「問い」や「対話」に教育や社会の本質を見出し、「まずは対話のテーブルにつこう」と言います。

僕も独立前後はいろいろなところに顔を出し、いろいろなことを考えるようにしていましたが、仕事が安定し忙しくなるにつれて「クライアントの期待に応えることを最優先しなければならない」と言い訳をしながらどこかに顔を出すことを制限するようになってきていたように思います。
しかし、一歩引いて大きな目線で見るならば、「対話」と「はたらき」に身を置くことはどこかで仕事(を通じて貢献したいこと)につながるような可能性を持っているのかも知れません。須部さんのラジオでの一言がきっかけでそんなことを考えるようになりました。

「まずは対話のテーブルにつこう」
もう一度そこから初めてみるのも良いのかもしれません
。(とは言ってもチビが保育園に入るまではなかなか厳しいわけなのですが。)

(追記)
今、保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設について集中的に学ぼうとしているのですが、「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくり」というのは「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な建築づくり」とも言い換えられると思います。
子どもの事を考えた建築は大人にも良いだろうし、大人がそれぞれ真剣に楽しんで向かい合った建築が積み重なることで子どもが育つに相応しい風景が生まれるのではないでしょうか。

ここで学んだことは住宅やその他の建築にもきっと活かせるはずです。




B165 『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』

山崎 亮 (著)
学芸出版社 (2011/4/22)

マルヤガーデンズでコミュニティデザイナーを務められた山崎亮さん(studio-L)の待望の単著。
帯に「状況はまだまだ好転させられる」と書いてありますが、こんなに未来への可能性にわくわくさせてくれる本に出会ったのは久しぶりのような気がします。

10年以上前、僕も卒論でコミュニティの視点からみたコーポラティブハウスの可能性みたいなことをやりましたが、その時はコミュニティという言葉に可能性と行き詰まりを同時に感じてその感覚は長く残っていました。
その卒論では確か「ヒト・モノ・関係」からコミュニティを捉えながら、コーポラティブハウスという「モノ」をつくる過程で「ヒト」「関係」が生まれてくるという視点でしたが、あくまでそのベースには「モノ」ありきだったように思います。

山崎さんの「コミュニティデザイン」という言葉もその延長線上にあるとは思うのですが、サブタイトルの通り「ヒト」もしくは「関係」に真正面から向き合うことによって「コミュニティ」と「デザイン」という言葉が新鮮な可能性を持ったように感じました。同時にコミュニティという言葉に感じた僕の中の行き詰まり感をようやく払拭できたように感じられました。

コミュニティデザインの理論やハウツーがまとめられているのではなく、山崎さんがこれまで実践されてきた実例が多数掲載されているのですが、そこから山崎さんがどうやって今の山崎さんになったのかの一端や、実践することの大切さがみえてきますし、そこから得られるものは読む人によって変わってくるのではないでしょうか。

昨日、東川さんがテーマを見つけることの重要性を言われましたが、いろいろな立場の人がいる中で共有できるテーマを探り問題の突破口を開いていく場面がなんどもありちょっと感動的でもあります。(ダーツで物事が動き出すところもグッと来ました)
たぶん、この辺の感覚っていうのがすごく大事になってくるんだろうなぁと思いますし、そういう視点でもう一度読み返してみようと思っています。

また、同じく昨日の話で、関わり方、というのが出ましたが、自分はもろもろのことに対してどういう立ち位置で関わっていくか、というのが大きな課題です。僕自身はものをつくるのをやめられないと思いますし、一番にはそこで責任を果たしていきたいと思いこれまでやってきていますが、可能性をそこに絞ってしまうのもちょっと違うかなと感じています。
事務所の経営を考えながら自分に何がやれるか。何をやるべきか。どうやってやるべきか。はたまた誰とやるべきか。
まだまだ答えは出そうにありませんが、少しずつ見つけていきたいと思います。(と言いながらずるずる行きそうなので、どこかで集中的にやらないと自分自身も変われないんだろうなぁと思ったり。)

まー、とにかくマルヤガーデンズで山崎さんの仕事の一端に触れられたのは僕にとって(おそらく鹿児島にとっても)幸運だったと思います。どっちかというと僕は家でこもってコツコツ仕事するのが好きなんですが、やっぱりこの経験を活かさないのは勿体無いと思っています。

最後に本編より最後の一文

日本全国で生じているさまざまな課題は、当然僕たちだけで解決できるものではない。コミュニティデザインに取り組む人が少しずつ増えることで、ひとつでも多くのまちが自ら課題を乗り越える力を高めることを願っている。

それぞれの地域が抱える課題と向き合いたいと考える全ての方、また行政の方にも一読をお勧めします。

※あとこの本は脱いでもすごいです。。。

参考

まだ観れてませんがこれも面白そう。
Ustream.tv: 11/2マルモ出版&リクルート住宅総研 共同主催【特別授業「山崎亮の仕事術」】(1), hair5mm LIVE 11/02/10 03:40AM. 生活…

中原慎一郎さんと服部滋樹さんのトークショー。テーマはかなり近いです。
Ustream.tv: ユーザー d-department: トークショー「新しいコミュニティストアという存在」, Recorded on 11/04/30. デザイン

(たとえば)リノベ研の方で山崎さんに触発されて書いた記事他
『新しい公共』と自走力のアーキテクチャー – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
クラスタ化する社会とTwitterとチューリップ(前編) – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
クラスタ化する社会とTwitterとチューリップ(後編) – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)




大寺さんトークショー『市電とまちの未来像』

今日はイラストレーターの大寺さんの個展最終日ということで18時から東川さん(探検の会)とのトークショーがあったので行ってきました。(コーディネーターは味園さん(37Design))

坊津まで祭りに行った後だったので子供も疲れ気味で途中退席してしまいました。なので途中からはUSTで視聴)

▼トークショーの様子(1~3まであります)

大寺さんの話では「国交省はLRTの導入支援をしていて、市民の意識次第でいつでも火がつけば実現できるのでは」「富山は構想から開業まで3年で実現した。これは未来の話というより、今日、明日の問題」というようなところが印象に残りました。

その後味園さんが言われたように、では実現出来ていないのはなぜなのか?何が足りないのか?みんながこうだったらいいよね、ということを実現させるための力ってなんだろうか?
また、東川さんが「未来を描くときに自分がどういう立ち位置でそこに関わっているのか、関わり方をイメージすることが大切」というように話されてましたが、自分はどういう形で関わることが可能なのか?
そういうことが頭を周りました。登壇者の方に「僕はどういう形で関わればいいでしょうか?」と聞くのも、それは自分で考えなさいよ、って話でしょうし、質問もできなかったのですが。
(こういう場での質問って結構苦手ですねー。どうしても感想になってしまうし、ARCH(K)INDYの時も感じたんだけど、最近リアルタイムに言葉が浮かび難くなってる気がします・・・)

永山氏の「コミュニケーションの間口にどういったものが有効か?」というような質問に対して東川さんが「共通のテーマを見つけることが重要」といった事を言われてましたが、ちょうど今読んでいる本で感じたことと重なった気がしました。(これについては後で読書感想を書きますが、いろいろな立場の人がいる困難な問題でも、まさに共有できるテーマを探り当てることで突破口が開かれていく実例が多数紹介されていました。)

次回のかごまちシンポがどういう展開になるかも楽しみですが、自分はどうやって関わっていけるのか。限られたリソースの中でどれだけのことが出来るか分からないけれど、僕ももっと具体的なイメージを持たないといけませんね。

・大寺さんのように未来を共有できるイメージを提供する。
・そのイメージを拡げてより多くの人で共有できるようにする。
・イメージが共有されていくことを可視化して具体的な数字やかたちに落し込みよりリアルに共有できるようにする。
・具体的に実行するための調査・計画。そのための予算。
・実行。

等、様々な役割・フェイズがあると思うのですが、誰か、そういう自分の立ち位置を共通のイメージの中にそれぞれマッピングできるような、ロードマップのようなものを描ける人はいないでしょうか。(残念ながら能力・リソース的に僕には無理。もしくは個人じゃ無理)

あっ、とある方が「うわー、いますっごいことに気付いちゃった!これはますますやらネバダ!」とつぶやいてました。なんだろー。wkwk..gkbr….




まちづくりの当事者は誰?

先日のエントリーにつづき素朴な疑問を。
長文です。

まちづくりの当事者は誰?

「だれのため?」というのが先日のエントリーの疑問だったわけですが、では、まちづくりの当事者っていうのは誰になるんでしょうか?

まだぱらっとしか読んでませんが、薩摩川内市中心市街地活性化基本計画(素案)をみてみると、

本市の中心市街地を活性化する必要性については、57.8%が「必要だと思う」となっている(p28)

とあります。
しかし、このうちどれぐらいの割合の人が、他人事(誰かがやってくれるなら活性化したほうが良い)ではなく自分のこととして「必要」と考えているでしょうか。(ちなみにパブリックコメントは4件です)

当然、一番の当事者は市街地で商売等をしている人、もしくはまちづくり団体や行政に違いないのでしょうが、それだけでは十分ではないように思いますし、実際には市街地で商売していても当事者意識が薄いことが問題であることも多いようです。

オノケンノート ≫ B110 『M2:ナショナリズムの作法』

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

実際にフランスでどの程度コモンズの意識が共有されていて、何が守られ、どんな問題があるのか、ということは分かっていないのですが、「その社会に住む人が自分達の生活の質を確保するためにある意識を共有し、一定のコストを払うことに同意してる状態」というのは一つの理想として参考になるんじゃないかと思っています。

言ってみれば、多くの市民にまちづくりの当事者であると感じてもらい、その結果としてまちづくりも前進する、ということが一つの目標であっていいんじゃないでしょうか。

当事者意識

当事者意識を持ってもらえるというのは
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

この「そこに集まって住む理由」が希釈されてきてるんじゃないかと思うわけです。

という問題意識の延長、まちのアイデンティティとか生活のリアリティとかの割とみんなの生活に直結することにつながると思いますし、逆に言えば、中心市街地の一つの機能(存在理由)として「まちのアイデンティティ(当事者意識)を守り育てること」というのが想定されてもいい様に思います。
(当然、郊外大型店が戦略として同じ機能を目指すことも考えられますが)

また、その際に重要だとすぐに思いつくのは二つあります。

一つは「ひと」。たぶん当事者意識の伝播は「ひと」を介してしか行われないと思うから。

もう一つは(建物だけでなくあらゆる意味での)「デザイン」。デザインには事物を分かりやすくしたりして「感じ方」を左右する力があると思うから。

当事者=プレイヤー?

とここまで書いてきて、川内組とだいぶ前に議論?した「プレイヤー論」と同じでね?前に進んでないんでない?という気がしてきました。
(参考)
商店街の活性化と地元にオープンした大型SCのこと – 薩摩之風
さつませんだい徒然草:オーディエンス化する社会その2
オノケンノート ≫ 都城市民会館秋祭り-追記-
など。

そういえば
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

プレイヤーはどこに居るのかな プレイヤー=商業者、じゃなくてもいい

てなことを書いてますね。

ただ、それぞれの定義や役割をもう少し練れば、人々の振る舞いを「プレイヤー(選手)」「ディレクター (スタッフ)」「オーディエンス(観客)」という3つの型で仮定するのは思考の枠組みとして使えるような気がします。
あっ、あと無関心組も追加しないといけないかな。

余談:当事者意識の限界?

少し余談になります。
僕は今年は行けなかったので思いっきり推測で物を言いますが、甑島でつくる活動はこの当事者意識の伝播の共同体のようなものではないかという気がします。

応援隊のブログを読んだり、twitterオフ会で@undoundyと@norigoeの会話を横聞きしてそう思ったのですが、主催者や応援者、住民と当事者意識を共有しているまたは共有したいという欲求がこの活動を支える一つの力になってるんじゃないかという気がします。
ただ、「当事者意識の共同体」は「外部」の存在を意識した場合に共同体ゆえの限界があるかもしれません。(共同体がだめと言うわけではなく可能性の問題として)

同じようにまちづくりを当事者だけの問題とすることには可能性とともに限界を生むかもしれないなと感じます。

余談:その他

・こんなやたら長い文よりも
指宿商店街ゆるり散歩 – 4代目若女将の成長記録
ってな行動の一つ一つの方が大切かも。っていうか、さすがの行動力です。脱帽。

・@rectuswarkyのひとりブレストに反応しようかと思いましたがそれはまた。っていうか、ハッシュタグつけてtwitterに晒せば反応しやすいように思いますがどうなんでしょう。




中心市街地の存在理由って何?

川内の友人がまちづくりに関わっているのですが、関心があったので川内を案内してもらいました。

時間不足であまりつっこんだ話はできなかったので、ここではとりあえず川内を案内してもらう前から漠然と思っていたことを書くことにします。

中心市街地の存在理由って何?

「まちづくり」についてはまだきちんと体系立てて勉強したことがないのでごくごく基本的な疑問になって申し訳ないのですが、中心市街地の存在理由って何なのでしょうか。

消費が郊外の大型店舗に逃げているということは、多くの消費者がそちらを選択したということで、選挙で言えば先日の自民党のように大敗したようなものです。(大多数の瞬間的な選択が必ずしも豊かな未来を指し示しているとは限らなかったりもしますが)
極端な話、中心市街地の商店街なんて別になくてもいいじゃん、と言われたらなんと答えるでしょうか。

ここでちょっと[中心市街地存在理由]でググってみたところ下記のような文章に当たりました。(多少古い記事ですが)

S067中心市街地活性化への七つの扉

漠然と「買い回り商店街」あるいは「地域中心商店街」、「広域商店街」などという「定義」がされているかも知れませんが、この程度の定義では郊外型ショッピングセンターと区別が付きません。区別がつかないということは、無意識のうちに郊外型ショッピングセンターがやっている商売にはるかに劣る質と規模で追随している、ということです。
(中略)
商店街活性化=広域で分担する商業機能を決定し、機能を整備すること。それも「買い回り型商店街」などというレベルではなく、郊外型ショッピングセンターとの関係をはっきり認識したレベルで、存在理由=デスティネーションを設定し、充実させていくことが中心市街地活性化の最大の課題です。

僕も郊外の大型店だけあればいいとは思いませんし(どちらかというと昔ながらの商店街の雰囲気の方が好き)、まちには多様性があった方がいいと思います。

だけど、雇用や地域経済の問題、コミュニティや生活そのものの質・ライフスタイル又は高齢化の問題、その他いろいろな問題があるとは漠然と思っていても、「中心市街地の存在理由って何?」と聞かれてすぐに簡潔に説明できる言葉を持ち合わせていません。

中心市街地が「誰にとって」「どんな価値」がある(どんな価値を提供できる)のか、簡潔に誰にでも分かるように答えられるようでないと目的を共有し具体的に前に進んでいくのは難しいように思います。

・「中心市街地の存在理由」を簡潔に(例えば140文字以内で)書くとすればどうなるでしょうか。

・具体的に「誰にとって」「どんな価値」を(例えば優先順位をつけて10個)箇条書きで書くとすればどうなるでしょうか。

について別のエントリーで考えてみようかと思いますが、宜しければ皆さんの意見をお聞かせ下さい。

「誰にとって」の「どんな価値」にウェィトを置くかは場所によって異なるように思いますし、それによっても目指す方向に違いが生まれるように思います。




自動車エイリアン説。


まち歩きのときに東川さんが谷山の路地がいずれ区画整理でなくなると言われていましたが、ずっと先のことだろうと思っていました。いまどきそんな無駄な事をしないだろうとも。
だけど、妻から「本当に区画整理されるそうだよ」と聞かされて調べてみると本当のようです。

鹿児島市ホームページ |谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画決定

先般、縦覧いたしました谷山駅周辺地区土地区画整理事業の事業計画につきましては、このたび鹿児島県知事の認可を受け、土地区画整理法(昭和29年法律第119号)第55条第9項の規定により、下記のとおり平成20年3月21日付け鹿児島市告示第239号で事業計画決定の告示をいたしましたのでお知らせします。

PDFの計画図を見てみると、はぁーというような区画整理です。本当に必要なのだろうか。
道路が完全に直線でないところが救いですが、先に谷山の別地域(開陽高校周辺)で行われている区画整理のようにまた砂漠のような景色が広がるのかと思うと憂鬱です。
また、このまちの魅力が失われて、どこにでもあり、どこでもないようなまちになってしまうのでしょう・・・。
住んでもいいなと思える風景はどんどん消えていってしまいます。

そんなこんなで、今朝、自転車をこぎながら景色を見ていたら、いつもの景色が妙な風に見えてきました。

自動車エイリアン説

ネタバレになってしまいますが、こないだ読んだSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、地球の支配者は実はネズミで、人間はあることのために利用されていると言うオチでした。

同じように、もし自動車が実はエイリアンで、人間が車を利用しているように見えて実は車が人間を利用している、と思って景色を見ると妙にしっくり来たのです。

車が人間を操り、道路と住居(駐車場)を作らせ、食料(燃料)を補給させ、おまけにメンテナンスや世代交代までも任せる。
そのために人間は必死で働き、自分たちの居場所をあけわたし、全てにおいて車を優先させます。

道路を拡張し駐車場を最適化するために区画整理を実行し、高速道路を作り、また、(車にとっての)集会場を各地に設置するために(人間用の)商業の場所を一箇所に集約して車のために尽くします。

人間には自分たちが支配者だと思わせるために、ちょっとしたスペースと時間、あと運転という作業を残しておいているのも計算ずくのことでしょう。

建築の計画でも、車の通路や駐車スペースが最優先の条件になって、そのために建物の自由度が大いに奪われる、ということが多いのですが、それも実は自動車に操られていたのですね。

そう思いながら、自転車をこいでると、道を走っている車、駐車場にとまっている車、みんなふてぶてしい顔に見えてきました。人間に気づかれてないつもりだろうが、俺は気づいてんぞと。

こんな妄想もあんまりぴったりしすぎでちょっと怖いですが。
もし明日交通事故にあったりしたら、それはエイリアンの陰謀に気づいたせいでしょう。

エイリアンとの共存を

ただ、僕はエイリアン(車)を地球から追い出せ、と言ってるのではありません。

僕も車のお世話になってるし(車にそう思わされているだけか?)、人間と良好な関係を築いている車も少なくないでしょう。

ただ、もうちょっと、車最優先にしてきた事を人間の側に取り返してもいいんじゃない、と思うだけです。

その時、区画整理は本当に必要か、もっと小規模なことやソフトで解決できることってあるんじゃない、と思うだけです。

是非とも、エイリアン(車)との共存を。

『住宅エイリアン説。』に続きます。(続きません)




地主たちはどんな戦略をとるべきか?

『遺伝子レベルとのフラクタルな関係で地域経済というものを捉え』るところが面白かったので脊髄反射的にエントリー。
自然選択説[Wikipedia]等参照。この分野の本、読みたくなったなぁ。いろんな説に従って先の記事の地主がどういった選択をするか描くと面白いかも。というか誰かやってくれないかなー。)

「いや、個人レベルだけで考えればそうかもしれないけど、もう少し俯瞰して考えればこういう行動とったほうが合理的じゃないっすか」ということはあると思う。

それと、囚人のジレンマと決定的に違うことは 『彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。』という条件がないということ。

『二人とも懲役2年ですめばハッピーじゃん』という合意をとりあっての選択だってできると思うし、僕にはどう考えたってこの選択が一番合理的に思える。(この場合も裏切りの可能性は残るが、それなら契約を結べばいい。)

後はイマジネーションの問題。

ハッピースカウターの代わりになるビジョンや達成感を得る仕組みがあればいいし、それにはそれを理解するイマジネーションと共有するために可視化するイマジネーションが必要。

あと宮台的には コモンズ、どういうゲーム盤にしたいかというイマジネーションと合意。

まぁ、それを”描く能力”が一番不足してるのかもしれないけど。

こういう進化論みたいなのに詳しい人、最新の理論では地主はどう行動するのか教えてー。

(あと、まだよく読んでないけどこの辺にヒントがないかなぁ)




サイクルシティ

朝チャリンコをこぎながら考えたたわいもないこと。

まちがどこかのスタイリッシュな自転車メーカーと提携。

EKポイントをなんとか制度化し、一定数以上のポイント所持者で希望する人にはスタイリッシュなちょっと高級目の自転車を一定期間無償貸与。

自転車はEK実践者としてのステイタス、またはサイクルシティなまちとエコな自転車メーカーを宣伝・イメージアップする素材となる。

加世田あたりでどう?

というか谷山あたりでどう?




都城市民会館秋祭り-追記-

都城市民会館秋祭り+シンポジウム+親睦会に参加して僕なりの感想をつらつらと。

今日でこの建物と対面するは4回目ですが、ようやく内部を見学できたました。

そこでは設計や建設に関った人たちの気持ちの強さを感じることができましたし、シンポジウム・親睦会で存続活動を続けてこられた方々の真剣さや明るさに触れられたことは僕自身にとっても非常に有意義な経験でした。
もしかしたら、人が今まさにまちを動かそうというダイナミズムに触れた初めての経験かもしれませんし、こういう、人の気持ちのこもった、そしてさらに、関係者の思いを超えて建物自体が独自の存在としての命を宿したような建物を簡単に壊すべきではないと強く思いました。

市民会館をなぜ壊さないで欲しいかは何度か書きましたが、やっぱり大切に使っていくことが次の世代に対する大人の責任だと思います。
親睦会で「都城市民会館の再生利用を考える会」代表の黒木さんとお話する機会があったのですが、お孫さんが「なぜ壊すの?」と聞かれるそうです。なんとなく特別な存在なのでしょう。

それを壊すということは、お孫さんから特別な存在を将来にわたって奪うということです。さらにいえば、お孫さんには心象風景・思い出として市民会館が残るかもしれませんが、今から生まれてくる子供たちは思い出にすることさえできないのです。
そういうことを続けていけば本当に砂漠のような風景になってしまい、一番大切な”ヒト”が去っていきます。そうなってからでは遅いのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、本当に残ってよかったし未来に向けての活用を議論できることは幸せなことだと実感しました。

と言っても僕は都城市民ではないんですが。ただ、思いのこもった建築が経済の道具にされて壊されることを避けられた、という事実が嬉しいのかもしれません。

帰りはヒラカワさんに途中まで送って頂き、最終電車で帰ったのですが、電車に揺られながらそういえば都城市薩摩川内市に感じが似てるかも(人口密度には若干開きがありますが)と思いました。
なぜか川内の方々とまちづくりなんかについて語る機会があったのですが、川内の方のあんな記事こんな記事を思い出してこういう概念は使えるかもと言う気がしてきました。

僕なりの理解ですが、人々の振る舞いに「プレイヤー(選手)」「ディレクター (スタッフ)」「オーディエンス(観客)」という3つの型があるとします。

昔の市民会館には何か催し物があると長い列ができていたそうですが、それはプレイヤーとスタッフの提供するものをオーディエンスが受け取るという形だったと思います。

娯楽の少なかった時代はそういう形式で良かったのかもしれません。しかし、娯楽のようなものが分散化し、ましてはMJのような新しい施設ができた今では市民会館には別の形式が求められているのだと思います。

別の形式とは例えば、今までオーディエンスだった人をプレイヤーまたはディレクターに引き込んで”共に楽しむ”という形式で、市民会館がそのためのステージ(舞台)となることです。

シンポジウムでの多くの意見もそういう方向だったと思います。

それはハードとしてのステージでもあるだろうし、人々の意識をつなぎとめる ため、イメージを共有するためのの意識の上でのステージでもあると思います。(ステージだと観客を想定してしまいますのでフィールド(場)といった方が良いかもしれません。)

そのためには、いろんな人が簡単に参加でき、思い思いにプレイヤーになれる仕組みづくりが必要でしょうし、そうした思い思いの活動をひとまとまりにするための共有のイメージづくり、例えばシンボルマークをつくるなどの一種のブランディングのようなものが必要になるでしょう。

当然、大学側の理解と協力が無ければできないことですが、それは大学自体のブランディングにもつながることですし、「解体の危機から一転全国でも”先進的な事例”」といえるような活用のされ方ができれば、 全国的に希有なポジションを獲得できます。

それは市、大学双方にとって願ってもないこと、まさに千載一隅のチャンスだと思います。というより、その道しかないようにも思いますが。

とまぁ、そんなことを考えながら帰りました。

もしかしたら、そういう物理的にも心理的にも共有できるものがある(残せた)都城はまだ幸せな方かもしれません。

都城が新しいまちづくりのありかたを切り開いてほかのまちや危機に瀕する建物の関係者に希望を与えてくれるようになることを願います。

最後にヒラカワさんはじめ関係者の方々、お世話になりどうもありがとうございました。そして、お疲れ様でした!




いいなぁ

guragura.jpg
藤浩志さんのぶろぐより『グラグラタウンゲーム、販売はじめたようです。』

いいなぁ、こういうの。というか立派な製品じゃないですか。

NPO法人+arts(プラスアーツ) の名称もなるほど、という感じです。artsが主役じゃなくてあくまでartsをプラスすることで何かが生まれる。みたいな。

このゲームをベースに、それぞれの地域のマップに置き換えて、ゲームツールを作ることそれ自体が防災のワークショップとしてとても可能性がある。
そのプロセスにおいて子どもや大人がいろいろな問題を話し合いながら「つくる」場が発生する。
そこが重要なんだと思う。
そのイメージサンプルとして価値がある。

ここまで作ってしまうのは凄すぎだけど、なんといっても楽しそう。

「楽しく学べる防まちすごろくゲームFURAFURATOWN」、FURAFURATOWNで大型SC大発生!庭で買っていた”ヤギ”がお客取りに!・・・とかね。

そういうワークショップはありかも。(そういえば子供のころスゴロクとかカードゲームとか勝手につくってたなぁ。消しゴムではんこを作ったりして。)




勝ったどぉ~~~

明日以降、天気が大きく崩れるということで、今日はドライブに行きました。

出発前には唐船狭でそうめん流しを食べて指宿のなのはな館あたりでゆっくりしようか、と言っていたのですが、急に、串木野のまちの雰囲気(港やパラゴンとか)と阿久根の海を味わいたくなって北薩方面へ予定変更。

あいにく天気は崩れてあまり味わえなかったのですが、そういえば途中に川内がある、ということで慌ててカバンに本を詰め込んで、阿久根の帰りに川内のたこ阪さんに寄ってきました。(ごちそうさまでした~)

たこ焼きは久しぶりでしたが、生地の味が生きてておいしかったです(塩との相性が良かった)。そして少しお話させていただいてかえる文庫で4冊の本をゲットしてきました。本を読むペースを落としているのでいつになるかは分かりませんがいずれこれらの本も記事に書こうと思います。

夜、家に帰ってブログをチェックしてみると 薩摩之風さんが僕のこないだのエントリーとたこ阪さんのエントリーを受けて地方についての記事を書かれていました。(たこ阪さんへのコメントで暗に参加要請したのが届いたのか・・・)

はじめに、僕の記事を受けてのたこ阪さんの記事についてですが、その前の僕の記事が少しまずったなぁ、という印象でした。

何をまずったかというと、 あの記事は僕の個人的な思い入れやライフスタイルの問題をそのまままちづくりに直結させた書き方をしてしまったので、それは無理だわなぁと当然なってしまいます。そしてそこを鋭くつっこまれてしまいました。あいたたた。

そして、その後の薩摩之風さんの記事を読むと、あっ、結構言いたかたこと言ってくれてるやん、という感じでした。(実は他のエントリーを読んで、なんか援護射撃してくれそう、ってことでコメントで暗黙の参加要請をしたのでありました。他力本願ですが・・・)

僕が言いたかったのは、まさしく『モノサシの逆転』だし、その結果『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なれれば良い、ということだったのです。(再び、他力本願)

まぁ、それだけで全てが好転するとは思えませんが長期的な視点で見たときの一つの可能性であると思うし、そういう可能性を受け入れる懐の深さを地方は持って欲しいという希望でもあります。

また、この記事を読んで僕が考えたのは、『エコカッコイイ』を一般化し 『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なるためには、思想をリードする”カリスマエコカッコイイナー”が必要だということ。(薩摩之風さんの記事では”ナイキとか”)

僕が前の記事で書いた”イメージ化”とつながりますが、” カリスマエコカッコイイナー”はそういうライフスタイルを体現しつつ活動を行っている(または行おうとしている)アーティストやデザイナーが向いているんじゃないかと思います。(実際そういう方もいらっしゃいますし)

そこで、僕の提案は” カリスマエコカッコイイナー支援プロジェクト”。

そういう活動をしている人(したい人)にある程度の支援を行い、我が地域を” カリスマエコカッコイイナー”が集う聖地とすること。それによって、地域のブランド化および地域住民の意識の転換を目論む、というもの。

空いている民家や施設の部屋を貸し出したり、一定の活動費を援助するのは地方財政の全体から見るととその効果に比してそんなに大きなウェイトにはならないんじゃないでしょうか。

なんてことを考えました。(もう一度書きますが、これらは一つの可能性でしかありませんし、これだけで地方が変わるとは思えません。ただ、やれる範囲でひとつひとつ実践して全体を押し上げるしかないと思います。)

え~、前置きはこれぐらいにして、今日のタイトルについてですが、今日、川内から帰る車の中で妻が『ビリーのDVD、最近見ないと思わない?・・・・友達に貸した。』と告白しました。そう、妻があの戦いの敗北宣言をしたのです!
やりました、ついに勝ちました!
まぁ、妻にしてはよく頑張った方だと思います。(とは言っても最初の数日以外はやってるところを見たことがないのでいつまで続いたのかは・・・)
これで、日本の将来は安泰です。おまけにこれはまさに”エコカッコイイ”を推進するためのウォーミングアップのようなものでもありました。これで、地域の未来も明るいと言えるでしょう。僕が必死にチャリンコをこいでる姿は今の価値観では決してカッコイイものではありませんが、いずれこれがカッコイイの最先端になり、皆が「そういえばお前は昔からエコカッコ良かった」などと言ってくれるようになるはずです。どうしよう。




地方はどこへ向かうのか。(草稿)

またまたですが、たこはんさんのエントリーを読んで。

この本は未読なので読んだらまた別にエントリーを書きますが、とりあえず今漠然と考えていることについて。

反論の余地のある未熟な考えであることは分かっていますが、(草稿)ってことでおおめにみて下さい。また、自分が実践できているわけではないので自戒の意味もこめて書きます。

たこはんさんの意見にだいたいにおいて共感するのですが、まだ僕の中で整理のついていないのは以下の部分。

前々から感じているのですが、地方というのはもう都会へ供給できる商品がないようなのです。グローバリズムっていうのには抗えないのです。

グローバリズムには一定の価値を強要し、同じステージに乗りなさい、という強制力や暴力性があると思うのですが、これと同じ方を向いているときっと上記引用の通りだと思う。

もともとグローバリズム自体が搾取する構造をもっているのだから、これに乗ってはやっぱり絶望的になる。

だからといってどうすれば良いかはよく分からないけれど、ベクトルを都市に向けるんじゃなくて今生活している地域そのものへ向けないといけないんじゃないだろうか。

そして、グローバリズムの価値観をずらして地域へと向くためにはグローバリズムに着せられている鎧を一つずつ脱いでいかないといけないように思う。

都市化とは外部への依存化を進める過程ともいえるけど、そこから自由になるにはそういった鎧(外部依存)を一つ一つ脱ぎ捨ててそれを生活への楽しみへと変えていき、それによって求心力を得るしかないのではないだろうか。(都市化の進んだ場所では鎧を脱ぎ捨てることはかなり困難でしょう。また、それが楽しみとなって求心力を得られるのが理想。そのためにイメージ化と実践が必要)

今一度、足元にある生活を見つめなおすこと。都会がどう転んでもできないことを楽しむこと。そして、幸せのイメージを育てていくこと。(幸せという言葉は使いにくいですががんばって使ってみた。)

そのためには『イチロー? 誰それ?』という強さ・感受性を育てることも重要になる。(ですが、知識による武装は必要です)

ただ、そういうイメージを育てていくことが難しいことは理解しています。

少し前にラジオで食育の話をしていて、『 今の大人世代にむしろ食育が必要だが飽食の時代で育ってきた大人を教育するのはかなり困難といわれている。だからこそ子供たち・次の世代の教育が重要になってくる。』というようなことを言っていました。

高度経済成長期 を経験してきた大人たちが、個人ならともかく地域としての価値観を変える(持つ)ことはかなり困難でしょう。

だからこそ、次の世代にイメージを引き継ぐことに目を向けなければいけないのだと思うのです。

そのためにはイメージを描き続けること。そして、少しでも実践していくこと。

それしかないのではないでしょうか。

キーワードは『生活』と『教育』。だと思います。

まぁ、あまっちょろい意見かもしれませんが、少しは楽しいイメージを描けなければ誰もついてこないのではないでしょうか。(それが難しいっちゅうねん!)

最後にm.mさんの記事から再度孫引き。

「自分の身体により近い足下にこそいろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。
今の社会は全員がよそのものでよそのことをやっているという感じがするんです。
私の理想は、人間が一日で歩ける半径40キロくらいの範囲で野菜や水など
必要なものが手に入り、その地域の中で暮らしが循環できることですね。
足下の衣食住のような小さな紡ぎあげこそが文化だと思うんです、
足下から生活をつくり上げる力がとても重要なんだと思います」(SOTOKOTO環境移動教室28よりSTARNETのオーナー馬場浩史さんの言葉)

雑誌の記事はまだ読んでいませんが、こういうことも関係があるでしょう。だって、僕たちが子供のころに”まちをどうしたいか”、とか生活そのものと直結するような教育を受けた記憶があんまり ないですもん。それとも、記憶がないだけで実際にはいろいろあったのかな。本当は小さいころからひとりひとりが真剣に考えていかないといけない問題だと思います。
(今日は早く寝るぞ)




under’s high

undershigh.JPG
少し前にMBCのどんかごで、たまたま見かけて気になっていたフリーペーパー『under’s high』
ひょんなきっかけから再び意識にのぼったのでもらってきました。

ちょうど打ち合わせ先の近くのTSUTAYAにあるようなので帰りに探してみるとなかなか見つからない。
本を買うわけでもなく、ただフリーペーパーをもらうだけなので忙しそうなレジの人にもなかなか聞けず、しばらくうろうろ探してもやっぱり見つからない。
もう品切れなのかなぁ、と思いつつレジがすいた時に意を決してレジのお姉さんに「すみません、フリーペーパーの・・」と言い掛けた瞬間、目の前のカウンターの上に見つかりました。

ちっちゃー。

ハンディサイズとは知らず、見逃してました。「すみませんフリーペーパーの・・・・これもらっても良いですか。」ときょどりながらごまかしてしまいました・・・。

さて、それは良いとして今回の特集はランドスケープ。

最近、建築はモニュメントではなくランドスケープに向かおうとしているように思います。

それは、建築の焦点が人間のアクティビティや関係性に向いてきたからで、まちを歩いているときにさまざまな活動や関係が立ち現れてくるような楽しさに目覚めたからのように思う。

単体の建築の中でもランドスケープ的な視点が注目されているのですが、そうでなくても個々の建築(外溝なんかも含めて)が豊かになればまちは活気付くと思います。

翻って、自分達の周りを見渡してみると、人の思いの見えない(人々の息遣いや関係性の豊かさも見えない)建物が増えつつあるように思いますがいかがでしょうか。

今の生活の多くはさまざまな関係性を無視することで成立している側面が強いですが、それによってつまらなくなっていることも多いと思います。

関係性を捨てるのが都市化の原動力だったかも知れないけれど、それに反するのではなく、関係性をデザインによって楽しさに結びつけることができれば、まちはきっと面白くなるだろうと思います。(SA・KURA・JIMAプロジェクトなんかそういう意味でもほんと面白かった)

そうそう、ちょっと恥ずかしい思いもしたハンディサイズですが、個人的にはこのちっちゃい感がけっこう好み。

模型も今は1:100でつくっているけど。同じ密度で1:200でつくりたいな、とか思ってしまいました。

とにかく、鹿児島を考える熱いフリーペーパーですので一度てにとってみてください。




TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』



NHK教育福祉ネットワーク2月21日(火) 20:00~20:29
シリーズ“こころ”を育てる第2回“あそび”を生みだす学校~建築家町山一郎さん~

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。

前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。
やっぱり豊かである。
これが建築なんだなぁとつくづく思う。

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

豊かさがそこにいる子供達の顔に現れている。

■小学校は日本全国均等に配置されていて、馴染みのある建物であり、地域のコミュニティの核となりうる。
■子育てにおいて、核家族という中で分断された形で子供が育てられている。日常的にも子供どうしが群れをなして遊ぶという機会がどんどん少なくなってきている。それは問題ではないか。
■親が専属で育てるのがいいという意見もあるが、子供をいろんな親が面倒をみて育て、子供が群れをなしてその中で育っていく。そういういろんなことがあわさって子供は育つ。
『子育ての共同化、地域化』が求められている。

それは宮台の言う『異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間』である。

宮代小学校では、全部で6つの門をつくり地域の人がどこからでも入ってこれるよう工夫していたが、いくつかの事件の後、文部科学省の指導があり、やむなく正門以外は閉じられてしまったそうだ。

安易に子供を隔離することによって守ること。それは子供達からコミュニケーションのチャンスを奪い、『隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在』として育ててしまわないだろうか。

最終的に建物がまちに開かれていて、そこに地域の人が参画することによって、地域の目によって子供も守られ、子供がいることで地域の人の集まる拠点となる。
そういう相互関係によって安全も守られ地域の核となることが一番だが、ときどきバランスが崩れることもある。
しかし、そういうのを乗り越えてより良いものができればよい。

と町山は言うが、町山の懐の深さと言うか、もっと長いスパンでものを見る視点に感心した。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。

宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。

20年以上も前から、そういう視点をもっているというのは素晴らしいが、逆に言うとそれを受け入れる余地がまちの側にもあったということだろう。
(この学校では子供達が裸足で駆け回るが、それは学校側からの提案だったそうだ)

翻って、先日鹿児島県の建物の仕上げの仕様の説明を受けたが、県は学校の仕上げ材の標準仕様というのをつくっていた。
プロポーザルなんかでも、その仕様どおりの材料を明記すれば評価が上がるそうだ。
コストや最低限の仕様については一定の効果があるだろうが、いまどき”標準化”を、それも教育の現場においてうたっているのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

そういう思想からは、笠原小学校のような学校は決して生まれはしないし、そこには町山のような長い時間を見据えた視点はない。

僕の個人的な意見だけれども、子供の教育以上に税金をかける必要のあるものなどあるだろうか。
他にコスト意識をもつべきことはいくらでもあるだろうに。

28日(火)13:20から再放送があるみたいなんで、興味のある方は是非。
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