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高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
講談社 (2020/8/11)

「高断熱化・SDGsへの違和感の正体」というのはキャッチーな見出しのようだけれども、今感じてることを素直に書くとこうなる。
今まで感じていた違和感はどこから来るのか。それに関してこの本を読んで感じたところを書いてみたい。

人間以後の哲学

著者は、人間以後の哲学というタイトルを掲げているけれども、「人間以後」というのはどういうことだろうか。

私はそれを、

  • 私たちは人間が滅亡した後も続く世界に生きている、という視点からの哲学
  • 人間の生活世界と、それ以外の世界を分断し、コントロールしようとすることによって成立した、近代的・人間主義的な世界観以後の哲学

である、というように受け取った。

今までは人間の生活する世界を安定的なものとするために、生活世界から、それ以外の世界は切り離され続けてきた。
その結果、人類は「それ以外の世界」に地質学的とも言える影響を与え、引き返すことができないところまで来ている。(人新世)

そこで、著者はモートンを取り上げつつ、「脆さ」を自分の存在の拠り所とするような哲学を提唱する。

人間の存在の拠り所・不安定感の問題は、近代的な生活世界に閉じ込められた世界では心や社会の問題とされるが、人新世ではそれは、「それ以外の世界」を含めた世界の問題である。
その際、「脆さ」を受け入れることが世界への感度を取り戻させ、世界との再び切り結ぶことを可能とするような哲学のベースとなるのではないか。
そういう、分断から切り結びへの転換の問題のように思う。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。

果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。
本書はそういう問題を提起しているように思う。

高断熱化に対する違和感

誤解を恐れずに告白すると、省エネ至上主義的な高断熱化の流れには多少違和感を感じている。
それはどこから来るのだろうか。

消費エネルギーを抑制しようとする具体的なアクションの意義は十分に理解できる。しかし、そのベースとなる世界観は、分断とコントロールの近代的な意志そのものである。
環境に対する具体的なアクションは必要であるが、それは同時に環境破壊の原動力となった世界観をベースとしており、その世界観を温存している、というところに矛盾を感じていた。

おそらく、この矛盾を抱えた構造を自分の中で解消できていないところに違和感を感じているのだと思う。本当にそれだけでよいのか、が腹落ちしていない。

だけど、この矛盾や違和感はつくることの妨げになるとは限らないと思っているし、誤解だったかもしれないとも思う。

今は、高断熱化を押し進めることが、空間と世界観を分断の方向に進めてしまう、というイメージが強い。
しかし、消費エネルギーを抑えつつも、世界とのつながりを諦めないような、分断とコントロールではない、著者の言う「人間以後の哲学」にもとづくような建築のあり方がきっとあるはずだし、逆に消費エネルギーを抑えることが、世界とのつながる可能性を開く、というようなこともあるように思う。そうであれば、この違和感は解消されるかもしれない。

快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか

先の違和感のベースには、自分の建築に対する基本的なスタンスが関わっている。

もともと、「快適性が必ずしも最善とは限らないのではないか」という思いを持っていて、独立時のキックオフイベントの模型展もそのような意識のもと「棲み家」をキーワードとして開催した。

往々にして、快適性は「分断とコントロールの世界観」によって維持されていることが多い。
快適であるということ自体は歓迎すべきことに違いないが、そこに潜む矛盾に無自覚であることが危険だと思っている。

暴論かもしれないけれども、実は、大人の住む家はどうだっていい。
快適で安全な環境に満足してればそれでいいと思うし、好きにやればいいと思う。要望があればできる限り応えたい。

しかし、それが子どもたちが育つ環境として最善かと言えば、そうとは限らない。
大人としてはそちらをきちんと考える責任があると思っているし、そうでなければプロとは言えないのではないか。

「分断とコントロールの世界観」のもと、快適性のみを追求し続けてきたことによって、世界は狭く、エゴに満ちた息苦しいものになってはいないだろうか。
「その他の世界」から分断された、快適な空間から出られるということも知らず、行き場を失ったりはしていないだろうか。
その世界は、子どもたちが育つ環境としてふさわしいだろうか。他にも同列で扱うべき大切なことがあるのではないだろうか。

そういうことを考えていると、さまざまな矛盾に敏感にならざるを得ないし、一つの価値観に偏ることに慎重になってしまう。

人新世の世界を生きること

SDG’Sに関しては、まだ良く分かっていないけれども、やたらともてはやされているところに同じような違和感を感じていた。(杞憂だったかもしれないけれども)

省エネやSDG’Sは、「分断とコントロールの世界観」を批判することもその使命の一つであるはずだけど、具体的なアクションを起こし成果を上げるためにその世界観を維持せざるを得ない、という矛盾を抱えていることも多いのではないか。
そして、もはや、その矛盾はある程度は避けられないのではないか。
もし、そうであるなら、そういった矛盾を抱えた存在であることを忘れてはいけないのではないか。

人新世の世界を生きるということは、人間の生活世界と、それ以外の世界のどちらかではなく、2つの世界の間の矛盾の中を生きるということである。
そういう矛盾と「脆さ」を受け入れることが、世界への感度を高め、世界とつながる手がかりになるのではないか。

そうした中から、矛盾を突き抜けた、新しい哲学を身につけた何かが生まれてくるかもしれないし、既に生まれつつあるのかもしれない。おそらく希望はある。

屋久島(や甑島)はSDGsとか言わないで欲しい

これは勝手な意見、というか余談。

僕の実家がある屋久島の経験を以前書いたけれども、屋久島で感じたのは、豊かであると同時に暴力的な自然は「その他の世界」なんかではなく、人の生活とつながった身近な存在である、ということだった。だからこそ、失われつつある世界とのつながりを感じようと多くの人が訪れるのだと思う。

もし、そこにSDGsを結びつけようとすると、そこでは当たり前であった世界のつながりが、人間の生活世界から見たフレームに絡め取られて、生活世界のイベントの一つに成り下がってしまい、「その他の世界」へと切り離されてしまうんじゃないかという気がする。

屋久島や甑島はSDGsなんて言葉は最後の最後まで使わずに、「そんなこと、ここでは当たり前でしょ」と飄々としていて欲しい。
人の生活が世界とそのままつながっている、というような世界のあり方は、これから先、きっと希望になりうる存在なのだから。

メモ

同年生まれということもあり、著者の本はその問題意識に惹かれるところが多く、これまでいくつも読んできたけれども、どれもぼんやりとした理解しかできていない。
(失礼ながら、迷いながら考えながら、他人には読み取りにくい文章を書いてしまうところに共感してたりもする。)
それでも、著者には場所や空間に対する思い入れや信頼のようなものを感じて、何か得るものがありそうな予感がするし、本書でもいくつかヒントとなる言葉があった。

ざっと気になったものをあげると

  • 場所が主体の確かさの支えだけなら、確固として定まってしまい、排他的な同一性の論理が優勢になる。場所は確定的な閉じたものでよいのか。
  • 世界の感触や質感のようなものに対する感度が、SNS化された平坦で空疎な公共圏に代わる世界形成の原理と手がかりとなるのでは。
  • 公共性や共有可能性、つながりの感覚を生むような間隔空間・領域。内藤廣の空間の捉え方に近い?
  • ノンヒューマンであること。
  • エコロジーと触覚に向かう言語
  • マサオ・ミヨシ 日常の普通さを物質的に語る。建築を再物質化する。永田昌民のおおらかさ。
  • 世界をケアの対象と捉えるなら、世界の他性・外部性を思考することができなくなる。

というようなもので、もう少し考えてみたい部分である。
SDG’Sに関してもちょっと勉強してみないとな。




「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になる B241『建築家・永田昌民の軌跡 居心地のよさを追い求めて』(益子義弘他)

益子義弘他
新建新聞社/新建ハウジング (2020/6/2)

永田昌民のこれまでの代表作をとりあげ、クライアントや益子義弘、堀部安嗣、趙海光、倉方俊輔、三澤文子、横内敏人、田瀬理夫といったメンバーがコメントをよせながら永田昌民の建築の本質を浮かび上がらせる。

物が織りなされた場

その点で言えば彼の設計上の主眼はものの構成の側になく、物が織りなされて「一つの空気に昇華する場や空気の状態」を求めていたのだと思う。軸組や骨格を顕にする真壁構造でなく、あえてそれらを隠す大壁の構成に徹した空間造りの志向はその表れであろうし、そうした物の構成の側に枠取られるような建築的なテーマ性を彼は好まなかった。(p.3)

ある意味では、前回私が書いた「くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。」というようなことと反対のものを求めていたようにも受け取れる。

しかし、氏の建築には明らかに構築の意志があるように思われるし、「物が織りなされ」た状態に昇華させようとすることは、私の目指したいと思うところと重なる部分も多い。
この辺りが建築の難しいところであり、面白いところだと思うのだけれども、言葉尻では相反するようなことでも、目指すところは案外同じようなものだということは多い。
最終的に、その建築がどのようなあり方をしているか、というところが重要だとすると、学ぶことはたくさんある。

まちに溶け込むちょうどよい塩梅

また、氏の建築には押し付けがましさや、過剰な凡庸さのようなものはほとんど感じなかったが、それはなぜだろうか。

外観の素朴さや、絶妙な配置、内部の納まりの自然なあり方、など、その理由はいくつも考えられるけれども、一番の理由は形態や仕様だけでなく、凡庸さという点においても、氏が過剰であることを嫌ってそこから抜け出すまで徹底的に検討したからではないかというような気がする。

前回書いた、「あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。」というようなことを実現しつつ、過剰さを注意深く避けることで、まちに溶け込むちょうどよい塩梅となっているように思う。

それを目指すためには、「普通さ」だとか「凡庸さ」だとかいった言葉はかえって邪魔になるような気がしたし、もしかして、そういうことに縛られないように、自らの建築をあまり語らなかったのかもしれない。

おそらく、建築は区別を前提とした「普通さ」や「凡庸さ」と言った言葉の側ではなく、その物、その場所そのものの存在のあり方の側にある。




自分が追い求めてきた「新しい凡庸さ」とは何か B240『建築の難問――新しい凡庸さのために』(内藤廣)

内藤廣 (著)
みすず書房 (2021/7/20)

字も小さめだし、読了までしばらくかかる、と覚悟してたけど、スラスラと、出張期間中で読み切れた。
理論書というよりは個人的な覚悟の話(と受け取った)ので予想していたほど難しくはなかったけれども、考えを促してくれる良い本だった。

問いが難問であるために

本書は真壁智治が問いを投げかけ、それに著者が答える、という形式で進んでいくが、それらの問い自体は向き合い方によってはありふれた問いと言えなくもないし、単に言葉として答えるだけであればそれほど難しくはないのかもしれない。
ただ、自分の問題意識や実践とを結びつけた上で、これらの問いに”誠実に”答えようとすると、とたんに難しくなる。

これらの問いはややもすると、大きな力のようなものに流され思考停止に陥ってしまいがちになるところを、足を止めて、本当にそれで良いのかと問いかけるような力を持っている。
その問いに誠実に向き合おうとすれば「資本主義に染まる今の社会の中で、あなたには如何にして建築が可能か?」というような「難問」を突きつけられる。

反面、これらの問いは、誠実に向き合う覚悟がなければ、先に書いたようにありふれた問いとしてしか現れず、ありふれたどこかで聞いたようなことをつい答えてしまいそうなもので、実際、本書を読む前にこれらの問いを投げかけられれば、自分もありふれた答えを返していたかもしれない。

そういう意味では、実践とそれに結びついた思考を誠実に積み重ねてきた著者だからこそ、これらの問いが難問たり得ていると言えるし、まずはそこに敬意を払いたいと思う。

これまで、このブログでは、割と抽象的な話で終わってしまうことが多かったけれども、自分に対して適切な問いかけをし、それに対して具体的な実践によって答えていくことの重要性を改めて感じたし、自分のリソースをもっとそちらに割いていかなければと思った。

ここでは、本書全体が投げかける問いかけに対し、考えたことを書いておきたい。

モダニティや資本主義にどう向き合うか。新しいスタンダード

資本主義に対する姿勢は今、自分が建築を考える上で非常に重要な問題だと思う。
それは、いかにして建築に「つくること」を取り戻すか、ということのように思うが、前回書いたように、建築費が高騰する中で、(特に私が関わることの多いローコストな住宅では)「つくること」を得ることはさらに難しくなっているし、この先、それを成立させること自体が厳しくなるかもしれない、という危機感を持っている。

いや、逆に否応なく「生産プロセスやコストに介入」せざるを得ない状況に追い込まれるとすれば、「つくること」に向き合うチャンスとも言えなくはない。
贅肉を削ぎ落として、コストを抑えつつ「つくること」を内包しているような新しいスタンダードのようなものを考えていく必要がある。

建築を構築する意志だとすると、それをどうかたちに残すか。断熱の問題

限られた条件の中で「つくること」を取り戻すこと、と直接的に関連すると思うが、著者が書いている、上棟の瞬間に現れる構築する意志(「かた」、意志と希望の「か」、「素形」)を最終的な「かたち」にどうすれば残せるか、ということも非常に重要である。

その際、断熱もしくは省エネの問題をどう考えるかというのが一つのポイントになってくるように思う。
今後、断熱の問題を避けて通ることはできないが、断熱性能を高めるためには外周を隙間なくくるむ必要があり、それが構築する意志を隠してしまう。
このことが、建築家が断熱等の問題に消極的になりがちな理由だと思うけれども、今後ここをクリアすることは必須となるはずだ。(鹿児島はまだ制約としては緩いかもしれないけれども。)

くるむこと自体を構築の意志とみなせるような「かたち」の現れを、ローコストで実現する。まだ、答えは分からないけれども、そのための方法を考えていく必要がある。

新しい凡庸さを追い求めるためには何をすればよいか

「新しい凡庸さ」とは何か。
凡庸さとは、その存在を、「他との差異」とは異なる方法で確かなにするもの、なのではないか。
あからさまに他と異なる必要はないが、今、ここに確かに存在しているというあり方を獲得できているかどうか。それをどう実現するか。

ただし、凡庸さという言葉には少し警戒もしている。
個人的な嗜好の問題かもしれないけれども、いわゆる住宅作家の作品(作品そのものというよりは、作品のメディア上での扱われ方)に凡庸さの押しつけのようなものを感じることがある。
過剰な凡庸さ、もしくは非凡な凡庸さと言ってよいのか分からないけれども、行儀良さを迫られるような息苦しさを感じることがあるのだ。
(といっても、好きな作品も多いし、実際そこに住めば全く違うかもしれない、という気もするし、ちょっとした嫉妬のようなものかもしれない。)

もう少し、肩肘を張らずに、どこにでもありそうなものでありながら、存在の確かさも兼ね備えている。過剰になるすれすれの凡庸さ。
そんなあり方が、もしかしたら自分なりに求めている「新しい凡庸さ」なのかもしれない。

今はまだ全然できていないし、ぼんやりとしたイメージにすぎないけれども、例えば、外部・まち・都市とのつながり、自然とのつながり、世界とのつながり、そんなさまざまな「つながり」「出会い」を考えることが大切なような気がしている。
他とのつながりによって、逆説的に生まれてくる存在の確かさのようなもの。そういう「新しい凡庸さ」を追い求めていきたい。

自分はどんな仮説に生きてきたか

わたし自身は建築家として立とうと決意したその日から、その時立てた仮説を生きているにすぎません。建築は語るに足るものであるはずだ、愛するに足るものであるはずだ、という仮説です。(p.278)

誰でも、少なからずは、若い頃に立てた仮説を生きつづけているものなのかもしれません。

では、自分はどんな仮説に生きてきたんだろうか。

考えてみると、建築そのものが語るに足る、愛するに足るものかどうか、というのはあまり考えたことがないように思います。
それよりも、今の時代を生きる人、もしくは自分のつくる建築に関わった人が、この世界は生きるに足るものだ、と感じられるかどうか。
その、一つのきっかけ、気持ちの受け皿に建築はなりうるはずだ、というのが私の生きてきた仮説のように思います。

自分なりの「新しい凡庸さ」とは何か。
答えは、この仮説の先にあるのかもしれません。




鎚絵さんに頼めるようになりたい


先日、モノのつくり手として尊敬する、鎚絵の大野さんのnoteにフェイスブックに投稿していた模型の写真を使っていただきました。

モノ屋より、建築学生に贈る。|kowske ohno|note

鎚絵さんのななつ星製作秘話はこちら
鎚絵製品特設ページ「ななつ星in九州」

何かを得るきっかけを頂いた際は、なるべくテキストにして残すようにしているので、少し書いてみます。

固有性を得るための闘い

僕は、建築をつくることは固有性を得るための闘いのようなものだと考えているところがあります。

固有性と言っても奇抜なものであればよい、ということではなくて、確かにそれがそこにあるという、もののあり方を獲得しているかどうか。
存在として人間を受け止めるような包容力を兼ね備えることが、建築というスケールのモノに課せられた使命のような気がします。

今の時代、少し油断をすると、簡単に固有性は霧のように消えてしまいます。そんな中でどこまで踏みとどまれるかの闘い。

僕は普段、割とローコストな住宅を設計することが多いのですが、複雑な形状も、高価な素材もなかなか採用できない中で何とか工夫をしながら固有性を死守しようと藻掻いている感じです。
そして、それは建築費がどんどんと高騰していくにつれてますます厳しい闘いを強いられるようになってきています。

それでもやっぱり工夫して闘うしかないし、その中から生まれる可能性もあるのでは、という気がします。(とはいえ、もっと余裕があれば・・・と常に切実に思うわけですが・・・)

構成と素材

その固有性を獲得するために建築が扱えるものとして、例えば「構成」と「素材」があるかと思います。
「構成」はモノとモノとを組み合わせる文法のようなもので関係性による力、「素材」はモノそのものの力。
それらをどう扱うか、そこにどんな密度をもたせることができるか、によって建築のあり方が変わってくる。

そして、それらはどちらの密度が不足しても十分な力を発揮できない。

学生たちが何を考えて、どんな模型をつくっていたか、実際に見ていないので想像しかできませんが、白模型で構成に走るのも気持ちは分かります。
構成の力を信じてそこに憧れを持たなくなっては設計はできないと思うし、素材の力に想像力が追いつかないのも分かります。
(僕が学生の頃なんて、何をどう考えれば全く分からなくて、ほとんど空っぽの案を出してました。)

だけど、やっぱりそっちだけだと、固有性を獲得することはかなり厳しい。可能性がゼロとは言いませんが、構成だけで成立しているようなものも、それを支えているのは素材だったりします。

実際は僕も人のことは言えず、今の自分の目の前の課題でもあります。
今は、模型よりもベクターワークスで3Dで検討することがメインになっていて設計時にはPCの前にいることがほとんど。忙しさにかまけて、素材そのものと実際に向き合うことがなかなかできないでいます。
コストが限られている中で、金額、というよりは、素材のあり方として、最低限これだけは、というラインを死守しながら、僅かな構成の力によって何とか乗り越えようとしていますが、新しい、素材との向き合い方(それは構成による向き合い方も含みます。)を開拓していかないと頭打ちになる、という危機感は常に感じています。

ベクターワークスとマテリアル

少し余談になりますが、3DCADで検討する、というのは一定の想像力を携えながら使うのであれば、悪くはないと思います。
CADはあくまでツールなので、使い方次第。
とは言え、ツールによって思考そのものが変わりうるというのも真実で、だいぶ前に議論されたように、テキスチャマッピングの作法が、「建築の中でで素材は表層ではないという当り前のことが、ほんとにわかっているのかと不安になります。」という状況を助長してきたのは確かにあるかと思います。

そんなとき、vectorworks 2021から新たに導入された「マテリアル」という概念が頭に浮かびました。
忙しすぎて、マテリアルの機能をまだ設計に導入できていないですし、もともとあったテクスチャという概念との違いもあまり理解できていないのですが、マテリアルは構造特性や物理特性を定義でき、その体積や面積を簡単に集計できるようになります。(たぶん)

マテリアルごとに、体積ベースで集計するか、面積ベースで集計するかを設定するようになっているようなのですが、これが少し面白いと思っていて、どちらで設定するかで、素材を表層として扱うかどうかの感じ方が変わってくるように思いました。実際の使い勝手は別にして、体積ベースに設定するだけでも取り扱うオブジェクトのデータの概念がモノに少しだけ近づく気がします。

BIM化の流れによって、3D内のオブジェクトが様々な属性を持つようになり、かつ、検討やプレゼンのための3Dデータだったものが、施工するための設計図としての3Dデータへと意味合いが変わりつつあります。
ツールの中で表層として扱われていた素材のあり方が変わっていくことで、取り入れるのが早い学生の素材に対する感じ方も少し変わってくるかもしれないな、と思いました。

いずれ鎚絵さんに頼んでみたい

コストが厳しい現場ばかりでなかなか頼むことができないでいるのですが、いずれは鎚絵さんに素材の力を十分にひきだしたものをつくってもらいたい、と思っています。

いや、ちょっと嘘ですね。
本当のことをいうと、頼めていないのはコストばかりではなく、まだ鎚絵さんに頼める自信がないというのが正直なところです。

鎚絵さんに依頼すれば「モノ屋」として、職人さんの「手」でもって期待以上に応えてくれると思います。

だけど、素材・モノの力だけが突出してしまっても、建築に素材の居場所がないですし、ただただ素材があるだけになってしまいます。

せっかく依頼するなら、「設計屋」としては「頭」でもって鎚絵さんのモノ・素材に見合うような構成をつくりあげて、ここしかないという居場所、存在のための余白を整えたい。
そうでなければ、どういうものを作って欲しいという依頼をすることもできない。

モノとの向き合い方も、構成としての力量も、まだまだ依頼のスタートラインに立つことができないでいる、というのが本当のところ。(なので、取り上げていただいたnoteの記事は恐縮するばかり・・・)

でもやっぱり、堂々と依頼できるようなものをつくれるようになりたいですね。




内外の行き来を支えるつながりの場 B239 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎)

綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎 (著)
NHK出版 (2010/12/8)

以前読んだ、著者のお二方の話がとても面白くて、だいぶ前に購入していたもの。気が向いたので読んでみた。

この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。 建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。 それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』)

人それぞれの困難さ

今、3人の息子の子育て中なのだけど、面白いくらい3人とも性格が違う。
彼らはそれぞれ彼らなりの壁にぶつかっている・ぶつかっていくのだろうけれども、その彼らなりの困難さを理解することの難しさを日々感じている。
「自分だったらこうするのに」「こうすればもっと楽に生きられるのに」と思ってしまうけれども、その「こうすれば」が彼らの困難さを和らげるものなのかどうかは自分には分からない。
自分とは違う人間だから、と、これまで生きていた自分の哲学(とまではいえないような自分なりのやり方)に反するような方法で手を差し伸べてみたら、かえって困難さを深めてしまった、というようなこともあった。

そんな中、どこで見たかは忘れてしまったけれども、ADHDの人が自分のことを描いたある漫画を見て、こういう視点もあるのか、と思ったのだけど、本書の内容はその時感じたことにとても近かった。

研究の論理

そしてこの「構成的体制と日常的実践の相互循環」の重要性を前提としたとき、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである。」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミュニティの中に持ち込むことの意義が見えてくる。(p.124)

先の漫画を見て感じたのはまさにこういうことだった。
ADHDというある種の困難を抱えた人が必要としているのは、(その困難さがゆえに)本人ができること、というよりは、治療や援助のように外部から手を差し伸べることのほうだろう。と漠然とイメージしていた。
だけど、その漫画の主人公(著者)は自分の特性を把握し、それをできるだけコントロールしようと試行錯誤しながら、その人なりのやりかたで、困難さを和らげようとしていて、そこの大きな可能性のようなものが見えた気がした。
もちろん、うまくいくこともいかないこともあるんだろうけれども、自分を知るということが大きな力になりうるんだな、と感じた。

それは、いろいろな試行錯誤を繰り返し、自分の外(自分のいる社会や環境がどういうところか)と自分の内(自分はどういうひとか)の輪郭と接点を描き出しながら、自分自身のマニュアルをつくっていくようなことかもしれない。
(自分も何となく自分自身のマニュアルをつくりながら生きてきた、という実感がある。)

適度なつながり

また、その試行錯誤を繰り返すには、差異を認め合いつつ何かを共有し会えるような適度なつながり、もしくは、つながれる場が必要なんだろう。(たぶん、それは直接的な人とのつながりに限らず、社会やモノとのつながりも含むと思う。)

適度なつながりの場がなくては自分の外に出たり、内に入ったりといったことは難しくなる。そして、外に投げ出されたままでも、内にこもったままでも、試行錯誤のサイクルは回らないし、自身のマニュアルはなかなか更新されない。

子どもたちのことを考えると「自分とは違う彼らの困難さを理解すること」はやはり難しい。それでも、自分ができることは何かを問うとき、残るのは「外に出たり、内に入ったり」を支えるつながりの場の一つになることくらいしかないのかもしれないな。

(「自分のマニュアルをつくってみるといいよ」と言ったら、「それ、あんたのマニュアルにのってんの?」って聞き返されそう。
 うーん、のってないな。マニュアルつくろうと思いながら生きてきた訳でもないからちょっと違うかもしれない。試行錯誤が楽しいものだといいけどね。)




情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




認知心理学的な視点から建築を設計することの意義を問う B237『Mind in Motion:身体動作と空間が思考をつくる』(バーバラ・トヴェルスキー)

バーバラ・トヴェルスキー (著)
森北出版 (2020/11/6)

9つの認知の法則

本書は豊富な実験事例をもとに、認知心理学の視点から身体・空間・思考のダイナミックな関係を描き出す。

著者の挙げる認知の法則は以下のようなもの。(原文より英文を併記)

認知の法則
一. コストなくして利益なし。 There are no benefits without costs.
二. 動作が知覚を形成する。 Action moulds perception.
三. 感覚が最初に来る。 Feeling comes first.
四. 心は知覚の上を行く。 The mind can override perception.
五. 認知は知覚を反映する。 Spatial thinking mirrors perception.
六. 空間適思考は抽象的思考の基盤である。 Spatial thinking is the foundation of abstract thought,
七. 心は欠けている情報を補う。 The mind fills in missing information.
八. 思考が心からあふれると、心はそれを外の世界に移す。 When thought overflows the mind, the mind puts it into the world.
九. 私たちは心の中にあるものを整理するように、まわりの世界にあるものを整理する。 We organise stuff in the world the way we organise the stuff in the mind.

英文の直訳っぽいので、文脈に合わせて理解するのに少しとまどったけれども、自分なりに、

一. 何かを知覚する際、情報は状況に合わせて削ぎ落とされたり補われたりして、知覚のコストと利益の効率的なバランスが選択されている。(よって、効率的ではあるが、知覚されるものは完璧ではなく誤りや偏りを含む)

二. 知覚は動作と分け難く結びついており、動作によって形成される。これは、自分の身体だけに限らず、他人の動作や拡張された身体性によっても形成される。

三. 人はまず、表情や動きなどから感じられる情動に影響を受ける。情動は特別なものとして扱われている。

四. 知覚されたものそのものは、(知覚コストを抑えるであろう)推測やバイアスによって容易に上書きされる。知覚されたまま受け取られるとは限らない。

五. 知覚されたものは心の中で空間的(Spatial)に認知される。そこでは配置や階層、基準点、距離などが空間的に感じ取られるが、心的な空間として、その他の認知の法則にあるような偏りも併せ持つ。

六. 抽象的思考は、空間的思考・認知空間の基盤の上で展開される。例えば空間の中でものを移動させたり加工したりするように、抽象的思考の要素(表象・アイデア)を操作する。

七. 四と重複する部分もあるが、認知されているものは、階層やカテゴリーなどによる推測などによって適宜補われた上で空間的に配置されている。

八. 思考は心の中の空間の中のみで完結するものではなく、身体動作・表出・知覚を通じて外の空間ともダイナミックにつながっている。(建築家は曖昧な思考・イメージを曖昧なままスケッチとして外に表出し、それを思考の外部リソースとして再利用する。)

九. 人は思考を行う際に心の中を(空間的思考も駆使しながら)整理するように、まわりの世界を整理されたものにしようとする。それは、外部空間も思考するための基盤の一部であるからである。

というように受け取った。
著者はそれらを通じて「思考する空間を整えさらなる思考へ向かうこと」が、人が「生きる」ということの一つの本質である、ということを描き出している。

認知心理学的な視点から考えるとは何か、また、建築を設計することの意義は何か、を問う

これらのことから、何が浮かび上がるだろうか。

一つは、人が考える、ということは空間的かつ身体的なことだ、ということである。

少し前に読んだ森田真生の著書でも同じように数学という行為が空間的かつ身体的な行為であることが描かれていたが、考えるということは心の中で完結するものではなく、身体やまわりの世界とつながったダイナミックな行為である。

世界の豊かさは豊かな思考につながり、豊かな思考が世界を豊かにする。考えることが、人が「生きる」ということの一つの本質であるが故に、思考に導かれた世界に豊かさを感じる、と言い換えても良い。

そして、そのスパイラル(本書ではspraction (actions in space design our world and create abstractions in the mind)と名付けている)は正負を問わず、世代を超えて受け継がれていく。

そう考えると、建築を設計することの意義も見えてくる。
それは、世界を豊かにするための一つの営みなのだ。(ただし、そのためには密度高く思考することが前提条件である。)

もちろん、それは建築家だけの特権ではない。

この本でも全体を通して「生活への眼差し」が貫かれているが、世界を豊かにしていくのは「生活する人たち」なのである。建築家はそういう人(施主)の存在がなければ何もつくれない。

もし、まちの中から「生活する人たち」の顔(思考)が見えなくなったとしたら、そのまちはどうなるのだろう。そこから数学者は生まれるのだろうか。それはどれくらい重要なことなんだろうか。そういうことを本書は突きつけてくる。

(一つだけ補足すると、人工的にデザインされきった世界だけでなく、自然発生的に思考が埋め込まれた風景や、自然そのものも、同様に、もしくはそれ以上に豊かな思考の基盤になると思います。)

空間認知能力

空間認知能力は高められる。のみならず、かの全米科学アカデミーのある委員会でも提言によれば、高めなければならない。空間認知能力は、数多くの職業、仕事、活動の基盤をなす。(p.109)

ここからは全くの余談(自分のこと)。

空間認知能力が必要とされる建築の仕事をしているわけだけども、自己分析をしてみると、ある面ではある程度の能力があると思うけれども、ある面ではかなり能力が低いように思う。

この本で、心の中で像を回転させたり、立体を組み立てたりといったメンタルローテーション・メンタルコンストラクションという能力が取り上げられていた。
自分が子どもの頃を思い出すと、(今でもやっているけれども)折り紙やペーパークラフトといった作ることが好きだった。折り紙の折り図やペーパークラフトの展開図(型紙)を見たことがあれば分かると思うけれども、これらがまさしくメンタルローテーション・メンタルコンストラクションの訓練になっていたことは間違いない。
おかげで、頭の中で立体を組み立ててイメージすること、建築を立体物として手で組み立てるように捉えることはかなり得意になったと思うし、模型をつくるのも好きだ。

一方、本書でもよく出てくるような、頭の中で俯瞰的に地図のようなものを描いて要素をマッピングするようなことはめっぽう苦手である。
何十回と通った道も間違えてしまうし、ここで曲がる、というピンポイントの僅かな建物を除いて、道路沿いの店舗などが正確に頭の中にマッピングされることは皆無(マッピングされていたとしても順序はめちゃくちゃ)なのである。
空間認知能力が発揮されるのは、手のひらの中で作り上げられる範囲、又は、どこか一点に視点を設定したときのみ限られるようだ。(もともと興味のあるなしが極端だったので興味のある範囲以外の能力は全く育たなかったのかもしれない・・・)

こんな偏った状態でよく務まっているな、とも思うけれども、スキップフロアを多用したり、構成的な手法に頼りがちなのはこの偏りのせいかもしれない。
極端な方向音痴だ、というのは、常に自分がどこにいるか分からないことの不安から逃れたいという欲求を抱えている。それが、建築の場所性・固有性を求めることへとつながっていて、空間を考える原動力になっているようにも思うのでマイナスばかりではないようには思う。(その不安を克服しないとできないようなタイプの空間があるようにも思うけれども。)

また、抽象的思考を心の中で空間的に行っているというのは、新しい発見であると同時に、実感としては昔からもっていたものでもあるし、思考を一旦外部化して再度取り込むというのはデザイン関係の人は多かれ少なかれみんなやっていることだと思う。
この辺をもっと意識的に扱えるようになりたい、というのが最近の関心でもある。

(先日、VRゴーグルを買ったんだけど、空間的な思考を拡張するツールとして計り知れない可能性があるように思う。すでに、空間の中にスケッチしたり、アイデアを自在に動かしたり、というツールがあると思うんだけど・・・。)




MBGN 写真アップ


紫原の家の写真を実績のページにアップしましたので御覧下さい。
お引渡しは3年前ですが、ようやく写真撮影ができました。
とてもきれいに住んでいただいてありがたいです。




計算を繰り返す中から新しい意味を見出す B236『計算する生命』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2021/4/15)

計算は、規則通りに記号を操るだけの退屈な手続きではない。計算によって人はしばしば、新たな概念の形成へと導かれてきた。そうして、既知の意味の世界は、何度も更新されてきた。(p.195)

本書では、計算が新たに概念を生み出してきた歴史を辿りながら、計算と生命、それに言語の間の関係が語られる。

これを建築の設計に重ねることで何が見えてくるだろうか。

設計における論理や言語は何か

計算を論理的に組み立てられた記号・言語を手続きに従い操ることで、必然的に結果へと導く行為だとすると、建築の設計において、その論理や言語に該当するものはなんだろうか。

構造や環境など、高度に構造化された、計算との相性の良い分野もあるが、いわゆる計画を行う際に、「1+1=2」というように必然的に答えが導かれるようなものはあまり見当たらない。

情報工学的な手法によって、よりベターな解を探索するヒューリスティクス・デザインや、言語学をデザインに応用し独自の造形言語を探る倉田康夫のような態度はこれに近いかもしれないが、計画学全般に、数学における論理や言語に該当するものが歴史的に積み上げられていて、建築に関わる人が皆それを操っている、とはいえない状況に見える。

では、設計における論理や言語は存在するのか。それは何か。というのが大きな問いである。

「分かる」から「操る」へ

設計という行為は、指折り数える、筆算をする、方程式を解く、コンピューターでシミュレーションする、というような、記号を操り計算する行為に近い。

設計を多様で複雑に絡み合った要件を解きほぐして一つの解を与えることだとすると、それは、頭で考えるという行為のみで完結できるものではない。

スケッチを描く、図面を引く、3Dモデルを確認する、性能をシミュレーションする、というように、様々な手法によって、思考を一旦外部に記号として定着させながらそれを操る、ということを繰り返すことで、徐々にその解が定まっていく、というように、何かしら考える道具を使いながら計画を進めることが一般的だろう。

なので、どのような道具で、どのような記号をどう操り、何を引き出していくのか、というようにどのような手法をとるかが重要となってくるが、それは数学における計算することに近くはないだろうか。

仮に、ある手法でもって計画を前にすすめる行為を、設計における「計算」と位置づけてみる。

この記号を操り計算をするという行為には、考え「分かる」という行為が埋め込まれていて、考えることの一定の過程をスキップさせる機能がある。と同時にそれ故に、人の認知能力を超えた結果を導き出す可能性を持つ。(この点で、情報工学的な手法は、文字通り、強力な計算手法であり、可能性に満ちている。)

その予期せぬ結果には最初から意味があるわけではないが、人にはそこから意味を汲み取るという能力がある。結果は人間によって汲み出されることによって初めて意味を持つ。
設計とは、認識できるものを記号としていったんていちゃくさせ、それを操りながら新たな意味を見出し、再び記号へと定着させる、というプロセスを繰り返すことであり、そのプロセスの精度と回転数が設計の密度へとつながる。

これは大げさに言えば、数学が計算によって新たな概念を生み出してきた歴史をその都度辿るようなものではないだろうか。

方法論

ただし、毎回異なる要件のなかから新たな解を導かなければならないことは、設計の持つ運命のようなものだとしても、毎回、数学が辿ってきたような繰り返すことは不可能だろう。

数学における計算手法がある概念を内包しながら、それを歴史的に積み重ねてきたように、設計の方法論が、それまで積み重ねてきたものを内包し、「計算」のように操れるものであるとすれば、設計においても方法論を使うことで、歴史的な叡智・成果を利用することができるし、毎回、新しい手法を発明する必要はないだろう。

そして、そのような膨大な「計算」の総体の中で、既存の方法論の中から新しい概念のようなものを見つけ出し、新しい方法論として定着させることができた人が建築家と呼ばれ、建築の歴史を一歩前に進めるのかもしれない。

ただ、ほとんどの人は、何かしらの方法論のようなものを模倣し、それを操り「計算」することで一定の成果を得ている、というのが現状のような気がする。
その方法論の中に埋め込まれている概念の歴史を理解し、新たな概念への想像力を持つことで、ぐっと世界は深みを増すように思うけれども、それが体系的に整備され共有されておらず、個々の建築家に秘匿された部分が多い(ように見える)のが建築の難しさかもしれない。(多様な解・手法がありうる特殊性や、概念が重層的・個別的で難解になりがち、というのもあるだろう)

計算する生命

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。(p.219)

生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

ブルックス(ルンバの生みの親)はAI・ロボットを研究・開発する上で、世界をコンピューターの中で描写・再現し、計算する、という手法から、外界のモデルを構築することを破棄し、一旦手放した身体を取り戻すことで、環境と絶えず相互作用しながら行為を生成していく、という方向へ舵を切った。

建築の方法論を積み上げていく歴史的なサイクルも重要ではあるが、同様に、個々の設計行為におけるサイクルも重要で、環境と相互作用しながら計算を繰り返すことで小さな新しい意味を見出していくような態度、いわば「計算する生命になること」、が建築に命を吹き込むことにつながるのだろう。

ここで、個別のサイクルにおける方法論・スタディの方法で重要なのは、
・人間の認識の限界をどう拡張し、予期せぬ結果へと導けるか。
・結果から新たな意味をみいだせるようなきっかけが、どのように現れるか。
の2つのような気がする。自分はそのようなスタディを行っているだろうか。

このあたりのことは、ここで考えてきたことに大きく重なるし、一つ一つの計算(設計の方法論やスタディの方法)についてももっと意識的である必要がある、ということを強く感じさせられた。




分かることへの衝動にもっと素直に従うこと B235 『数学する身体』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2018/4/27)

前回読書記録を書いたのが昨年の10月ごろなので1年近くぶりの投稿になる。

追いつかない仕事を、後ろから走りながら追いかけ続けるような状況がずっと続いていて、読書も折り紙もほとんどできていなかった。
それでも積ん読は順調に進めていて、この本もその一つとして先日買ったもの。

数学と身体、一見無関係に思える言葉が結びついたタイトルが興味を引く。
間違いなく面白いに違いないと思いながら、読むにはそれなりの時間と集中力が必要だろうと、しばらく欲しい物リストに入れていたものを、先日ようやく積ん読に昇格させた。

それで、読む時間はないだろうけど、さわりだけでも読んでおこうと手にとったところ、意外にもスラスラ読める。自分の関心とぴったり重なっていたこともあって、一気に読み切ってしまった。

数学を建築し、そこに住まう

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(p.44)

著者は、数学を行為として捉えるとともに空間的に捉える。その数学という空間は自らの数学という行為を可能とする足場であると同時に「建築」する対象でもある。

そこには、数学という空間と、数学する人とが混然となった世界がある。

おそらくその世界には、自らの身体を通じてしかアクセスできない。その世界の住人となるためには一定の条件があるのだ。

数学といえば客観的・普遍的なもので自分とは直接関係がないように思ってしまうけれども、そうやって眺めている限りはそれは景色に過ぎない。
数学という景色が、経験を通じたその人独自の「風景」となって立ち現れた時に初めてその世界の扉が開くのではないだろか。
というより、人はみな、その人それそれの関わり合いの中でその人なりに扉を開いているのだろう。
(自分の扉が開いていたのは高校の数学くらいまでかな。大学の途中から、解き方は覚えられても、身体的に分かる感じが得られなくて、ここまでか、と感じたのを鮮明に覚えている。逆に言えば、身体的に分かる感じが得られれば数学はとても身近なものだった。)

その数学の空間に住まう人の中にチューリング、そして岡潔がいた。

「わかる」ということと身体

岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。(中略)自他の別も、時空の枠すらも超えて大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。(p.120)

「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同時に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(p.130)

「分かる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。(p.138)

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。(p.174)

岡潔の言葉を借りて数学を語ることに躊躇いもあった。岡の言葉は、彼自身が生み出した数学があってこそ響く。(p.179)

関心のある部分を抜き出してみたけれども、このブログで書いてきたことと重なる部分がかなりある。(読みながら河本英夫の著書が何度も頭に浮かんだ)

数学と身体の関わりについて直接考えたことはないけれども、「わかる」ということと身体との関わりは多少考えたことがある、というより感じていたことがないわけではない。(「脳内ポジショニングの技法」
いや、むしろ、「考える」ということを身体的に捉えるということは最近の主要な関心でもある。

それでも、数学と身体の関わりを探る本書のテーマは新鮮であった。と同時に、自分も少なからず身体的にわかる、ということの衝動のようなものに突き動かされてきたことを知った気がするし、認知科学的なアプローチで数学と合流したのは意外な出会いだった。

建築を建築する

さて、建築である。

概念としての建築を考えると、数学と同様に、建築という空間に住まい、その空間を建築し続けてきた数多の先人たちいて、彼らが積み上げてきた空間がある。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分もその建築という空間を足場としていて(足場としたいと望んでいて)少なからず恩恵を受けている。

思えば、このブログは建築という空間の住人になりたい一心で書き続けてきたもので、それは学生の頃に「まずは建築の住人にならないと何もはじまらない」と少しの焦りとともに感じた直感から始まっている。
その行為に対して不安になることは何度もあったけれども、この本は、その直感は間違っていなかったのでは、と少し明るい気持ちにさせてくれ、初心に還らせてくれるものだった。

ブログを書き続けることは、感じたことを身体化していくための作業だったのだけど、続けることで、何とかこの空間の村人くらいにはなれたように思うし、自分なりの「風景」も見えるようになってきたように思う。

地道ではあるけれども、方向としては間違っていない。むしろ、必要なのは、分かることへの衝動にもっと素直に従うことと、同時に感度をもっと高めることだろう。その先にしか到達できないものがきっとあるはずだ。

(同じ著者の『計算する生命』も買ってるけれども、岡潔も読みたくなってきた。)




YNGHn 写真等アップ


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