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情報革命後の自由と建築 B238 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(石田 英敬, 東 浩紀)

石田 英敬, 東 浩紀 (著)
ゲンロン (2019/3/4)

だいぶ前に買ったまま積読状態になっていたところ、最近新幹線での移動時間を利用して読了。

ショーヴェ洞窟壁画とリュミエール兄弟に始まり、ライプニッツ、ソシュール、フロイト、フッサール、チャンギージー、ドゥアンヌ、ダマシオ、スピノザ、タルド・・・と、まさに文理の境界を超え、縦横無尽に駆け抜けた哲学講義でした。(p.338)

とあるように、様々な思想をダイナミックにめぐりながら、新しい思考の基盤となるような論を組み立てていく試み。(ゲンロンでの講義をベースにしたもの+補論)
それに対して厳密な文章を書くには哲学的な素養が乏しすぎるのですが、あくまで本書を読み物として読んでみて、考えたことを記しておきたいと思います。
(まー、最後はやっぱり、建築につなげて考えてしまうのですが・・・。要約的な部分に関しては読み間違い・語彙の誤使用などあるかもですので、内容は直接本書を当たってください。)

言語モデルから文字へ

まず、パースやソシュールなどによる現代記号論は映画や写真、電話さらにテレビやラジオなどのアナログなメディアの浸透とともに出てきたもので、言語学をベースにして発達してきました。
その後、デジタル革命・情報革命が起き、世界はさらに記号論化しているにも関わらず、言語学をベースとして定着してしまった記号論がその後の世界に対応できなかったため、記号論という学問は表舞台から姿を消しつつある、という皮肉な現状があります。
そんな状況の中、人文学をアップデートしていくためには、文理の境界をまたぐことができるような、デジタル革命後の記号論化が進んだ世界に対応した新しい記号論が必要であり、そのベースとなるのが言語学ではなく文字学である、というのが本書の中心となる主張かと思います。

ここで、文字と言うのは普通に思い浮かべる言葉としての文字に限らず、人やテクノロジーによって書かれたもの全般を指すような広い概念かと思います。
デジタル化によって、0と1ですべてのもの(文章であれ、画像や音声や映像であれ)が書かれることをイメージすると分かりやすいかもしれません。
また、その文字は「動物化するポストモダン」で描かれたような、意味を纏う前の素材・データベースのようなもののように思います。
言語化される前の素材そのものを扱うことで情報そのものを記号論の俎上に載せ、デジタル・情報革命後の世界に対応させる、ということなのかなと。

人間と機械のピラミッドとネットワーク


上の図は本書でおそらく一番キーとなる図(にメモ書きしたもの)です。(その背景にある幾重もの議論を説明するのは諦めて、こんな感じのことかな、というイメージを書いておきます。間違ってたらすみません)

上半分が人間の、下半分が機械の記号の入出力を模式化している。
重要なのはそれぞれのピラミッドの底辺が接している、ということで、この部分に身体的に感応し、情動のもととなるような、素材・データベースがあり、それらが社会的にネットワークをなすことで個人的・集団的な無意識の源泉ともなっている。

常時デジタルメディアを通じてネットワークにつながることで、人間や機械による大量のデータベースに絶えず接続されている状況をイメージすると分かりやすいですが、人間の意識や感情、思考なども、人間の生み出すデータベースだけでなく、機械のアルゴリズム(テクノロジー)によって生み出されたものの影響を強く受けており、ソシュールの時代とはその生成プロセスが大きく変わってきていると言えるかもしれません。

それは、社会を構成するコミュニケーションが、人間間の限定的な言語的コミュニケーションから、人間と機械とを交えた大量の文字的コミュニケーションへ変化したと言えるかもしれません。

光学モデルからネットワークモデルへ 状態から働きへ

さらに、記号と社会の関係を考えた時に、フロイトは(映画などのアナログメディアの性質とも類似した)「同一化」の理論を採用していました。
誰かに自分を「投影」し、同じ存在になりたいと思う「同一化」が影響力を持った。

しかし、SNSでライトにつながる今の世界では、「同一化」ではなくタルドやスピノザの言った「模倣」や「感染」から集団性の問題を考える必要があると言います。
そして、感染は身体レベルの情動コミュニケーション、上のピラミッドの底辺の接するところでのネットワークを通じて拡大します。

それは、光学モデルからネットワークモデルへ、「状態」から「働き」への変化と言えるかもしれません。

※本書では「ネットワークモデルへ」という書き方はしていないですが、光学モデルに対応する言葉が分からなかったので仮に。

情報化社会における自由について

アルゴリズムが情報プラットホームを駆動させ、情報の組織のされ方によって個と集団の形成が自動化されていく傾向にある情報化社会で、自由であるとはどのようなことなのだろうか(p.424)

これは、本書の補講の最後に投げかけられている大きな問いだ。

シモンドン哲学においては、個人を環境や集団から孤立した閉じたアトムと考えるのではなく、技術環境に媒介され、他者たち(=集団)との相互規定関係にあり、心理的かつ社会的に個人になりつづけている存在と考える。個人とは、いつも個体化しつつある生成プロセスだと考えるのである。(中略)技術環境が固有な私、固有な私たちを生み出す固有な環境になり続けている必要があるのだ。個体化とはしたがって、心理的・集団的であると同時に技術的でもあるのだ(p.424)

私たちを「データ化しつづけている」情報環境の中で自由であるためには、心理的・集団的個体化のための「自己のプラットフォーム(実践のかたち)」をどうしたらつくれるかが重要だと著者はいう。
(ここでは書かないが)最後の処方箋のメモのような部分はなんとなく、もっと現代的に突き抜けた、新しい記号論の先に開けてくるまだ見えていないものがあるのでは、という印象を受けたけれども、おそらくそのプラットフォームは静的・固定的なものではなく「実践」という行為・働きそのものに関わるものだろう。

隈建築席巻に対する仮説

さて、ここからは建築について。
「言語モデルから文字へ」「人間との言語的なコミュニケーションから、人間と機械とを交えた文字的コミュニケーションへ」「光学モデルからネットワークモデルへ」「「状態」から「働き」へ」といったことを考えた時に、頭に浮かんだのは隈研吾による建築でした。

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。(中略)名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B030 『負ける建築』)

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

このオノマトペの本は結構好きなのですが、氏の建築は粒上に断片化された物質が、大きな意味を纏うことなく、オノマトペ的な僅かなギリギリの情動の粘度でばらまかれているように思います。

「なぜ隈建築が社会を席巻しているのか?」

その鍵がここにあるのではと。

建築を記号として受け取る際、もしかしたら私たちは、言語的・物語的な記号ではなく、文字的・データベース的なライトな記号の束にこそ安心感や居心地の良さを感じるような身体性を既に獲得していて、隈建築が絶妙にそこにマッチしているため、自然と選ばれてしまうのではと。
何かいい感じだけど、押し付けがましかったり、説教臭くないじゃん。と。
(皮肉ではなく真剣に。ただ、公共建築などの設計者を選ぶ人の多くがそのような身体性を獲得済みで、それに従う感性を持っているか、と言われると自信はないですが。)

その根底には氏が、建築が固定的なオブジェクトとなってしまうことを避け、働きや関係性に建築を開こうとしてきた積み重ねがあるのかもしれません。

もし。隈建築が<気散じ>の戦闘モードを解くようなものだとすれば、僕の中では隈建築=甑島ということになる。甑島が社会を席巻する日も近そうだ。




認知心理学的な視点から建築を設計することの意義を問う B237『Mind in Motion:身体動作と空間が思考をつくる』(バーバラ・トヴェルスキー)

バーバラ・トヴェルスキー (著)
森北出版 (2020/11/6)

9つの認知の法則

本書は豊富な実験事例をもとに、認知心理学の視点から身体・空間・思考のダイナミックな関係を描き出す。

著者の挙げる認知の法則は以下のようなもの。(原文より英文を併記)

認知の法則
一. コストなくして利益なし。 There are no benefits without costs.
二. 動作が知覚を形成する。 Action moulds perception.
三. 感覚が最初に来る。 Feeling comes first.
四. 心は知覚の上を行く。 The mind can override perception.
五. 認知は知覚を反映する。 Spatial thinking mirrors perception.
六. 空間適思考は抽象的思考の基盤である。 Spatial thinking is the foundation of abstract thought,
七. 心は欠けている情報を補う。 The mind fills in missing information.
八. 思考が心からあふれると、心はそれを外の世界に移す。 When thought overflows the mind, the mind puts it into the world.
九. 私たちは心の中にあるものを整理するように、まわりの世界にあるものを整理する。 We organise stuff in the world the way we organise the stuff in the mind.

英文の直訳っぽいので、文脈に合わせて理解するのに少しとまどったけれども、自分なりに、

一. 何かを知覚する際、情報は状況に合わせて削ぎ落とされたり補われたりして、知覚のコストと利益の効率的なバランスが選択されている。(よって、効率的ではあるが、知覚されるものは完璧ではなく誤りや偏りを含む)

二. 知覚は動作と分け難く結びついており、動作によって形成される。これは、自分の身体だけに限らず、他人の動作や拡張された身体性によっても形成される。

三. 人はまず、表情や動きなどから感じられる情動に影響を受ける。情動は特別なものとして扱われている。

四. 知覚されたものそのものは、(知覚コストを抑えるであろう)推測やバイアスによって容易に上書きされる。知覚されたまま受け取られるとは限らない。

五. 知覚されたものは心の中で空間的(Spatial)に認知される。そこでは配置や階層、基準点、距離などが空間的に感じ取られるが、心的な空間として、その他の認知の法則にあるような偏りも併せ持つ。

六. 抽象的思考は、空間的思考・認知空間の基盤の上で展開される。例えば空間の中でものを移動させたり加工したりするように、抽象的思考の要素(表象・アイデア)を操作する。

七. 四と重複する部分もあるが、認知されているものは、階層やカテゴリーなどによる推測などによって適宜補われた上で空間的に配置されている。

八. 思考は心の中の空間の中のみで完結するものではなく、身体動作・表出・知覚を通じて外の空間ともダイナミックにつながっている。(建築家は曖昧な思考・イメージを曖昧なままスケッチとして外に表出し、それを思考の外部リソースとして再利用する。)

九. 人は思考を行う際に心の中を(空間的思考も駆使しながら)整理するように、まわりの世界を整理されたものにしようとする。それは、外部空間も思考するための基盤の一部であるからである。

というように受け取った。
著者はそれらを通じて「思考する空間を整えさらなる思考へ向かうこと」が、人が「生きる」ということの一つの本質である、ということを描き出している。

認知心理学的な視点から考えるとは何か、また、建築を設計することの意義は何か、を問う

これらのことから、何が浮かび上がるだろうか。

一つは、人が考える、ということは空間的かつ身体的なことだ、ということである。

少し前に読んだ森田真生の著書でも同じように数学という行為が空間的かつ身体的な行為であることが描かれていたが、考えるということは心の中で完結するものではなく、身体やまわりの世界とつながったダイナミックな行為である。

世界の豊かさは豊かな思考につながり、豊かな思考が世界を豊かにする。考えることが、人が「生きる」ということの一つの本質であるが故に、思考に導かれた世界に豊かさを感じる、と言い換えても良い。

そして、そのスパイラル(本書ではspraction (actions in space design our world and create abstractions in the mind)と名付けている)は正負を問わず、世代を超えて受け継がれていく。

そう考えると、建築を設計することの意義も見えてくる。
それは、世界を豊かにするための一つの営みなのだ。(ただし、そのためには密度高く思考することが前提条件である。)

もちろん、それは建築家だけの特権ではない。

この本でも全体を通して「生活への眼差し」が貫かれているが、世界を豊かにしていくのは「生活する人たち」なのである。建築家はそういう人(施主)の存在がなければ何もつくれない。

もし、まちの中から「生活する人たち」の顔(思考)が見えなくなったとしたら、そのまちはどうなるのだろう。そこから数学者は生まれるのだろうか。それはどれくらい重要なことなんだろうか。そういうことを本書は突きつけてくる。

(一つだけ補足すると、人工的にデザインされきった世界だけでなく、自然発生的に思考が埋め込まれた風景や、自然そのものも、同様に、もしくはそれ以上に豊かな思考の基盤になると思います。)

空間認知能力

空間認知能力は高められる。のみならず、かの全米科学アカデミーのある委員会でも提言によれば、高めなければならない。空間認知能力は、数多くの職業、仕事、活動の基盤をなす。(p.109)

ここからは全くの余談(自分のこと)。

空間認知能力が必要とされる建築の仕事をしているわけだけども、自己分析をしてみると、ある面ではある程度の能力があると思うけれども、ある面ではかなり能力が低いように思う。

この本で、心の中で像を回転させたり、立体を組み立てたりといったメンタルローテーション・メンタルコンストラクションという能力が取り上げられていた。
自分が子どもの頃を思い出すと、(今でもやっているけれども)折り紙やペーパークラフトといった作ることが好きだった。折り紙の折り図やペーパークラフトの展開図(型紙)を見たことがあれば分かると思うけれども、これらがまさしくメンタルローテーション・メンタルコンストラクションの訓練になっていたことは間違いない。
おかげで、頭の中で立体を組み立ててイメージすること、建築を立体物として手で組み立てるように捉えることはかなり得意になったと思うし、模型をつくるのも好きだ。

一方、本書でもよく出てくるような、頭の中で俯瞰的に地図のようなものを描いて要素をマッピングするようなことはめっぽう苦手である。
何十回と通った道も間違えてしまうし、ここで曲がる、というピンポイントの僅かな建物を除いて、道路沿いの店舗などが正確に頭の中にマッピングされることは皆無(マッピングされていたとしても順序はめちゃくちゃ)なのである。
空間認知能力が発揮されるのは、手のひらの中で作り上げられる範囲、又は、どこか一点に視点を設定したときのみ限られるようだ。(もともと興味のあるなしが極端だったので興味のある範囲以外の能力は全く育たなかったのかもしれない・・・)

こんな偏った状態でよく務まっているな、とも思うけれども、スキップフロアを多用したり、構成的な手法に頼りがちなのはこの偏りのせいかもしれない。
極端な方向音痴だ、というのは、常に自分がどこにいるか分からないことの不安から逃れたいという欲求を抱えている。それが、建築の場所性・固有性を求めることへとつながっていて、空間を考える原動力になっているようにも思うのでマイナスばかりではないようには思う。(その不安を克服しないとできないようなタイプの空間があるようにも思うけれども。)

また、抽象的思考を心の中で空間的に行っているというのは、新しい発見であると同時に、実感としては昔からもっていたものでもあるし、思考を一旦外部化して再度取り込むというのはデザイン関係の人は多かれ少なかれみんなやっていることだと思う。
この辺をもっと意識的に扱えるようになりたい、というのが最近の関心でもある。

(先日、VRゴーグルを買ったんだけど、空間的な思考を拡張するツールとして計り知れない可能性があるように思う。すでに、空間の中にスケッチしたり、アイデアを自在に動かしたり、というツールがあると思うんだけど・・・。)