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under’s high vol.3

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under’s highのvol.3が出たのでさっそくもらってきました。

今回の特集は本。ということで、かえる文庫のところで僕もちゃっかり写ってます。予想通り覇気のない写りでしたが幸いにもそれほど大きい写真ではないのであまり気になりません。(半分にしてという願いは届きませんでしたが、やってたらちょっと狙いすぎになってたかもしれませんね。)

インタビューの部分の内容は初めて読んだのですが、このスペースで結構うまく言えてるんじゃないでしょうか。お疲れ様でした。

それにしても回をおうごとに内容が充実してきてますが、ここまでのクオリティを空き時間にやるのは季刊でも大変そう。

そうそう、under’sのみなさんがナマイキVOICE主催のアートマーケット で「藤浩志賞」をもらってました。おめでとうございまーす。

偶然ですが藤さんといえばかえる文庫とかえるつながりです。 今、かえるがあつい。かも。




B123 『ウェブ人間論』

梅田 望夫 (著), 平野 啓一郎 (著)

新潮社 (2006/12/14)



先日川内でかえる文庫した本。
実は梅田氏の『ウェブ進化論』は読みそびれてしまったのと、各所で言及されているのでなんとなく読んだ気になってたのとで未読。近々”前提”としては読んでおこうと思っているところ。

本書は1960年生まれの梅田氏と、僕と同じ1975年生まれの平野氏との対談なのだが、梅田氏の方がウェブ世界の変化を不可避なものと受け入れてそこでサヴァイブしながら楽しもうと吹っ切れているのに対し、平野氏の方がウェブとリアルの世界の変化に慎重な態度をとっていたのが印象的だった。

新しい技術などによって生活習慣や価値観などが変化し、それがやがてスタンダードとなっていくのは人類が繰り返し経験してきたことだし、梅田氏にはおそらくそういう歴史を踏まえたうえでの人間に対する最終的な信頼のようなものをもっているのを感じた。逆に平野氏の方がその変化を若いころに生々しく経験したのと、職業柄、個の人間のより深くまで入り込んでしまうため、より危機感のようなものを感じてしまうのかもしれない。

あとがきで梅田氏が

平野さんは、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である。(中略)私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるがゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える。

と書いているがこの違いはどちらが正しいということではないにしても本質的な違いがある気がする。

僕がどちらの感覚に近いかというとリアルなものに対する危機感という点では平野氏に共感する。しかし、ネットの可能性という点に限ればどちらかというと楽観的かもしれない。

平野氏が

実は僕たちが公私の別を言うとき、そこで言う「公」というのは、僕たちがどんな人間であるかというのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会的領域に過ぎないのではないか、ということです。そうした時に、「ウェブ」という言葉でアレントが表現したような、人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないかということ僕はちょっと感じているんです。(平野氏)

というようにアレントを引用していたが、アレントの言うような”奪われてしまった公的 なもの”をウェブが取り戻す可能性は大いにあるように感じた。

また、僕はウェブの世界にはわりと楽観的だけれども、単純にリアルな世界からリアルさが奪われていくのがやっぱり心配だ。(例えば町並みや触れる素材や温度や匂いや・・・・職業柄そんなことが気になる。)

ウェブをサバイブするにしたって、リアルな世界での土台のようなものは必要だろう。リアルな世界ですでにウェブをサバイブするための土台のできている人・世代はいいかもしれない。だけども、これから育つ子供たちがそういう土台を獲得できるかというとだんだん心配になってくる。(そんな土台は新しい世代には不要だ、とはちょっと思えないし。)

ウェブの進化によってリアルが不要になるのではなく(子供たちにとって特に)より重要になるのではないだろうか。

ただし、もしかしたら逆にウェブによってリアルに対する興味や接点が増すのではないかとも思っている 。

そう願いたいし、 そういう接点をウェブに編み込んでいくのが僕たちの世代の使命の一つかもしれない。




B121 『ファインマンさん 最後の授業』

レナード ムロディナウ (著)

メディアファクトリー (2003/11)


チャビンさんのNoseGlassでかえる文庫したもの。

物理学の最前線という想像力の最も要求される場所の様子が垣間見れて面白かった。

ファインマンさんは著者との会話の中で「それで君は?」というように 自分自身がどう感じたかのかを何度も聞き返す。

そこにファインマンの自由さと創造性が垣間見える。

想像力(創造力)を要求される場では 、小さな雑音にもすぐにかき消されそうな内なる声を聞き取ることが求められる。ファインマンはそれを何事にも好奇心を持って楽しむスタイルとして確立している。(おそらく他の学者もそれぞれのスタイルがあるのだろう)

・・・これは全て自己満足だ。ファインマンの焦点は内側に向き、その内なる焦点のおかげで、自由になれたのだ。

ファインマンさんの何事も自由に楽しむスタンスを見て、『子どものための哲学対話』の『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』っていう一節を思い出した。

一方でファインマンさんは

個人的なレベルで自分自身を理解するなんて、どういう意味かも分からないね。よく、みんな、「自分がどういう人間か知るべきだ」なんて話してるのを聞くけど、何の話かさっぱりだ。

とも言う。

ファインマンさんの『内なる焦点』と今時のいわゆる『自分探し』、違いの決め手はどこにあるんだろう。

やっぱり内と外との違いだろうか、それともただ、結果を出せたかどうかの違いなのか。

あと、何より気になるのは、この本の途中のページにべったりとキスマークが付いてることと、裏表紙と背表紙にどうも図書館のバーコードを隠すような形で『リサイクル本』といういかにも手作りの紙が貼り付けられていること。こいつは僕の手元に来るまでどういう道をたどってきたんだろうか。




B119 『海馬 脳は疲れない』

池谷 裕二 (著), 糸井 重里 (著)

新潮文庫 (2002/6)


たこ阪さんのところでかえる文庫した一冊。

いやぁ面白かった。対談形式(しかも糸井メソッド)なので読みやすいのはもちろんのこと、目から鱗な話がもりだくさん。

ちょっと前半部分の目から鱗をメモ代わりに挙げてみると

・年をとると物忘れがひどくなるというのはうそで、引き出しが多くなるので探すのに時間がかかるのと記憶の方法が暗記メモリー法から経験メモリー法に 変わるため。

・ストッパーをはずせ。

・つながりの発見が大事。つながりの可能性はべき乗で増える。

・脳は疲れない。

・頭は歳をとってもよくなる。

・ヤル気はやる前には起きない。やり始めてからヤル気が起きる(作業興奮)

などなど。

こういう話と日常のふとした感覚をつなぎ合わせていくところが糸井さんのうまいところなので、本当の面白さは本著を読んでみないと分からないけれど。 (そういう意味では各章の最後についているまとめはちょっと余計かな。ここが面白かったというところがまとめに挙げられてなかったりしたし。)

池谷さんが受験勉強で数式も覚えず経験メモリーを駆使していたというのは、あっやっぱりっていう感じ。僕も暗記はめちゃくちゃ苦手だったので いつもどうすれば覚えることを少なくできるかを考えていた。

この本を読んで一番思ったのは、『俺は馬鹿だから』とか その手の言葉を使うことが、どれだけ可能性をなくしてしまうもったいないことかということ。

その言葉を使うことで 『俺は馬鹿』な状態を固定してしまうし、脳が生き生きと活動する機会も失ってしまう。(自分の子供にも この手の言葉は使ってもらいたくない。)

うーん、『進化しすぎた脳』も読みたくなりました。(思えばdan氏の書評が『本が好き!』を知るきっかけで、その結果たこ阪さんを知って、その結果同じ池谷さんの本を読んでたりしてる。面白いなぁ)




勝ったどぉ~~~

明日以降、天気が大きく崩れるということで、今日はドライブに行きました。

出発前には唐船狭でそうめん流しを食べて指宿のなのはな館あたりでゆっくりしようか、と言っていたのですが、急に、串木野のまちの雰囲気(港やパラゴンとか)と阿久根の海を味わいたくなって北薩方面へ予定変更。

あいにく天気は崩れてあまり味わえなかったのですが、そういえば途中に川内がある、ということで慌ててカバンに本を詰め込んで、阿久根の帰りに川内のたこ阪さんに寄ってきました。(ごちそうさまでした~)

たこ焼きは久しぶりでしたが、生地の味が生きてておいしかったです(塩との相性が良かった)。そして少しお話させていただいてかえる文庫で4冊の本をゲットしてきました。本を読むペースを落としているのでいつになるかは分かりませんがいずれこれらの本も記事に書こうと思います。

夜、家に帰ってブログをチェックしてみると 薩摩之風さんが僕のこないだのエントリーとたこ阪さんのエントリーを受けて地方についての記事を書かれていました。(たこ阪さんへのコメントで暗に参加要請したのが届いたのか・・・)

はじめに、僕の記事を受けてのたこ阪さんの記事についてですが、その前の僕の記事が少しまずったなぁ、という印象でした。

何をまずったかというと、 あの記事は僕の個人的な思い入れやライフスタイルの問題をそのまままちづくりに直結させた書き方をしてしまったので、それは無理だわなぁと当然なってしまいます。そしてそこを鋭くつっこまれてしまいました。あいたたた。

そして、その後の薩摩之風さんの記事を読むと、あっ、結構言いたかたこと言ってくれてるやん、という感じでした。(実は他のエントリーを読んで、なんか援護射撃してくれそう、ってことでコメントで暗黙の参加要請をしたのでありました。他力本願ですが・・・)

僕が言いたかったのは、まさしく『モノサシの逆転』だし、その結果『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なれれば良い、ということだったのです。(再び、他力本願)

まぁ、それだけで全てが好転するとは思えませんが長期的な視点で見たときの一つの可能性であると思うし、そういう可能性を受け入れる懐の深さを地方は持って欲しいという希望でもあります。

また、この記事を読んで僕が考えたのは、『エコカッコイイ』を一般化し 『地方はカッコイイに敏感な人たちが集まる場所に』なるためには、思想をリードする”カリスマエコカッコイイナー”が必要だということ。(薩摩之風さんの記事では”ナイキとか”)

僕が前の記事で書いた”イメージ化”とつながりますが、” カリスマエコカッコイイナー”はそういうライフスタイルを体現しつつ活動を行っている(または行おうとしている)アーティストやデザイナーが向いているんじゃないかと思います。(実際そういう方もいらっしゃいますし)

そこで、僕の提案は” カリスマエコカッコイイナー支援プロジェクト”。

そういう活動をしている人(したい人)にある程度の支援を行い、我が地域を” カリスマエコカッコイイナー”が集う聖地とすること。それによって、地域のブランド化および地域住民の意識の転換を目論む、というもの。

空いている民家や施設の部屋を貸し出したり、一定の活動費を援助するのは地方財政の全体から見るととその効果に比してそんなに大きなウェイトにはならないんじゃないでしょうか。

なんてことを考えました。(もう一度書きますが、これらは一つの可能性でしかありませんし、これだけで地方が変わるとは思えません。ただ、やれる範囲でひとつひとつ実践して全体を押し上げるしかないと思います。)

え~、前置きはこれぐらいにして、今日のタイトルについてですが、今日、川内から帰る車の中で妻が『ビリーのDVD、最近見ないと思わない?・・・・友達に貸した。』と告白しました。そう、妻があの戦いの敗北宣言をしたのです!
やりました、ついに勝ちました!
まぁ、妻にしてはよく頑張った方だと思います。(とは言っても最初の数日以外はやってるところを見たことがないのでいつまで続いたのかは・・・)
これで、日本の将来は安泰です。おまけにこれはまさに”エコカッコイイ”を推進するためのウォーミングアップのようなものでもありました。これで、地域の未来も明るいと言えるでしょう。僕が必死にチャリンコをこいでる姿は今の価値観では決してカッコイイものではありませんが、いずれこれがカッコイイの最先端になり、皆が「そういえばお前は昔からエコカッコ良かった」などと言ってくれるようになるはずです。どうしよう。