1

MBGN 写真アップ


紫原の家の写真を実績のページにアップしましたので御覧下さい。
お引渡しは3年前ですが、ようやく写真撮影ができました。
とてもきれいに住んでいただいてありがたいです。




計算を繰り返す中から新しい意味を見出す B236『計算する生命』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2021/4/15)

計算は、規則通りに記号を操るだけの退屈な手続きではない。計算によって人はしばしば、新たな概念の形成へと導かれてきた。そうして、既知の意味の世界は、何度も更新されてきた。(p.195)

本書では、計算が新たに概念を生み出してきた歴史を辿りながら、計算と生命、それに言語の間の関係が語られる。

これを建築の設計に重ねることで何が見えてくるだろうか。

設計における論理や言語は何か

計算を論理的に組み立てられた記号・言語を手続きに従い操ることで、必然的に結果へと導く行為だとすると、建築の設計において、その論理や言語に該当するものはなんだろうか。

構造や環境など、高度に構造化された、計算との相性の良い分野もあるが、いわゆる計画を行う際に、「1+1=2」というように必然的に答えが導かれるようなものはあまり見当たらない。

情報工学的な手法によって、よりベターな解を探索するヒューリスティクス・デザインや、言語学をデザインに応用し独自の造形言語を探る倉田康夫のような態度はこれに近いかもしれないが、計画学全般に、数学における論理や言語に該当するものが歴史的に積み上げられていて、建築に関わる人が皆それを操っている、とはいえない状況に見える。

では、設計における論理や言語は存在するのか。それは何か。というのが大きな問いである。

「分かる」から「操る」へ

設計という行為は、指折り数える、筆算をする、方程式を解く、コンピューターでシミュレーションする、というような、記号を操り計算する行為に近い。

設計を多様で複雑に絡み合った要件を解きほぐして一つの解を与えることだとすると、それは、頭で考えるという行為のみで完結できるものではない。

スケッチを描く、図面を引く、3Dモデルを確認する、性能をシミュレーションする、というように、様々な手法によって、思考を一旦外部に記号として定着させながらそれを操る、ということを繰り返すことで、徐々にその解が定まっていく、というように、何かしら考える道具を使いながら計画を進めることが一般的だろう。

なので、どのような道具で、どのような記号をどう操り、何を引き出していくのか、というようにどのような手法をとるかが重要となってくるが、それは数学における計算することに近くはないだろうか。

仮に、ある手法でもって計画を前にすすめる行為を、設計における「計算」と位置づけてみる。

この記号を操り計算をするという行為には、考え「分かる」という行為が埋め込まれていて、考えることの一定の過程をスキップさせる機能がある。と同時にそれ故に、人の認知能力を超えた結果を導き出す可能性を持つ。(この点で、情報工学的な手法は、文字通り、強力な計算手法であり、可能性に満ちている。)

その予期せぬ結果には最初から意味があるわけではないが、人にはそこから意味を汲み取るという能力がある。結果は人間によって汲み出されることによって初めて意味を持つ。
設計とは、認識できるものを記号としていったんていちゃくさせ、それを操りながら新たな意味を見出し、再び記号へと定着させる、というプロセスを繰り返すことであり、そのプロセスの精度と回転数が設計の密度へとつながる。

これは大げさに言えば、数学が計算によって新たな概念を生み出してきた歴史をその都度辿るようなものではないだろうか。

方法論

ただし、毎回異なる要件のなかから新たな解を導かなければならないことは、設計の持つ運命のようなものだとしても、毎回、数学が辿ってきたような繰り返すことは不可能だろう。

数学における計算手法がある概念を内包しながら、それを歴史的に積み重ねてきたように、設計の方法論が、それまで積み重ねてきたものを内包し、「計算」のように操れるものであるとすれば、設計においても方法論を使うことで、歴史的な叡智・成果を利用することができるし、毎回、新しい手法を発明する必要はないだろう。

そして、そのような膨大な「計算」の総体の中で、既存の方法論の中から新しい概念のようなものを見つけ出し、新しい方法論として定着させることができた人が建築家と呼ばれ、建築の歴史を一歩前に進めるのかもしれない。

ただ、ほとんどの人は、何かしらの方法論のようなものを模倣し、それを操り「計算」することで一定の成果を得ている、というのが現状のような気がする。
その方法論の中に埋め込まれている概念の歴史を理解し、新たな概念への想像力を持つことで、ぐっと世界は深みを増すように思うけれども、それが体系的に整備され共有されておらず、個々の建築家に秘匿された部分が多い(ように見える)のが建築の難しさかもしれない。(多様な解・手法がありうる特殊性や、概念が重層的・個別的で難解になりがち、というのもあるだろう)

計算する生命

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。(p.219)

生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

ブルックス(ルンバの生みの親)はAI・ロボットを研究・開発する上で、世界をコンピューターの中で描写・再現し、計算する、という手法から、外界のモデルを構築することを破棄し、一旦手放した身体を取り戻すことで、環境と絶えず相互作用しながら行為を生成していく、という方向へ舵を切った。

建築の方法論を積み上げていく歴史的なサイクルも重要ではあるが、同様に、個々の設計行為におけるサイクルも重要で、環境と相互作用しながら計算を繰り返すことで小さな新しい意味を見出していくような態度、いわば「計算する生命になること」、が建築に命を吹き込むことにつながるのだろう。

ここで、個別のサイクルにおける方法論・スタディの方法で重要なのは、
・人間の認識の限界をどう拡張し、予期せぬ結果へと導けるか。
・結果から新たな意味をみいだせるようなきっかけが、どのように現れるか。
の2つのような気がする。自分はそのようなスタディを行っているだろうか。

このあたりのことは、ここで考えてきたことに大きく重なるし、一つ一つの計算(設計の方法論やスタディの方法)についてももっと意識的である必要がある、ということを強く感じさせられた。




分かることへの衝動にもっと素直に従うこと B235 『数学する身体』(森田真生)

森田 真生 (著)
新潮社 (2018/4/27)

前回読書記録を書いたのが昨年の10月ごろなので1年近くぶりの投稿になる。

追いつかない仕事を、後ろから走りながら追いかけ続けるような状況がずっと続いていて、読書も折り紙もほとんどできていなかった。
それでも積ん読は順調に進めていて、この本もその一つとして先日買ったもの。

数学と身体、一見無関係に思える言葉が結びついたタイトルが興味を引く。
間違いなく面白いに違いないと思いながら、読むにはそれなりの時間と集中力が必要だろうと、しばらく欲しい物リストに入れていたものを、先日ようやく積ん読に昇格させた。

それで、読む時間はないだろうけど、さわりだけでも読んでおこうと手にとったところ、意外にもスラスラ読める。自分の関心とぴったり重なっていたこともあって、一気に読み切ってしまった。

数学を建築し、そこに住まう

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(p.44)

著者は、数学を行為として捉えるとともに空間的に捉える。その数学という空間は自らの数学という行為を可能とする足場であると同時に「建築」する対象でもある。

そこには、数学という空間と、数学する人とが混然となった世界がある。

おそらくその世界には、自らの身体を通じてしかアクセスできない。その世界の住人となるためには一定の条件があるのだ。

数学といえば客観的・普遍的なもので自分とは直接関係がないように思ってしまうけれども、そうやって眺めている限りはそれは景色に過ぎない。
数学という景色が、経験を通じたその人独自の「風景」となって立ち現れた時に初めてその世界の扉が開くのではないだろか。
というより、人はみな、その人それそれの関わり合いの中でその人なりに扉を開いているのだろう。
(自分の扉が開いていたのは高校の数学くらいまでかな。大学の途中から、解き方は覚えられても、身体的に分かる感じが得られなくて、ここまでか、と感じたのを鮮明に覚えている。逆に言えば、身体的に分かる感じが得られれば数学はとても身近なものだった。)

その数学の空間に住まう人の中にチューリング、そして岡潔がいた。

「わかる」ということと身体

岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。(中略)自他の別も、時空の枠すらも超えて大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内に入る」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。(p.120)

「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同時に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(p.130)

「分かる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。(p.138)

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。「なりきる」ことが肝心である。これこそ、岡が道元や芭蕉から継承した「方法」だからだ。(p.174)

岡潔の言葉を借りて数学を語ることに躊躇いもあった。岡の言葉は、彼自身が生み出した数学があってこそ響く。(p.179)

関心のある部分を抜き出してみたけれども、このブログで書いてきたことと重なる部分がかなりある。(読みながら河本英夫の著書が何度も頭に浮かんだ)

数学と身体の関わりについて直接考えたことはないけれども、「わかる」ということと身体との関わりは多少考えたことがある、というより感じていたことがないわけではない。(「脳内ポジショニングの技法」
いや、むしろ、「考える」ということを身体的に捉えるということは最近の主要な関心でもある。

それでも、数学と身体の関わりを探る本書のテーマは新鮮であった。と同時に、自分も少なからず身体的にわかる、ということの衝動のようなものに突き動かされてきたことを知った気がするし、認知科学的なアプローチで数学と合流したのは意外な出会いだった。

建築を建築する

さて、建築である。

概念としての建築を考えると、数学と同様に、建築という空間に住まい、その空間を建築し続けてきた数多の先人たちいて、彼らが積み上げてきた空間がある。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分もその建築という空間を足場としていて(足場としたいと望んでいて)少なからず恩恵を受けている。

思えば、このブログは建築という空間の住人になりたい一心で書き続けてきたもので、それは学生の頃に「まずは建築の住人にならないと何もはじまらない」と少しの焦りとともに感じた直感から始まっている。
その行為に対して不安になることは何度もあったけれども、この本は、その直感は間違っていなかったのでは、と少し明るい気持ちにさせてくれ、初心に還らせてくれるものだった。

ブログを書き続けることは、感じたことを身体化していくための作業だったのだけど、続けることで、何とかこの空間の村人くらいにはなれたように思うし、自分なりの「風景」も見えるようになってきたように思う。

地道ではあるけれども、方向としては間違っていない。むしろ、必要なのは、分かることへの衝動にもっと素直に従うことと、同時に感度をもっと高めることだろう。その先にしか到達できないものがきっとあるはずだ。

(同じ著者の『計算する生命』も買ってるけれども、岡潔も読みたくなってきた。)